タグ:黒岩比佐子さん ( 18 ) タグの人気記事   

「竹内紅蓮って、ご存じですか?」(1-2)   

 《竹内紅蓮(たけうち・ぐれん)って、ご存じですか?》――と尋ねられた際、どこかで聞いたことがあるような、見たことがあるような、という程度だったのですが、その後はたと気づいたのは、私がせいぜい名だけ知っている“紅蓮”は「坂本紅蓮洞」のこと。がしかし、“どこかほかでも紅蓮の名は見たことがある…”、その思いは消えなかったのです。そのおぼろげな記憶が間違いなく「竹内紅蓮」であることがわかったのは、net検索でヒントをもらって、実際その名が登場する本にあたってこの目で確かめてようやくのことでした。
 それは黒岩比佐子さんの『明治のお嬢さま』(角川選書/2008.12)に登場している、明治時代の雑誌『女学世界』に「所謂女学生問題」を寄稿している論者の名なのでした。なにを隠そう、坂本紅蓮洞の名を私の記憶に残してくれたのも、黒岩比佐子さんなのですから、どれだけ私の明治時代探訪に黒岩さんが導きの星になっているのか・・・、天国の黒岩さんにお礼を言うしかないのですが。

 話をもどしましょう。「Rさん」によると、明治中期の中央の論壇・文壇で当時ある程度はその名を知られていた竹内紅蓮は、なんと!富山県出身の文筆家だというのです。私にはまったく未知の人である“富山県人”竹内紅蓮(別名:竹内水彩、本名:竹内正輔)。でも、これは地元の富山の近代文学研究・近代史研究にとっても、その名もその事績もほとんど知られていない未知の人なのではないでしょうか。
  この未知の富山県人・竹内紅蓮を資料の中から掘り出されたRさんに敬意を表しながら、かつ、Rさんの記述を紹介しながら、ようやくその事績の一端が見えてきた――それはまだ“ほんの”一端でしょうが、――「竹内紅蓮」のことを少し、ここでも紹介したいと考えています。

 おそらくは、竹内紅蓮は東京で、三島霜川とも親しく交わっている可能性があるのです。

 (続く)
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by kaguragawa | 2013-04-09 18:26 | Trackback | Comments(2)

「三橋亭」「為子さん」「鬼太郎」」のことなぞ   

 徳田秋聲の短編「白い足袋の思出」に名前の出てくる上野広小路の洋食屋「三橋亭(さんきょうてい)」、豆腐料理の「忍川(しのぶがわ)」――ともに現存しない――がかつてあった場所が、ほぼ特定できました。鴎外の「雁」に出てくるやはり上野広小路のこれも有名な「雁鍋」。これも、場所がわかったのですから、心はもう上野に飛んでいます。この辺りは10年ほどまえに行ったきりで、最近は足を運んだことが無いのです。といっても、時間もお金も無い身分ですので、いつかの機会を狙うのみです。
 鴎外の「雁」の背景になっている場所――秋聲「白い足袋の思出」のそれとも重なる――を、文学散歩よろしく歩いてみたいもの。今年の夢(願望)の一つです。

 堺為子――。堺利彦夫人となった人ですが、今日、女性人名事典というような書名の本を幾冊か見る機会があって、偶然目にはいったので、何冊かページを繰ってみました。それぞれにかなり詳しくこのタメ(為子)さんのことを紹介しているのですが、生地の記述が「金沢」のものと、「大阪」のものとがあるのです。育ったのは大阪に間違いはないのですが、生まれたのはどこなのか・・・。実は、堺為子さんのことについては、黒岩比佐子さんと少しばかりやりとりをしたことがあり、為子さんの両親が金沢に住みついたもと大阪の商人であることまでは情報を交換したのですが、為子さんの生地のことについてはお聞きしようと思いながら、聞きそびれてしまいました。そうしたこともふと思い出しました。

 《daily-sumus》で、岡鹿之助のことが取りあげられていて、ちょっと確認したいこともあって、googleのお世話に。
 ・・・無知というか無恥というか、はずかしくも岡鹿之助が岡鬼太郎の子であることを知らずに、いたのです。やれやれ。

 ということで、「知るは喜びなり」という某アナウンサーの語り口を思い出しながら、「知るはガマンなり、知るは思い出なり、知るは冷や汗なり」とあらためて追認した次第。

〔追記〕
 今確認したら、黒岩さんのブログ《古書の森日記》〔2009年秋〕に、堺為子をめぐってのやりとりが残っていました。黒岩さんの「堺利彦を調べ始めてみて、あまりの幅広さと読むべき資料の多さに、天を仰ぐ毎日です。」の言葉が、今になって胸を打ちます。
 http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51697665.html
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by kaguragawa | 2013-01-08 21:13 | Trackback | Comments(0)

お二人の命日に   

 “斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』が手に入るようでしたら、その中にちょっとびっくりする話(三島霜川が風呂嫌いだったという話)が書かれています。拙著では、三島霜川の名誉のために、あえてそのことには触れませんでしたので。”

 5年前、黒岩比佐子さんの『編集者 国木田独歩の時代』が出版された折、黒岩さんが教えてくださった霜川情報です。

 霜川の風呂嫌い。「霜川の名誉のために、あえてそのことには(『編集者 国木田独歩の時代』の中で)触れませんでした」と黒岩さんはそうおっしゃってくださって、故人とはいえ、その名誉に気遣ってくださったのです。が、なんと昨日、黒岩さんのご命日にあたる昨日、同じ口調で、私に「霜川の風呂嫌いがある本に載っているのを見つけました。でもあまりいい話でもないので、お知らせしませんでした・・・」と徳田秋聲の墓前祭の場で教えてくださった方がありました。秋聲のお孫さん、徳田章子さんです。

e0178600_22215025.jpg きのう今年の墓前祭がおこなわれた徳田秋聲の命日は、昭和18年の11月18日。69年前の今日。
 そして昨日11月17日が、黒岩比佐子さんの命日でした。今年が三回忌になります。

 黒岩さんに教えていただいた斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』は今年になってようやく入手できて、風呂嫌いのことだけでなく、もっと興味深い情報を2つ、この本から得ることができました。ところで、この斎藤弔花という作家のこともっと知りたいと思っていたのですが、偶然手に取った『滋賀近代文学事典』(2008)でその晩年のことを知ることができました。秋聲を偲び、黒岩比佐子さんを偲んで、斎藤弔花の晩年を、次項で紹介しておきます。
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by kaguragawa | 2012-11-18 15:37 | Trackback | Comments(2)

霜川に登場する《船蟲村》   

 先日、啄木が評した霜川の短編「悪血」のことを書きましたが、この「悪血」の紹介をしようと思いながら日が経ってしまいました。ところで、この小説の主人公である工夫「鉄」の出身地として書かれているのが奥州・青森県の《船虫村》。実在の地名ではありませんが、この「船虫村」」が登場する霜川の小説が私が知っているもので3編あり、これらにはある共通した話題があるのです。そのことを、書くのに躊躇しているのです。
 と、ここまで書いた今、宅配便で『矢部喜好平和文集――最初の良心的兵役拒否』(教文館/1996.7)が届きました。…充分な準備はできていませんが、思い切って書くことにしましょう。

 霜川の「船虫村もの」(「荒浪」「あら磯」「悪血」)は、「兵役拒否」を一つのテーマとしているのです。なかでも「荒浪」は、日露戦争の真っ最中の1904年11月『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』に発表されたもの。
 「荒浪」の主人公・順之助は、“私は死ぬのを嫌うんじゃないといっているじゃないか。場合によって、私は自分で額に弾を喰わせて死ぬ勇気もある……自分の心から出たのなら、私は平気で死んでみせる。けれども他(ひと)からの命令で死ぬと言うのだから、私は嫌だ!。私の生命は、私の所有(もの)だ。ほかのものには指もさわらせたくない。私は人の権利を主張するのだ。”“私は、戦争が嫌だ。大嫌いだ……嫌な理由は、いつもお前に話しといたはずだ。なにしろ人と人とが殺し合うんだ。”と言い、一旦は入営しますが直後に脱営し、死を選びます。愛する妻の説得が無ければ、当初から入営そのものを拒否していたはずです。
 一方、矢部喜好が兵役拒否のため召集不応の罪を問われ、禁固2か月の判決を宣告されたのが、1905年3月のこと。霜川は、順之助をクリスチャンとしていますから、矢部のそれまでの思想と行動を知っていたとも考えられるのですが、それにしても、実際矢部の手元に召集令状がきたのは1905年2月のことですから、霜川の小説は矢部喜好の行動を予見したような形になっています。
 こうした重要なことが今までの霜川研究でも、戦争と文学の話題でも、日本の良心的兵役拒否の問題でも、指摘されたことがないのです。

 三島霜川は、日本で初めて良心的兵役拒否を宣明した矢部喜好のことを知っていたのでしょうか、それとも、みずからの思想の中から兵役拒否を実行する人物をつくりだしたのでしょうか。それにしてもロシアとの大きな戦争に好戦的な気分が盛り上がる中で、恩人たる義父にも逆らい、非戦の思想を表明して、兵役拒否をした青年――こうした人物を、戦争文学の牙城の雑誌に発表した三島霜川と言う人物は果たしていかなる人物だったのでしょうか。
 ――この問いは、これは多少とも霜川の文学に親しんできた私にとっては、単なる疑問ではなく途惑いに近いものです。正直なところ、問題の重さがわかってくるにつけて、思考停止に近いくらいの衝撃をかかえながら日々を過ごしています。

〔追記〕
 充分な準備もなく、大切な問題を書いてしまいました。「荒浪」のていていな分析も必要ですし、矢部喜好のことも、あらためて調べてみたいと思っています。少し、時間をいただきたいと思います。
〔追記2〕
 『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』(育英舎刊)は、単なる戦争賛美の雑誌ではなかったようである。この雑誌については、このブログの「『日露戦争実記』の霜川」(2010年8月8日)に黒岩比佐子さんに教えていただいたことが書いてあります。ただし、この時点では、私は「荒浪」は読んでいませんでした。黒岩さんも、『日露戦争実記』掲載の「島の大尉」「預言者」という霜川の2作品は読まれたようですが、「荒浪」は読まれなかったようです。
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by kaguragawa | 2012-05-26 20:25 | Trackback | Comments(0)

魔法のような幸福な本   


黒岩比佐子様

 北陸も落葉樹の芽生えがみられサクラの開花が報じられる時節となりました。

 ようやく今日、斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』を入手することができました。三島霜川のことを書いた同時代人の本と言うことでこの本を教えていただいてからもう5年もたちました。遅ればせながら、お礼とご報告をさせていただきます。
 比佐子様はこのように紹介くださいました: 《もし、斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』が手に入るようでしたら、その中にちょっとびっくりする話(三島霜川が風呂嫌いだったという話)が書かれています。拙著では、三島霜川の名誉のために、あえてそのことには触れませんでしたので。》
 比佐子様の『編集者 国木田独歩の時代』を読まれた方は、この斎藤弔花の本が十二分に読みこまれて巧みに活かされていることをご存じでしょう。

 怠惰な私と言えども、そのときすぐに県内図書館の蔵書検索をしたのですが、どこにもなく、県外図書館からの取り寄せの手続きをと思いながら、最近、ようやく、しかしながら思ったよりも安価で古書を入手することがわかりさっそくnetで注文した次第なのです。
 しかもそれが金沢市の古書店だったので、直接店頭で受け取り、心せくままに桜が満開の公園のベンチでさっそく本を開いたというわけです。あらためて見ると、この『国木田独歩と其周囲』、こわれそうな昭和18年の初版本です(再版されてないのかも知れませんが)。e0178600_22374938.jpg
それにしても、昭和18年というみんな目が三角になっていたような時代に、よくもまぁ独歩追憶の一見のんびりした――その実、とても真摯な――本がよく出たものと、驚くよりもなにかウキウキしてきたところに、もう一つ天恵が・・・。
 
 なんと!、霜川の項を読もうと開いたページから目に飛び込んできたのは、「井野辺東海太郎」の名前でした。それは、ここ一か月ほど、なにか手がかりが無いかと探してきた《井ノ辺東海君》のことに違いないのです。
 第一級の霜川情報に心躍らせる一方で、尋ね人にばったり出会えるとは、『国木田独歩と其周囲』の魔法のような幸福な本であることよ、とシンミリ。

 そう言えば比佐子様の集められた幸福な本たちは、神奈川近代文学館に収蔵されることなったとお聞きしました。いずれ、そうした比佐子ゆかりの地で、お会いできることを楽しみにしております。また折々に、アドバイスなどお送りいただければ幸いです。
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by kaguragawa | 2012-04-14 22:41 | Trackback | Comments(0)

黒岩比佐子さんの新盆に   

 この一年の間に亡くなられた方の“新盆”である。

 今、あらためて想うのは黒岩比佐子さんのことである。

 今をときめくノンフィクション作家だった黒岩さんとブログ上で親しく会話をさせていただいたのも、三島霜川ゆえのことだった。国木田独歩と三島霜川の縁がなければ、現役の作家の方のブログに落書きをするなど引っ込み思案の私のよくするところではなかったろうし、その黒岩さんの作品を読むこともないままに終わっただったろう。

 そして黒岩さんとは昨年10月の「パンとペン」の講演会の折に、少し話をさせていただいた。病身での講演会後のお疲れの場であることを思い、ご遠慮しようかとの思いも強かったのですが、“一言だけお礼を”の気持ちで、「かぐら川ですが・・・」と恐る恐る声をお掛けしたところ、驚いたように「かぐら川さん、富山から?」と、かっちりとしたことばがあった。「ええ。一言、お礼を・・・」とのもじもじに、黒岩さんは、すくっと姿勢を正して「本を読んでくださって有り難う。いつも、有り難うございます。」と礼をされたのでした。それは拙い書評やとるに足らぬ資料提供に対するものとしては、あまりにていねいなものでした。私は、どぎまぎしながらあることをお伝えし、作家としての黒岩さんの姿勢に胸を熱くして、その場をあとにしたのでした。

 そして黒岩さんは、一か月後に亡くなられた。黒岩さんとのささやかないくつもの約束をほとんど実行していないのみならず、最後にお約束したことはなんら実行しないままである。今は、黒岩さんの笑顔を思い、頭を下げるのみ。
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by kaguragawa | 2011-08-16 23:37 | Trackback | Comments(2)

「伝書鳩」が飛び立つものなら   

 「満洲のトマス・ウィンと漱石」も「室崎琴月、ある日の東京」も、(1)のままで続稿を書けてないのですが、“美しき五月”の前触れ風に誘われて、またまた街歩きがしたくなって、金沢の大手町(もと殿町、梅本町、中町)、尾張町、彦三町(もと母衣町)一帯を歩いてきました。

 そんなこともあらためて書きたいのですが、半年前ならば、急いで書き込みにうかがっていたであろうあるブログへの報告の形で、見つけたばかりの「情報」を先に書いておきます。(よくおじゃましていた黒岩比佐子(昨年11月ご逝去)さんのブログ「古書の森日記 by Hisako」へのコメントになったはずのものです。)

 “比佐子さま、あの“ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む”で始まる童謡「夕日」の作曲者である室崎琴月さんが――この方は、私の隣市高岡市の出身なのですが、――「伝書鳩」という曲を残しておられることを知りました。作詞者は誰なのか、いつごろの作曲なのか、そもそもどんな歌詞なのか・・・、知りたいところですが、まだ確認できていません。  わかりましたら、またお知らせします・・・。”

  《伝書鳩》は、黒岩さんならではの、歴史に埋もれたものの発掘として公刊された――文春新書『伝書鳩――もう一つのIT』(2000.12) ――探究テーマの一つだったもの、です。

 黒岩さん宛てに、もう一つ、お知らせがありました。
 “比佐子さま、私の友人の酔流亭さんが「冬の時代のたたかいを活写」というタイトルで『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』の書評を書いてくれました。もうお読みかも知れませんが、力のこもったものです。酔流亭さんのブログ上でも読めますのでお知らせしておきます。”

 いろんなことが重なり、気持ちの晴れない日も多いが、正面を向いて一歩前に進みたい。
 ・・・新緑を吹き抜ける凉風が、少し後押ししてくれたように思います。
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by kaguragawa | 2011-04-29 20:33 | Trackback | Comments(3)

大逆事件の死刑執行の日(2)   

 100年前の今日(1月25日)、18日に死刑を言い渡された管野スガの死刑執行。昨日と同じ市ヶ谷の東京監獄。
 管野には、彼女が残された最後の一人であることは知らされていなかったという。

  管野すが   午前8時28分絶命



〔追記〕
 “管野すが”を検索したらば、3年前の黒岩比佐子さんのブログ記事〔2008.1.24〕が見つかった。
 http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51257161.html
 「管野すがの実像はそれかぐら川注:荒畑寒村が『寒村自伝』などで書いている彼女のイメージ〕とはかなり違う。彼女は新聞社で活躍した女性ジャーナリストの草分けの一人だった。死の間際に書いた「死出の道艸」などは、いま読んでも心を揺さぶられる。ある意味では、荒畑寒村がつくり上げた“管野すが伝説”が、彼女の死後もずっとひとり歩きしていたといえる。過去の自伝や回想録などを読む場合や、生きている人に話を聞く場合でも、必ずそれ以外の人たちの証言も調べて裏を取らなければならない、ただ盲信してしまってはいけない、と改めて肝に銘じている。
 さらに、なんと管野すがは、国木田独歩が亡くなる1カ月ほど前に、茅ヶ崎のサナトリウムへ見舞いに行って独歩に会っていた!!
 その事実を知って、私はしばし茫然。すでに国木田独歩の本は出てしまったあと……。もっと早くわかっていたら、と後悔してもあとの祭り。この一件についても書いたので、ぜひ『彷書月刊』〔2008年2月号〕をご覧ください。」
 

 この記事に、私が的はずれなはずかしいコメントを書いたこともすっかり忘れていました。が、さらに怠惰な私は、ここに紹介されている黒岩さんの『彷書月刊』の掲載稿を未だに読むこともせずにいるのです。慙愧に堪えませんが、黒岩さんを偲んで紹介させていただくことにしました。
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by kaguragawa | 2011-01-25 21:02 | Trackback | Comments(5)

年を越えて   

 黒岩比佐子さんのご逝去一か月前の最後の講演のなかでとりわけ心に突き刺さったのは、大逆事件の被告たちの胸の内を思うと眠れない日があったと語られたことだった。

 死刑の求刑をうけた26人はどのような思いで、明治43年から44年への年を越したのだろうか。

 堺利彦が担うことになったこの26人の思いを引き継ぎ時代に活かしていくという課題を、黒岩さんも堺を語ることによってその課題の一端を担われたと言って良いのかと思います。


 今年一年お世話になったみなさん有り難うございました。
 みなさんにとっても来年が良き年であることをお祈りします。
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by kaguragawa | 2010-12-31 23:48 | Trackback | Comments(5)

黒岩さんへ――堺利彦と漱石の「熊本の地」   

 堺利彦と夏目漱石のあいだに直接の面識があったのかどうか私には確かめようがないのですが、黒岩比佐子さんの『パンとペン』が詳細に考証されているように、社会に対する姿勢において二人の間にある種の共感があったようではあります。それ以上のことは黒岩さんも書いておられないのですが、このブログの10月4日〔『堺利彦伝』(中公文庫)拾い読み〕にふれたように、どうもこの二人の間には、共通の友人ともいうべき人物がいたのです。堺の共立学校の同窓で、一方の漱石にとっては大学予備門以来の同窓で親友でもあった中村是公です。少なくとも漱石は中村是公から、「あの社会主義者の堺という男は・・・」という話を聞いていたように思うのです。

 ここでもう一つ、堺利彦と夏目漱石に関わるエピソード、――黒岩さんの言われる“出会いとすれ違い、偶然と必然”――を紹介しておきたいのです。

 堺利彦が大逆事件の後、遺族慰問の旅に出たことすら私は知らなくて黒岩さんの本で感銘深くその事実を知ったのですが、その慰問の旅は、“処刑から約二ヶ月後の1911年3月31日、堺は東京から京都、岡山、熊本、高知、兵庫、大阪、ふたたび京都、和歌山、三重と回り、各地で十四の家族を訪問して5月8日に帰京したのである”(黒岩23P)という一か月余にわたる長いものだったようである。

 黒岩さんは、九州の旅は“熊本で松尾卯一太と新美卯一郎の遺族、佐々木道元の家族を見舞った”と書かれていて、最初に読んだときは深く考えもせずに読んだのですが、先日、この熊本グループの本籍地を調べて以来、あることが気になり始めました。
 熊本グループの中心にいて『熊本評論』発行に携わっていた松尾卯一太と新美卯一太の二人なのですが――ふたりの名前が相似形〔卯一〕なのはともに1879〔明12〕年【卯歳】一月生まれだからです――、だんだんと新美卯一郎についてあることが気になってきたのです。
 堺が訪ねたであろう新美卯一郎の実家は、熊本県飽託郡大江村なのですが、この《飽託郡大江村》という地名を以前も見たことがあったのです。

 ようやく見つけました。岩波文庫『漱石・子規往復書簡集』に、〔下谷区上根岸八十二番地 正岡常規より/熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助へ〕、〔熊本県飽託郡大江村四百一番地 夏目金之助から/下谷区上根岸八十二番地 正岡常規へ〕という、俳句を書き連ねた往復書簡が幾通も収められているのです。

 なんと新美卯一郎の生まれ育った《熊本県飽託郡大江村〔ホウタクグンオオエムラ〕》とは、夏目金之助(漱石)が第五高等学校の教諭として熊本にいたとき転々とした住居のうちの一つ――いわゆる熊本〔第3の家〕――があった地区なのです。新美の実家〔七百五十四番地〕と漱石のいた白川近くの〔四百一番地〕が、ごく近いのかかなり離れているのか私には確かめようがないのですが、もちろん歩いていける距離でしょう。
 そして、漱石がこの大江村の〔第3の家〕に居たのは、1897(明30)年9月から翌1898年4月までということですから、卯一郎18歳のときのことです。卯一郎の年譜の詳細を確認できませんが、彼は熊本尋常中学校(済々黌)を卒業後、上京して東京専門学校(のちの早稲田大学)に入っていますから、漱石の熊本五高への赴任と入れ違いのようです。が、もし、卯一郎が地元の五高に進学していれば、漱石の生徒になっていたはずでもあったのです。
(ちなみに、堺が訪ねた佐々木道元の実家は、これも漱石の熊本〔第5の家〕の近くではないでしょうか。)

 大逆事件当時、大病とその回復期という肉体的に恵まれない状況にあった漱石は、新美、松尾という若者の名は知らぬまでも、彼ら熊本グループと呼ばれる幾人かがその被告人の中におり、彼らの出身地名のなかに「飽託郡大江村」や「玉名郡」「熊本市西坪井町」という10年前の熊本時代を想起させる地名を見つけ、ある感慨をもったと考えてもいいのではないでしょうか。

 その漱石ゆかりの熊本の地を、堺利彦は極刑ののちにもやってきた春盛りの4月に、重い心をいだいて慰霊の旅路として歩くことになるのです。



 
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by kaguragawa | 2010-12-18 19:23 | Trackback | Comments(4)