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賢治19歳の東京の日々   

 かなり内面の問題にかかわるので、宮沢賢治と私の関わりについては文字にしづらい――隠匿するということではなく、「書く」という行為には今のところなじまないという意味ですが――ので、作品への直接のコミットはさけて彼の事蹟のフォローを日記やブログでも少し書いてきたのですが、彼の最初の単独上京である高農時代のドイツ語学習(神田猿楽町)にはずっと関心を持っています。

 こうしたこともおいおい書いていきたいと思っているのですが、このドイツ語学習時代に下宿した麹町の一帯を3年前に歩いた記録の一部を書いた日記(2007.10)を「宮澤賢治の詩の世界」のhamagakiさんがリンクしていただいたので、 、このブログでもあらためて再紹介しておきます。(以下は、その2007.10の日記の転記です。)

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 盛岡高等農林学校2年在学中19歳の賢治が出京してドイツ語を学んだその場所は、当時の表記で「神田区仲猿楽町十七番地」。この《東京独逸学院》跡地を訪ねた顛末は、〔2007年〕2月20日以降の拙日記「神田界隈の青年・賢治」で、書きました。(2010.追記「《東京独逸学院》訪問記は大幅に訂正する必要があります。)

 ところで、約1か月にわたる在京「ドイツ語学習」の折、賢治はどこに止宿していたのでしょうか。
 できれば、止宿先を、さらに毎日往復したであろう、宿と講習会場を結ぶ道を、つきとめてみたい。そして青年賢治の屈託した?東京の日々の思い――それは当時の短歌からうかがわれます――を、その道を歩きながら、少しは自分のものにしてみたい。そんな夢のようなことを、考えてもいました。

 手掛かりはあるのでしょうか?。手掛かりはあるのです。この賢治の東京は、約90年前の東京なのですが、19歳の賢治上京中(1916・8)の手紙・葉書が何通か、ちくま文庫の『宮沢賢治全集9 書簡』に収められているのです。
 月初の頃は、「(東京市)麹町区麹町三丁目 《北辰館》」、月後半は、「(東京市)麹町区麹町三丁目 《栄屋旅館》」が止宿先となっています。

 実は、奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41)〔1975(昭50)補筆〕)に、この近辺の奥田氏の手書きの地図があります。奥田氏は次のようなコメントを付しています。

 「この時の宿泊先となった「北辰館」は、略図のとおりである。都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。近くの古老の話によると、「北辰館」は、比較的大きい旅館で、下宿兼用の旅館ではなかったかという。当時は、附近に下宿専用の小規模の旅館や「素人下宿」の旅館が多かったそうだ。」
(なお、この奥田論文執筆当時、高松秀松氏あての書簡しか見つかっておらず、このときの賢治の上京が、ドイツ語学習のためということがまだ判明していませんでしたし、保阪嘉内あて葉書の「栄屋旅館」のことも知られていませんでした。)

 ところで、この辺り一体が奥田氏の論文執筆の時とでは、一変しているせいか、簡略で昭和的な雰囲気の奥田地図と現在の地図と、どうもうまく照合できないのです。
 そんなこんなで、いままで訪問を見合わせていたのです。が、今回の仕事で立ち寄る先が、麹町。前日になって、古い地図と奥田地図を照合して、だいたいの見当をつけ、東京に向かいました。
 この近辺、新宿通りの南側(平河町・赤坂側)は、結構歩きまわったことはあるのですが、北側(番町側)に入り込むのは初めて。許された時間は食事の時間も含め1時間。ダメもと、と割り切って有楽町線の麹町駅に降りたのは12時過ぎでした。

 奥田氏のコメント、“「北辰館」は、都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。”の、「都電停留所」(注:賢治の時は、市電停留所:麹町《三》丁目)は、もちろんもうありません。
が、停留所のあった大きな交差点から「四谷より一つ目の道を右折すると」、
そこには、案の定コーヒー店はなかったのですが、《麹町鈴木ビル》――ビジネスビルで、北面側は「笑笑(わらわら)」という居酒屋――がありました。鈴木さんは、喫茶店をやめオーナーとして貸しビルをやっておられるのでしょう。この区画は、旅館―喫茶店―ビジネスビルと変ったようです。〔麹町二丁目2-36〕。

 「北辰館」・・・。けっこう、大きな旅館だったのではないでしょうか。

 五街道の一つ、半蔵門を出立点とする甲州街道〔現・新宿通り〕両脇に商家が建ち並んでいた麹町は、古い写真を見てもそれなりの歴史と活気を感じさせてくれます。その脇を入ったところに旅館や下宿があったようです。

 時間を気にしながら、その一画周辺を行ったり来たりしながら思いだし、かつ、なんとなく思いあたったのは、次のようなことでした。
 賢治は、日は特定できませんが、「北辰館」から同じ麹町三丁目の「栄屋旅館」に止宿先を変えているのです。「北辰館」は、客数も多く騒がしかったので、こじんまりとした個人向けの旅館に移ったのではないか、そうに違いない・・・。

 「麹町鈴木ビル」が無理なく「北辰館」につながり、そして賢治にたどりついたほっとした思いとなったのですが、その街角が賢治の青春のある悲しみにつながっているような気がしてならなかったというのも、うまくことばにできない感想でもありました。

 そして、もう一つ思い当ったこと。下宿と独逸学院を結ぶ道筋(といっても少し寄り道になりますが)に当時、あったもの。そう、この活気ある町中に、乳牛を数十等も飼う牧場が飯田町にあったはずなのです。
ずっと違和感が残っていた、「銀河鐵道の夜」の中の牛乳屋。それは・・・。

by kaguragawa | 2010-01-10 15:35 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

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