順太郎さんの家(瓢箪町)を訪ね、「菊見」を読む
2009年 07月 18日
コレラで亡くなったためすぐに葬儀を出せなかった母の死後、幾日も滞在したのはこの兄の家であったし〔『菊見』〕、姉きんの葬儀が終った夜、ひと晩を過ごすのも兄のこの家であり、秋声はここから尾張町の裏通りにあったダンスホールに向かうのである〔『町の踊り場』〕。(それぞれ、1916(大5)年10月、1932(昭7)年8月)
順太郎邸は、当時の町名番地でいうと金沢市岩根町九十七番地。現在は、瓢箪町7番6号。明成小学校裏の細い小路を入ったところに、当時のたたずまいを残していると思われる正田家はありました。(場所を明示するのに、瓢箪町保育園の真ん前といっても良いのですが、保育園の語がこのひっそりとした界隈に誤解を与えそうです。)
母の葬儀の前日、ここから徳田兄弟(直松、順太郎、末雄〔秋声〕)は、人力車を連ねて郊外・野田山の旧主家横山家の墓や寺町の横山家別邸の菊を見に行ったのですし、姉の葬儀の晩、秋声は踊り場を探しに家を出たのです。後に、患った順太郎を見舞ったのももちろんこの家でした。
秋声記念館を訪ねた後、リファーレの書店で奥成 達『宮澤賢治、ジャズに出会う』(白水社/2009.6)を見つけ購入。金沢駅で列車を待つ合間に読み始めたが、おもしろい!。
〔追記〕
尾小屋鉱山所長としての正田順太郎については;
*旧日記の「正田順太郎と尾小屋鉱山(1)」というページを参照ください。
〔追記:2〕
実は、母タケが亡くなった93年前の1916(大5)年は、秋声にとっては最愛の娘・瑞子〔長女〕が享年12歳(満10歳)で亡くなった年でもありました。昨日7月17日が、瑞子さんの命日でした。
〔追記:3 7/20〕
上の写真の右側が正田宅です。
“三等寝台で疲れた融が、雨のなかを俥でそう遠くもない兄の家まで来たのは、お昼過ぎのことだった。白壁の蔵の棟が左手に見えて、二三本の松に石を配ったのが、門の荒い格子戸から望まれると、彼は「又兄の家へ来た!」とそぞろ懐かしく思うのだったが、何か憂鬱でもあった。”
秋声は昭和9年の兄の見舞いを材にした短編『旅日記』で「兄の家」をこう書いています。秋声は、この小路を反対側から入ってきたようだ。白壁ではないが蔵の建物はそのまま残っている。
by kaguragawa | 2009-07-18 20:01 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)