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霜川と秋声の《本郷向ヶ岡弥生町横山方》   

 文京区発行の『文京ゆかりの文人たち』という本に、三島霜川のことがふれられているらしいと知って、さっそく入手しました。
 「あとがき」によると、“本書には、文京区に明治以降居住した文人(小説家・詩歌人・俳人・劇作家・随筆家等)154人を搭載し、区とのゆかりを中心に略述した”とのこと。
 文京区教育委員会社会教育課/昭和62〔1987〕年3月の発行。(執筆は「はしがき」によれば、戸畑忠政氏)

 三島霜川は次のように取りあげられている。その記述をそのまま写しておきます。

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 三島霜川(1879~1934)
   小説家・劇評家 本名才二

 明治9年7月30日 富山県砺波郡麻生村生
 〃28年      本郷向ヶ岡弥生町横山方(徳田秋声と同居)
 〃30年      下谷上野池の端七軒町へ
 〃36年春     小石川表町108番地(小石川2-25辺)(秋声と同居)
 〃38年      上駒込(豊島区)の木戸邸内の貸家へ
 〃39年冬     本郷森川町1番地(本郷6-6-9)徳田秋声宅
 〃40年夏     芝二本榎へ
 〃41年6月    本郷駒込動坂町(千駄木4- )
 昭和9年3月9日  歿

 徳田秋声の紹介で硯友社員となった。以後秋声と親しくなり、本郷弥生町、小石川表町、森川町の秋声宅と同居した。明治38年頃には秋声の代作もした。
 <作品> 「埋れ井戸」(明治31年)・「解剖室」(明治40年)など

 なお、明かな間違いは次のように直しました〔芝日本榎へ→芝二本榎へ/「埋水井戸」→「埋れ井戸」〕 

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 注目したいのは、1879年11月の『三島霜川選集(中)』の年譜に比べても、東京での住まいの変遷が明治期の分はかなり的確に捉えられていること。が、この時点でも、亡くなった場所がわからなかったようで明記されていないこと。
 しかしそんなことより、もっともっと、着目したいのが「本郷向ヶ岡弥生町横山方」の《横山方》の部分です。

 これは今まで、どこにも記されていないことがらです。この弥生町には霜川のおば夫婦――おそらく霜川の父重法の妹みすの婚家・豊島家――が住んでいて、その誘いで霜川が住み、そこに秋声が同居したのですが、その〔弥生町3番地トの11〕の家が、横山という人の借家であったらしいことがうかがわれます。
 この《横山方》という部分がどんな資料によって記されたものなのか、たいへん気になるところです。

 いずれにせよ、私にとっては貴重な新資料となりました。

〔追記:2013.2〕
 戸畑忠政稿による「本郷向ヶ岡弥生町横山方(徳田秋声と同居)」の「横山方」は、おそらく早合点による誤解によるものであろう、と考えるにいたりました。新稿《田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿》参照。
 戸畑氏は、秋聲のエッセイ「大学界隈」に見える秋声の弥生町下宿(明治28・29年頃)と、秋聲・霜川の弥生町同居(明治34年)を一つに、してしまったようである。

 

by kaguragawa | 2011-07-11 23:28 | Trackback | Comments(2)

Commented by yukunoki at 2011-07-30 23:31 x
今晩は
三島霜川が39年冬に住んだ上記「本郷森川町1番地(本郷6-6-9)徳田秋声宅」は、昭和四年現在の紅玉堂書店の所在地と同番地ですね。
Commented by kaguragawa at 2011-07-31 00:39
yukunoki さん、いらっしゃいませ。私も紅玉堂書店の住所が「森川町1番地」であるのを見て、「オッ」と思い、どこにあったのだろうと興味をひかれました。
漱石の一時住んだ「西片町10番地」(言問通りをはさんで森川町に北接)が西片町のほとんどを占める広範囲の地番であった(上田敏も木下杢太郎も佐々木信綱も10番地)のと同じように、森川町のほとんどが「森川町1番地」でした。西片町が、福山藩主阿部家の屋敷跡で、森川町が岡崎藩本多家の屋敷跡であったことによります。
秋声のついの住みかとなった(現:本郷6-6-9)は、森川町の南端でしたから「森川町一番地南堺裏」のちに「百二十四番地」と表記していましたが、紅玉堂書店はおそらく本郷通りに近いところだったのでしょうね。ちなみに、森川町(ほとんど1番地)は、北表通。北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の区分がありました。
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