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めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                              野口冨士男

  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                              堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞の会 」は、〔ここ〕です。
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# by kaguragawa | 2020-12-31 23:55 | Trackback | Comments(21)

お盆の「六斎念仏」   

お盆の「六斎念仏」_e0178600_18594581.jpg


 富山県の自由民権運動の主導者として知られる稲垣示に『狭衣集』という歌集があります。大阪事件公判後の和歌山監獄での獄中歌集です。この歌集には、監獄の地である和歌山県紀北の自然や風俗がいくつも詠みこまれているのですが、ここにこの地の“お盆の六斎念仏”の鉦の音が詠まれています。
 詞書とともに紹介しておきます。


   八月廿二日の夜は陰暦七月十五日にて
   盆踊り鉢叩きなどの声聞こえければ



魂まつる法(のり)の為にも叩かるる 鉢の音こそ悲しかりけれ

かしましくのんしのんしの声揃へ をとこをみなや恋ひて踊れる


 これらの歌が詠まれた明治20(1987)年は、稲垣が詞書に書いているとおり、8月22日が陰暦の七月十五日にあたりました。ちなみに今年は、9月2日が、陰暦の七月十五日。


# by kaguragawa | 2020-08-16 19:02 | Trackback | Comments(0)

いくつもの7月26日 模擬原爆とキューバ革命と   

 今日、富山市の豊田地区に足を運びました。目指したのは、豊田本町の「平和祈願之碑」。1945年7月26日の原爆の模擬爆弾(パンプキン爆弾)の被災地である。


 富山駅駅北のLRTの富山ライトレールが市街地のLRTと富山駅で連結・直通化(1920.4)されて、初めての利用。城川原駅で降り、地図を片手に歩くことにしました。段取り悪く現地地図を用意する余裕がなく、しかも路地の交差した地区なので、心もとないながらも、高園町、豊丘町という懐かしい地名を目にしながら住宅地の路地をたどりました。この辺り豊田地区は、私の生まれ育った場所に隣接する富山市の北部地区なのです。


 懐かしさゆえの追想にふけっていて?、時間のつごうで本論無しで今日のメモはここまで、となりました(後日、加筆予定)。
 碑の背面に刻んであるメッセージだけ、写しておきます。

いくつもの7月26日 模擬原爆とキューバ革命と_e0178600_21391697.jpg

“一九四五年(昭二十年)七月二十六日朝八時頃アメリカ軍の爆撃機B29が飛来し豊田のこの地に爆弾を投下しました
そのため鈴木善作(当時四十九才)ほか十五名の者が被爆犠牲者として尊き生命を断ちました
人類にとって戦爭ほど醜く嘆き悲しまずにいられないものはありません
再びと、このようなことの起ることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願ってこの碑を建立します
     一九八八年(昭六十三年)七月二十六日”


 
〔追記〕
 この碑が、爆弾投下43年後に建てられた1988年時点では、この爆撃が模擬原爆弾であるパンプキン爆弾によるものだということは、まだ判明していませんでした。

 なお、〔もう一つの7月26日 キューバの革命記念日〕、についても日をあらためます。

 1945年の日本敗戦と戦後改革の8年後、カリブ海ではキューバ東部のモンカダ兵営の襲撃を起点として民衆勢力のバチスタ独裁政権に対する反撃が始まりました。このキューバ革命の過程とカストロについても、またあらためて。




# by kaguragawa | 2020-07-26 21:41 | Trackback | Comments(0)

7月17日の伏木。   

 きょう、7月17日――。堀田善衞が生まれた日とのことで、伏木の堀田の生地を訪ねる。時間の制約があり、通称で「上町(かんまち)」と呼ばれるかつて(江戸時代~明治中期)まで廻船問屋が軒を並べていた通りの堀田家の跡をぶらついた後、堀田家が大正の末に引っ越した近くの小高い丘へ。

 ぜいたくな?話だが、この丘(一段高くなった海岸段丘上)で「鶴のいた庭」を読む。読み返すごとに、歴史のただ中にたたずむ作者の戦慄を感じさせる作品。

 堀田の生地である富山では、「鶴のいた庭」は堀田の郷里を描いた作としてよく知られ、短編でもあるので朗読などでもよく取り上げられるもの。富山に限らず、もっと広く読まれてよい(というか、(僭越ながら)堀田を知るには不可欠な)作品。7月17日の伏木。_e0178600_22392252.jpg


写真に写っている範囲(3軒分ほどの間口)が廻船問屋・堀田家の前面であった。

7月17日の伏木。_e0178600_22523252.jpg




海岸段丘上から。

かつてこの視角には「白壁の倉にとりかこまれた、屋根の上に小さな望楼のついた家(堀田家)」が眺められたという。



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# by kaguragawa | 2020-07-17 23:02 | Trackback | Comments(0)

泊・横浜事件端緒の地(1942.7.05)   

 78年前の今日(1942年7月5日)、――前年(1941年)12月に太平洋戦争が始められ半年後――富山県の東の端の旧宿場町・泊(下新川郡泊町)の旅館に8人の宿泊客があった。一人は、当地生まれで久しぶりに帰省した細川嘉六、あとの7人は細川が自分の故郷に招待した細川の交遊ある人びとだった。「交遊ある人びと」といっても、細川がこの時点で数えの55歳なら、招待客は20代後半から30代なかばがほとんど。細川にとっては自分の子どものような若い友人であり、研究や執筆で関わりのあった満鉄東京支社調査室のスタッフや出版社〔東洋経済新報社、中央公論社、改造社〕の編集者たちであった。

 細川が、東洋経済新報社企画の「日本現代文明史(全18巻)」の一冊『植民史』と「改造」論文(後掲)の執筆に精力を傾注したのちの静養帰省の場に、いつも交流のある若い仲間を呼び寄せたのである。手元には本の印税500円があった。食糧事情が日々逼迫し言論活動の自由もない東京の若い友人を、農と漁の豊かな故郷に招き、“新鮮な食事をたらふくご馳走し、自らと彼らの慰労を共にしよう”という、細川ならでは思いやりの招待だったのである。


 メンバーは、細川嘉六、平舘利雄(満鉄)、西沢富夫(満鉄)、西尾忠四郎(満鉄)、木村亨(中央公論)、加藤政治(前・東洋経済新報)、相川博(改造)、小野康人(改造)。

 細川夫妻は、7月2日に東京を立ち東北を巡ったのち5日に泊町に帰省し、相川以外の東京からの若い客人たちは4日朝に東京を立ち夜行でこれも5日の朝に、宿に指定されていた泊町の紋左(もんざ)旅館に入ったという。泊・横浜事件端緒の地(1942.7.05)_e0178600_22223598.jpgそして5日は小舟で県境の親不知への清遊を楽しむ者もいて、5日の夜は近くの料亭「三笑楼」で心尽くしの美食に、談笑もはずみ、社会人としてもまだ若く和歌山新宮生まれの木村亨が、地元の串本節を歌いどじょう踊りもしたという懇親の場となったのである。

 宿の紋左旅館に戻り、一泊ののち、翌6日の朝、カメラを持ってきていた西尾忠四郎が浴衣姿のみんなの写真を撮り、現地解散となった(細川と相川以外は、10時の汽車で東京へ)。


 細川の故郷泊町でのこの懇親が、のちに、神奈川県警の特高によって「共産党再建準備集会」(泊温泉会議)とレッテルをはられることになる。「改造」への寄稿論文「世界史の動向と日本」の筆禍により検挙(1942.9.14)されていた細川嘉六、満鉄調査室のソ連事情調査会の関係で検挙(1943.5.11)されていた平舘、西沢の二人、そして満鉄メンバーが持っていた紋左での写真から西尾、木村、加藤、相川、小野の四人が検挙(1943.5.26)と、次々と検挙され拘留されていく。そして、細川嘉六を中心とした「共産党再建準備集会」を共謀したという特高の謀略的シナリを完成すべく残虐な拷問が繰り返され、虚偽の自白証書が積み重ねられていくのである。
「泊・横浜事件」である。

 ※写真は、親不知への舟遊び(1942.7.05)の折の写真。(『評伝細川嘉六―スモモの花咲くころに』(2019.12)から)

  なお、「共産党再建準備集会」の証拠にされた6日朝の写真は、下のタグ〔細川嘉六〕から昨年の11月3日の記事をご覧ください。


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# by kaguragawa | 2020-07-05 22:30 | Trackback | Comments(0)

瀧口修造と中江兆民   

 瀧口修造の自筆年譜はおもしろい。
 概して、作家(文人)の自筆年譜は、自分のことながら(自分のことゆえに)事実誤認がままあるとはいえ、おもしろいのだが、瀧口のそれは、いかにも瀧口らしい現実認識が生で語られている、といってよいのではなかろうか。

 以前、瀧口の自筆年譜は目にはしていたのだが、先日、Hさん宅(瀧口の研究家として周知の)で地元の研究者ならではの話をいくつもうかがっていて、自筆年譜の話になった。Hさんは、幼少年時代に瀧口がどのようなものを読んでいたのか、そのヒントを自筆年譜のなかからさぐっている。そのなかで、私にも、興味深い記述があったのだ。

 自筆年譜によると、「書庫代わりの二階の一室にはおびただしい漢方医書と近代医書が並んでいて」「明治の文芸書や雑誌も揃っていて」瀧口修造の「少年時代はこの室にひとり閉じこもることが、多く、井上円了や中江兆民の著書などが妙に記憶に残る。性の秘密を知るのもこの部屋である。」という次第なのである。

 ここで、おおっ、と今の私が思うのは、《中江兆民》である。中江兆民が亡くなったのは1901年。瀧口修造が生まれたのは1903年。
 この二人の生は背中合せである。で、瀧口が少年の頃といえば明治の末、1910年前後ということになるであろうが、兆民の刊行物が富山の片田舎の医者の家にあったとすれば、それは何だったのか。なぜ、それが瀧口少年の記憶に残ったのか。私には、あまりにスリリングな問いである。

 ここまで、書いたところで、生地の菩提寺(富山市大塚、慈雲山瀧江寺)にある瀧口修造の墓に参ることにし、家を出る。今日は、瀧口修造の命日「橄欖忌」なのである。

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# by kaguragawa | 2020-07-01 12:56 | Trackback | Comments(3)

北海道の竹内てるよ   

 北海道文学史の本に、中江兆民の小樽時代のことが書かれているらしいことがわかり、古書を買い求めたところ、木原直彦『北海道文学史 明治編』(北海新聞社/1975.04)という本が届いた。で、さっそく、あまり期待もせ的にずにページを繰ってみて驚いた。中江兆民のことだけでなく、渡道した数多くの文人のことが、どうやってここまで調べたの?と思わせる調査に基づいた記述が、これでもかこれでもか、と繰り広げられているのである。

 まず驚いたのは、鏡花の弟・泉斜汀。斜汀(泉豊春)が、啄木の渡道の前年(1906)に記者として、北海道に渡っていたことは、不勉強で知らなかったのである。
 その次の驚きは、竹内てるよ。てるよは、渡道した人物ではないが、父が渡道時代に北海道で生まれたのだが、まさか北海道の文学研究で扱われているとは、考えてもいなかったのである。以前、このブログに書いたように、てるよの父は、そして北海道でてるよを育てた祖父母も、富山県生まれなのである。

 以下、自分の備忘のために、『北海道文学史 明治編』から竹内てるよの項を写しておくことにします。(一部、表記を変更しました。)

北海道の竹内てるよ_e0178600_19100712.jpg

 「竹内てるよが札幌の狸小路で呱々の声をあげたのは、明治37(1904)年12月21日のことで、父竹内毅は拓殖銀行員、母は18歳の半玉だった。
 生後間もなく厚岸郡厚岸町で判事として住んでいた祖父竹内四郎に引き取られ、明治43(1908)年4月には厚岸小学校に学んだ。ところが、大正2(1913)年に厚岸の裁判所が閉ざされて釧路に移ることになり、祖父はこの機会に退職し、その5月に一家をあげて上京した。
 てるよは厚岸に小学校3年まで過ごしたわけで、判事のお嬢さんとして何不自由のない生活だった。それに反して上京後の生活は苦難続きであり、そうしたなかで、ふるさと厚岸を舞台にした「雪のある素描」(鄰友社、昭18.10)や「北のふるさと物語」(白都書房、昭22.6)などの小説をいくつも残している。」

 ※写真は、『北海立志図録』中の厚岸裁判所。厚岸町郷土館のHP(http://edu.town.akkeshi.hokkaido.jp/kaiji/kyodo/kyodomap/meiji-akkeshi/)より。


 竹内てるよの祖父・竹内四郎については、
 https://kaguragawa.exblog.jp/23782152/

〔追記〕
 泉斜汀が、北海道タイムスに書いた「札幌見物」について、紹介してあるブログを見つけました。ご参照のほど。
 https://poros.exblog.jp/22854431/


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# by kaguragawa | 2020-06-28 19:14 | Trackback | Comments(0)

名草山なぐさめがてに   

 稲垣示が大阪事件で外患罪に問われ服役中の和歌山監獄で詠んだ歌は、のちに『狭衣集』という歌集の形で公刊されました。
そのなかの「夏」の部に、
“六月二十六日病監にありて時鳥(ほとどぎす)を聞く”という題のもとに二首あるので、書き写しておきます。

  時鳥啼いて帰れば足引きの山田の早苗臥してまつらん
  名草山なぐさめがてに世の中を思い揚りて啼く時鳥

 稲垣は風貌はいかついのですが、歌の素養をきちんともっていることが、この二首からもうかがえます。ホトギスが、季節を反映し田植えを促したり農作業をすすめるという農耕と結びついた鳥であり、もちろん“名草山 言にしありけり 我が恋ふる 千重の一重も 慰めなくに”という万葉の歌(巻七-1213)と,、ホトトギスの異名「しでのたおさ(死出の田長)」を踏まえての歌なのであろうと思われます。
 なお、監獄(現在の県庁の場所が当時の和歌山監獄の地だと、何かで読んだ記憶がありますが)そこから見える名草山は、彼のふるさと射水野の二上山を思わせたのではないかとも思われます。


# by kaguragawa | 2020-06-26 22:03 | Trackback | Comments(0)

ふらんすの周辺から『三酔人経綸問答』へ   

 以下は、週に一回は、何か書いておこうという半ば自己課題的な“メモ”です。

 多少自分の好きなようにつかえる時間がふえて、とりあえず“目標を定めず?の本読み”を一つの日課にしている。来週から(明日から)は、兆民の『三酔人経綸問答』(桑原武夫・島田虎次/訳・校注)に挑戦しようと思っている。

 兆民に行き着くにはいくつかの導きの糸があったのですが、その一つに樋口陽一『ふらんす――「知」の日常をあるく』(2008.12/平凡社)を先週読んだことがきっかけになっています。この本に、兆民も『三酔人経綸問答』も出てこないのですが、フランス思想の散策へ戻ることを強く慫慂されたことが、さらに山本安英の会での『三酔人経綸問答』を読むという試み(→木下順二・江藤文夫編『中江兆民の世界――『三酔人経綸問答』を読む』1977.12/筑摩書房)の記憶へとつながり、いよいよ挑戦(大袈裟ですが)ということになりました。

ふらんすの周辺から『三酔人経綸問答』へ_e0178600_19182445.jpg


 この本が書かれた日本の明治10年代については、これも未完成の?自己課題「自由民権における民権と国権」があり、そうした課題でいつも前面に出てくる「自由民権運動における《大阪事件》の位置づけ」を、急がずに自分なりに追いかけたいという課題が横たわっているのです。
 ※写真は、「近代書誌・近代画像データベース」から

〔追記1〕
 ・・・というようなわけで、自由民権や兆民の周辺でいろんなものを読み散らかしていて、小さなことながら、驚きや発見もあったので、このまとまらない雑文に、さらにいくつか追記という形でおまけをつけていきたいと思う。

〔追記2〕
 樋口陽一『時代と学問と人間と――追憶のなかの恩師・知友たち』(2017.06/青林書院)を併せて、読み始めました。
 “極北を示さなくなった磁石を手に漂流しているかのような知の状況のなかで模索する読者たち、特に若い人”を読み手に想定されている本と言っていいのでしょう。とりわけ遅塚忠躬さんと二宮宏之さんという二人のフランス史研究者への追悼がわたしには印象深い。
〔追記3〕
 『三酔人経綸問答』の参考書?に、井田進也氏の『中江兆民のフランス』を読もうと思い注文。到着して、たまげるくらい驚いた。無知は恐ろしい。安価だったので、兆民の啓発本だろう、ぐらいに思って購入したところ、箱入りの本格的な論文集。ページをくって、緊張で背筋が伸びる思い。(安価だったのは、幸いにも?、某大学図書館の除籍本だったから。)
 この本の後書き「おわりに」にざっと目を通したら、井田氏の母の実家で祖父の直筆の云々、とある。あらためて読み直したらその「祖父」の名は、“鬼城村上荘太郎”。なんと、俳人の村上鬼城ではないか。二度、びっくり。鬼城は若き日、高崎で自由民権運動に関わっていた。調べてみたら、井田進也氏は、鬼城の八女のご長男とのこと。氏に「若き日の村上鬼城」という論考があるよし。


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# by kaguragawa | 2020-06-14 19:22 | Trackback | Comments(0)

《稲垣示翁之碑》   

 ふと思い立って、久しぶりに《稲垣示翁之碑》を訪れました。
《稲垣示翁之碑》_e0178600_12274807.jpg
 確認したかったことの一つ。この碑の建立年月日。
もう一つは、碑の左脇に立っている建立者の名が記された碑にある人の名を探すこと。

 詳細?は後日。

# by kaguragawa | 2020-06-04 12:40 | Trackback | Comments(0)

「画廊・七本杉」(高岡市)のことなど   

 このブログが開店休業状態になっている。少しずつ、身近なできごとの報告もふくめて、書いていこうと思っている。

 昨年の10月に「篠原三代平さん生誕100年」という題で書いた小報告への追記も、ようやく、今日書きました。
 https://kaguragawa.exblog.jp/28665578/
 篠原三代平さんの実家(商家)の跡が、「画廊・七本杉」であったということも、半年もたってからようやく少し、追記しました。

 今、追記の追記ということで、ここにも少し、落書きしておきます。

 この「画廊・七本杉」が閉鎖されてからちょうど4年になろうとしていますが、ご存じない方も多いかと思うので、場所だけ書いておきます。当時の住居表示を書いておくと高岡市末広町40番地ということになります。SMBC日興証券高岡支店の右隣でした。文苑堂書店(昨年2019年5月、閉店)の隣と書いてあるものもありますが、文苑堂はご近所さんではありますが、小さな小路をはさんだ右横側(駅側)でした。(ちなみに、文苑堂が末広町39番地)

 実はこの辺りの古い資料をいくつか持っているはずで、それを確認してから報告しようと思いながら、その資料が見当たらず、ついつい第一次の報告もしないままになった次第なのです。

 それよりも、ここ「画廊・七本杉」で、どのような展示会や催事の記録がおこなわれたのかの記録は、とても大切なものと思われます。そうした記録こそ文化活動に不可欠なものだと思うのです。

 ではまた。


# by kaguragawa | 2020-06-02 22:06 | Trackback | Comments(0)

『山頭火と地蔵とエスペラント Santooka, Gizoo kaj Esperanto 』   

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『山頭火と地蔵とエスペラント Santooka, Gizoo kaj Esperanto 』
 小沢満明 編/たけい ひろゆき 写真/合同フォレスト/2020.05

山頭火の句にエスペラント語がつき(エスペラント句→原語句の順)、モノトーンの野辺の写真がつく。


  kion secri ―
  iras mi en vento

  何を求める風の中ゆく


# by kaguragawa | 2020-06-02 13:50 | Trackback | Comments(0)

読みかけの二冊の本『東京空襲』『ペルシア人の手紙』   


 I君へ。

 「巣ごもり」などという言葉が使われるようになってきましたね。動物の生態として「巣ごもり」という語のきちんとした意味を知りたいと切に思っています。それはさておき、正直なところ、政府の呼びかける外出自粛や、ましてその〔×割規制〕などということがどういう科学的根拠に基づいているのか、私には未だによくわかっていないのです。(こうしたことの議論というより私の考えを、整理して書いてみたいと思いますが、時間のつごうでここでは自粛?)

 さて、いろんな偶然が重なり、まったく予定になかったのですが、今、2冊の本を読んでいます。きのうから『東京空襲』(一色次郎/1967/河出書房新社))、きょうの午後から『ペルシア人の手紙』(モンテスキュー/田口卓臣訳/2020/講談社学術文庫)を読み始めました。
 読み始めた途端に、この2つの本(書物)についておしゃべりしたいことが、いくつもでてきました。ルソー読みの仲間だったI君に、久しぶりに語りかけたいと思ったのも、I君であれば、モンテスキューとルソーという話題についても、自由に会話が出来そうだと思ったからでした。そういうおしゃべりの入り口として、そもそも、それぞれの本に私がたどり着いた経緯や、それぞれの本の(私が知り得た)出版経緯なども、書いておきたいのですが、――とすればここ2週間ほどの雑事をこまごまと語らなければなりませんが――、それ以外にも、気になることがいくつもあり、I君の意見も聞きたくなったのです。

 ――と、書き始めたのですが、今は、時間の制約があります。今日のところは、第1信として?、「こんな本を読んでますよ」というお知らせだけにするとして、『ペルシア人の手紙』の中からある一節だけの引用だけをしておきたいと思います。「手紙105」の一節です。

 「化学の災禍に関する良識ある人たちの話を聞いたことがあります。戦争、ペスト、飢饉が大量の人間を断続的に破壊するのに対して、化学は人間を少しずつ持続的に損傷し、破壊していく四番目の災いであるようです。」

 この文中の「カガク」は書かれている通り「化学」であって「科学」ではないのですが、これを「科学」と読み替えてみるとどうでしょう。そして、「ペスト」を一般化して「感染症」と読んでみてください。この文が、≪ここ数か月、《専門家》と呼ばれる「科学者の口から発せられたことば」が、“人間を少しずつ持続的に損傷”してきているのではないか・・・≫。――そんな風にも読めてしまうのです。
 モンテスキューの警句が、原文とはちがった文脈ではあれ、切実に迫ってきませんか。「専門家」と呼ばれるエセ科学者とその人々が語る「エセ科学」が社会を席巻した9年前の再来を、私たちは眼前に見ていると思えてなりません。

 また、書きます。

# by kaguragawa | 2020-04-28 22:49 | Trackback | Comments(0)

向井嘉之『イタイイタイ病と戦争――戦後75年 忘れてはならないこと』   

 向井嘉之『イタイイタイ病と戦争――戦後75年 忘れてはならないこと』(能登印刷出版部/2020.02)

 これは、イタイイタイ病についていくつもの労作を世に問うてきたジャーナリスト向井嘉之氏のあらたな執念の書であり、三井財閥と国家の共犯事業「戦争」を、無茶苦茶な増産命令によって鉱毒を垂れ流し続け神通川流域に悲惨な惨禍を生んだ元凶であると、明確に立証した、指弾の書である。向井嘉之『イタイイタイ病と戦争――戦後75年 忘れてはならないこと』_e0178600_23313609.jpg


 また本書は、私たちが容易に目にすることのできない学術論文や埋もれた記録の的確な引用を一つの糸とし、日本の近現代の歴史(日清戦争からベトナム戦争に至る幾多の戦争)に埋もれた(埋められた)声をもう一つの糸として織られた――過去と未来に向けられた――告発の書である。


 第二次大戦下の地元紙に「現在は決戦下に欠くべからざる重要資源である銅・鉛・亜鉛の三鉱物の採掘に全力が注がれ、昼夜をわかたぬ全鉱員たちの敢闘によって今では、鉛・亜鉛の採掘量が日本一という折り紙がつけられるなど、神岡鉱山こそ聖戦完遂の兵站基地としてたくましき躍進を続けているのだ。」と紹介される裏では、
国の増産命令が、朝鮮人徴用者や俘虜労働者の過酷な使役が暴動も引き起こしていたのである。向井氏は『証言 朝鮮人強制連行』から次のように引用する。

 「暴動の直接の原因は反抗的な態度をみせた朝鮮人徴用者を労務係の連中が事務室に引き込み、殴りつけたりしていたのを目撃した同僚たちが怒ったことから始まった。/暴動がおこったのは、こんなリンチを中心とする労務管理に対する怒りが鬱積していたのと、食事等、待遇に対する不満が限界に達していたのであろう。」

 なんと心痛い状態であろうか。さらにその裏には、次のような証言が告発する事実があったのである。

「私は戦時中働いていました。大雨が降ると真夜中に命令がくるのです。「今だ!カス(鉱滓)を流せ!」私はずぶぬれになってスコップをふるいました。戦争中に工場を拡張して、カスは溜まるばかりで捨て場がなかったのです。川はたちまち白く濁って流れていきました。」

 こうして夜陰に乗じて下流に流れ下ったカドミウムが飲料水、農作物を通して人体に蓄積され、広範で甚大なカドミウムの人的被害「イタイイタイ病」として顕現したのである。

 『イタイイタイ病と戦争――戦後75年 忘れてはならないこと』。明晰な論旨と的確な引用にひきこまれて、一気に読んだが、引証されている資料を確認しながら「忘れてはならないこと」を、しっかりと、読み直す機会をもちたい。



# by kaguragawa | 2020-03-09 23:33 | Trackback | Comments(0)

Japanese artist painting scene of destruction, Hiroshima   

 渡邉英徳さんのtwitter(*)で知った《Japanese artist painting scene of destruction, Hiroshima, Japan, Sep 1945 》という写真(**)。

* 2020.02.29のツィート、
https://twitter.com/hwtnv/status/1233704897444343809
** 出所は、
https://ww2db.com/image.php?image_id=25634

Japanese artist painting scene of destruction, Hiroshima_e0178600_23290393.jpg



 この人物が描いている絵が、かつて中国新聞(***)で紹介された原爆投下直後に描かれた絵と筆致がたいへん似ているのである。
 興味のある方は、ぜひ見比べていただきたい。

***2008.10.08の記事「爆心直下の絵の写真」
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=592

 新聞に掲載されている絵には「草土史」という署名が見られる。この“草土史”は、中国新聞も紹介されているように“藻谷草土史”のことで間違いないであろう。

 近いうちに、この“草土史”の号をもっていた藻谷恒(もたに・ひさし)さんについて書いてみたい。


# by kaguragawa | 2020-03-04 23:32 | Trackback | Comments(0)

池田正穂さんと『ここが家だ――ベン・シャーンの第五福竜丸』   

 池田正穂さんが亡くなられたことを今朝、新聞で知った。えっ、と思わず絶句。 
 実は数日前に買ったベン・シャーンの絵とアーサー・ビナードの文でつづられた絵本『ここが家だ――ベン・シャーンの第五福竜丸』を、今日、スタバで読もうとカバンにいれたところだったのだ。 

 読売新聞にはこう紹介されている。
「池田正穂氏 87歳(いけだ・まさほ=第五福竜丸元乗組員)20日、胃がんによる心不全で死去。

 1954年3月、米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で被爆したマグロ漁船第五福竜丸で操機手を務めた。近年は自身の体験を基に核廃絶などを訴えていた。」

 ちょうど1年前の2月25日には、同じ第五福竜丸の操舵手だった見崎進(みさき・すすむ)さんが亡くなられている。


池田正穂さんと『ここが家だ――ベン・シャーンの第五福竜丸』_e0178600_15223062.jpg




「久保山さんのことを わすれない」と
ひとびとは いった。
けれど わすれるのを じっと
まっている ひとたちもいる。

  『ここが家だ』から

 





# by kaguragawa | 2020-02-22 15:27 | Trackback | Comments(0)

伊井弥四郎 2.1ゼネスト中止〔1947〕の日に   

 2月1日にあたり、伊井弥四郎に小評伝らしきものさえないことに気づき、唖然。中新川郡西水橋町(水橋町を経て、現富山市)の生まれであるらしいが、私も今までしらべたことがない。
 生年1905年からすれば、彼は、10代にこの辺りの米騒動も見知っているはず。少しずつ、調べてみたい。

※Wikipediaもコトバンクに集められている諸事典の項も、出生地を「富山市水橋町」としているものが多いが、これは間違い。

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2020.02.08追記 

 伊井弥四郎『回想の二・一スト』(新日本出版社/1977.5)の著者略歴から、1947年までの部分を書き写しておきます。

 1905(明治38年)年、富山県水橋町(現在の富山市)の貧しい菓子卸商家に生まれる。17歳で上京。工場などで働きながら法政大学の政治経済科(夜間)に学び、マルクス主義に興味をもつ。この間、1926(大正15)年、岩倉鉄道学校を卒業して国鉄品川車掌区の車掌となり、1940(昭和15)年まで茅ケ崎、平塚、鶴見、東京など各駅の運転掛助役などをつとめる。
 国鉄に就職後、ただちに全日本鉄道従業員組合に参加し、国鉄京浜委員長、本部政治部員としてとして活動する。組合は1928(昭和3)年、3・15事件後解散させられたが、45(昭和20)年、敗戦と同時に、国鉄労組の組織化に努力し国鉄総連合を結成。組織部長、教頭部長、企画部長を歴任。労働者階級の利益を守ってたたかい続けるなかで、1946年日本共産党に入党。46年から48までは、中労委労働解決に活動、同年10月には全国官公庁労働組合連合会(全官労)を組織、その議長となる。
 1947年、二一闘争のゼネスト共闘議長として活躍、アメリカ占領軍による二一ゼネスト禁止にたいし、最後まで労働者階級の団結を呼びかける。


# by kaguragawa | 2020-02-01 18:42 | Trackback | Comments(0)

濱口國雄と日塔貞子   

 二人の詩人を今年は追いかけてみたいと思っている。濱口國雄と日塔貞子である。二人はともに100年前の1920年生まれ。

 濱口國雄は、6月10日、日塔貞子は12月14日の生まれである。
 濱口は濱口なりに、貞子は貞子なりに、時代に抗い、強烈で誠実な生を生き、その生を詩にすることで生を全うした、といえるのではないか。

# by kaguragawa | 2020-01-03 23:35 | Trackback | Comments(0)

2019年の末に   


 2019年も残すところわずかである。今までこのブログに一年の振り返り―反省―といったものを正面から書いた記憶はないのだが、今年は、少し違う。もちろんここに縷々そうしたことをつづろうとは思わないが、進化も深化も皆無とは言わないが意に満たない端的に言えば悔悟の日を連ねてきた、という思いが強い。

 生は無限ではない、そんな思いも強い。
 与えられた多くの遺産をめいっぱい受け、わずかばかし創造に一歩を踏みだしたいと考えている。

# by kaguragawa | 2019-12-31 23:56 | Trackback | Comments(0)

冬至に、こんにゃく???   

女房と雑談中に、えっ、と驚く話が。

灯油を配達してもらっている業者の方(Yさん)が、毎年、年末に“こんにゃく”を持ってこられるという。
初めて聞く話だが、もう何十年も前からのことだという。
「Yさん、お母さん(私の母)の知り合いの方だったらしいけど・・・。そんなに多くの量でもないし、なにか形式的なものだと、思うんだけど」

これって、お歳暮?

きっと、これは、「冬至こんにゃく」ないしは「年越しこんにゃく」を、一年お世話になった人に贈る習わしではなかろうか。
「冬至かぼちゃ」の風習はよく知られるが、「こんにゃくで、一年間の“砂出し”」という「砂下ろし(厄落とし)、砂祓い」の風習のようで、関東に広くみられるものという。

富山(広くは北陸)にも「冬至こんにゃく」「年越しこんにゃく」、さらにはその贈答の風習があるのかどうか、いろんな方に聞いてみたい。


追記:2019.12.22(冬至の日) 《「ん」のつく食べ物》
 冬至、といえば日が一番短くなり春に向けて日が伸びる「一陽来復」の日。最後で最初の日…。そこで、どんづまりの「ん」の字のついたを食物を、この寒の季節に食べて精をつけるそうです。
(夏土用に「う」の字のついた食べ物を食べる(ウナギ!)のと、対のようです。)

 「ん」の代表が「南瓜(なんきん)」の“かぼちゃ”ということになるそう。饂飩(うんどん)、蓮根、人参、銀杏、金柑、寒天・・・などなど。
 「こんにゃく」も、「ん」のつく食べ物!。


# by kaguragawa | 2019-12-10 23:41 | Trackback | Comments(0)