タグ:稲垣示とその周辺 ( 10 ) タグの人気記事   

災地にありて災を慮らざる   

 死地にありて死を知らず、災地にありて災を慮らざるは、愚者の事なり。日本にありて、治水の理に通ぜざる、その亦愚者の誹を免れず。
 抑も治水学は日本に於いて将来一科の専門学たるべく、治水術は日本人の為め永く一種の専門術たるべきものなり。否な、日本に生まれて治水に通ぜざる者は、人にして衣食の理に通ぜざるよりも更に危険なり。



 久しぶりに心動かされることばに出会いました。稲垣示が、西師意の『治水論』(明治24)に寄せた「序」から。稲垣示が後に田中正造と行動を共にしたことを思い起こさせます。
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by kaguragawa | 2016-04-29 21:53 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:9月11日《新坂》   

・本郷区 森川町一番地 新坂三五五

・本郷区 森川町一番地 新坂三五九
(現:文京区本郷6丁目10-12〔現・太栄館〕)

・本郷区 森川町一番地 新坂三六二

〔追記〕
 なんと上に並べた本郷の「新坂」を検索していましたら自分の書いた記事にめぐり逢いました。
 http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-b25a.html
 *この旧記事は、別項に再掲することにしました。なんか3年前は、すごく勉強していたような・・・というか、調べたことを忘れないように何でもかんでも書き込んだのでしょうね。

 啄木は、新坂359の「蓋平館」に、季節としてはちょうど今頃(104年前の明治41年〔1908〕9月6日)、赤心館から移って来ているのですね。
“成程室は立派なもの。星の空、遮るものもなく下の谷の様な町からは湧く虫の声。肌がさむい程の秋風が天から直ちに入ってくる。”(当日の日記より)

 新坂355は稲垣示に関わる場所、新坂362は西田幾多郎に関わる場所。
 ちなみに、帝国大学文科大学哲学科選科に学んだ幾多郎がいっときここに住んだのは、120年前の明治25年〔1892〕9月のことだから、この〔森川町一番地新坂×××〕という住所の表記はもうこのときからあるようである。
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by kaguragawa | 2012-09-09 20:26 | Trackback | Comments(0)

越のたち山いつ忘るべき   

 日曜日に偶然とはいえ、二つの掛け軸を拝観することができました。そのうちの一つがこれです。
 稲垣示の生地、射水郡棚田の公民館にあるものです。示自身の手になるものではありませんが、示の歌への共感があふれているものです。

 左脇に書かれた「稲垣示歌 狭衣集より」というのは読めると思いますが、本文がなかなかの曲者です。

e0178600_20121077.jpg 漢字がくずされていることもありますが、ひら仮名の部分が変体仮名なのです。

 「越のたち山(太刀山/立山)」の「の」は、〔H〕のように見えますが、《能》をくずした仮名。これは、古文書をいつも見ている方にはおなじみのものかも知れません。「いつ」の部分は《以》《徒》です。「へき(べき)」の「き」は《支》です。

 ただ気になるのは、こうした文字づかいが私の手元に持っている「狭衣集」と違うことです。私が持っているものは明治23年7月に発行されたもののコピーですが、こちらの方は、例えば、「こころ」「しらゆき」は漢字「心」「白雪」ですし、「いつ」の部分の変体仮名は《以》《川》です。「つ」は《川》のくずし文字が使われることの方が多いようです。

 この歌が詠まれたのは、大阪事件で1年にもわたる予審の後、下獄した和歌山監獄の獄中においてです。稲垣示は、獄中生活のさまざまな事象を三百首近い歌として残しました。
 これはドキュメントとしても優れたもので、中には月蝕の記録もあれば、福島の磐梯山の大噴火のすざましさの伝聞や、保安条例の執行についての批判もあり、同囚の人々の記録があります。
 なかでも、獄囚として異郷からふるさとに想いをよせた数々の歌は心に響くものがあります。稲垣示のまぶたの裏にはいつも白雪を冠した凛とした立山の峰々があったのでしょう。

       朝夕にこころをみがくしらゆきの
           越のたち山いつ忘るべき

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by kaguragawa | 2012-09-05 06:52 | Trackback | Comments(0)

津田仙とふたりの越中人のこと(1)   

 このブログと旧日記に何度か津田仙のことをとりあげてきました。「津田塾大の創始者津田梅子のお父さんです。」と説明すると、ああそうですかと、わかったようなわからないような返事が返ってくるのが普通です。しかし、津田仙は津田梅子の父であると同時に、近代日本の多くの生みの親の一人であるのです。名前はあまり知られていないにしても、その事績はほとんど知られていないにしても、その役割は決して小さなものではないのではないか・・・、と考えています。
 私がそう言っても説得力はないのですが、旧日記に紹介した事蹟をあらためて整理するとともに、津田仙の顕彰を少しずつでもこのブログでもしたいと思っています。

 今日、なにげなくweb検索をしていて津田仙が創立した学農社の学校規則を、「近代デジタルライブラリー」で見つけたので、そのアドレスを紹介しておきます。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812635

 ところで、津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。
 橘甚兵衛は、津田仙の影響下で洗礼を受けた後の〔橘仁〕の名前で、このブログにも何回か名前を挙げたかと思います。彼は丹精をこめて育てたリンゴで札幌の農にも貢献しましたが、札幌独立教会の創設時のメンバーで堅い信仰の人であったこともふくめて、あらためて評価されるべき人物ではないかと思っています。
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by kaguragawa | 2012-08-28 20:37 | Trackback | Comments(3)

稲垣示『狭衣集』から   

 稲垣示『狭衣集』からこの時期に詠まれた歌をご紹介します。
 いまから124年前(1888〔明21〕年)、稲垣示が大阪事件の獄中のつれづれに詠んだものです。少し説明が必要ですがそれは追って。

   八月十九日酷暑なれども夜殊更(ことさら)凉しかりければ
むしのぼる昼の暑さのしのぎ風立ち来る今宵月の凉しき
独り寝の心やすけに蚊帳つればさわらぬ月は伽にぞ入り来る

   同二十一日夕暮れに焼き鰻の香を嗅ぎて
吹上の浜風涼みがてらにも焼けるうなぎのにおいゆかしき
ふる里の門田やいかにみのるらん柿の衣にしむ秋のかぜ

   同二十二日の夜月の昇るを待ちかねて
腰のして待つもちづきは出も来ず兎の杵はそこねけるかも
紅のあつき日脚に引きかえて裳裾(もすそ)涼しくのぼる月かげ

   岩代国磐代山の変事を聞きて
まがつ世のためしとどろに鳴り出る神の御陵の磐代の山

  *8月22日は、旧暦の七月十五日満月(望月)にあたる
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by kaguragawa | 2012-08-23 06:43 | Trackback | Comments(0)

炎天下に「重松君之碑」を訪れる   

 残暑お見舞い申し上げます。

 暑さには強い方ですが、今日はちょっとギブアップでした。気温ではなく日陰もない炎天下での照りつける日射の文字通りの刺すような暑さ(熱さ)です。そういうわけで、ある碑を探し出したのですが、再訪を期して早々に退散しました。e0178600_20522771.jpg

 といっても簡単な報告だけはしておきたいと思います。訪れたのは、「重松覚平の碑」(富山市松木)。

 車を降りて驚いたのは、日差しの熱さだけではなく、碑の大きさでした。台部分も含めると4メートルぐらいはあるでしょうか。空は秋の青ですが、見上げるその空は炎天です。副碑の説明を4,5文字筆写しただけで、背中に汗が噴き出して、照りつけと照り返しの熱さで、断念しました。

 前置きが長くなりました。度外れの暑さと碑の大きさがそれはもう記憶を埋め尽くしているものですから・・・。
 というわけで、重松覚平(かさまつ・かくへい)のことは次回の報告として、碑のことを書いておきます。

 今、凉しい部屋で思い出すと、驚いたのは碑の大きさに加え、その碑にぎっしりと書かれた文章の量でした。見上げるまぶしさに読むことは不可能だったのですが、そして時代を経て読みとれない部分もあるのですが、その膨大な漢字で書かれた碑文の、書き写すだけで数時間はかかるであろうその文字数に圧倒されてしまったのでした。

 暑さでその場を逃げ出す前に、かろうじて写した碑文は、――明治三十二年七月  衆議院議長 片岡謙吉 篆額 大阪 山本憲 撰 富山 稲垣禎吉 書――の部分のみ。
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 片岡健吉の名は、土佐出身の自由党の中心者として板垣退助と併せて覚えておられる方も多いことと思います。続く「篆額」とは、篆字で書かれた石碑の題字のことです。まぶしくて被写部分も確認せずに撮った写真なので、はじが切れていましが、碑の上の横書きの部分、右から「重松君之碑」が、片岡謙吉自身の手による篆字です。
 約500文字ほどありそうな碑文の本文は、山本憲の書いたものです。高知出身で自由民権運動にかかわり大阪事件にも服役した山本憲の名は知っていたのですが、今調べてみてまたまた自分の無知に愕然とすることになったのですが、山本は漢学者として有名な人だったのです。かつての同志・重松覚平を称える文章を漢文で書きあげたのでしょう。

 いやはや、と、ちょっとため息がでたところで、碑訪問記はお仕舞いとします。重松覚平については、あらためて。

 上の文中では、に「山本憲 撰」としましたが、「撰」は碑文では、「言(ごんべん)」の右に「巽」の文字です。
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by kaguragawa | 2012-08-21 20:56 | Trackback | Comments(0)

稲垣示、終焉の地   

 今日は、先日も書いたように、110年前に稲垣示が亡くなった日でした。

 実は、先日そのことを書いたときは、手元に何も資料がなく、wikipediaによって、歿日を8月8日と書いたのですが、一昨日、久しぶりに桜木成一『稲垣示物語――自由民権の先覚者』を借り出し読み直してみて、命日は「8月8日」ではなく「8月9日」であることを確認したと同時に、示の死が長い病床の後のものではなく、なんと亡くなった前夜の演説会では熱弁を揮っていたこと、つまりの彼の死が突然のものだったこと、奇しくも亡くなった翌日10日が、衆議院議員の投票日であったことなど、少しずつ事情を思い出しました。
 示は、自らも衆議院議員の総選挙に立候補していたのですが、投票日を翌々日に控え友人・牧野平五郎の応援演説に富山に行き、そこで亡くなったのです。誰にとっても「青天の霹靂」的、出来事だったのです。

 病名がはっきり書いてなくて事情がよくわからないのですが、めまいで倒れ、翌日死亡というのですから心臓や脳の循環器系の疾患だったのでしょう。選挙活動の過労に残暑のきびしさが追い打ちをかけたのかも知れません。

 桜木さんの本には、「8月8日一時間半にわたって熱弁をふるった。会が果てて、宿舎の総曲輪の富山館に帰る途中眩暈(めまい)を起こし、翌9日午前11時、54歳を最後に急逝した。」とあって、当時の新聞『北陸政論』の記事も載せています。

 自党の候補者を応援すべく歌舞伎座の演壇に立ちしは、選挙期日のもっとも必迫せる八月八日の夜なり。嗚呼八月八日の夜の大演説、これ実に君が最後の演説なりき。演説会漸く散じて星影転た暗く、総曲輪街上風まさに静かなる時、嗚呼この烈丈夫を誘う無情の風、遂に君が不帰の病根を醸しぬ。

 こうした記述を読みながら、またしても私の悪い虫?が騒ぎ始めました。
 《9日の11時に、110年前〔明治三十五年八月九日〕、稲垣示が亡くなった「富山館」の場所に立てないだろうか・・・。11時は無理でも、夕方にでも現地に足を運びたい!》

 「富山館」はどこだ!?、「歌舞伎座」はどこだ!?。――ともに現存する建物ではありません。が、「富山館」には心当たりがありました。昨日、残暑の夕刻、富山市立図書館に足を運びました。調査・確認の仔細は省きますが、運良く“終焉の地探し”は、命日には間に合いました。
 ――なんと、よく知った場所に、しかし、ちょっと驚きの場所に、「富山館」はあったのです。
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 この写真を見て、「あれっ、ここって、富山城の・・・」とおっしゃる富山の方がおられることと思います。そう、木々の間から見えているのは、昭和30年にできた疑似天守閣ですが、この場所はもとの「富山城二の丸跡」です。城址公園内ですが、本丸跡ではなくて、ANAクラウンプラザホテル・国際会議場の、国道44号線をはさんだ、向かいの散策のできる一画です。
 明治末当時、本丸跡に「県庁」があり、三の丸の現:国際会議場の場所に「県会議事堂」があり、その間の便利のいい二の丸跡に迎賓館というほどのものではないにせよ宿舎「富山館」があったのです。

 ここが、稲垣示の終焉の地となったのです。
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by kaguragawa | 2012-08-09 20:51 | Trackback | Comments(0)

きょうのわくわく、どきどき   

 きょうは朝から、ワクワク、どきどきの一日でした。メモのみ。

 地元紙で「稲垣示の功績後世へ――自由民権運動に貢献」の記事に驚き。稲垣示のことは、地元ではもう忘れられてるものとばかり思っていたので、驚きと同時にうれしさがこみあげてきました。記事にもあるように今年が歿後110年。8月9日が命日なのです。この件は、あらためて。

 急いで金沢へ。車中で野口冨士男さんの『私のなかの東京――わが文学散歩』を読んでいたら先日読んだばかりの木下順二さんの『本郷』とどこか重なることに気づきました。それもそのはず。野口さんが1911年生まれ、木下さんが1913年の生まれなのでした。

 金沢湯涌の夢二探索は下記にちょっとふれるとして、自宅にかえったらばアームストロング『富山空襲、そして進駐軍――日本人となった婦人宣教師の手記』が、堀江節子さんから送られてきていました。
 こんなぐあいに、ワクワク、どきどきが、いくつもいくつもあるのです。くわしくはそれぞれの話題ごとに整理しつつ、あえて書かなかった出会いもふくめ、これから咀嚼吸収していくつもりです。
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 上の写真の手前のやや深い細流れの左側にかつて精米水車があった。竹久夢二が、1917(大正6)年秋、湯涌温泉滞在中に薬師堂裏の山道を越え西の谷筋の集落に出てきたとき出会った水車である。
 夢二が日記に書き残した95年前の湯涌地区の事物は、有形無形さまざまな形ではあるが、思った以上に残っていることがわかりました。
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by kaguragawa | 2012-08-04 22:03 | Trackback | Comments(0)

北陸タイムスの高橋秀臣   

 あの高橋秀臣が、――といっても説明が必要ですが、割愛――「北陸タイムス」創立当時の社長兼主筆として〔1908.11~1910.11〕、富山にいたことがあるのですね。

 そう言えば、このことは前にどこかで読んでいたはずと思うのですが当時は、高橋秀臣のことなどまったく眼中にも、もちろん頭中にも、なかったのですから、まったく記憶に残っていないのです。

 足尾鉱毒事件に関わった人物が、身近に?いたのですね。

 今日も、私の備忘録です。悪しからず。

〔追記:1/11〕
 それにしてもどういう縁で彼は富山に呼ばれてきたのか?。そこが知りたいところです。稲垣示がかかわっているのでしょうか?。
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by kaguragawa | 2012-01-05 22:48 | Trackback | Comments(0)

稲垣示翁之碑   

 稲垣示は、私が今住んでいる射水の地(富山県射水市)が生んだ明治の政治家。e0178600_153772.jpg
 稲垣は自由党員で、田中正造とは所属党を異にしましたが、足尾鉱毒事件では積極的に反対行動に関わっています。
 今日、久しぶりにこの稲垣示の生誕地に建てられた碑を訪れました(射水市棚田)。

 6年前の旧「めぐり逢うことばたち」に《稲垣示の遭難》という題で、次のように書いていました。

 「板垣死すとも自由は死せず。」  ・・・この有名なフレーズによって記憶されている板垣退助の受難〔1882.4.6〕の報せに駆けつけた我が富山の――といっても当時現在の富山県の全体が石川県の一部でした。富山県が誕生するのはこの事件の翌年!――有志がいました。 稲垣示(いながき・しめす)です。
この事件の2年前、板垣の愛国社第4回大会〔大阪市北野太融寺。この大会により国会期成同盟となる〕に北陸の地から参加した稲垣示は、以後北陸の自由民権運動の先駆となるだけでなくむしろ中央でも運動の牽引役として活動を展開していきます。

その彼が今度は受難者の側になったのが今から109年前の今日〔1897.4.25〕のことでした。骨膜に達する創傷を5個所も頭に負ったにもかかわらず凶刃を持つ暴漢を追い詰めたと当時の新聞等には報じられています。

彼が襲われた原因は何だったのでしょう。この1987(明治30)年とはどういう年だったのでしょうか。そもそも稲垣示とはどのような人だったのでしょう。
(とりあえず、この受難事件が足尾鉱毒事件に関わるものだと言うことだけお伝えしておきたいと思います。)

〔追記〕
*稲垣示 嘉永二年八月二十日(1849.10.6)~1902〔明35〕.08.09
彼の長男・篤の生は、ほとんど三島霜川と重なるものである。
*稲垣 篤  1877.11.15~1933.02.06
*三島霜川 1876.07.30~1934.03.07

なお、稲垣家と三島家は、直線距離にして4キロ余である。
    〔2006.4.26〕

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〔追記:2011.01.02〕
 上記の6年前の稲垣示の記事に、三島霜川が登場していて我ながら驚いたのですが、地縁と言う関連だけで稲垣家と三島家をならべるという的外れな所業は、当時の思いつきははともかくとして、三島霜川の父・重法の政治への志向を考えるとき別の意味を持っていると思えてきます。このことは、最近ようやくわかってきたことで、あらためて書こうと考えています。
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by kaguragawa | 2012-01-02 15:43 | Trackback | Comments(2)