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高岡駅前の桜馬場のサクラ   

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 一昨年の記事「桜馬場のサクラ事情」(2010.04.03)に勝さんからコメントをいただいて、寒の戻り?(葉桜寒という言葉もあるよし)のなか、高岡の桜馬場に、コシノヒガンが散った後に今満開に近い八重桜を見に行ってきました。
(高岡のサクラに関する旧記事は、この記事下の「高岡」というtagをクリックしていただくと見ることができます。)

 写真を撮っていますと通りがかった老婦人(おばあちゃん)が、「ほんまにきれいやね。あっちの桜散ったら、ちゃーんとこっちのが咲くがやちゃね。」と声を掛けてくださいました。「この桜、なんちゅう名かね?」と聞いてみましたが、案の定「なーん、知らんわえ。」とのこと。

 この八重のサクラ(里桜)が、カンザン(関山)なのかフゲンゾウ(普賢象)なのか、じゅうぶんな知識のない私にはわかりません、それほど花色が濃くないところを見るとフゲンゾウのようにも思えるのですがいくつかの特徴はカンザンのそれのようにも見えます。
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 どななかこの二種の里桜の決定的な差異、その見分けけ方をご存じでしたら、教えてくださるとうれしいのですが。
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by kaguragawa | 2013-04-20 20:23 | 樹と花/植物誌 | Trackback | Comments(0)

桜馬場のサクラ事情   

 季節はたしかに冬から春へと移り変わっているようです。・・・と、書くと何をいまさらと言われそうですが、年をとったせいもあるのでしょうが、やはりまだ風は冷たく日々寒い日が多いのです。そんな中、春を、というより季節の推移を感じたのが日照時間が延びたことです。きょうは晴天だったこともあり、6時半頃まで充分に明るかったのです。

 5時半頃、おっまだ明るいぞ!というわけで、急きょ、高岡で下車して駅前から古城公園に向けて歩きました。駅前の桜馬場通りから古城公園にかけて――かつて「北陸随一の桜の名所」と言われた時代の桜のトンネル状態ではありませんが――街路樹にサクラが植えられているのです。

 レポート風に記録しておくならば;
 駅前から下関町交差点まで〔仮にA区間〕は、2分咲きぐらいでしょうか。
 下関町交差点から古城公園前交差点まで〔B区間〕は大きくつぼみはふくらんでいますがまったく開花していません。
 古城公園前交差点から中川交差点までの古城公園のお濠側〔C-a区間〕はかなり(3~4分)咲いています。道路の反対側〔C-b区間〕はまったく咲いていません。

 〔C-a区間〕は、ソメイヨシノより早く咲く“コシノヒガン(越の彼岸桜)”ですし、〔B区間・C-b区間〕は“ソメイヨシノ”です〔4/10追記:ソメイヨシノは間違いでした。下の追記参照〕。
 謎なのは、かつての「桜馬場」の入り口にあたる〔A区間〕です。樹全体が開きかけたつぼみでピンクに色づいていますが。上に書いたように2ないし3割の咲き加減です。私にはサクラの種の違いを判別する知識はないのですが、ソメイヨシノでないことだけは確かです。枝付きやつぼみがの形状が異なります。かと言って、これがコシノヒガンなのか、その可能性は大きいのですが断定はできないのです。〔4/10追記:これは間違いなくコシノヒガンでした。〕

 どなたか高岡市の植物にくわしい方が偶然このブログを見られることがあれば(その可能性は低いですね)、こうしたことに教えていただければと思います。

 サクラとは直接関係はありませんが、〔A区間〕はサクラだけが街路樹なのではないのです。サクラ1本にクスノキが2本続き、またサクラ1本にクスノキ2本という不思議な構成の並木なのです。これはいったどうしたことなのでしょう。冬期間にまったく緑がないのが駅前としてはさみしいので、常緑樹のクスノキを植えたのでしょうか。まったく謎です。(ちなみに桜馬場通りに続く駅前左側の通りは、クスノキだけの街路樹通りです。)北陸の地にクスノキを街路樹にしているところがほかにもあるのでしょうか。正直なところ、この樹々を意識して初めて見たとき、「えっ、クスノキ!?」と思ったものの、手の届くところまで伸びた枝の葉を一枚もぎ取り、独特の葉脈を目前で確認し、葉をもみしだいて樟脳のようなにおいをかぐまで信じられなかったのです。

〔追記〕
 〔B区間・C-b区間〕のサクラを、ソメイヨシノと書きましたが誤りでした。ソメイヨシノと断定的に書きながらも、まだ花開かぬその樹は、枝ぶりがソメイヨシノとかなり違い、また大きくふくらんだ花芽から深紅に近い濃い色合いの花弁が見えていたので、実は迷いはあったのです。
 今日、満開咲きの〔A区間〕のサクラが、コシノヒガンであることは確認できたのですが、〔B区間・C-b区間〕がまったく開花していないのがほとんどでしたので、ソメイヨシノではないことが判明したのですが、少し花開いたものを見ると濃いピンクの八重咲きのサクラなのです。この八重の桜の種を特定することは私にはできませんので、しかるべき人にお尋ねするしかありません。後日、報告することとします。
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by kaguragawa | 2010-04-03 20:35 | Trackback | Comments(4)

「越の彼岸桜」ちらほらと   

 朝早く特急に乗り込む家人を高岡駅まで送っていったので、ついでに高岡古城公園の北口である小竹藪に車を停め公園を散策しました。早くから散策やジョギングの人のいるものだなと驚いていると、シジュウカラ(四十雀)がツツピー、ツツピーとあいさつを送ってくれました。小竹藪にある筏井竹の門・嘉一の句碑と歌碑を見ることも目当ての一つだったのですが、コシノヒガンザクラの碑というかその説明書きを読みたかったのです。

 以前、高岡駅前の「桜馬場の名称の由来」を紹介したとき、次のような説明がありました。“明治35年(1902)市はこれ〔=桜馬場〕を公園に指定。戦後、増加する自動車の往来に樹勢が衰え、同30年(1955)公園を廃して、残った越の彼岸桜を古城公園に移植した。”
 要は、江戸時代初めに桜馬場に植えられた「越の彼岸桜」は、戦後、古城公園に移植された――ということなのです。その「越の彼岸桜」をどうしても見たかったのです。そしてもう一つ確認しておきたかったのは、この小竹藪のコシノヒガンザクラのなかにさらにその異種で新たに“タカオカコシノヒガンザクラ”と命名されたサクラがあるという昨年聞いた話題についてでした。
 驚いたことに、コシノヒガンザクラはソメイヨシノより早咲きらしく、まだつぼみの固いソメイヨシノの奥にコシノヒガンザクラはちらほらと幾本も開き始めているのです。そしてそのコシノヒガンザクラの中に緑色の識別札をつけられた「タカオカコシノヒガンザクラ」が確かにあったのです。

 富山県中央植物園の説明によれば「コシノヒガンザクラは、エドヒガンとキンキマメザクラの雑種。花は美しい淡紅色で、葉より先に開くのが特徴。「タカオカコシノヒガン」は普及タイプに比べ、花はやや小型ながら数が多く、枝に雪が降り積もるように咲く。花の裏側にある萼筒の膨らみが小型であることも特徴だ。また、葉縁の鋸歯が細かいという特徴も見られる。小竹薮には、幹の直径が15cm以上の古木の「タカオカコシノヒガン」が数十本ある。目印が付けられているので、花見のときに観察してみたい。」ということになるのです。

 最後に、「越の彼岸桜の碑」裏面の解説を書き写しておきます。
 ――越の彼岸桜は、慶長15年(1610年)、砺波郡太田村の宗右衛門(現在の金子家)が高岡城の馬場に献納したものと伝えられています。爾来桜馬場と呼ばれて、北陸随一の桜の名所となりました。この桜は、昭和4年、植物学者の小泉源一博士がコシノヒガンの中間種として、学会に紹介された当地方特有の品種であります。ここに開町360年市制80年の年にあたり市の花木に指定し、広く後世に伝えるものであります。
    昭和44年5月 高岡市長 掘健治


〔追記〕
上記の「小泉源一博士がコシノヒガンの中間種として」の部分は意味がよくわからないのですが、「コヒガンザクラとエドヒガンザクラとの中間種として」とあったのを私が写し間違えたのかと思います。
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by kaguragawa | 2010-03-28 23:55 | 樹と花/植物誌 | Trackback(1) | Comments(1)

“松杉窟”跡に出会った高岡街歩き   

 街歩きは私のかけがえのない愉しみなのですが、思わぬ出会いに心躍らせることもあれば、たまには寂しい思いもすることがあります。きょう午後から、予定外の高岡の街歩きもそんな思いが交錯したものになりました。

 列車の時間待ちに高岡駅を出て、文苑堂書店に立ち寄ったのですが、ここまでに来たのなら久しぶりに高岡大仏の尊顔を仰いで行こうと急きょ予定変更となりました。途中の古書店で貴重な写真の載った『末広町史』(1975)――高岡駅前の広い通りの両側が末広町――を入手、高岡大仏に向かいました。お目当ては二つありました。一つは、大仏の回廊内にある堀田善衛の「高岡の大仏に寄す」という詩を見ること(直筆の書は、本堂に掲額とのこと)。もう一つは、藤子不二雄氏が植樹したという樹を見ること。

 それがどれだけ探してもその記念樹が見あたらないのです。恐る恐る寺の人に尋ねてみると、枯れたとはおっしゃらなかったのですが、“樹のあった場所を指さしながら、黒檀はなかなか大きくならなくて・・・”と、言葉をにごされました。net上で見ることのできた写真には「寄贈 高岡市出身漫画家 どらえもん藤子不二雄 昭和六十一年」と書かれていますから、NHKの「銀河テレビ小説」で『まんが道』がドラマ化されたとき――放映は、1986(昭61)の11月~12月――に、植えられたものだったのでしょう。
 これはやはりとても寂しいことでした。
 (なお、この樹は何の樹だったのでしょう?。net上では紫檀と書かれたものもあれば、ツゲと書かれたものもあります。なお、立て札の説明からは藤子不二雄(藤本弘?)氏が自ら手植えされたものではないように受け取れます。)

  大仏横のお休み処・喫茶「余里道(よりみち)」で、『末広町史』や文苑堂で買った『高岡を愛した先人たち』を読みながら一休みして、高岡駅に戻ろうと桐木町(きりのきまち)の横丁通りに入ったところ、とつぜん目に飛び込んできたものがありました。
 “筏井竹の門・嘉一 父子住居跡”と書かれた小さな立柱碑です。それは昨年、江沼半夏さんの『筏井竹の門覚書』(1990)を読んで以来、探しだしたいと思っていた俳人竹の門の“松杉窟”(しょうさんくつ)という住居跡を示すものだったのです。そしてその住居跡(付近)と思われる駐車場脇には、「筏井竹の門と嘉一父子」の詳細な説明板もあって、そうした碑や説明板を設置された人々の思いに感激して、大仏寺での悲しい思いも癒されたのでした。そしてこの細い通りを駅前の桜馬場通りに抜けたところが先日、藤子・F・不二雄(藤本弘さん)の生家跡近くだったこともうれしいことでした。

 こうして、きょうの予定外の高岡街歩きは、こころ動かされるものとなったのでした。
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by kaguragawa | 2010-03-06 20:44 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(6)

「桜馬場の名称の由来」   

 きのう紹介した今庄ビルの前に――昨日までこのビルの名称は知らなかったので、もとの“秋吉”前と言った方が自分にとってもわかりやすいのですが――、そう言えば“柳”が一本ありました。今、そんなことを思い出したのですが、きのう立ち寄った時、柳の木はあったでしょうか?。なぜか記憶がないのです。
 枯れたのでしょうか、伐採されてしまったのでしょうか。私の思い違いであることを願いますが・・・・。(〔追記〕冬期で、落葉していて存在感がなかったのですが樹は健在のようです。でもなんとなくかつての元気がないような・・・)

 心もとない話ですが、今から思うとその柳があったあたりに、「桜馬場」の説明板があり、きのう書き写したものがあるので紹介しておきます。

 “「桜馬場の名称の由来」 
 桜馬場は、慶長十四年藩主前田利長が高岡に築城するにあたり、藩士の武術鍛錬のために馬場をつくり、桜の苗木を植えたのが、その名の由来とされている。
 明治35年(1902)市はこれを公園に指定し、同42年(1909)皇太子であった大正天皇の北陸巡遊を機に、古城公園と連絡するため定塚町まで通りまで延長し両側に桜を植えた。昭和14年(1939)にこの桜は県の天然記念物に指定されたが、戦後、増加する自動車の往来に樹勢が衰え、同30年(1955)公園を廃して残った越の彼岸桜を古城公園に移植した。”


 (注)句読点の区切りに写し間違いがあるかも知れません。なお、銘板の下に設置者名の「高岡市」と設置時が刻んであったのですが、これが平成9年9月なのか、3年3月なのか、確認できませんでした。

 この桜馬場を、藤子不二雄Aこと安孫子素雄さんは、“季節になると駅前のその通りが満開のトンネルとなる。”、と「高岡の想い出」というのエッセイで紹介していますが、その変貌が昨日紹介したエッセイ「高岡は僕の原点の街…」には次のように書かれています。

 “あの桜馬場はもうない。東京へ出て何年後か、高岡に戻った時に桜馬場は消え、のっぺらぼうなコンクリートの広い道に変っていた。あの素敵な“高岡の象徴”のような桜馬場がなくなったことは、今でも残念でたまらない。”

e0178600_10544849.jpg〔追記〕
 桜馬場通りと柳の写真がありましたので掲載しておきます(高岡市生涯学習センターのHPより)。
 シダレヤナギの左後ろに隠れているのが「今庄ビル」、右後ろが今はもうない「デリカビル(二口ビル)」。
 デリカビルの跡地〔御旅屋町1029〕は、現在空き地になっていますが、ここがもと藤子不二雄Aさんのお住まいになっていた場所です。
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by kaguragawa | 2010-02-28 10:37 | Trackback | Comments(0)

桜馬場の怪?――藤子不二雄Aさん宅の「右隣」   

 かつて北陸本線の高岡駅でも「あんころ」を売っていた。半世紀も前の私の小さい頃の話である。両親の実家のある高岡にお正月や夏休みにやってきては高岡のホームで売り歩いている「あんころ」を買ってもらい、帰りの汽車のなかで竹の皮の包みを開き食べたものである。

 この“高岡駅のあんころ”に思いがけず再会しました。といっても、その歴史的なあんころが復元されそれを食したわけではありません。藤子不二雄Aさんのエッセイの中で出会ったのです。『写真で見る昭和の高岡』(文苑堂書店/2005)に寄稿された藤子不二雄Aこと安孫子素雄氏が、「高岡は僕の原点の街…」という巻頭のエッセイで、こう書いておられるのを、今まで読み飛ばしていたのです。

 “高岡中学校へ進んだ頃、僕の一家は新横町から駅前の桜馬場へ移った。当時、高岡駅前の広場を右に曲がると素晴らしい桜の並木が続いていた。江戸時代から続いていた桜並木の馬場だ。昔の百科事典の「サ」の部に全国の有名な桜の名所のグラビアがあり、そこに高岡の桜馬場の写真が載っていて、しかもそこに僕たち一家が借りた家が写っている。家の向かいは広場で、その奥に高岡商工奨励館があり、右隣に当時“高岡のあんころ餅”で有名だったお菓子屋さん、そしてその横はセントラル劇場(後の大和劇場)という洋画館。駅のすぐ近くで絶好の場所だった。藤本君も僕もすごい映画マニアだった。” 

 桜の名所としての桜馬場はもう存在せず、安孫子素雄氏の家跡も空き地になっているのですが、安孫子氏が、「“高岡のあんころ餅”で有名だったお菓子屋さん」と書いておられる安孫子家の「右隣」(注:向かって左側)の地には現在「今庄ビル」という少し古い建物が建っています〔高岡市御旅屋町1028〕。地元の人には「焼き鳥の秋吉」がかつて入居していたビルといえば、「ああ、あそこ」と合点されるでしょう。
 それにしても、これは偶然なのでしょうか。かつてあんころをつくり高岡駅などでも商っていた人(今庄商店?)の店があったところに、今高岡駅で麺類を商っている人(「うどん・そば今庄」)と同じ名前を付けた《今庄ビル》が建っているのです。和菓子屋の今庄さんが、めん屋の今庄さんに商売替えをされたものの、その実家は安孫子少年の時代からずっとそこにあるということなのでしょうか。。。
 蛮勇をふるって今度は《今庄ビル》にお住まいの今庄さんにお聞きしてみましょうか。

〔追記〕
「高岡の元祖」というページに;

 ・高岡初の駅構内販売――桜あんころ(今庄)―― 1970(M45)/4
 ・高岡初の駅構内の「うどん・そば屋」――花より軒(今庄) ――1918(T8)/1

と、あるのを見つけました。(注:年代表記は錯誤があるようです。)
 高岡駅のあんころは「桜あんころ」という名前だったようですね。〔桜の名所・桜馬場のあんころ〕の意なのでしょうね。蛇足ですが、高岡駅の現在の「今庄」は、――同じ北陸なので混同されている向きもあるようですが――福井の「今庄そば」とは関係がありません。さらに蛇足ですが、「うどん・そば今庄」の謎のチャンポンはお薦めの一品です。
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by kaguragawa | 2010-02-27 20:59 | Trackback | Comments(0)

藤子不二雄の住居跡辺りを歩く   

 堀田善衛展の帰り道、定塚小学校近くの町の食堂という雰囲気のうどんやさんに入ったのは1時半少し前だったでしょうか。テレビではカーリング女子のイギリス対日本の試合が実況中!。このけったいな(失敬)スポーツ、ルールを聞いてもよくわからない・・・。と、思っていたのですが、今日は違いました。試合の展開が手に取るようにわかり、かなり年配のお店のご主人も奥さんも、客が私一人だったこともあり、手を休め客席にかけてテレビの画面に釘づけ。私の方も食べ終わった後も惹きこまれて席を立てず、繰り出されるミラクル・ショットの応酬を観戦させていただきました。

 まさか試合終了まで見続けるわけにもいかず、第6エンドの区切りで、奥さんに声をかけました。勘定を済ますと、このタイミングでどうかなと迷いながらも、当初からのねらいであった“ある質問”をしてみました。「この近くに藤子不二雄さんの生まれた家があるって聞いたんですが、どの辺りですか?。」
 このお店の雰囲気からある程度予想していた答えが返ってきました。「よう聞かれんがやけど、なーん知らんがいちゃ。たしかこの向こうの通りだと思うがやけど。」そして、「あんた、知っとっけ?」とご主人に。ご主人も「やっ、知らんじゃ。」
 (「追記」私が生家跡と思っていた定塚町旧4丁目は、小学校時代を過ごした場所ではあるようですが、生家跡ではないようです。)

 店内には藤子作品のキャラクターなど見当たらず、このご夫婦の無関心ぶりは予想でき、うまく言えませんがそれが私にはなんとく嬉しくもあったのですが、さらに私を嬉しくさせ、わくわくさせてくれたのは、奥さんの次の一言でした。おつりを手渡しながら奥さんは私より先に店から半身を出して、「向かいのNさんに聞いてみたげっちゃ。NさんとこのAさん、藤子さんと同い年だからね。」
 先にご夫婦の無関心と書きましたが、それは一見の観光客、物好きと違う、近所なればこその平常であり、もちろん無視ではなかったのです。「Aさん前にテレビにも――(注)もちろん藤子不二雄関連の番組でしょう――、出とらはったからね。」
 ここで、念のために書いておきますが、ここで藤子不二雄と書いているのは、〔藤子・F・不二雄〕こと“藤本弘さん”の方です。

 というわけで、藤子不二雄の住居跡と思われる場所を確認し、古い屋並みも少し残る定塚町をぬけて高岡駅に向かったのでした。近所に声をかけ、途中まで案内してくださったA食堂のおばちゃん、有り難うございました。

 〔追記〕
 たとえば「藤子不二雄+定塚町」で検索すると、住居跡?の写真などいくつも見ることができ、どのサイトも(わりと新しい記事も)場所を「定塚町4丁目」としています。が、かなり前に、この辺りは丁目表示がなくなって――町内会組織としては旧丁目は生きているはずですが――現在地は、「定塚町6番●号」という住居表示となっています。(余談ですが、実はこの辺りは幼少の頃遊んだことのある個人的に思い出のある土地です。が、食堂のおばちゃんおじちゃん同様藤子さんのことは意識したことはまったくなかったのです。)

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by kaguragawa | 2010-02-20 23:42 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ   

 書こうと思うことがあるのに、書く気力のない日が続いています。まぁ疲れのせいでしょうか。

 順不同で、項目だけメモしておきます。

 ・佐藤紅緑が、明治31~32年、「富山日報」の主筆として富山にいたことがあるって!?。

 ・高岡市守山町の“赤レンガの銀行”(かつての高岡共立銀行。現:富山銀行本店)は地元の方ならご存知のもの。なんと近く御馬出町に対の?「白レンガの銀行」もあったのです。残して欲しかったですね。

 ・河東碧梧桐は、全国行脚の意「三千里の旅」で紀州に南方熊楠を訪ねているのですが、その折、熊楠が正岡子規、秋山真之と東京大学予備門の予備校として共立学校で同級だったことを語りだすのです。やぁ驚きました。碧梧桐のこうした旅行エッセイをどこか復刻してくれる出版社がないものでしょうか。
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by kaguragawa | 2009-12-02 23:30 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

河東碧梧桐!?   

 河東碧梧桐をgoogleで検索していたらば2年前に自分の書いたものを見つけていささか驚きました。renqingさんのブログ「本に溺れたい」に書かせていただいたコメントです。このころ、子規と漱石の往復書簡を読んでいた記憶があるのですが、碧梧桐のことは、最近、興味を持ちだしたばかり(と思っていた)のですが、不思議です。そのまま写しておきます。
 http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/06/post_e111.html

 “碧梧桐は河東静渓の五男ですが、――正岡常規(子規)は松山中学に入学した年からこの静渓に漢学を学んでいます――三男の鍛(竹村鍛の名で私の今読んでいる子規『筆まかせ』に頻出)や四男の銓も子規の友人ですね。愉快なのは、子規が明治22年7月に松山に帰省した折に、6歳年下の碧梧桐にキャッチボールを教えてまず野球の弟子(子分?)にしてしまっていることです。
 (この年の年初から漱石との交遊始まり、5月には喀血して時鳥の句を作り子規と号すようになっていますから、この年は「子規」誕生の記念すべき年です。)

 碧梧桐が訪れた高岡と当時の高岡の俳壇事情については、いずれまた。”
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by kaguragawa | 2009-11-21 23:39 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

えっ、そんなことが・・・!   

 日本国憲法の制定過程を調べようとした場合、まず第一に参考図書として挙げられるのが佐藤達夫氏の『日本国憲法成立史 (全4巻)』(有斐閣)だと思います。なぜならば佐藤達夫氏こそ当時の法制局部長~次長として、GHQとの交渉にもあたり現憲法の起草にも担当部局の現場担当者として関わった人だからです。そして後に法律立案の専門家として内閣法制局長官、人事院総裁を勤められることになります。私が法律専門官僚としての佐藤氏の名前を多少なりとも知っているのはそれなりの理由があるのですがそれはともかくとして、そんなことより、『植物誌』という著作もある筋金入りの植物愛好家としての方が私には親しい存在の方でもあります。(北原白秋に師事した歌人でもあることは、今日知ったことですが。)

 ところがです、きょう、思いがけないところでこの佐藤達夫さんの残された本の数々に出逢うことになりました。場所は高岡市立図書館の「佐藤家著作物コーナー」。「佐藤家」の著作物コーナーに、佐藤達夫さんの本があるのは当たり前のようで、まったくあたり前のことではないのです。佐藤達夫さんが富山ゆかりの人だとは聞いたことがありません。私にはこの佐藤著作物コーナーの前でしばらく茫然としてしまいました。
 なぜなら、「佐藤家著作物コーナー」は、佐藤孝志「前前・高岡市長」のコーナーのはず?であり、そこに佐藤達夫さんの憲法や法律の本、植物画集、歌集それに加えて達夫氏夫人雅子さんの料理エッセイなどがあるのは、前・前市長が達夫さんのごく近い縁戚であることを物語っていることになるのです。あわてて手に取った前・前市長の随筆集には、佐藤達夫さんが孝志さんの岳父にあたられることがしるしてあったのです。まったく「想定外」の両佐藤氏の取り合わせでした。

 法律の話題も、花の話題もまったく色褪せていない昭和37年刊行の佐藤達夫氏の随筆集『土曜日・日曜日』の紹介をしようとして前書きが長くなってしまいました。いずれまた。
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by kaguragawa | 2009-10-03 23:56 | ひと | Trackback | Comments(0)