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100年前のある文学青年の自死   

 『安野の死に方は面白いですよ。僕は、書く。ム、きっと書く。』(霜川の伝える藤澤清造の言)

 西村賢太氏の書かれたものに拠ると、今日が、『根津権現裏』に縊死した人物として描かれている藤澤清造の同郷の友人・安野助多郎の亡くなった日であるという。1912年10月29日のことというから、ちょうど100年前のこととなる。
 この安野が同県の縁で徳田秋声のところに出入りしていて三島霜川とも顔見知りで、そんなことから安野がつれてきた藤澤清造を、秋声の後押しもあり、霜川が演芸画報社に紹介することになったようだ。安野の死の10年後に、藤澤清造は岡田の名でこの盟友を『根津権現裏』に刻み、その10年後に藤澤がこの世から姿を消した。
 霜川が書いているところによると、こういうことになる。

 (藤澤清造を)初めて私のところへ連れてきたのは、安野という文学志望の人だった。よく徳田君のところへやって来たので、それで私とも懇意になったのだが・・・・。
 その後、私と藤澤君とは、関係がだんだん深くなって、ひと頃、机をならべて一緒にこの画報の仕事をするようになった。その頃、安野君は、つまらないことから気が変になって首をつって、悲惨な死に方をした。
 『安野の死に方は面白いですよ。僕は、書く。ム、きっと書く。』と云って、藤澤君は、ある興奮に悲痛な顔をして、「安野の死」のいきさつを話したことが二度や三度でなかった。安野君のことは、彼の作「根津権現裏」に、相当委しく出ているが、私は、その安野君と藤澤君を結びつけてみて、そこに何か不可解な因縁があるように思われてならない。


 藤澤清造は西村氏によってその名が少し知られるようになったが、藤澤を文壇にもたらした安野助多郎についてはどこまでその境涯が明かにされているのだろうか。私も霜川と関わりをもった安野助多郎のことを少しでも知りたいと思うが、未だ何も調べ得ないでいる。どこかに安野の生の掘り起こしや作品の発掘をなさっている方もおられるような気がする。いずれそうした成果とも出会えることを楽しみにして、この知られざる文学青年の100年前の死に思いを致したい。

〔追記〕
 藤澤清造の生地・七尾市の一本杉通り振興会のHPによると;
《安野だが、彼は金沢生まれで、若い頃は兄と一緒に七尾へ移住し兄は馬出町で理髪業をやり、弟は裁判所の給仕などをやっていた。藤沢とはその時知り合ったようだ。安野は上京後、弁護士の事務員書生などやっていた。》という。 〔http://ipponsugi.org/2010/02/post-106.html〕
 私たちは藤澤の『根津権現裏』で、この助多郎の兄の繰り返される独特の語り口の金沢ことばにいやおうなくつきあわされることになる。
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by kaguragawa | 2012-10-29 20:17 | Trackback | Comments(0)

「藤澤清造忌 特別展示」   

 昨日書いた徳田秋聲記念館の「藤澤清造忌 特別展示」。私もうかつでしたが、この展示の最終日である今日2月18日は、芝の増上寺で清造の告別式がおこなわれた日だったのです。つまりこの特別展示は、80年前の清造の命日から告別式までのちょうど三週間に合わせておこなわれた清造追憶の、小さな、私にとっては大きな、セレモニーだったわけです。

 この「藤澤清造忌 特別展示」を訪れ、小さなコーナーのさりげない展示から受けた感銘は深いものでした。その感銘がどこからくるものなのか、わからないままなのですが(それはなによりも犀星の秋声宛て書簡によるところが大きいとは思うのですが)、点数は少ないもののそこに並べられた資料が多くのことを語りだしてくれるそんな得難い展示だったのです。
 また、以前の「藤沢清造」記事(2011.2.1)にも書いた清造の「生誕地表記」についての疑問は、そこに展示されていた戸籍簿の写しからもいっそう強いものになりました。展示解説には、今までの清造年譜と同様に「鹿島郡藤橋村ハ部三十七番地」と書かれているにもかかわらずです。

 それにしても藤沢清造の“名刺”、よく残っていたものです。興味深いのは、「本郷区駒込動坂町九五」という名刺記載の住所。これはいつごろのものなのでしょうか。清造が一時期、職場としていた「演芸画報社」は、正確なところは私には不明ながらこれも一時期「動坂百十番地」にあったのです。

 冬の金沢らしい冷えの厳しい日でしたが、清造、秋声、犀星、霜川といった北陸人の交わりが、天空で雪が舞うように思えたそんな一日でした。
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           氷雪を浮かべる今日の浅野川と浅野川大橋(金沢市)

〔追記〕
 秋聲記念館の後に寄った石川県立図書館から持って帰った「レファレンス通信No.11」にも“藤澤清造”が紹介されていました。やはりここにも「明治22年、鹿島郡藤橋村(現七尾市馬出町)生まれ。」とあります。
 いたるところ、「藤橋村」なのですが、もう一度、糺してみたいのですが、明治22年当時、「藤橋村」は存在していたのでしょうか?。
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by kaguragawa | 2012-02-18 17:41 | Trackback | Comments(0)

“不可解な因縁”   

 お盆にことよせて三島霜川の書いた“追悼文”を紹介しておきます。藤沢清造の死に寄せたものです。霜川のこの種の文章はあまり残っていないようです。

 “藤沢君を知ったのは、画報の三四年の頃だったと思う。だから、二十年以上の旧知ということになる。
 初めて私のところへ連れてきたのは、安野という文学志望の人だった。よく徳田君のところへやって来たので、それで私とも懇意になったのだが・・・・。
 その後、私と藤沢君とは、関係がだんだん深くなって、ひと頃、机をならべて一緒にこの画報の仕事をするようになった。その頃、安野君は、つまらないことから気が変になって首をつって、悲惨な死に方をした。
 『安野の死に方は面白いですよ。僕は、書く。ム、きっと書く。』と云って、藤沢君は、ある興奮に悲痛な顔をして、「安野の死」のいきさつを話したことが二度や三度でなかった。安野君のことは、彼の作「根津権現裏」に、相当委しく出ているが、私は、その安野君と藤沢君を結びつけてみて、そこに何か不可解な因縁があるように思われてならない。
 好いにしろ悪いにしろ、死んだ者のとやこう云うのは好ましくないことだが、ただ一つ、彼が、案外、義理固いところがると同時に、異常にキチョウメンなとこがあったことだけはを云っておきたい。で、画報の仕事から云うと、あれほど、しっかりとした校正者は後にも先にもいないと言える。
 私は、ここ十年ほど、ほとんど彼と話したことがなかった。ところが、昨年五月、途中でバッタリ逢って、それからまた、およそ七八へんも逢って、いろいろな話もしたが、「どうかしているんじゃないか。変だ」といつもそう思っていた。眼もショボショボしていた。影も薄かった。河田町の方へ越してからずっと逢わなかった。”


 これは「演芸画報」の昭和7年3月号に載ったもので、文中の「画報」はこの「演芸画報」のことですが、題が「不可能な因縁」になっています。「不可解な因縁」の誤植でしょう。
 藤沢清造については、なんどか旧日記も含め紹介していますが、今や西村賢太氏によって広く知られるようになった能登(七尾)出身の作家です。
 藤沢清造が亡くなったのが、1932(昭7)年1月29日、文中の「安野」は、安野助多郎で、亡くなったのが1912(大1)年10月29日(西村賢太氏による)です。
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by kaguragawa | 2011-08-14 08:41 | Trackback | Comments(0)

藤沢清造「根津権現裏」、新潮文庫に登場!   

 芥川賞おそるべしである。

 どう考えても「新潮文庫」に入りそうもない作品が、七月一日発行の新潮文庫として発刊された。
藤沢清造の「根津権現裏」である。もちろん、どういう事情であれ、大歓迎である。

 言うまでもないことながら“藤沢清造命(いのち)”の作家・西村賢太氏が、芥川賞を受けたことが機縁になっている。氏自身がこの文庫の解説で、明言している。
 “此度(こたび)の復刊実現については、これはありていに述べぬ方が嫌味な話なのでハッキリ言うが、すべては第百四十回芥川賞の、一方の結果から端を発している。”

 なお、不自然な力みの感じられる西村氏の「解説」だが、氏らしくない信じがたい間違いがある。「清造は後年、秋聲の廿日会(はつかかい)にも参加している」と、ルビまでふられている“廿日会”だが、こういう会は存在しない。
 秋聲のはま夫人が1月2日に亡くなったことにちなむ“二日会”の誤りである。

 それにしても新潮社の編集者も、どうしたのだろう。芥川賞作家の原稿は、間違っていても一字一句を尊重するのだろうか。
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by kaguragawa | 2011-06-28 00:30 | Trackback | Comments(2)

身元不明の行路病死者、藤澤清造と判明   

 この頃このブログへの訪問者が通常より微増である。
 もしかしたら…と考える。 西村賢太氏の芥川賞受賞で間接的に注目を浴びた“藤澤清造”のせいなのかもしれない。
 藤沢清造の年表には、“三島霜川が”登場するから、西村賢太→→藤澤清造→→三島霜川と、検索が進むとすれば、拙ブログにたどりつく人がいるのでは・・・と推測してみたわけである。

 藤沢清造は石川県北の中能登、鹿島郡七尾町(現七尾市)に生まれた作家だが、18歳で上京、役者志望のまま定職もえられずいたところを同郷の安野助多郎の紹介によって同県金沢出身の徳田秋声に面識を得る(22歳頃)。そして秋声が三島霜川を通して(当時、霜川は「演芸画報」に好評の「近世名優伝」を連載していた)“演芸画報社に”紹介する。――ということで、仕事もでき清造と霜川の接点もできたようなのである。

 そして、西村氏による藤澤清造の《大大略年譜》によれば、放浪の作家・藤沢清造の最期は次のようなものだった。
 (林哲夫さんのブログ《daily-sumus》の記事「藤澤清造全集内容見本」(1/29)から引用させていただく)

 昭和七年 空家へ入り込んで拘留される。一月二十五日より行方不明となり、二十九日朝、芝公園の六角堂内で凍死体となっているのが発見される。三十日、身元不明人として桐ケ谷火葬場で荼毘に付される。二月一日、〔早瀬〕彩子が検屍写真によって身元確認。十八日、徳田秋声らによって芝増上寺にて告別式が行なわれ、辻潤、近松秋江、佐藤春夫、尾崎士郎ら百人を越す人々が集まった。

 『徳田秋聲全集』の「年譜」の「昭和七年(1932)」項によって、補うとこうである。

 二月一日、藤沢清造が二十九日に芝公園で凍死していたことが判明する。四十四歳。
 二月十八日、藤沢清造の葬儀を芝増上寺別院源興院で。秋聲、三上於菟吉、久保田万太郎らが尽力したもので、百人を超す人々が参列。


 なお、三島霜川もこの「百人を越す人々」の中にいたと思われるが、霜川側に何の資料もない。

〔追記〕
 藤澤清造の生地については、「石川県鹿島郡藤橋村ハ部三十七番地」としているものが多いが、清造の生まれた1889(明治22)年10月28日の時点では、「市町村制」が同年4月に実施されており、公的な地名としては「藤橋村」は消滅しているので、生誕地表記としては「藤橋村ハ部」ではなく「七尾町(大字)藤橋ハ部」とすべきであろうと思われる。(カタカナ文字イロハ・・・が入るのはこの地の特徴)

〔追記:2/9〕
 「藤沢清造の生誕地は、結句、現在のどこなんですか?」と――“結句”というのは西村さんの口ぐせですが――、お尋ねの方が、おられるようです。が、自分の足で行ったことのない場所を、確信を持ってここに書き込むのにはためらいがあります。雪解けを待って、私が「ここだ」と思っている場所に足を運んだあとに(碑などがあるという話は聞いたことがないのですが)、あらためて報告をかねて書かせていただきたいと思います。

 ただし、地図上で探そうと言う方には、次の情報だけ(といっても回りくどい話になりますが)お伝えしておきます。
1)上に、「鹿島郡藤橋村」が「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」になったと書きましたが、「鹿島郡藤橋村」がそのまま「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」になったのではなく、「鹿島郡藤橋村」は明治22年4月の時点で、「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」と「鹿島郡矢田郷村(大字)藤橋」に分かれています。 私の確認できたところでは「藤橋村ハ部」の地帯は、「矢田郷村」ではなく「七尾町」の「藤橋」です。
2)現在の七尾市内には、「藤橋町」「西藤橋町」「南藤橋町」「北藤橋村」など、“藤橋”の名を引き継いだ町名がいくつかあるように、大字藤橋は、いくつかの地区に分かれています。では、藤沢清造の生誕地は、そのうちのどこかというと、それらの「藤橋」を冠した町ではなく、私が資料を読み違いをしていなければ「馬出町」のはずです。
3)今ではweb上でも番地を探すことが可能ですから、「七尾市馬出町ハ部36」ないし「同ハ部38」辺りを探してもらえればよいかと思います。
4)地元の方にお願いしたいのですが、もし以上の記述に間違いがあるようでしたら、ぜひ教えてくださるようお願いいたします。

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by kaguragawa | 2011-02-01 23:35 | Trackback | Comments(0)

01/30/2009〔広川松五郎との誕生日〕   

 今年、生誕120年になる染織工芸家・広川松五郎の誕生日。そして同じく生誕120年になる作家・藤澤清造の命日。

 おそらく二人はこれも同じ年生まれの室生犀星か尾山篤二郎を介して、知り合っていたであろうとおもうのですが、そうしたこともふくめ松五郎についてはいくつかメモ書きしたいこともありますが、時間がないのであらためて。

 〔追記〕
 私もふくめ多くの人にとって広川松五郎は工芸家というより、多くの文学書の装丁作品を遺してくれた自らも歌人でああった本づくりの名人としてなじみがあるのではないでしょうか。
 ところで、賢治の『春と修羅』の装丁を広川松五郎がするにいたった経緯はどの本を見ても明確ではないのですが、関登久也の依頼でこの本の背文字を「詩集」と書いてしまった――心象スケッチと書かねばならなかったのに――尾山篤二郎とのつながりと考えればよいのだと思います。 

 ※広川松五郎 1889.01.29~1952.11.02
   藤澤清造  1889.10.28~1932.01.29
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by kaguragawa | 2009-01-30 14:45 | Trackback | Comments(0)

01/30/2008〔ふたりの石川人、きょう死す〕   

 三島霜川にも徳田秋声にも関わる〔二人の石川人〕が、この日に亡くなっています。

 田中涼葉と藤沢清造。

  田中涼葉  1873.**.**--1898.01.29
  藤澤清造  1889.10.28--1932.01.29

 と、書きながら、あれっ?と思ったことがあります。先日〔霜川の民声新報時代〕を書きながら秋声全集の「年譜」を見ていたのですが、その秋声年譜の【明治三十四年(1901)】の項に、涼葉の死が記されていたのではなかったか。さらにその年の6月に涼葉の遺著『仇浪』刊行の記載があったとの記憶がよみがえってきます。今、手元にその年譜がないので確認できませんが、記憶は確かです。

 涼葉の没年が、1901年だという新資料がでてきたのでしょうか。涼葉なのか凉葉なのかもふくめて、確認したいことがいくつもありますが、まず、今日はこのまま、疑義も含めてメモとして書いておきます。

〔追記〕
 藤澤清造と同じ年に同じように、人知れず不幸な死を迎えた詩人・石川善助の名も記憶しておきたいと思います。
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by kaguragawa | 2008-01-30 14:46 | Trackback | Comments(0)

03/29/2006〔『どうで死ぬ身の一踊り』〕   

 店頭にはなかったものの在庫があったのでしょう、書店の外商の人に頼んでおいたら存外早く手元に届きました。 ――西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』。
 すぐに読もうかどうか迷ったのですが――というのは今週中=年度内の仕事があれもこれもと山のようにありながらとりかかれず気持ちだけが切羽詰っているのです――ついページを繰ったのが、そのまま一気に読んでしまうことになってしまいました。

 と、報告だけにしておきます。
この本に限っていえば霜川情報はほとんどなかったのですが西村氏が藤澤清造に有縁の人ということで尾山篤二郎の書をお持ちだったところからしても、――そしてさらに大きな清造=篤二郎の遺物(それが何かはこの本を読まれたい)を入手されることになるのですが――、霜川についても多くのことを調べられていることは想像がつきます。
 いずれなんらかの出逢いがまたあることだろうと思います。
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by kaguragawa | 2006-03-29 14:47 | Trackback | Comments(0)

03/23/2006〔藤澤清造――。〕   

 藤澤清造――。三島霜川とのつながりで名前だけは知っていたのですが、彼が北陸は石川県、しかも能登〔鹿島郡藤橋村(現・七尾市〕の出身であること、その破天荒ともいえる生き方の諸相、さらにこの知られざる作家の掘り起こし(掘り尽し?)に執念を燃やしている若き作家(西村賢太)のいること等々、まったく知りませんでした。

 霜川自身の(霜川の側の)記録が少なく、年譜といえるものさえない状態の霜川を知るには、彼の交友関係――例えば三木露風、石井漠、登張信一郎(竹風)など――をたんねんに追っていくほかないなと思い始めたばかりでしたので、若き霜川の生き方と重なるところのある藤沢清造については興味津々です。

*藤澤清造 1889(明22)10.28~1932(昭7)01.29


〔追記〕
 藤澤清造の生地の表記は、彼の生年月日が正しければ、訂正が必要ではないかと考えています。いずれ。
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by kaguragawa | 2006-03-23 14:48 | Trackback | Comments(0)