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《上柿木畠三五》そして啄木の《上柿木畠四五》(2)   

 啄木と同郷、同年代(20代前半)の友人で金沢にいる、その男の名は、豊巻剛・・・。もしかして、彼は四高生では?。
 推測は当たっていました。彼は、第四高等学校の学生として岩手から金沢に来て下宿をしていたようです。といっても四高の卒業生名簿を調べる余裕などなく、これだけ啄木の日記に登場するのであれば、『石川啄木事典』(2001.9)に載っているのではないか?。と思って調べたところ、「豊巻剛(とよまき・たけし)」の項がありました。以下、事典の同項を写したものです。

 豊巻 剛 とよまき たけし
 1887年(明治20).3~1910年(明治43).4.5 号、黒風。
 岩手郡玉山村生まれ。啄木の中学の2年後輩で白羊会、闇潮会同人。1905年(明治38)盛岡中学校卒業。同年9月に啄木が創刊した文芸誌『小天地』に長詩「古障子」を寄稿し、校正なども手伝った。金沢の第四高等学校を経て東大文学科に進んだが、結核のため在学中に、24歳の若さで没した。没後、有志の手により『黒風遺稿』が刊行された。(浅沼秀政)


 啄木は1886(M19)年2月20日の生まれ(戸籍上)、1912(M45)年4月13日の死亡ですから、豊巻剛は啄木の1年後に生まれ、短命だった啄木よりも2年先んじて亡くなっています。
 四高名簿を調べれば正確なことはわかると思いますが、盛岡中学で啄木の2年後輩だということから豊巻の中学入学を1900(M33)年とし5年の在学とすれば、四高生として金沢にいたのが1905(M38)年から1908(M41)年までとなります。
 1908(M41)年の東大(正確には東京帝国大学文科大学)入学とすれば、同じ年に啄木が上京していて、翌年の1月に二人が東京でばったり出会うというところで、啄木の日記の記述と符合します。

 ともあれ、豊巻剛が第四高等学校の学生として3年間?を金沢で過ごしたその時代の金沢のこと、当時の四高のことなども折を見てしらべてみたいなと思っています。

 ちなみに、《上柿木畠四五番地》は鞍月用水に架かる茜屋橋の近くではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

〔追記〕
 もしかして・・・と思ったら、やはりそうでした。豊巻剛が四高にいた時期、西田幾多郎が教授として(1899-1909)倫理やドイツ語を教えていました。ただし、残念なことに西田幾多郎については私は何も知らないので、何も語ることができません。ただ、もう一人この時代、金沢にとても気になる人が、いました。金沢教会の牧師だった神学者・富永徳磨です。
 冨永徳磨は、あまり注目されていませんが、国木田独歩にも八木重吉にも大きく関わった人物です。金沢には、1903~1906の期間いたはずです。柿木畠の金沢教会のことを先日書いたとき、冨永のことを久しぶりに思い出し、冨永のことを調べに、近々金沢に行こうと思っていたところだったのです。
 (以前、旧日記に書いた《冨永徳磨》関連の記事です。)
 http://www3.diary.ne.jp/search.cgi?user=325457&cmd=search&word=%95y%89i

by kaguragawa | 2011-02-19 17:10 | Trackback | Comments(0)

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