めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                              野口冨士男

  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                              堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞の会 」は、〔ここ〕です。

# by kaguragawa | 2019-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

この四人は誰ぞ?   

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1939(昭和14)年、信濃追分(西軽井沢)。この四人は誰ぞ?
中村真一郎、山崎剛太郎、野村秀夫、小山正孝の諸氏だそうな。
(猿渡重達『追憶の野村秀夫』1981.3より)


# by kaguragawa | 2019-02-15 22:20 | Trackback | Comments(0)

二・八独立運動から100年の日に   

 久しぶり読んだ中塚明さんの『近代日本と朝鮮』から。

 米騒動のころ、日本には約800名の朝鮮留学生がいたが、1918(大正七)年の暮ごろから、彼らのあいだでも独立運動が活発になっていた。そして東京にいた約600名の朝鮮人学生は、早稲田大学政治学科の崔八鏞らの指導のもとに1919年2月8日、神田小川町の朝鮮人基督教青年会館に集まり、独立宣言と決議を発表、公然たる独立運動の烽煙をあげた。
 その宣言は、アメリカとイギリスが、日本による朝鮮の「保護」と「併合」を率先して承認したことを鋭く指摘し、ロシア革命で帝政ロシアがうちたおされたいま、「韓国併合」の最大の理由はなくなったとして、朝鮮の独立と自由を要求するとともに「日本がもしわが民族の正当な要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣するであろう」と宣言した。—―もちろん、この大会は日本官憲のはげしい弾圧を受け、指導者は逮捕された。しかし、朝鮮人学生はあとからあとへと繰り返し集会をひらき、議会へ陳情やや逮捕への抗議をつづけた。
 いっぽう東京の朝鮮人学生の半数は、郷里に帰り、独立運動の準備をはじめた。彼らはやがて起こる三・一運動の全国への波及をたすけるうえで重要な役割を果たすのである。

 
※100年前の2月8日は雪の日だったようです。文中の「朝鮮人基督教青年会館」は、「神田小川町」となっているが、正確には「神田区西小川町2丁目5番地」ではなかろうか。





# by kaguragawa | 2019-02-08 23:26 | Trackback | Comments(1)

射水郡立農業公民学校と南原繁(3)   

 目をこらし耳をすませば、私がいま住んでいるこの射水の地から、100年前の南原繁の若き日の理想を、今も、いくつも、感じとることができるのではないか。


 次は、1月18日に行われた送別会での南原のあいさつ。
(「高岡新報」(1919.1.19)から。表記はかなり変えました。)

 一通の電信は今たちまち余の身分を数百里の外に置けり。数百町歩にわたる湿田の排水事業なりて土地肥え穀物豊かに稔りて郡民撃壌の光景。あるいは高伏運河の大事業なりてこの付近一帯に煙突林立しマンチェスター日本の大阪を見るがごとき活発なる商工都市の現出したる光景。またあるいは、公民教育を了したる有為の青年が続々として輩出し所在農村の中堅となり勇ましく自ら本郡をその双肩に背負い立てる光景。
 これはことごとく美わしき絵巻物となりて余の胸に残れり。しかして余は今やこの美わしき絵巻物を抱き、懐かしき土地懐かしき各位と別れて、明日は早や高岡駅頭を出発せんとするなり。想えば哀しき今日の日よ、余や在職一年有十ケ月、その間幾多の懸案を事業を残したるのみにて、何らのなすところもなかりしが、唯一つ各位の篤き友情を得たるは、何物にも代えがたき満足とするところなり。願わくは各位健在たれ。


# by kaguragawa | 2019-02-03 18:43 | Trackback | Comments(0)

射水郡立農業公民学校と南原繁(2)   

 南原宛ての電話がいつ架かかってきたのか、南原がいつ射水の地を去ったのか、判然としない。

 射水郡の郡会が始まったのは1919年1月8日。内務省本省からの南原宛ての電話は10日か?。そして南原は、前射水郡長として郡会の成り行きを気遣いながら射水を離れる・・・。1月18日のことだったか、19日だったのか?。
 前年の1918年1月の北陸が大雪だったことは知られているが、1919年の1月はどうだったのか?。

 ちなみに1月18日に、第一次世界大戦の戦後処理のパリ講和会議開始。28日はウェーバーのあの『職業としての政治(Politik als Beruf)』の講演がミュンヘンで行われている。


# by kaguragawa | 2019-02-02 22:04 | Trackback | Comments(0)

射水郡立農業公民学校と南原繁(1)   

 (以下、南原繁の小杉高校での講演〔1961.11.21〕から)

 大正八年一月〔1919.1〕、射水郡の郡会において、本校〔小杉高校〕の前身射水郡立農業公民学校の案が提出されたときに、私は予算の説明の中にこの物語をひいてお話を申しました。
 このことは当時の郡会の議事録に載っているはずで、当時考えましたのは、富山県の射水平野に根を張っている教育、産業、経済を踏まえて、当時の中学校のごとき上級学校への予備校的存在でなく、この地に根を下ろした学校を作ってはと考えたのです。他方、単に農業に関する技術の教育だけでなく、眼を天に向け、人間としての教養を高める青年の出ることを念願したのです。本校が農業公民学校という名をとったのはその意味です。(中略)アテネの学校の例をひいて、郡会へ予算の説明をする時、数日の休会後、いよいよ郡会の審議を願うというときに、電話一本で現在の自治省へ呼び返され、役人という者のなんとさみしいかをしみじみとその時感じさせられたことです。


# by kaguragawa | 2019-01-25 23:48 | Trackback | Comments(0)

『メドヴェージ村の日本人墓標』   

 『メドヴェージ村の日本人墓標――日露戦争虜囚記』(才神時雄/中公新書/1983.7)。

 古い本ながら(昨年入手)今さら読み読了後、しばらく言葉を失いました。


追記:2019.01.14
 著者の才神時雄(サイカミ・トキオ/1917.03.05~1990.08.01)については、青山淳平(河野健)さんに『人、それぞれの本懐――生き方の作法』(社会思想社/1999.07)という紹介があるよし。

# by kaguragawa | 2019-01-13 19:37 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「馬肉」を   

 年末に至り三島霜川の「馬肉」を読む。数年ぶりである。初出がいつだったか資料が手元にないが、今回は、『千波万波』に収められたもの。

 以前読んだときは、フーンと思った程度でしたが、今回、『千波万波』所収の版であらためて読んでみると、以前の読みが、ストーリを追った程度の浅いものだったことに愕然とする。文学研究者ではない私には、この「馬肉」が文学としてどういう評価を受けるのかわからないが、「馬肉」に描かれた明治40年代初頭の一つの人間像、――描かれているのは、32歳の社会の片隅にようやく生きることを許されている工場労働者だ!――、さらにその描き方には興味をひかれる。この当時、こんな人間をこんな風に描いた作品があったのだろうか。
 そもそも、明治40年代初頭に、工場労働者の負の生を描いた文学はどれほどあるのだろう、思い浮かぶものがない。そして彼〔蒲田〕は、霜川の明治40年前後の作品「解剖室」「虚無」などの登場人物に共通する“影”を負った「異端」の人間であり、その典型とも言ってよい人物(その意味では霜川文学の「正統」な人物)だろう。そもそも月島の路地の「馬肉屋」というのが、対岸の銀座、築地にとって「異端」であろう。

 現代の日のあたらない隅にもこうした生を送っている人間がいるだろう。いや、ここに描かれているのは、弱者の境遇に追いやられた現代の社会的病者の先取りなのではないかとさえ――ということを、説得力をもって語れる自信はないが――思えてくるのだ。


追記:2019.1.5
「馬肉」の初出は、『江湖』(明治41年5月1日号)

 ※『江湖』
    明治41年(1908)3月~8月
    発行所 江湖社
     https://myrp.maruzen.co.jp/book/ysd_a_gc12418/

再収
『千波万波』大町桂月・樋口龍峡 共編(日高有倫堂/明治42.7)
『千波万波』大町桂月・樋口龍峡 共編(松本商会出版部/大正5.2)再版


# by kaguragawa | 2018-12-30 23:19 | Trackback | Comments(0)

「品行論(西洋品行論)」メモ   

 サミュエル・スマイルズ。 “Self-Help”「自助論」で知られるスマイルズだが、彼のもう一つの代表作“ Character”は、今日ほとんど論及されることがない。“Self-Help”の初訳者である中村正直がこの“ Character”を「品行論(西洋品行論)」として訳していることも、あまり知られていないのではないか。

 今夏、あるきっかけで、この“ Character”「品行論(西洋品行論)」のことを知った。そして今頃になって原書をペーパーバック版で注文することになった。
 自国語さえ覚束ない私が言語でこの本を読もうと思ったにはそれなりの訳があるのだが、そんなことごとも、年明けに少し余裕ができたらばと思っている。

※中村正直訳「品行論(西洋品行論) 2版」(近代デジタルライブラリー)

  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758186/

追記
 畔上賢造に自助論・品性論の訳業(松本商会出版部)があることもなにかの折に・・・。


# by kaguragawa | 2018-12-24 21:26 | Trackback | Comments(0)

迷想   

 
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 昨年来、堀田善衞に関わるイベントにいくつか関わらせていただきました(一応過去形)。特にここ一ヶ月は、自分が関わるそうした場にどう関わるか、悩む時間が多かったことも事実です。自分がそうした場に関わることで、自分のなかの堀田善衞に自分自身がどう関わり、その場で時間をともにする人たちにどのような堀田善衞をどのように語り、かつ共感の場をもつことができるのか、できないのか。
 自分の中に多くの堀田善衞経験を持っておられる大先生たちはいざ知らず、ここ数年来――精魂込めてという思いは持ちつつも――堀田善衛の作物を少し読み込んだ程度に過ぎない思想無き者〔私〕にとっては、一面楽しくも正直迷いそのものの日々でした。
 今日、やさしく語りかけるように叔父堀田善衞をお話いただいた甥の堀田一善さんの講話に、救われたような思いで聴き入ることができました。

 今、少し堀田善衞を離れて、長者丸漂流の‏資料を読みたいと思っている。

# by kaguragawa | 2018-11-24 22:49 | Trackback | Comments(0)

今度の三連休は堀田善衞days   

今度の3連休(11/23--11/24--11/25)は、なんと3堀田善衞days。
堀田善衞生誕100年。
堀田善衞の会、高岡市立博物館、高志の国文学館が、それぞれ異なった視点から堀田善衞の文学とその背後にあるものに迫ろうとしています。

★堀田善衞生誕100周年記念講演会 堀田善衞の会・富山大学人文学部共催
 富山大学人文学部2階第4講義室 11月23日(金・祝)、 午後2時~5時の 申込不要・無料
*水溜真由美「橋上の人、路上の人―『堀田善衞 乱世を生きる』の執筆を終えて」
*竹内栄美子「1950年代の堀田善衞―『時間』を中心に

★堀田善衞生誕100周年記念・朗読と講演の会 
 高岡市立博物館3階講堂 11月24日(土) 
*朗読「鶴のいた庭」から 朗読サークル「言の葉」 午後1時20分~
*講演と質疑応答「堀田一善さんに聞く」(講師:堀田一善、聞き手:野村剛)午後2時~4時
    

★文学講座と記念対談 
 高志の国文学館研修室101 11月25日(日) 午後2時~4時 申込必要・無料【受付終了】 
 *講演講師:秦剛、対談講師:紅野謙介「堀田善衞と上海


# by kaguragawa | 2018-11-22 21:29 | Trackback | Comments(0)

秋聲忌 墓前祭   

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 ケヤキの落葉が天空から舞い降りてくる雪のように時折ふってくるなかの秋聲忌。墓前祭のあとの日比先生の講演も拝聴。

 余談ながら、金沢に向かうあいの風とやま鉄道のなかで久しぶりに『光を追うて』のページを繰る。何度か通読したつもりだったのに、読んでない部分が幾カ所もあるのに驚く。そもそも秋聲記念館の企画展のテーマになっており、今日の日比講演のかなめでもある秋聲の「檻」も読んでないのだ。そんな私が、今年も白菊を献花させていただきました。秋聲さんすみません。


# by kaguragawa | 2018-11-18 19:52 | Trackback | Comments(0)

2冊の本   

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『巨人軍物語』
『河上肇の人間像』

 同じ人物が関わる異質な本2冊。
 『巨人軍物語』(スポーツ世界社/1949.4)には、日本野球連盟常任理事・野口務の名が見える一方、『河上肇の人間像 付 年譜・著作目録』(図書新聞社/1968.6)には天野敬太郎・野口務編の文字が見える。

 この野口務については高岡市立博物館の企画展「堀田一族と伏木」に紹介がある。野口務は、堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』で、主人公から“従兄(おにい)さん”と呼ばれる人物のモデルである。

 『巨人軍物語』の「序にかえて」には、たとえば、“戦後の再建以来、時代の波にのり、スポーツの王座を地位を占めた如き観あるわが日本野球は、一九四八年においては、社団法人の認可、株式会社の創立をおえ、家内工業的マニファクチュア的経営より資本主義的経営へ、すなわち封建的段階より近代的な段階への飛躍の基礎的地盤が、がっしり構築されたのである。”といった記述がある。河上肇の愛弟子の面目躍如?といったところ。
 この2冊の本は、見た目ほど異質な2冊ではないようである。

追記;
 言うまでもなく?、『巨人軍物語』の表紙をかざっているのは“沢村栄治”。沢村追悼に捧げられた雄姿。



# by kaguragawa | 2018-10-20 20:08 | Trackback | Comments(0)

今日も伏木の海   


 少しガスっているものの立山連峰が射水平野からも見えている!、というわけで今日も伏木へ向かう。伏木駅から十余分、伏木港へ。期待したように、毛勝三山の左に白馬岳、雪倉岳、朝日岳といった後立山の峰々が見える。そして、親知らずの辺りが海に没するところまで見える。
 伏木から見える海越しの、ときには船越しの、立山連峰、後立山連峰の山々を実見せずに、堀田善衛のいくつかの小説の末尾を実感することはできないのではないか・・・。
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 いつもいつも不鮮明な写真で申し訳ありません。しかも、後立山連峰の山は雪倉岳にかかる辺りまでしか写っていません。肉眼では対岸の岩瀬、滑川、魚津の市街地らしきものも見えていました。。。。


# by kaguragawa | 2018-10-13 21:49 | Trackback | Comments(0)

伏木港に入港する汽船。   

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きょうも午前中、伏木へ。船を見ずして、なんの伏木か、というわけで再訪(ほんとの理由は別)。ちょうど汽船が!、外港ではなく内港へ。三ツ浜汽船所属の“きんたい丸”。

# by kaguragawa | 2018-10-08 14:43 | Trackback | Comments(0)

伏木の高台から   

 ほぼ真ん中のギザギザの山が剣岳。その左にポコポコポコと三つの山がかたまって見えるのが毛勝三山。その前面にある横長の高い建物が「ケアハウス万葉の里」。その左の白っぽい建物が「伏木コミュニティセンター」。
その左に写真でははっきりしないが海(と対岸)が見える。その辺りが対岸の滑川から魚津。
 堀田善衞少年もこの高台(一宮台地の北端)から伏木の町並みと、日本海、立山に連なる山々、能登半島を何度も見たはずである。さらには、見えるはずのないシベリアをも・・・。
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# by kaguragawa | 2018-10-06 20:13 | Trackback | Comments(0)

船絵馬? 船模型絵馬??   

 航海の安全を祈り、感謝するために神社に奉納された「船絵馬」。博物館などの北前船展示で見かけるのは、弁財(弁才)船と地元では呼ばれた和船の北前船を描いた船絵馬だが、今開催中の高岡市立博物館の企画展「堀田一族と伏木」展で、風変わりなものを見た。
 和船の絵馬ではなく《蒸気船》の奉納船絵馬。あまり精巧なものではないが、絵ではなく模型の船絵馬、いや船模型絵馬?。伏木古府の古府八幡社に奉納されたものだという。
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追記
 日本海交易の研究者であった高瀬保さんに「航海史を語る遺品 北前船の船絵馬と模型」という論考がある(北日本新聞:昭和50年3月11日)。その稿には、「新湊庄東の白山宮には、汽船の船絵馬がある。県内唯一のものであろう。」とある。
 とすれば、上の古府八幡社の絵馬は、高瀬さんもご存じなかった汽船絵馬ということになる。「新湊庄東の白山宮」とは、現在の射水市港町の白山宮。こちらの方は、模型ではなく、描かれた絵馬なのだろうか?。

# by kaguragawa | 2018-09-29 17:49 | Trackback | Comments(0)

「延暦丸」   

 台風21号のおかげで、早帰り。

 そこで、先日来から何度も熟視している資料写真をあらためて引っぱり出す。“あるもの”が確かに写っている!のだ。再確認。ところで、何度も見たその写真だが、写真につけられた説明は読んでなかった。
 「昭和20年秋、台風を避けて沖合に停泊していた貨物船・延歴丸が錨を切断されて漂流し、激突・・・」とある。ふむふむ。枕崎台風だろうか?。そういえば、テレビで何度も映されている今回の台風で関西国際空港の連絡橋に激突したタンカーと同じじゃないか。が、なにか違和感が。

 なにか、変だ。なにか変だ。

 そうだ、「延歴丸」なんてそんな船はないぞ。これは「延暦丸」の誤植だ。

 風が気になって、外にでると、隣家のおじさんが、「小学校の頃の室戸台風を思い出しますねぇ」、声をかけながら、風雨のなか犬の散歩に出かけていく・・・。

# by kaguragawa | 2018-09-04 17:50 | Trackback | Comments(0)

『夜の森』   

 何か月も堀田善衛の小説『夜の森』と格闘?してきて、ようやく堀田善衛を読む会での報告を終える。予想はしていたことだが、肩の荷をおろした気分にはなれない。

 シベリアから帰った主人公・忠三は満期除隊を迎えると、梅毒に冒された想い人芙美江を引き取り、ともに新たな生を営み始めるのか。憲兵同伴という半拘禁状態で帰国することになった忠三に、それは可能なのか。

 一兵士としてウラジオストックからシベリアに上陸した当初、農家の三男で呉服屋の手代だった忠三は「内地で再び紺の風呂敷包みをかつでまわることはアホらし」く思われ、「満期除隊のあかつきには、ブラジル満蒙シベリアへでも出」て一旗揚げようと思っていたのだ。が、しかし、帰国直前の日記には「満期除隊したら黙って働こう」と記す。彼のうちで何が変わったのか・・・。その彼にはどのような生が用意されているのか・・・。

# by kaguragawa | 2018-07-28 20:13 | Trackback | Comments(0)

原敬は100年前の今頃、富山にいた   

 パソコンの中の伏木関係資料を整理していたら、偶然、100年前に富山を訪れた際の原敬(当時、政友会総裁)の日記と紀行文の写しが出てきたので、掲載しておきます。富山県東部各地の漁村に“米騒動”がおきる数ヶ月前である。
 なぜ、こんなものが手元にあるのか記憶がさだかではないが、文中にある「日方風」が、その原因?であろう。富山独特?の風「ヒカタイ」のことを調べていたとき、富山県を訪れていた原敬の紀行文のなかに「日方風」を見つけ、驚いて写したのであろうと思う。
 今、原典に当たりなおす余裕がないが、日付がだぶっているのは、前半が日記で後半が紀行文「北より南」ではなかろうかと思う。

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大正7年5月4日

 午後8時、上野を出発して富山に向かう。

   送りける春にも遇はん越の旅

5月5日 

 途中で、昨夜大風雨であったということを聞いた。
 午前9時50分富山着、富山ホテルに投宿した。
 富山県知事井上孝哉氏から午餐に招かれた。
 午後、呉羽山公園に往き、四方を眺めた。
 晩に官民会同の歓迎会に出席した。

5月5日

 越後海岸で夜が明けた、昨夜暴風雨であったいうことで、雨は晴れたが、空気がとても冷めたい。

   小袖着て過ぎぬ葉桜茂る駅

 午前9時50分、富山に着いた。井上知事から午餐に招かれた。午後、呉羽山の公園に上って越中の平野を眺望し、夕刻、旅宿の富山ホテルに帰った。

   暮遅き野や蕭然とくれは山



5月6日 

 午前、北信八州大会に出席し、演説をした。
 富山市長から午餐に招かれた。
 午後売薬製造会社(50万円)廣貫堂を一覧した。
 私は出席しなかったが、午後の公開演説会は盛況であったそうだ。晩に我が党の大懇親会を開らき私も出席した。

5月6日

 午前、北信八州大会に出席して演説をした。稻垣市長の午餐に招かれ、午後は有名な売薬製造所である廣貫堂に行って、製薬の有様などを見た。

   薬干す庭に親しむ羽抜鳥

 夕方、大懇親会に出席し、宿に帰ってから更らに井上知事の晩餐に招かれたりして深更まで過ごした。
 この日は、西の風で雨が晴れ、雪を戴く越中の霊峰立山などが見えた。方言で、西風を「日方風」という。

   青葉越しに立山晴るゝ日方風



5月7日 

 午前7時40分富山を出発し、高岡に行き前田2代の廟所である瑞龍寺及び繁久寺を見た。如何にも壮大な墓所であった。伏木港に赴き一覧した。

その後、公会堂での町民歓迎会に出席した。
 高岡に戻り陳列所を一覧し、有志者から午餐に招かれちょっとした演説をした。
 4時17分高岡発の列車で金澤に向った。
 午後5時過ぎ金澤に着、旅宿に行かないで官民合同の歓迎会に出席して演説をした。(出席者170~180名)
 土岐石川県知事から晩餐に招かれた。古今亭に投宿した。

5月7日

 午前7時40分、富山を出発して高岡に着いて、伏木行の汽車を待合せたが、時間があったので、鳥山市長の案内により、前田家2代の当主利長の菩提寺である瑞龍寺に参詣した。
 多くの伽藍は跡かたもなかったが、山門や本堂などは如何にも壮嚴にして、往時を偲ばせるものであった。また、繁久寺にある利長の墓所を見た。

これまで多くの大名の墓所を見たが、このような壮大なものは見たことがない。利長の伝説などを聞き、また墓石の様子などを見て、感慨無量であった。

   樹古りて墓石の寂びや苔の花

 高岡から伏木に行き、港内を一覧し、町の有志から招かれて公会堂で休憩して高岡に帰った。 
 高岡の物産陳列所などを見てから、官民有志の午餐に招かれて演説をした。
 午後4時17分、金澤に向った。
 この地方の農家の周囲には必らず樹木を植えている。これを「カイナ」と称し、家の宝として、容易の事では伐採しないと聞いた。

   傾ける軒にカイナの茂りかな

 金澤に着いたら、官民有志から直ぐに歓迎会に来てほしいといわれ、停車場から旅装のまゝ北間楼に行き、ここでも演説をした。土岐知事等から鍔甚での晩餐会に招かれなどして、10時過ぎ、旅宿の古今亭に入った。



5月8日 

 9時40分金沢を出発し、午後5時過ぎ京都に着いた。


# by kaguragawa | 2018-05-07 21:39 | Trackback | Comments(0)