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射水郡郡長・南原繁と射水の人・堀田善衛   

 ある偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、を――戸惑いというかちょっと心嬉しい思いももって、――思案しています。

 先日、堀田善衛展に行こうとした私の背後から、“ちょっとちょっと”と、声をかけたのは堀田氏と同郷の藤子不二雄氏だったのですが、(堀田氏の生まれた伏木は、安孫子素雄氏の生地・氷見と藤本弘の生地・高岡の中間)、堀田氏が藤子不二雄の生んだ“オバQ”についてユニークな取りあげ方をしていること知って、いよいよ興が深まってきました。そんなことを書こうかと思っていた矢先、“おい君、おい君”と声をかけてきたもう一人の人物がいました。
 一昨日、話題にさせていただいた戦後のこの国の在り方にも大きな影響を与えた政治学者・南原繁氏です。

 堀田善衛氏の生地は、たとえば簡単なものでは、富山県高岡市生まれとなっていますが、氏の生誕時点【1918〔大正7〕年】でいえば「富山県射水郡伏木町」です。この伏木町は、1942(昭和17)年4月、善衛氏の父君勝文氏らの働きかけで高岡市に編入合併されたのですが、上に書いたように善衛氏が生まれた1918年当時の伏木町は射水郡内の4町のうちの一つだったのです。
 なんと奇しくもこのとき射水郡の郡長だったのが、南原繁だったのです。

 大学を卒業して間もない南原が内務省の官僚として、「郡長」を志望し、富山県の射水郡に郡長としての職を得て赴任したのは今から93年前の今頃、1917年3月。南原は単に役人の一履歴として日本海にのぞむ寒村ならぬ寒郡の郡長を無難に事無く勤めたわけではありません。内村鑑三の弟子として理想の種子をこの地にいくつも残していったのです。そのことは別の機会にふれるとして、射水郡が南原のもとで大きくその内実を変え始めようとしていた1918年7月に、射水郡下の伏木町に堀田善衛は生まれたのです。この偶然は、のちに、敗戦をまじかに見据えていた時期、30歳の年齢差もあり置かれた環境も大きく違うなかで、ともに敗戦によってしか日本の再生はないと模索していた偶然をも思い起こさせてくれるものです。

 余談ですが、郡長として伏木を訪れた南原繁と彼とほぼ同年であったはずの堀田勝文――善衛氏の父・勝文氏の生年をまだ確認できずにいるのですが、彼(当時、野口勝文)と小泉信三が慶應大学で同窓だったということからの推測ですが――とは、何度か会い若者らしい理想をもって伏木や射水の未来について意見を交わしたのではないか、と想像するのですが、どうでしょう。

 ・・・というわけで、いくつかの偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、楽しく思いを巡らしているのです。

by kaguragawa | 2010-03-03 23:19 | ひと | Trackback | Comments(3)

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Commented by kaguragawa at 2010-03-05 07:07
 ところで、確証はないものの南原繁と堀田勝文はきっと会っているに違いないという確信めいた思いが強くなっています。勝文氏を婿に迎えた堀田家の跡取り娘であったくにさんも、ご主人と共に南原と会っていると考えてよいと思います。(南原が射水郡長として積極的に行なった施策の一つに「婦女会」の組織化があるのですが、それと軌を一にするようにくにがこの時期に伏木町の婦女会の中心として活動している事実だけ指摘しておきます。)
 もし南原と堀田勝文・くに夫妻の出会いが、南原の郡長在任の2年弱の間に深まっていたとすれば南原はその間に堀田夫妻に男子が生まれたことも知っていたかも知れません。

 ・・・な~んてことを、上に書いたように確証はないもののいくつかの事実を通して思い描いて楽しみした。空想はともかく、射水郡長南原繁の足跡をもっと掘り起こす試みがいろんな視角からなされると愉しいのに、と思います。私も少し周辺を歩いて折々、報告ができればと思います。
Commented by やいっち at 2010-03-06 21:03 x
ただただ実に興味深い話です。
いつもながら、感心するばかりです。
Commented by かぐら川 at 2010-03-07 09:06 x
やいっちさん、人と人との偶然な邂逅やすれ違いからあらためて歴史やその人の人物像を考えてみるおもしろいものですね。二葉亭四迷の住所録に越中伏木港本町、堀田善右衛門の名があり、それがどうしてなのかわからないとおもしろいエッセイを堀田善衞氏は書いています。
南原繁と言えば、ときの宰相吉田茂から「曲学阿世」と呼ばれた東大総長という話が有名?ですが、今では「〔キョクガクアセイ〕って何?」と言われかねませんね。丸山眞男の政治学上の師と言った方が、「あっそうなんですか」と通りはよさそうです。
南原の戦中、戦後の著作、発言は、今、十分読み返される価値のあるものだと思っていますが、私のような射水市の人間にとっては南原の郡長として施策も掘り起こす必要があると思っています。

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