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夢二、他万喜の父の墓参をする!(1)   

Kさんへ

 前略
Kさんの夢二への熱い思いにはいつも教えられることばかりです。Kさんのお勧めもあって始めた ブログ「夢二を歩く」、少し形になったようです。このブログを書きながら気付いたこと(私にとっては、とても大きな発見だったのですが)を、ご報告しておきます。

 ・100年前の5月1日、チコこと不二彦生まれる(1911)
 ・5月3日 多忠亮、生まれる(1895)
 ・5月3日、夢二と他万喜が、協議離婚(1909)
 ・5月5日、夢二が初めて金沢に(1910)
 ・5月6日、他万喜の父・六郎亡くなる(1904)
 ・5月7日、夢二アメリカに発つ(1931)

 と、日を追って順に書いてきて「どうして夢二には5月にかかわるできごとが多いのだろう?」と不思議になりました。が、「まぁ、これも偶然というものだろうなぁ」と、変に納得していました。

 ところが、大事なことに気がついたのです。忘れないうちに、ちょっとメモしておこうと思います。

 夢二と愛憎の生活をなんども繰り返していた妻・他万喜の親族〔父・六郎や兄・他丑など〕のことを、私が執拗に追いかけてることをKさんはご存じのとおりですが、手がかりがなくて行き止まり状態になっていました。また、そんな些細な詮索が、夢二を理解することにつながるのかという問いには、自分でもずっと答えのでないままでいました。

 そんな私の状態を見かねて、六郎さんが、遠いところから私にメッセージを送ってくださったのでしょうか。
実は、上に書いたように夢二の年譜から「5月」に関係のある日を探してブログに順番につづってきたのですが、他万喜の父・岸六郎の命日まできちんと覚えていたわけではないのです。連休の最後の晩に明日は仕事と、ちょっとブルーな?気持ちで、「次は、7日。夢二の外遊旅立ちの日だな」と思ったときに、「何か忘れてるぞ!」と、頭の中でざわざわとした思いがあって、夢二に縁のある人の生歿日をあらためて確認をしたのです。真っ先に思い当ったのが他万喜の父で、なんと翌日の「6日」が彼の亡くなった日だったのです。

 ここが、偶然の始まりでした。
 「1904(明37)年5月6日、他万喜の父・岸六郎が富山県高岡市で亡くなりました。六郎(もと六郎左衛門)は、加賀藩の藩士でしたが明治維新とともに下っ端の司法官僚から最後は高岡区裁判所の判事を最後に退職し、公証人として活躍していました。 この時点では、他万喜はまだ夢二と出会っておらず、父の住居の近くで高岡工芸学校の図画教師・堀内喜一と幸せな結婚生活を営んでいました。・・・」と、ここまで記憶をたどってすらすらと?書いきて(*)、裏づけをしようと思って手に取った本に、これも偶然に、金沢にいた夢二に宛てた“他万喜の手紙”を見つけたのです。
 今まで、何度かこの手紙は目を通したことがあったのですが、ここに「父の墓碑」のことが書いてあることは読み飛ばしていたのです。岸家の菩提寺に岸家の墓がない・・・ということは、今年の2月には分かっていたものの、次の探索をおこなう余裕は、大地震と原子力発電所の事故で失くしてしまっていたのです。

 他万喜の手紙に書かれていたのは、単独で金沢を訪れた夢二が、他万喜の父の墓参をしているという驚くべき事実でした。他万喜の父・六郎は、夢二にとっては――同居しているとはいえ離婚した妻の父であり、――二人が出逢う前に亡くなったその面影を知らぬ他者(ひと)なのです。

〔追記〕
*の個所について;
 この部分は、5月6日、出勤前の15分という限られた時間で書きあげたため読み返す間もなかったのですが、あらためて読み返すと間違いだらけでした。
 1)他万喜の父・岸六郎の退職前の職位、〔富山区裁判所の監督判事〕(×高岡区裁判所の判事)。
 2)他万喜の夫・堀内喜一の勤務先、〔富山県立工芸学校〕(×高岡工芸学校)
 〔高岡工芸高校〕--この校名になるのは1941〔昭16〕年。なお、堀内喜一が職についた1901年明治34年度から、校名が富山県工芸学校から富山県立工芸高校になっており、〔富山県立工芸学校〕時代は、ちょうど40年間である。)

by kaguragawa | 2011-05-07 20:00 | Trackback | Comments(0)

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