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今日は、飯田青凉の命日   

 今日は、作家・飯田青凉の命日になります。

 夏目漱石が、――今日もまた漱石さんと秋声さん登場ですが――、“三島霜川という人はいい人だけれども金の事は丸で当てにならないそうである。この間中村武羅夫に逢ったらあの人に頼んじゃ駄目だとといっていた。その時、徳田秋声なら好いといった。 もしつてがあるなら徳田君にでも逢って見給え。”という書簡を送った、その手紙の受取人が,飯田青凉である。
 
 清涼は、――この漱石の手紙に先だって――自分の作品を世に出してくれそうな最近売れ筋の作家として、霜川の名を漱石に出して相談したものとみえます。この手紙の日付が明治42(1909)年7月18日ですから、青凉19歳、漱石42歳。この二人の間で、「解剖室」によって文壇にあらためて知られることになった霜川の名が出たものでしょう。

 大文豪漱石と作家志望の青年・清涼。漱石山房の近くに住み、漱石の手紙にもよく登場する飯田青凉のことを知りたいと思ったのですが、文学事典などどこを探してもその名は見えず、諦めかけていたところ、幸運にもそのお孫さんに連絡がとれることになり、どこにも明記されていない飯田青凉の生没年がまず判明したという次第。

 飯田青凉(本名:政良)のことについても、折々、わかったことを少しずつ報告していきたいと思っています。

 *飯田青凉 1889.11.13~1975.08.03

〔追記〕
 漱石と青凉との間で交わされた霜川談義、その話の発端は、おそらく当時最新刊の王春嶺(中村武羅夫)『現代文士廿八人』(日高有倫堂/1909.7)――漱石は無論のこと霜川も掲載――が二人の間で話題になったことだと思われる。そのことは、漱石の書簡に中村武羅夫の名前が見えることからも間違いのないところだろうと思います。

by kaguragawa | 2011-08-03 23:05 | Trackback | Comments(0)

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