岸兄妹の「つるや」と夢二
2009年 10月 10日
岸他丑(きし・たちゅう)の生没年月日などどんな本をひっくり返しても書いてないだろうと思っていたのですが、財団法人・日本出版クラブのHPに出版に携わった先人を顕彰する「出版平和堂」の紹介コーナーがあり、その「合祀者名簿」中に、大橋佐平や岩波茂雄らの名前にまじって《つるや書房店主/ 東京図書雑誌小売業組合組合長 》として、“岸 他丑”の名があるのです。
そこには、〔M11.10.26/S31.3.21〕と記されていますから、他丑は、1878(明治11)年10月26日に生まれ、1956(昭和31)年3月21日に亡くなったことがわかります。他丑の一生など今まで考えたこともなかったのですが、彼は「東京図書雑誌小売業組合組合長」も務めているくらいですからずっと本屋として一生をまっとうしたようなのです。
《岸 他丑》の紹介もしないまま書き始めてしまったのですが、彼は竹久夢二の最初の妻「たまき」(戸籍名:他万喜)の兄なのです。
岸たまきは、最初の結婚を夫・堀内喜一の死(1905.9.23)によって終え、東京九段下の飯田町で「つるや書房」を開いていた兄を頼って富山から上京し、兄の助力によって早稲田鶴巻町に兄の姉妹店“絵はがきや「つるや」”を1906(明39)年11月1日に開店するのである。そして開店5日目、11月5日に、この店に自作の売り込みにふらりと現れたのが若き日の名もなき竹久夢二だったのである。
翌年の1月には、夢二の投稿先であった「平民新聞」に二人が結婚したことが報じられているが、その後の夢二式美人画の誕生と夢二とたまきの愛憎劇は夢二ファンの方にはおなじみだと思う。
なお、夢二の「月刊夢二エハガキ」などは兄の「つるや書房」(麹町区飯田町二丁目六十一番地)が発行元で、夢二と他丑のこの関係は夢二とたまきが完全に破綻したあとも続いていたようである。
*岸他丑 1878.10.26~1956.03.21
*岸たまき 1882.07.28~1945.07.09
*竹久夢二 1884.09.16~1934.09.01
〔追記〕
金沢味噌蔵町生まれで富山にも大いにゆかりのある岸他丑・他万喜兄妹については、その父母・六郎、順についても勉強の上いずれまた。
by kaguragawa | 2009-10-10 20:19 | ひと | Trackback | Comments(10)
夢二の関連について大変詳しくお調べになって居られるご様子、感動いたしました。私も夢二ファンの一人として、新たな夢二情報の入手に喜んでおります。夢二関連について情報交換お願いしたいのですが、パソコンは苦手です。電話、FAXなどお願いできたら幸いです。
金沢市柳橋町丙14-7
TEL.FAX.076-257-3847
朝日町の美術館で夢二展(~6/6)が行われているのはご存知でしょうか。まだ行っていませんがぜひ行きたいと思っています。
また、時折金沢にもお越しの由、「金沢湯涌夢二館」にお運びの節は是非ご連絡ください。マイカーでお供いたします。
また、宮沢賢治、ヴォーリズなども興味の対象です。
朝日町立ふるさと美術館では「四季の女‐朝日町と竹久夢二-」をやっているのですね(6月6日まで)。近いうちにご連絡(fax)差し上げたいと思います。よろしくおねがいします。
岸他丑の読み方ですが、ご指摘の通り「たちゅう」かも知れません。私が「ハレー彗星余燼」を書いたのは9年前ですが、美術館や記念館の資料、新聞記事、書籍等諸々を参考にしましたが、現在いずれも手元にありません。その時ネットも参考にしましたので、改めて探したのですが、現在たどり着けません。おそらく「たちゅう」が正しいと思います。…実は子どもの頃銚子にいたので、海鹿島の他万喜、虹之助、夢二のことや、大逆事件についての興味で書いたものです。
お尋ねしたのは、次のようなきっかけでした。つい最近、〔いしはら・かんじ〕だと思い込んでいた「石原莞爾」に〔いしわら〕とルビ付けされた文章を目にして、ええ~っと驚いたことがあり、その直後に星野さんのブログの〔たじゅう〕に出会ったというわけです。
私のブログに、〔たちゅう〕とあるのも、確たる根拠があるわけではありません。また〔たちゅう〕と思い込んでいたために、妹の他万喜と堀内喜一のお子さんの遺族の方にもあらためてお聞きしたこともない次第です。発行時の一番新しい辞典類――具体的にはきのう確認したばかりの『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ/2013.6)――には、〔たちゅう〕の読みが付されていますが、この事典は一次資料にどこまであたっているのか、不明ですので(最終学歴を「陸軍士官学校」としていることもふくめ)、残念ながら最終根拠にすることができません。
他丑を〔たじゅう〕と読むのだとすれば、当時の仮名遣いとしては〔た・ぢう〕であろうと思いますが、星野さんがどこかで「たじゅう」の読みを目にされたとすれば、当時の文献に〔たぢう〕と書かれたものがあったのではないかとも思われます。〔たちう〕ではなく〔たぢう〕と連濁することも、ありえることですので、〔他丑〕という名の字義――妹にも〔他〕の字が使われている――もふくめ、少しいろんな情報に気を配ってみたいと考えています。
なお、岸他丑は諸文献に記されているように明治11年の生まれだとすれば、生年のえとは「丑(牛)」の次の『寅(虎)』です。
石原完爾が「いしわら」というのは初めて知りました。ありがとうございます。さて岸他丑を「たじゅう」とルビを振ったことに関し、いろいろ思い出そうとしてまいりました。ふと、これも朧気な記憶でしかありませんが、司馬遼太郎の「街道をゆく」か何かに登場した昔の人名に「丑」の字があり「じゅう」とルビがあったような…。また時代小説に「多十」という登場人物も記憶にあります。まことに心許ない話ですが、それらが脳裏にあって、男性名なら「たちゅう」より「たじゅう」と読ませるにちがいないと、勝手に思い込んだような。狃、扭は「じゅう」と読みますし。…
ところで、「丑」の音として「ジュウ」を記している辞書だったかを見たことはあります(記録をとってません)。「丑」の読みの問題ではなく、連濁するかしないかの問題なのでしょうね。
そういえば堀田善衛の姓が〔ほりた〕なのか〔ほった〕なのか。。。、すくなくとも本来は、〔ほりた〕なのだとか・・・。歌人藻谷銀河の姓は〔もだに〕ですが、お孫さんの藻谷浩介さんは〔もたに〕です。
余談が続きますが、堀田の生地(現在の高岡市伏木)で、堀田家にかかわりあった国谷さんのことを調べた時、「くにや」さんと「くにたに」さんがいて、混乱しました。複数の国谷さんにご連絡をしかつお会いした折、同一の方に「くにや」「くにたに」どちらででお呼びしても“はい”と返事されるので困ってしまいました。
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