上柿木畠の時空散策(3) 「上柿木畠35番地」   

 中川富女と題した記事を、夢二の「藤屋旅館」から始めることをお許しください。(注:実は、当初タイトルは「上柿木畠の中川富女」だったのです。で、タイトルは変えましたが、上の一文は残しました。)

 竹久夢二が笠井彦乃との金沢・湯涌紀行の折に金沢市中で滞在した旅館「藤屋」の跡地に、現在の日本キリスト教団金沢教会が建っていることは、『金沢・柿木畠』の諸記述からも間違いのないことでした。 
 そして、『金沢・柿木畠』に載っている“この下駄ぬぎは藤屋旅館当時から(一部略)あります”という説明のついた教会内部の写真から、そんなこととも知らず昨年秋、トマス・ウィンの資料を求めにこの教会に立ち寄ったとき、たしかに、教会のなかに不思議な遺構?があったことを、思い出したのです。
 (〔追記:この遺構については、下記〔追記3〕参照〕

 “やはり、あの教会の地が、夢二が彦乃、不二彦と泊った旅館のあった場所だったのだ・・・。”
 が、こんな感慨は、次のショッキングな事実から、混乱めいたものにさえなってしまいました。
 別ページに、〔大正8年当時〕の柿木畠地区の電話加入者の抜き書きがあったのです。そこにはこう記されていました。

 一〇六三 藤屋旅館 伊藤保治
        上柿木畠三五 旅人宿業


 「上柿木畠三十五」=中川富女の中川家、「上柿木畠三五」=藤屋旅館。同じ場所なのです。
 富女が住み、竹村秋竹が下宿していた「中川家」のあった場所が、「藤屋旅館」になり、そこに夢二、彦乃、不二彦が泊り、そこが後にトマス・ウィン以来のプロテスタントの流れを汲む「金沢教会」の場所になっているのです。
 (とすれば、犀川の向こうの野田寺町から上柿木畠に隣接する下本多町の北陸女学校附属幼稚園へ通っていた柏村中也(のちの中原中也)が通園路として「ここ」を通っていたとき、そこは旅館だったのかすでに教会が建っていたものか・・・。〔追記:中也、在金当時、そこはまだ鞍月用水が前を流れる旅館でした。〕)

 ふしぎな思いで、柿木畠地区の地図をあかず眺めています。

〔追記〕
上柿木畠、下柿木畠の地名は、今もわずかに残っていますが、この地区に1966(昭41)年、町界町名整理と住居表示が施行された際、上柿木畠のほとんどは広坂一丁目に、下柿木畠のほとんどは片町一丁目に編入されています。もと「上柿木畠35」の金沢教会の現在の住所は、「金沢市広坂一丁目5番2号」です。(下記〔追記2〕参照!)

〔追記2〕
 金沢に住んでいない者の無知でした。2003(平成15)年10月1日に、金沢市の「旧町名復活運動」によって広坂一丁目の一部(もと「上柿木畠」)は《柿木畠》として復活していました。
 よって、日本キリスト教団金沢教会の住所も、《金沢市柿木畠5番2号》になっています。

〔追記3:2/26〕
 「遺構」については、私の勘違いでした。きょう金沢教会にお寄りしてうかがったところによると、この藤屋旅館の下駄ぬぎ遺構は、改築の際に、撤去されたそうです。(改築がいつのことだったのかきちんとお聞きしなかったのですが(2003?)、私の眼中に残っているのは、30年前にこの教会を訪れたときのものかもしれません。)
 突然の訪問にもかかわらず、心やさしく対応していただいた横井牧師と阿部伝道師に感謝します。
 なお、藤屋旅館が廃業した後、「上柿木畠三十五」には、横井小児科があり、この地に金沢教会が移ってきたのは1954(昭29)年とのこと。(『金沢・柿木畠』、『金澤教会百十年史』(1987.6))
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by kaguragawa | 2011-02-13 18:01 | Trackback | Comments(2)

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Commented at 2011-02-16 09:49
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