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三島霜川「ひとつ岩」(一)   

 隣村と境の岬をめぐって、漁船は追っかけ追っかけ戻ってくる。ついさっきまで干(ひ)ていた荒磯はひたひたと満ちくる潮に隠れてしまって、はや黄昏(たそが)れかかる沖には、くぼんだような帆影が二つ三つ、うろうろと白く染めだされたようになって見える。磯のとっぱなには、まるで小山のような格好の孤岩(ひとついわ)が、濃い藍色の浪の上に真然と黒くもちあがっている。鈍い速力(あし)で物憂そうに沖から膨らせて来る浪は、漸々と険しく逆巻きだってきて、孤岩は近くなると、急に勢いが激しくなる……ゆらゆらつく、崩れかかる……、と、どっとすざまじい音がして、浪は孤岩にぶつかって影も形もなくばってしまう。潮をあびた孤岩は、さながら、素絹(すぎぬ)を着せられたように真っ白になった。
  たちまち浪が引くと、孤岩はさっきより一層黒くなって、なにか昂ぶった風で、海面(うなづら)にぬっと現れる。頂きにはおっかぶさってくる浪に驚き、あわて、孤岩を飛び退いたカモメが五六羽、再び、飛び戻ってきて、けろり、沖の方を眺めている。なかには、鼓翼(はばたき)しているものもあった。

 苫屋苫屋の炊の煙は、うすうすと山際に昇り初(そ)めて、漁船はことごとく戻ってきた。ずらり並んだ漁船の舳先に、浜は地が見えぬほどになって、がやがやわいわい、一時は煮え返るようであった浜の混雑も、大方は静まってしまった。と、どこかでうたっているのか、鄙びた節で、
 「雨は降ってくる、はっさかは積んでくる、背中で赤子泣く、飯ぁ焦げる。」
 と謡う女の声が、妙にかんばしって、靄の中から粛然(しんめり)と哀れに聞こえる。

 磯に近くまだ二三艘の伝馬船(てんません)が、夕映えの蒼みがかかった余紅を帯びて、うろうろと波に揺られていたが、やがては、それも渚をさして漕ぎ戻る、浦続きのはるか浪の荒い浜場には松原があった。その松の中をにげて、塩焼く煙がくろくろと寂しく、淡い夕靄をわけて海の方へなびいている。松原の切れ目から一町ばかりで、四ツ倉の最初の家がある。四ツ倉というのは奥州磐城の一漁村で、苫屋は山際に沿って、おおよそ二百戸余り、斜めに長く二側(ふたがわ)に立ち並んでいる。

 日はとっぷり暮れてしまった。月が出て海面にはいっぱいに金色(こんじき)が流れて、浪はゆらゆらさらさらと煌めき、孤岩の辺りでうねうねと長く膨らんだ浪の、転がるように渚近くまで滑ってきて、一うねり、うねりを打って、ど、ど、どっと崩れると……、と、その辺りには一面に白い泡が沸き上がって、さながら、投網でも撒くように、余波(なごり)は銀色の足でさっと砂地へ這い上がる。そこへ、泡立つ波に揺られて、伝馬船が一艘まっしぐらに漕ぎつけた。
 しばらくして、がじり、砂地に音がして、伝馬は、波打ち際に着いた。耳順(ろくじゅう)余りの老船頭はひらり伝馬を飛び降りて、曳や曳や(えいやえいや)と船を砂地に押し揚げる。
 潮のさっと引いた後の波打ち際は、白く洗われたようになって、まだびちゃびちゃとうねりを打っているさざ波に、漁師のよぼよぼした影がきっかりと玄く映った。
 船を砂場へ押しあげて、楫の端を畚(ふご)に結びつけて老爺はそれを担ぐ。……畚(ふご)の編み目を潜って潮の雫がはらはらと露のように月に煌めいて砂地に乱れ落ちた、老爺は、と、立ちすくんで、なんぞ意味あるらしくほっと太息(ためいき)ついた。しばらくして老爺はひょいと頭をあげて、慢々と砂地を歩みだす。
 その悠然(ゆったり)した挙動(ようす)といったら、まるで闇から曳きだした牛のようである。

by kaguragawa | 2011-04-10 19:25 | Trackback | Comments(0)

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