石黒信由のこと。手始めに。   

 江戸時代にあの伊能忠敬と同様に地図づくりに生涯をかけた人物が、この富山の地にいました。私のような地図好きにはもうはるかはるかに仰ぎ見る大先達で、しかも私の愛するこの射水の先人なのです。
 ――石黒信由(いしくろ・のぶよし)、彼のその地図の正確さと美しさにはもう感嘆と敬服の思いでいます。

 石黒信由については語りたいことがいろいろあり、今後思いつくままに落書きをしていきたいので、――次稿がいつになるかは不明ですが――しっかりした紹介を、私自身の勉強もかねて、しておきたいと思うわけなのです。
 というわけで、まずこの稿を、HP《おもしろ地図と測量》の中の「地図測量の200人」の「石黒信由」の項を写させていただくことで、はじめたいと思っています。
(ただし、出身地と博物館名の表記を2005年の市町村合併後のものに書き換えさせていただきました。)

石黒信由(いしぐろのぶよし 1760--1836)

 「加越能三州郡分略絵図」の製作者。
 現富山県射水市生まれ、忠敬の日本全図と並ぶ「加越能三州郡分略絵図」を作製。
 石黒信由は、宝暦10年(1760)越中国高木村(現射水市高木)の肝煎を勤める豪農の家に生まれ、幼名を与十郎といった。早くに父を亡くしたが祖父に育てられ、幼いときから算学に興味を持ち、23歳の時富山の中田高寛に師事し、関流和算を学んだ。その後、宮井安泰に測量術を西村太沖に暦学などを学び、寛政7年(1795)以降には検地などの御用を努め、その後は加賀藩の命を受け、新田開発や用水事業の測量に従事した。
 石黒は、新田開発における高低差の少ないところでの用水の測量に、人足に"ガンドウ"と呼ばれる回転するろうそく立てを持たせて行う「笠測量」と呼ばれる手法を用いた。
 享和3年(1803)8月3・4日に放生津(射水市)で伊能忠敬と接見し、その際忠敬の使用する測量機器に興味を示したという。信由が本格的な測量と地図作成に従事したのは、60歳(文政 2年(1819年))になってからであるが、忠敬との出会いが、その後の測量などに大きな影響を与えたといわれる。
 これ以降、それまでの実績が認められ加越能三州の測量を担当することとなり、「加越能三州郡分略絵図」などを作成した。信由の残した地図は、内陸部を含む実測図が多く、極めて精度の高いもので、忠敬の日本全図と並ぶものといわれている。
 信由の孫信元、その曽孫信基も志を継いで算学・測量に功績を残し、門人も測量・新田開発の職に就いた。著書として、「増補大路水径」などがある。
 生家の一隅にある高樹文庫には、信由の作った地図や象限儀などの測量機器など、石黒家の学問の足跡を残す1万2千点が残されていたが、平成10年(1998)秋に道の駅に併設して新湊市博物館が開館し、信由の遺物もここに移された。同館には、信由の使用した測量機器と作製した地図が展示されている。(同館は、平成17年(2005)射水郡の町村と新湊市の合併で、射水市新湊博物館と改称されている。)

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by kaguragawa | 2010-05-25 21:03 | Trackback | Comments(0)

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