黒岩さんへ――堺利彦と漱石の「熊本の地」
2010年 12月 18日
ここでもう一つ、堺利彦と夏目漱石に関わるエピソード、――黒岩さんの言われる“出会いとすれ違い、偶然と必然”――を紹介しておきたいのです。
堺利彦が大逆事件の後、遺族慰問の旅に出たことすら私は知らなくて黒岩さんの本で感銘深くその事実を知ったのですが、その慰問の旅は、“処刑から約二ヶ月後の1911年3月31日、堺は東京から京都、岡山、熊本、高知、兵庫、大阪、ふたたび京都、和歌山、三重と回り、各地で十四の家族を訪問して5月8日に帰京したのである”(黒岩23P)という一か月余にわたる長いものだったようである。
黒岩さんは、九州の旅は“熊本で松尾卯一太と新美卯一郎の遺族、佐々木道元の家族を見舞った”と書かれていて、最初に読んだときは深く考えもせずに読んだのですが、先日、この熊本グループの本籍地を調べて以来、あることが気になり始めました。
熊本グループの中心にいて『熊本評論』発行に携わっていた松尾卯一太と新美卯一太の二人なのですが――ふたりの名前が相似形〔卯一〕なのはともに1879〔明12〕年【卯歳】一月生まれだからです――、だんだんと新美卯一郎についてあることが気になってきたのです。
堺が訪ねたであろう新美卯一郎の実家は、熊本県飽託郡大江村なのですが、この《飽託郡大江村》という地名を以前も見たことがあったのです。
ようやく見つけました。岩波文庫『漱石・子規往復書簡集』に、〔下谷区上根岸八十二番地 正岡常規より/熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助へ〕、〔熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助から/下谷区上根岸八十二番地 正岡常規へ〕という、俳句を書き連ねた往復書簡が幾通も収められているのです。
なんと新美卯一郎の生まれ育った《熊本県飽託郡大江村〔ホウタクグンオオエムラ〕》とは、夏目金之助(漱石)が第五高等学校の教諭として熊本にいたとき転々とした住居のうちの一つ――いわゆる熊本〔第3の家〕――があった地区なのです。新美の実家〔七百五十四番地〕と漱石のいた白川近くの〔四百一番地〕が、ごく近いのかかなり離れているのか私には確かめようがないのですが、もちろん歩いていける距離でしょう。
そして、漱石がこの大江村の〔第3の家〕に居たのは、1897(明30)年9月から翌1898年4月までということですから、卯一郎18歳のときのことです。卯一郎の年譜の詳細を確認できませんが、彼は熊本尋常中学校(済々黌)を卒業後、上京して東京専門学校(のちの早稲田大学)に入っていますから、漱石の熊本五高への赴任と入れ違いのようです。が、もし、卯一郎が地元の五高に進学していれば、漱石の生徒になっていたはずでもあったのです。
(ちなみに、堺が訪ねた佐々木道元の実家は、これも漱石の熊本〔第5の家〕の近くではないでしょうか。)
大逆事件当時、大病とその回復期という肉体的に恵まれない状況にあった漱石は、新美、松尾という若者の名は知らぬまでも、彼ら熊本グループと呼ばれる幾人かがその被告人の中におり、彼らの出身地名のなかに「飽託郡大江村」や「玉名郡」「熊本市西坪井町」という10年前の熊本時代を想起させる地名を見つけ、ある感慨をもったと考えてもいいのではないでしょうか。
その漱石ゆかりの熊本の地を、堺利彦は極刑ののちにもやってきた春盛りの4月に、重い心をいだいて慰霊の旅路として歩くことになるのです。
by kaguragawa | 2010-12-18 19:23 | Trackback | Comments(4)
室生犀星の関連記事など以前から拝見しておりました。
堺利彦と漱石の「熊本の地」興味深く拝読致しました。
漱石『三四郎』の小川三四郎の出身地は、福岡県京都郡真崎村になっていて実在しない地名ですが、小宮豊隆の出身地が京都郡犀川町(現みやこ町)なので犀川町ではないかとも言われていますね。
堺利彦の故郷は京都郡みやこ町。これも偶然のめぐり逢いでしょうか。
実は、上の雑稿を書いてから「堺+熊本」「堺+九州」などを検索をしていて、小宮豊隆が堺と同じ「京都郡」であることを見つけて、ヘーエと驚き、折を見て追記しようと思っていたところでした。コメントいただいてあらためて、地図を取りだして、あまりなじみのない福岡県・大分県の辺りを確認した次第です。
『パンとペン』再読し始めたところですが、堺利彦の出身校・豊津中学の後輩として小宮豊隆の名前が挙がっていたことを読み飛ばしていたことも気づきました。
(先月末の石川三四郎の命日に、『三四郎』が出版された時、石川三四郎はどんな思いでこの本を手にとったのだろうとおかしく思ったのですが、物語の三四郎の生地についてはまったく忘れていました。)〔続〕
合掌。
よろしくです。