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1月1日の幸徳秋水の堺利彦宛て手紙   

 100年前の1月1日に書かれた幸徳秋水の堺利彦宛ての手紙。表記を変え、一部省略しました。
秋水の母、多治子は公判開始後に秋水に面会したが帰省後体調を崩し帰省、獄中の息子を気遣いながら12月28日逝去した。


 いよいよ明治四十四年の一月一日だ。鉄格子を見上げると青い空が見える、天気が好いので世間はさぞ賑やかだろう。火の気のない監房は依然として陰気だ。畳も衣服も鉄のごとく凍っている。毛布を膝に巻いてうずくまり、今は世に亡き母を懐う。
 母の死は僕にとってはむしろ以外ではなかった。以外でないだけになお苦しい。去る十一月末、君が伴うて面会に来た時に、思うままに泣きもし語りもしてくれたならさほどでもなかったろうが、一滴の涙も落さぬまでも耐えていた辛さは、非常に骨身に徹えたに違いない。いくら気丈でも帰国すれば重病になるだろうと察して、日夜に案じていたのは先頃申し上げたとおりだ。
 二十八日の正午の休憩時間に法廷の片隅で花井君や今村君が気の毒そうな顔して、告げ知らせてくれた時は、さてこそと思ったきりで、どんな返事をしたか覚えぬくらいだ。さぞ見苦しかったであろう。仮獄へ降りて来て弁当箱を取り上げると。急に胸が迫ってきて数滴の熱涙が粥の上に落ちた。僕は粥ばっかり食っている。
 君も知ってる通り、最後の別れの折に、モウお目にかかれぬかも知れませんと僕が言うと、私もそう思って来たのだよと答えた。どうかおからだを御大切にというと、お前もシツカリしてお出で、と言い捨てて立ち去られた音容が、今もアリアリと目に浮んで来る。考えていると涙が止まらぬ。(中略)
 
 母の生家は郷士だか庄屋だかの家で、その父すなわち僕の外祖父はかなり学問のある医師であつた。十七にして僕の家に嫁し、三十三歳にして寡婦となり、残された十三と五つの女の子、七つと二つの男の子の、四人の可憐な者の為めに、固く再蘸の勧めを拒んで、四十年間犠牲の生涯を送ったのだという。その時の二歳の子がすなわち天下第一の不孝の児たる僕なのだ。
 アア何事も運命なのだ。悔いて及ばぬことに心を苦しめ身体を損うのは、最後まで僕をアベコベに慰め励ましてくれた母の志にも背くのだから、つとめて忘れよう忘れようとしている。が語るに友なき獄窓の下にボツ然として居る身には、ともすれば胸を衝いて来る。我れながら弱い男だ。詩が一つできた。

 辛亥歳朝偶成

  獄裡泣居先妣喪 
  何知四海入新陽
  昨宵蕎麦今朝餅
  添得罪人愁緒長

 大晦日には蕎麦、今朝は餅をくれたのだ。丸で狂詩のやうだけれど実境だから仕方がない。
 長々と愚痴ばかり並べて済まなかった。許してくれ。モウ浮世に心残りは微塵もない。不孝の罪だけで僕は万死に値いするのだ。

 一月一日
 秋水

 堺賢兄

by kaguragawa | 2011-01-02 23:41 | Trackback | Comments(2)

Commented by tiaokumura at 2011-01-03 20:37
あけましておめでとうございます
なかなかコメントが書けませんが、ほぼ毎日のように訪問させていただいております。今年も楽しみにしております。
本年もどうぞよろしくお願いいたします
Commented by kaguragawa at 2011-01-03 23:21
奥村先生、ご訪問有り難うございます。
引き続き、このようなヘンテコなものを書きついでいきたいと思っています。お読みいただくに堪えるものを書けるかどうか疑問ですが、お寄りいただけるとうれしく思います。
自然誌や日本語論のことも書きたいのですが。。。。
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