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意外な人々に出会いがあったかも・・・   

 天保十二年(1841)生まれの岸六郎――のちに夢二の伴侶となり知られるようになった他万喜(たまき)の父です――が、富山に来たのが明治16年。
 天保十三年(1842)生まれの瀧吉弘――若くして亡くなった作曲家・瀧廉太郎の父です――が、富山に来たのが明治19年。
 岸は裁判官として、瀧は県の書記官としてもと富山城のあった場所で官吏として勤め、二人は数年間重なった生活を送っています。官舎もそれぞれ西四十物町、千石町と近くだったようですから、ほぼ同年のこの二人は顔を合わせることがあったのではないかと思います。むしろ官吏仲間としてお互い顔は知っていたと考えた方が自然ですし、案外、親しかったも知れません。なにか不思議な思いがします。
  
 ほぼ同年の二人の意外なニアミスということでいえば、夢二の永遠の女(ひと)と言われる笠井彦乃と、賢治の妹の宮澤トシもそうです。2歳違いです。下の生歿年を見ていただければわかるように、彦乃の方が生まれたのも亡くなったのもそろって2年先です。この二人は、同時代を同じ時間を重ねて生き、二十代の若さでともに結核で亡くなっているのです。

 1915(大4)年、日本女子大の女学生となって上京したトシは、その前年に開店し若い女性に人気のあったた夢二の港屋絵草紙店を訪れたことがあったかもしれない・・・と、これも想像をたくましくして、以前書いたことがありました。が、もしそうだとすれば、宮澤トシは店の女主人たまき(岸他万喜)とも、そして当時女子美術学校の生徒でこの店の常連だった彦乃とも顔を合わせているかも知れないのです。
 もっとも、トシのいた大学の寮・責善寮は大学の創設者・成瀬仁蔵の意向で戒律がきびしくそんな自由がなかったかもしれませんが・・・。
 
  笠井彦乃  1896.03.29~1920.01.16
  宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  宮沢トシ   1898.11.05~1922.11.27

 こんな想像の話はともかく、もっと驚くべき事実があるようなのです。なんと彦乃は女子美術学校に行く前、日本女子大にいたらしいのです。4年で中退したというのですが、とすれば学齢の計算上、彦乃とトシはわずかの期間たりとも日本女子大で出逢っていたかも!?ということになるのですが、実際はどうなのでしょう。興味のあるところです。

〔追記〕
 当時の日本女子大って3年制じゃなかったっけ、4年で中退って変だな?・・・という疑問があったのですが、どうも笠井彦乃は常盤高等小学校を卒業して日本女子大の附属高等女学校に進んだらしいのです。その後、女学校を中退して夢二の勧めで?女子美術学校に行ったというところが正解のようなのです。
 が、これも卒業・進学年次もふくめ正確なところは、私にはまだよくわかっていません。課題としておきたいと思います。

by kaguragawa | 2010-06-19 01:43 | Trackback | Comments(0)

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