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上柿木畠の時空散策(1) 『金沢・柿木畠』の中川富女   

 上柿木畠に住んだ有名な俳人に中川富女という女流俳人がいます。
 明治十二年(1879)生まれです。本名は富といいました。竹村秋竹の啓発を受け俳句の道に入ったそうです。正岡子規は、中川富女を加賀の千代以上に詩材が豊富であると賞讃したそうですから、相当な俳人だったのでしょう。
 明治三十一年秋竹とともに子規庵を訪れています。明治三十四年、東京にいた伯母の料亭に寄寓してからは不明です。彼女の作品は『ホトトギス』、『めざまし草』、『日本』などに収められています。擬古文も巧みでした。
 彼女の一句

 わが恋は林檎のごとく美しき



 ・・・以上の引用は、『金沢・柿木畠』(柿木畠振興会/1992.3)からです。きょう入手したばかりの本ですが、以前、石川県立図書館で目にしたことはあり、金沢市のこの地を流れる鞍月用水と厩橋のことを知りたくていつか借り出したいなと思っていた本なのです。偶然にも、今日、古書店で見つけ、そこに《中川富女》の名を目にし、1500円の値札に迷わず買いました。
 それにしても、この本に、中川富女のことが書かれていたとは思いもよりませんでした。富女のことを調べていたとき、そういえば、、柿木畠(かきのきばたけ)に住んでいたことがあるということを知り、いったいどのあたりなのだろうと思ったものの、手がかりもなく、そのままになっていたのでした。

 ついでに言うと、この柿木畠の次に中川家とその下宿人・竹村秋竹が移り住んだ「塩川町」のあたりは訪ね歩いたことがあるのです。その街歩きのことを、わたしの入手しえた秋竹・富女情報とともにこのブログにも書いたはずと思って探してみたのですが、見つかりません。そう言えば、別の日に夏目漱石の友人・米山保三郎の生家跡を本馬町に訪ね歩いたことも記録に残してないのです・・・。

 そう言えば、書こうと思いながら、時間がうまくとれなくて、あるいは、パソコンを家人に専有されていて、書かないままになったことがほかにももっとあったはずです。
 そうそう、柿木畠についても、書こうとおもっていたことがいくつかありました。そのことに関して『金沢・柿木畠』に確たる情報が記されていると思います。本が手元にあるうちに、少し調べて書いてしまいましょう。
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by kaguragawa | 2011-02-12 16:35 | Trackback | Comments(2)

夢二と金沢人〔土岐僙、小竹幾久枝〕   

 歴史的事実の「発見」とは、いうまでもなく「発明」ではなく「発掘」でしょう。そういう意味で、歴史のなかに埋もれてしまった事実を見つけ出す作業は苦労もありますが愉しいものです。

 ヒントは「無窮会」にありました。金沢出身の司法官僚・河村善益のことを調べていて突き当たったのが、河村善益の盟友・平沼騏一郎がその基礎をつくった「無窮会」でした。平沼が受け継いだ神道・国学の碩学・上賴囶の遺した膨大な蔵書がこの会の物的基礎であったとすれば、西大久保にあった平沼邸に集まった国運を憂える人たちがこの会の人的・精神的基礎になったと「無窮会」のHPの「沿革」に記されています。
 平沼邸に集まったこの平沼グループともいうべき人たちの一人が、河村善益だったのですが、そのグループには私にとって意外な名前があったのです。《土岐僙》――、上京直後の竹久茂次郎(後の夢二)が寄宿させてもらっていた渋沢系の銀行家です。

 竹久茂次郎(夢二)のこの寄宿時代に「小竹幾久枝」という金沢出身の女性と出逢っていることも、先日書きました。どうも竹久茂次郎が寄宿先の土岐家から頼まれて小竹家に届け物をした際、小竹家の――といっても母娘だけの世帯ですが――幾久枝さんと話をし、次第に親しくなったようなのです。そして茂次郎はその裏面に告白文?を書いた「写真」をその幾久枝さんに贈ることになるのです。

 3週間前この写真の記事を書いた直後、この女性の名前「小竹幾久枝」を検索してみて、予想も期待もしてなかった、いや想像もしていなかった「小竹幾久枝」さんに関する詳細な報告記事を見つけました。幕末維新期の金沢における小竹家に関する興味深い記述がそこには書かれてあったのです。剣町柳一郎さんのHP「剣町柳一郎の本棚」のエッセイ欄です。
 さっそく連絡を取らせていただいて多くのことを教えていただいたのですが、土岐家と小竹家がどのような関係だったのかについて、剣町さんも不明とされながらも、土岐家も金沢の出身ではないかとのサジェスチョンを与えていただいたのです。

 夢二と出逢い妻となった女性・岸たまきだけでなく、はたち前の放浪時代に知り合った小竹幾久枝も金沢の出身だったというだけで私にはショッキングなことだったのに、上京直後の縁故のない東京で寄宿させてもらった土岐僙も金沢の出身だったなどというのは、あまりに話が出来過ぎています。しかし母娘だけで東京に出てひっそりと暮らしていた小竹家とつきあいのあった土岐家が、出身地〔金沢〕を同じくする士族であったと考えることは合理的でもあります・・・。

 しばらく途方に暮れていたのですが、そのとき出会ったヒントが「無窮会」だったのです。その創立期のメンバーにはなぜか金沢出身者が多いのです。先に書いた河村善益のほかにも北条時敬、織田小覚、早川千吉郎 、そして井上友一・・・。
(実は、北条時敬以外、三井系の経済家・早川千吉郎、日露戦争後、地方改良推進運動を推進した内務官僚でのちに東京府知事となった井上友一が金沢の出身であることを今確認して驚いているところなのです。)

 そして、今現在、具体的な資料で確認はできてないのですが、土岐僙も金沢の士族出身であることもほぼ確かとなったのです。ささやかな歴史的事実の発見です。
 (この点の報告は、後日)

 夢二の東京での生活の端緒にあったのも土岐僙、小竹幾久枝という金沢出身の人間でしたし、夢二式美人のモデルともなり夢二を世に出した妻・岸たまきも金沢出身でした。さらに夢二の生き方の一つの転換点になった大逆事件にも土岐僙と親しい金沢出身の河村善益が関わっていたとすれば、夢二の人生は金沢の不思議につながった人脈に彩られていたと言うしかないのです。

 というわけで、ささやかな歴史的事実の「発掘」を愉しんだ次第です。
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by kaguragawa | 2011-01-29 01:26 | Trackback | Comments(3)

『室生犀星句集』   

 読みたいと思って買った本、借りた本がたまってしまっている。

 にもかかわらず片づけものをしていたときに出てきた『室生犀星句集』をついつい開いてしまう。

    雪 み ち を 雛 箱 か つ ぎ 母 の 来 る

 関東大震災で帰省中の作。犀川の土手道を老いた養母ハツが古雛を背負ってやってくる。
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by kaguragawa | 2010-03-05 23:12 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

《竹村秋竹》   

 街角ですれちがった人。“あれっ、あの人どこかで逢った・・・”と思うことがあります。岩淵喜代子さんの『評伝 頂上の石鼎』を読んでいてやはり同じような思いをしました。

 原石鼎(本名・鼎)の簸川中学校時代の寄宿先でもあった教師の竹村秋竹(本名・修)の名です。「余の句好きなるかどをもつて、新任の竹村先生にもとめられ、其許に寄宿す。」(自筆年譜)とあって、そのあとに、鼎の「山陰新聞」への初投句〔1903(明36)年〕や俳誌「草笛」などの話題に《竹村秋竹》の名が出てきます。そのときは、ちょっと目がとまっただけなのですが、あとで、はて竹村秋竹・・・?と気になってきました。

 話は飛びますが、後に詩人として知られるようになる室生犀星の文学出発も俳句でした。(新聞への俳句デビューということで思い出したのです。)こちらは1904(明治37)、「北國新聞」の句掲載です。地域によって違いはあったでしょうが、正岡子規の死後まもない頃ですが彼の影響をうけた俳句運動の新しい流れが前面に出始めた時代といえるのではないでしょうか。

 (俳句の歴史に詳しくない者がこんな話を続けるのは無茶と思いながら、多少続きを書かさせてもらうことにします。)

 犀星は金沢地方裁判所の給仕!として働きながらその上司であった川越風骨や赤倉錦風といった人に俳句の手ほどきを受けたのですが、こうした人々の結社的存在であったのが子規系の《北聲会》でした。当時の指導者は第四高等学校(四高)の教授であった藤井紫影(のち大谷繞石)。――そんなことをたどりたどり思い出していて、ここで、“あっ、そうだった”と思わず記憶のピントが合ったのです。
 この《北聲会》を興した人こそ、当時〔1897(明30)年4月〕、四高の学生!だった松山生まれの「竹村秋竹」だったのです。
(つづく)

〔追記〕
 続稿がいつ書けるかわからないので先取りして言っておくと、犀星と秋竹との間に面識はありません。犀星が俳句に目覚める前に、北聲会の発足の3か月後〔1897(明30)8月〕に、秋竹は東京帝国大学英文科に進学して金沢を去ってしまうからです。
(確認はとれていませんが、年次からいって秋竹は英文科でハーンの教えを受け、帰国後講師となる漱石の顔は見ないまま卒業し、初任地の島根県簸川中学校〔当時、島根県立第三中学校に改名済みか〕に赴任し未来の石鼎〔原 鼎〕と逢うことになるようです。ただし、卒業年次と赴任の年の間に数年間ブランクがあるようです。)
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by kaguragawa | 2009-11-03 21:19 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

11月朔日のメモ   

 11月1日、朔日(ついたち)――しかも1が三つ並ぶこの朔日――に生まれたので、“朔太郎”と名付けられたのが、萩原朔太郎。

 昨日、犀星記念館で恩地孝四郎が装幀にかかわった朔太郎の詩集『月に吠える』も見てきました。初版である「感情詩社版」(1917)の発行人は室生犀星であり、内務省からの発売禁止の交渉にあたったのは犀星のはずである。
 そもそも当局に目をつけられたのはこの装幀の怪しい雰囲気にあったらしい。夢二を慕う三人〔恩地孝四郎(1891~1955))、藤森静雄(1891~1943)、田中恭吉(1892~1915)〕が、出していた版画作品雑誌「月映(つくばえ)」を見た朔太郎が、「感情」の同人であった孝四郎を通して田中恭吉に装幀を依頼、完成を見ずに亡くなったため、孝四郎が田中恭吉の遺作もつかって装幀をしたものという。

  *萩原朔太郎 1886.11.01~1942.05.11
  *田中恭吉  1892.04.09~1915.10.23

〔追記〕
  『月に吠える』の出版の経緯
     http://www.lib.meiji.ac.jp/openlib/issue/kiyou/no3/pdf/tsuki3.pdf
  萩原朔太郎 「故田中恭吉氏の芸術に就いて」
     http://www.bekkoame.ne.jp/~poetlabo/AOSORA/tsukini/tanaka.html


 11月1日は、橘智恵子の命日でもあります。
 
 石川啄木が北海道を転々とし出会った人々のなかで宮崎郁雨、橘智惠子に共通するのが、宮崎家も橘家も北陸から北海道に渡った人々であること。宮崎は新潟県、橘は富山県。
 『一握の砂』で二十二首を捧げられた橘智恵子も34歳の若さで亡くなったが、遺品として啄木の詩集『あこがれ』と歌集『一握の砂』が残されていたという。橘智恵子については、あらためて報告する機会をもちたいものと思っています。

   *橘 智惠子 1889.06.15~1922.11.01


〔追記〕
 犀星や朔太郎、さらにその作品の装幀の関わりで言うと、明日11月2日は、北原白秋と広川松五郎の命日になります。

   *北原白秋  1885.01.25~1942.11.02
   *広川松五郎 1889.01.29~1952.11.02
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by kaguragawa | 2009-11-01 21:09 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

10月晦日のメモ。   

 いずれそれぞれのことは、それぞれに敷衍して書きたいと思っていますが、とりあえずの記録です。

 ・犀星の詩「寺の庭」に詠われている「石蕗(つわぶき)」。きょう訪れた雨宝院にいまも静かに咲いていました。 e0178600_151238.jpg先週、我が家の庭に石蕗を見つけて以来、“つち澄みうるほひ 石蕗の花咲”く寺にこの花を見に行きたかったのです。

 ・せっかくここまで来たのだからと近くの室生犀星記念館にも足を運びました。企画展「装幀の美 恩地孝四郎と犀星の饗宴」。思いがけず、恩地孝四郎が手がけた「感情」の表紙絵やデザインを何点も目にできたのが、幸いでした。
 その犀星記念館で、先日(10/18)紹介した犀星が妻とみ子に捧げた「とみ子発句集」中の一句を目に目にすることができました。
 “おもゆのみたべをへしあとのいく日ぞ”  病床で死を予感しつつ詠んだ句とのこと。

 ・さらに足をのばして“龍昌寺跡”付近へ。思いつきの下調べもないままの散策で、その正確な場所をつきとめることはできませんでした。(帰宅後地図をみたらば、寺の跡地は安閑寺の北隣りでそこは確実に歩いた場所でした。)
 今は能登の輪島に移った、かつて金沢では猫寺として知られていた寺ですが、この寺もとは小松にあった寺でなんと芭蕉が「おくのほそ道」の途次に泊った寺だったのです。(曽良の日記に「立松寺」として記録。)

 ・帰宅したら岩淵喜代子さんの『評伝 頂上の石鼎』(深夜叢書社/2009.9)が届いていました。ちょっとこの本との機縁を書いておきたいのですが、それはあらためて。さて、いつどこで、どうやって読むか。
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by kaguragawa | 2009-10-31 20:19 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

堺利彦の妻・為子(『加能女人系』より)   

 岸他丑や、同じく林えり子さんの本『竹久夢二と妻他万喜』で金沢との縁を知った堺利彦の再縁の妻・為子について、資料から知りえたことで書き留めておきたい断片がいくつかあるのですが、支離滅裂になりそうなので後日とします。ただし印象に残ったことの一つをメモしておきます。

 古い資料ですがに北国新聞夕刊の連載(昭和46年)をまとめた『加能女人系』という加賀能登の女性を時代に沿って素描した本があるのですが、ここに「延岡姉妹」の項があります。上に述べた為子とその妹・節子を紹介したものです。新聞記事らしい掘り下げの浅さ(失礼)と不正確さは残念なのですが、当時まだ存命であった堺利彦の娘・真柄さんへのインタビューは貴重な証言です。

 “為子は昭和三十八年、八十六歳で病死したが、義理の娘の真柄さんにきびしい教育をした。。e0178600_15585476.jpg
「父が監獄に入れられているときです。私が七つ八つぐらいのときでした。夕立がきて雷が光った。私がおっかながったので、母が窓を開けて“さあ落ちていくのを見てみなさい。このくらいのことなんですか。耐えなさい”って、きびしい表情をみせました」と真柄さんは述懐する。弾圧に耐え得る人間に――ということであったらしい。”


〔追記:1〕  *写真真ん中が、堺為子と真柄(下)。
 イギリスの独立労働党の創設者で党首であったケア・ハーディ(Keir Hardie/1856~1915)が、1907(明40)年8月に来日した際の記念写真から

〔追記:2〕
 堺為子(延岡為子)の生年表記を〔1872.5.19〕としたものがあるが、彼女は明治5年5月19日(当時旧暦)の生まれのはずで、没年も併せて現行のグレオリウス暦で表記するとすれば、〔1872.06.24~1959.01.02〕である。真柄は、1903.01.30~1983.03.18〕であり、この写真当時の為子は35歳、真柄は4歳半である。
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by kaguragawa | 2009-10-23 01:02 | ひと | Trackback | Comments(0)

『竹久夢二と妻他万喜――愛せしこの身なれど』   


 竹久夢二とたまき、といえば定番ともいえるのが林えり子さんの『愛せしこの身なれど』。読もうと思った時は絶版、図書館でと思ったのですが、しばらく夢二から遠ざかったていたのでそのままになっていました。一昨日、《岸兄妹の「つるや」と夢二》を書いたとき、この本がウェッジ文庫で再刊されているのを知り、――『竹久夢二と妻他万喜――愛せしこの身なれど』(2008.4)――netで注文したらば、もう今日、届きました。

 ていねいな取材にもとづいて細かなところまでデータが書き込まれていて、研究書の顔ももった竹久夢二とたまきの評伝です。たとえば他万喜の生まれた場所を、金沢市「味噌蔵町下中町三番地の一」(*)とおそらく戸籍に拠ったと思われる表記で紹介しているのがその一例です。

 実は、この「ウェッジ文庫」というものを、今年の夏、犀星の『庭をつくる人』を入手して初めて知った次第で、これが私にとって2冊目の「ウェッジ文庫」となりました。実は犀星の本もそうなのですが、安易に読み飛ばすのがもったいような本がそれにふさわしい装丁で復刊されていて、“ゆったりとしたこころの余裕をつくってから読みたい”と、この本も犀星もしばらくしまっておきたいと思っています。

 *「三番地の一」の場所が特定できるかどうかが次の課題ですが、この資料によって、かなり広い旧・味噌蔵町から範囲をしぼって他万喜の生まれた地の付近を訪れることができそうです。ただし、たまきが生まれた1982(明15)年当時、まだ金沢「市」が誕生していなかったことは措くとして、「下中町」は「下中丁」が正しい町名表記であることを注記しておきます。
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by kaguragawa | 2009-10-12 21:15 | 本/映画 | Trackback | Comments(2)

岸兄妹の「つるや」と夢二   

 まさかと思うような情報が、net上には存在しているものだ。

 岸他丑(きし・たちゅう)の生没年月日などどんな本をひっくり返しても書いてないだろうと思っていたのですが、財団法人・日本出版クラブのHPに出版に携わった先人を顕彰する「出版平和堂」の紹介コーナーがあり、その「合祀者名簿」中に、大橋佐平や岩波茂雄らの名前にまじって《つるや書房店主/ 東京図書雑誌小売業組合組合長 》として、“岸 他丑”の名があるのです。
 
 そこには、〔M11.10.26/S31.3.21〕と記されていますから、他丑は、1878(明治11)年10月26日に生まれ、1956(昭和31)年3月21日に亡くなったことがわかります。他丑の一生など今まで考えたこともなかったのですが、彼は「東京図書雑誌小売業組合組合長」も務めているくらいですからずっと本屋として一生をまっとうしたようなのです。

 《岸 他丑》の紹介もしないまま書き始めてしまったのですが、彼は竹久夢二の最初の妻「たまき」(戸籍名:他万喜)の兄なのです。e0178600_23461093.jpg
 岸たまきは、最初の結婚を夫・堀内喜一の死(1905.9.23)によって終え、東京九段下の飯田町で「つるや書房」を開いていた兄を頼って富山から上京し、兄の助力によって早稲田鶴巻町に兄の姉妹店“絵はがきや「つるや」”を1906(明39)年11月1日に開店するのである。そして開店5日目、11月5日に、この店に自作の売り込みにふらりと現れたのが若き日の名もなき竹久夢二だったのである。
 翌年の1月には、夢二の投稿先であった「平民新聞」に二人が結婚したことが報じられているが、その後の夢二式美人画の誕生と夢二とたまきの愛憎劇は夢二ファンの方にはおなじみだと思う。

 なお、夢二の「月刊夢二エハガキ」などは兄の「つるや書房」(麹町区飯田町二丁目六十一番地)が発行元で、夢二と他丑のこの関係は夢二とたまきが完全に破綻したあとも続いていたようである。

 *岸他丑   1878.10.26~1956.03.21
 *岸たまき  1882.07.28~1945.07.09
 *竹久夢二  1884.09.16~1934.09.01

〔追記〕
 金沢味噌蔵町生まれで富山にも大いにゆかりのある岸他丑・他万喜兄妹については、その父母・六郎、順についても勉強の上いずれまた。
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by kaguragawa | 2009-10-10 20:19 | ひと | Trackback | Comments(7)

秋の凉風の「ひがし茶屋街」   

 リュートの奏でるバッハの作品がかすかに聞こえてきて、たしかに知っている曲なのですがどの曲と特定できずに、でもあらためて聞きたいと思いその曲の覚えにノートにその特徴的なメロディを書き留めていると、すずしい風が店前の格子から吹き込んできました。リュートの音色とも、秋の凉風とも似合うその曲は、ゴールドベルク変奏曲の一節だったのですが、まさにこの9月の金沢の「ひがし茶屋街」の一角に吹き込んでくる風は、秋声の中編小説『挿話』にもそよいでいる風だったのです。

 『挿話』は、兄の病気見舞いに訪れた金沢での3週間ほどをその滞在先の茶屋街の知人姉妹の店での人間模様とともに描いた作品です。秋声は、東京に大震災の起こるまさに大正12年9月に姪の結婚をまとめるために金沢に来ていて、ちょうど1年後の9月にも一時危篤にもなった兄・順太郎を気遣って金沢に来て、滞在先として遠縁の女性清川イトの茶屋の離れで過ごすのです。
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 以前から秋声がこのとき滞在した店が茶屋街のどのお店なのか知りたいと思っていたのですが、立ち寄った「茶房一笑」で「挿話」を拾い読みするうちに今日こそはと思い立って、路地をぬけて間近の「徳田秋声記念館」でその店の場所を聞きいてきました。それはなんと茶屋街の広い通りに面した直前までくつろいでいた「一笑」の2軒隣の――現在は民家の――家だったのです。

 この茶屋街については、かつてこの地を斜断して流れていた卯辰山からの小流れ「矢の根川」の現在の流路も知りたかったのですが、その手掛かりをつかむことができました。なんとあの銘菓で知られる森八の出店「文政の菓子司〔東山1-13-9〕」前の細い小路の下を斜めに横切るその流れを舗装ブロックの色を変えて示してあるのです!。
(続く)  

〔追記〕
「矢の根川」について書いた過去の日記から;

■2007/10/02 (火) 卯辰山の“矢の根川”

 暗渠化されてしまった――かつては生活の中にとけ込み、生活の中に生きていたと思われる――川を見つけると気になって、その流路を追ってみたくなります。
 暗渠化にともなって流路が変えられていることもあり、古い地図を探しだして現在の地図と比定したり、現地を歩きまわって旧水路の名残をさがしたり、暗渠の入口や出口を確認したりと怪しげな散策をすることにもなります。
 今、金沢の卯辰山の谷筋に源をもち、東の廓(ひがし茶屋街)を横切るように流れ、浅野川に流れ込んでいた「矢の根川」のことが、その名の由来とともに気になっています。
 *「矢の根」とは、矢の先につける「やじり(矢尻/鏃)」のこと。
 http://www.aoi-art.com/yanone/etc02-j.html
 http://www9.plala.or.jp/vintage/knife.html

■2009/05/03 (日) ちょっと金沢

 連休とあってか、ひがしの茶屋街にはさらに多くの人が。宇多須神社の祭礼。東山菅原神社に参拝。街角の掲示板に江戸時代の茶屋街の絵図の写しがあり、気になっている「矢の根川」が、茶屋街を斜めに横切り表門のところには橋がかかっているのが描かれている。矢の根川に八幡川という別名。かつての卯辰八幡宮にちなむのだろう。
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by kaguragawa | 2009-09-19 23:50 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)