言語道断!
2011年 03月 23日
3月18日のブログ記事に、報道機関は――そこに登場する学者、評論家の方もふくめ――原子力安全・保安院の意味のない「広報」をなぞることに、ムダな時間と労力・経費をかけないでほしい。「もっと厳選して伝えるべき情報はもっと多くあるのではないか。」と書きました。
こう書きながら、発電所近辺の人類への汚染だけを報じ、原子炉の崩壊過程と修復過程を愚民に説法するかのごとく繰り返す報道に、もっと大切なものがあるのではないかと自問自答していたのです。
この問いかけは、他人に向けて書いたのではなく、自分の課題として書いた“つもり”でした。が、しかしここまで書いて私は、完全に思考停止してしまったのです。
みずからの知と力を知ることが立脚点であるはずの報道機関は、原子力発電所のメカニズムを何度も何度も繰り返すだけで、大気の放射能汚染が結果としてもたらす広範な被害をそれに至る過程をふくめ、誰も生活者の視点で語ろうとしませんでした。語ろうとした人に「マスコミ」はその場を与えませんでした。
原発のメカ屋さんは、シーベルト、シーベルトと経文か呪文かのように唱えながら、「原乳」は言うに及ばず身近な「水道水」についてすら、予測、警告のことばを発し得ませんでした。内部被爆の恐ろしさを何度も語った学者が、いざ内部被爆につながる水、食物の汚染となると、「冷静に」「風評被害に注意」と繰り返すだけです・・・。これが「専門家」というものの実態である。そしてマスコミは、恥ずかしげもなく「専門家」の首を工学系から医学系にすげかえて、自らの責任にはほっかむりである。
生活人である一般人が、広範な放射能被害の経済的な面への波及もふくめて声を発するべきだったし、正念場のこれからこそ、それが必要とされるのではないか。
放射線物質が、放射線状に広がるのではなく、風向きや地形によっていびつな拡散をすること、それが大地に舞い降り、水がそれを集め運ぶことなど、そして放射能がまず自然のなかでも力の弱いものに非情にも襲いかかることなど、専門家でなくとも、自分の頭で事態を考えようとする人には自明なことだったはずである。
何をみつめて、誰に向かって語るべきなのか。エラそうに、原発についてごたくを書き連ねながら、私は、なにもなしえていなかったのである。せんないこととわかりながら、バカヤロー、を自分に向かって気のすむまで叫ぶしかない。
by kaguragawa | 2011-03-23 23:11 | Trackback | Comments(4)
私は放射線の専門家ではありませんが、「自然界から受ける放射線被爆は日本では年間2400マイクロシーベルト、地域差が大きくブラジルには10000マイクロシーベルトの地域があります。飛行機での東京ニューヨーク往復は190マイクロシーベルトの被爆をします。これは地上よりも宇宙線の被爆が増えるからです。胸のCTは5000マイクロシーベルト程度です。被曝線量を扱うときはマイクロシーベルトの1000倍の単位のミリシーベルトを使います。身体に何らかの影響がでるのは更に1000倍のレンジです。」以上友人から教わりました。2001年の出版なので入手しにくいかもしれませんが、「舘野之男『放射線と健康』岩波新書」を機会がありましたら読んでみて下さい。「正しく恐れる」ために参考になると思います。
Atsukoさん、コメントありがとうございます。舘野之男『放射線と健康』、刊行されたとき買おうと思っていたのですが、買わないままになってしまった本です。さっそく、読んでみたいと思います。
それにしても、協力会社などというきれいな名前ですが、要は下請けの従業員に、現場のきちんとした状況も説明せずに高濃度放射線の現場に送り込むなど、当方の頭の方が怒りで沸騰してしまいそうな事態がつづいています。
震災以来 私も同じように、原子力専門家とマスコミの狭い視線での
報道に苛立ちさを感じてました。
確かに、基本的な数値さえ理解すれば、「専門家でなくとも、自分の頭で事態を考えようとする人には自明なこと」ですね。
自然界から見ると、大気・大地からも放射線が降り注ぎ、人の身体からも微弱な放射線を発してますからね。
コメント有り難うございます。お飾りのコメンテーターは百害あって一利なし。事前にお膳立てされた想定内の質問と回答を見せるだけなら、誰のための報道かと言いたくなりますね。東電の社長の会見を、「・・・とおっしゃっていますが」と敬語で引用する学者の感覚がわたしには理解できないのです。また。人間の放射能汚染だけがそんなに問題なのでしょうか。人間が食さない魚や花なら汚染されてもいいのでしょうか。生きとし生けるもの、生命の根幹をおびやかすほどの放射能にさらされていい生命体などないと銘記したいと思います。