夢二に出会った東京街歩き(2)
2010年 07月 09日
東京の夢二散策なら夢二研究会の方にいろいろ教えていただいてからの方が良いのでは・・・とも思ったのですが、まずは独り歩きをしてみることにしました。
時間の制約のある小散策ですので、目指す地点は3点のみ。まずは、早稲田鶴巻町のたまきの「絵葉書店つるや」跡。夢二とたまきの出会いの場所です。次は、上京したたまきがたよった兄が経営していた飯田町の「つるや書房」跡。最後は、日本橋呉服橋近くの「港屋絵草紙店」跡。この3点をうまく“東西線”が結んでくれているのです。
現地に案内板があり、その地点がweb上でも紹介されているのは、港屋跡のみ。夢二を語る場合に欠かせない「つるや」については、多くの夢二文献にもweb上の情報にも、所在地の番地表記・その現在地点の紹介も見あたらないのです。今回の小散策を実行しようと思い立ったのも、酒井不二雄編『夢二えはがき帖』の解説に「月刊夢二カード」の発売所として「東京牛込早稲田鶴巻町四三 つるや画房」の文字を見つけ、その地を明治の地図で探し、その現在地をほぼ比定することができたからでした。
ブログに地図を貼りつけるという高等技術?を持っていないのでそうした紹介はできませんが、「つるや」のあった場所は、「早大通り」の鶴巻小前交差点と早稲田鶴巻町東交差点のほぼ中間地点、いまは街路樹の緑の濃い落ちついた場所でした。
この3点を駆け足で巡っておどろいたのが――現在地の比定に多少誤差があるとしても、――これらの地が、それぞれに現在の東京の特徴的な顔をよく表現している“街角”であることでした。また、「絵葉書店つるや」の本店にあたる岸他丑の「つるや書房」にいたっては九段下交差点の北東角です。飯田町二丁目といってもイメージが湧きませんが、九段下の交差点と言えば当時も交通量の多い要所だったはずです。
「みなと屋絵草紙店」のあった現・呉服町交差点付近も、言うまでもなく東京の顔の一つでしょう。報告は、あらためての機会をもちたいのですが、
日本橋は、笠井彦乃の育った本銀町二丁目の紙問屋跡、港屋時代の夢二・たまきの居所であった千代田町(鎌倉河岸)の家跡などを、ただその地に立ってみたいとの思いで現在地を訪ねて歩き回ったのです。
(続く)
〔追記〕
きょう7月9日は、他万喜(たまき)の命日です。
岸他万喜が亡くなったアジア太平洋戦争の末期の1945(昭20)年7月9日がどのような状況の日であったのか、については別に機会をみて書いてみたいと思います。
by kaguragawa | 2010-07-09 00:58 | Trackback | Comments(6)
東京に来ていらしたのですね。
早稲田鶴巻町、なつかしいなあ。
今、当日、携帯で記録用に撮った写真を貼りつけました。絵はがきやの位置の厳密な位置を公表する自信はないので、つるや付近と思われる早大通りの写真をつけました。夢二の通った早稲田実業学校は、夢二の時代は早稲田中学校の位置だったことは帰宅してから確認できました。先週は、大正時代の実業学校の跡地――中学校(現在の早稲田中学校も同位置ですが)の向かい――を、それと勘違いして歩いていました。
新潟の出湯温泉の石水亭には夢二が訪ねたことがあるようですね(1930)。「石水亭」の名は最近目にした記憶があったので、もしやと思い、先日読んだ関谷定夫『竹久夢二――精神の遍歴』(2000.10)を引っぱりだしたところ、「石水亭と二瓶文和氏」という項があり、夢二と石水亭先代・二瓶武爾の交流が詳しく書かれていました。石水亭のことを検索して、洲之内徹や大倉宏さんといった方のこともあらためて興味をもちました。
「医報」というのは、「医報とやま」のことでしょうか。県立には最近の物は所蔵されてないようですね。