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夢二、他万喜の父の墓参をする!(2)   

 “夢二が金沢で、他万喜の父の墓参をしている!”。
 なんと衝撃的なことでしょうか。妻の父――繰り返しますが、夢二にとっては他万喜と出逢う前に亡くなっていた面影知らぬ妻の父です――の墓参をする夢二・・・・。こうした夢二と他万喜との関係など今まで誰も取りあげたこともなかったのです。岸六郎の墓碑がどこにあるのかという関心より、同居しているとはいえ法律的には離婚し不安定な関係にあった二人の愛憎の核心をさししめすこの事実の重さに慄然としてしまったのです。

 この事実が頭から離れず、何度も反芻して考えていたとき、いくつかのことに気づきました。
 「5月5日、夢二が初めて金沢に(1910)」と「5月6日、他万喜の父・六郎亡くなる(1904)」という二つの事実は、偶然、5月の同時期に並んだのではなかったのです。

 他地域のことはわかりませんので、北陸のこととして考えます。
 金沢に生まれ高岡で暮らした「北陸の」人間にとって、亡くなった者の年忌法要は欠かせないものです。明治37年に亡くなった父・六郎の七回忌の年にあたるのが、明治43年。遺族が一家をなしていれば盛大な七回忌の法要が北陸では行なわれるのが普通です。しかし、岸家を継ぐ者は四散してしまっていたのです。他万喜の心中には、今年は父のさびしい七回忌だという思いがあったことでしょう。
 こうした中で、京都にいた夢二がまさしく祥月命日5月6日に合わせるように、金沢を訪れているのです。顔も知らなければ何の恩義もない妻の父の墓参など夢二がとつぜん思いつくことではありません。夢二の金沢行は、妻の父の墓参が事前に他万喜との間で話合われており、当初からの目的のひとつであったことは、間違いがないのです。

 夢二と他万喜の間に交わされた手紙のすべてが残っているわけでもないでしょうし、私はその一部の写ししかもっていないため、今、これ以上のことを書く材料はないのですが、妻の父の墓参のためだけに夢二が金沢に向かったのではないにせよ、七回忌の命日に合わせて金沢行きの日を調整した可能性はあり、夢二が金沢の地を踏む前には、墓碑がどこにあるのかかなり具体的な情報を夢二は他万喜から得ていたと考えて間違いはないようです。
 夢二が、他万喜の生地の味噌蔵町(現:大手町)や他万喜が通った女学校の穴水町(現:長土塀1丁目)をたずねてスケッチを残していること、他万喜が慕いキリスト教の教養を教わった島倉女史を訪ねて会っていることなど金沢での行動のいくつかを考え併せると、夢二の金沢行はとつぜんの思いつきなどではなく、かなり周到に計画され準備されたものだったと考える方が自然です。

 ・・・とりとめなく書きつらねていましたら、長文になってしまいました。1917年の夢二の彦乃との第二次金沢行だけでなく、この1910年の夢二の第一次金沢行の見直し、その意味の問い直しも、私たち北陸に暮らす夢二ファンの大きな宿題だと言う気がするのですが、どうでしょう。
 今度お会いした時に、Kさんのご意見も聞かせてください。

 では。

by kaguragawa | 2011-05-07 19:56 | Trackback | Comments(2)

Commented by 平名 at 2011-05-22 17:26 x
別れた妻の父の墓参なんて逆に昔なら現代より目立ちやり難かったのでは、、 彼の生き方 抒情性が窺がわれます様です。 穴水町なんて能登の穴水の人が金沢に作った町ですかね?
Commented by kaguragawa at 2011-05-22 23:19
平名さんコメント有り難うございます。
加賀前田藩の家老格の家柄である加賀八家(奥村宗家、奥村支家、本多家、前田家(直之系)、前田家(長種系)、横山家、長家、村井家)のうちの長(ちょう )家がこの近くにあり長家の屋敷地やその家臣団のいたところが明治になって穴水町と呼ばれたようです。長家の祖先が能登の穴水城にいたことにちなむようです。
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