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啄木日記の「亀田氏」   

 啄木が東京帝国大学の赤門前で、亀田氏から独歩の訃報を聞いたという、その「亀田氏」とは誰なのか。啄木研究の現状にうとい私には、情報がなく、不明である。
 で、私なりに推測してみるに・・・

 啄木を文学に志す若者と知って独歩の死亡を告げているので、それなりの面識はあったのだろう。としても、この年(1908年)の4月に上京してきて本郷界隈でそんなに知友の多くないことも考えれば、5月3日の啄木日記に「金田一君を訪ねて亀田といふ余程の変人に逢ふ。」とある「亀田」とこの「亀田氏」は、同一人物かと思われる。そこで、金田一京助と縁があり、独歩のことを知っている人物とすれば、言語学者・亀田次郎の可能性が大きいのだが、「余程の変人」というのも、傍若無人とも評される亀田氏の人柄に合致するようにも思われるのだ。
 ところで、亀田次郎は、啄木日記に「亀田氏」が登場するまさにその1908年に、東京から鹿児島の第七高等学校に赴任しているという。この赴任が年初であれば《「亀田氏」=亀田次郎》の可能性はほとんどなくなるが、一方、当時の旧制高校は秋入学であり、新年度に合わせた赴任が7月以降であることも考えられ、そうなれば《「亀田氏」=亀田次郎》の可能性はぐんと高くなるのだが・・・。
 推測の及ぶのはこの辺りまでだ。私の楽しみとしては、別の手掛かりが運よく見つかるのを待つしかあるまい。

 金田一京助に、亀田次郎のことを書いた「亀田吟風翁素描」というエッセイがあるよし。読んでみたい。柳田国男に金田一京助を紹介したのは、亀田次郎だというエピソードのことも確認できるかも知れない。

※亀田次郎 1876.09.11~1944.02.08
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by kaguragawa | 2016-06-24 23:14 | Trackback | Comments(0)

真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!   

 独歩の最期の身近にいた真山青果の当日の報告によれば;

 「国木田独歩氏は、今日――六月二十三日午後八時四十分、相州茅ケ崎南湖院第三病室に瞑目された。」

 この報は、もう翌日には東京の文人には知れていたようで(青果の報告に「諸方に打電す」とあるし、未確認だが第一報を載せた新聞があったようだ)、翌24日の啄木の日記に出てくる。
 “一人散歩に赤門の前を歩いてると亀田氏に逢つて、国木田独歩氏、わがなつかしき病文人が遂に茅ケ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてその儘真直に帰つた。
 独歩氏と聞いてすぐ思出すのは“独歩集”である。ああ、この薄倖なる真の詩人は、十年の間人に認められなかつた。認められて僅かに三年、そして死んだ。明治の創作家中の真の作家――あらゆる意味に於て真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!”


 ところで、独歩が亡くなった23日の夜、――前日の「赤旗事件」とも、この日夜の独歩の死とも無関係のことだが――啄木にある内的事件が起こっていた。
 “昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。”
 そしてこの湧くように歌がでてくる状況はしばらく続く。25日には“頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。”と・・・。
(註:これらの歌は、直後の『明星』7月号に「石破集」として掲載。)
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by kaguragawa | 2016-06-23 20:40 | Trackback | Comments(0)

108年前の「夏至の日」   

 のちに「赤旗事件」と呼ばれるようになった社会主義者と警官の小競り合いが起ったのは、1908(明治41)年6月22日でした。この年は、この22日が夏至の日でした。
(「赤旗事件」――この小競り合い程度のものが、逮捕者の禁固実刑につながる刑事事件にまで仕組まれた(*)事件です。この事件が、西園寺内閣を桂内閣に代え、桂内閣のもとでこの事件の審理がおこなわれ、さらに「大逆事件」がつくられていきます。)

 この日のことを、荒畑寒村は『寒村自伝』で次のように振り返っている。
 「日の長いさかりの真夏の白昼、濛々と立ちのぼる砂煙りの中に旗の影はたちまち現われたちまち消え、(中略)喧々囂々としてまるで市街戦でも始ったようだ。」
 6月22日が「夏至」であることから、“日の長いさかり”はまさにそのとおりなのだが、少し気になるのは続いて、“真夏の白昼”と書かれている点である。寒村が自伝を書こうとした時点で、記憶はあいまいになっており錯綜もしていたのではなかろうか。
 なぜなら、神田錦町の錦輝館で行なわれた山口義三の出獄歓迎会は午後から始まり、「騒動」は閉会間際の午後6時くらいにおこったからだ。まさに夏至の時期だから6時でも明るかったのだろう。だが、「白昼」はふさわしくなかろう。
 これも寒村の記すところに拠れば「私の間借りしている家の主婦に頼んで、赤地の布に「無政府共産」とか「無政府」とか、白いテープの文字をミシンで縫いつけてもらい、手ごろの竹竿を買って来て二旒の旗をこしらえた。」というその赤旗を、ある者が錦輝館を出た路地で振り回したことから警察官との小競り合いがはじまり、大杉栄、堺利彦、山川均、管野スガら16人が逮捕されたのである。

 ただ、寒村の「白昼」の記憶があやしくなっているのは、時間帯のことだけではない。(寒村を批難するために書いているのではなく、この日のことを正確に記憶したいがために書いています。誤解のないように。)この日は、「白昼」ということばが似合うような晴天の日ではなかったようなのである。現場から直線距離で2キロ余り離れた場所に住んでいたある青年の当日の日記に拠ればこうだ。

 六月二十二日
 曇つた日であつた。
 午后に金田一君、昨夜の話、手踊人形で大に笑ふ。夕方、また歩きに行かうと云ふので、二度出かけたが、其度雨が落ちて来たので唯もどり。

 この日(22日)は「曇った日」で、事件が起きた夕方は「雨が落ちて」くることもあったというのだ。夕方、神田周辺に雨が降ったかどうかはともかく、この日は晴天でなかったことは確かだろう。

 なお、この日記を書いた青年は、この翌日みずからの内的事件に出会い「一握の砂」に結実する詩人の道を宿命づけられていくのだが、一方でこの赤旗事件のあとに次々と起きてくる権力の犯罪の結末「大逆事件」に真正面から向き合うことをも自分の使命とするにいたる。ともに事件から2年後のことである。いうまでもなくこの青年は、石川一(はじめ/啄木)である。


 (*)この山口義三歓迎会の司会を勤めた石川三四郎は、この摘発事件が事前事後において仕組まれたものであったことから事態を「不可解な大騒動」と適切に要約したが、事後の「仕組み」については、一例として、この事件の東京地裁の公判筆記の一部を当時の『熊本評論』に掲載されたものから、引く。森岡永治の弁明から。(多少送り仮名などを補いました。)

 「余は大森巡査の指を噛み四日間の休業を要するまでの負傷をせしめたりと調書に在れども、同巡査が、余の被れる帽子なりとて此処に提出せる証拠品は、余の全く見覚えなきものなり、余は一個の帽子にて満足す、二個の帽子を要せず。彼の当時被りたる一個の帽子は、目下東京監獄に在り。是等の事実を以て見るも如何に警官が事実を捏造するに巧みなるか知るに足らん。尚お巡査は負傷せし際、何れにて何時負傷せりとも覚えずと予審廷に述べしにあらずや、既に何れに於て何時負傷せしとも記憶せざる程の創なるに何故加害者の余なる事を知り得たるや、不思議なり。且つ余は虫歯を患うるものなり、人に食い付きて四日間の休業をなさしむる程の資格を有せず」
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by kaguragawa | 2016-06-22 20:30 | Trackback | Comments(0)

啄木日記の「碧海君」   

 ひょんなことから、石川啄木の日記に何回か(何度も?)でてくる「碧海君」のことが少しわかった。この「碧海君」とは、碧海康温(あおみ・こうおん/やすはる)。当時、東京帝国大学の学生だった青年だ。金田一京助の第二高等学校時代の同窓(同級?)で、ともに東京帝国大学文科大学(のちの文学部)に進んだ縁で、京助と親しく、金田一のもとをたずねた啄木とも知友になったようだ。1907年7月、京助は帝大文科大学言語学科を卒業し樺太に渡りアイヌ語研究をした後、翌年4月から霞ヶ関にあった海城中学校に講師として勤めていたが、碧海康温の方は、哲学科を卒業(1908年?)した後、帝大理科大学地質学科に入りなおしたので、まだ学生だったようだ(1911卒業)。
〔帝大創設時からあった地質学科は、1907年「地質学科」「鉱物学科」に分けられた。この新・地質学科には、碧海のほか江原真伍、大橋良一、河村幹雄、中尾清蔵などのちに地質学会の中心となる錚々たるメンバーがいた。〕

 碧海康温氏。愛知県碧海郡阿乎美村の生まれで、今も岡崎市にある慈光寺という浄土真宗の由緒ある寺の跡取りだったが、弟が寺を継ぎ、本人は学究の道を進んだようだ。(阿乎美村→上青野村→1906六ツ美村→六ツ美町→1962岡崎市)。愛知県からはるばる仙台の二高に進んだきっかけや、大学(哲学科)卒業後、地質学科に再入学されたことなど(その後、研究と教育に従事)、さらに弓道とのかかわりなどなど興味尽きない人である。

 ※金田一京助 1882.05~1971.11.14
   碧海 康温 1883.01~1943.05.28
   石川  一 1886.02~1912.04.13

 なんと驚いたことに、この碧海康温氏、先年亡くなられた法哲学者の碧海純一さんのお父さんなのであった。碧海純一さんが3年前に亡くなられたこともうかつなことに実は昨日になって知った次第なのですが、碧海純一さんのお父さんが啄木の日記に登場する「碧海君」であることも、長尾龍一さんの碧海純一さん追悼文で知ったのでした。
 確か5年ほど前に啄木の日記をざっと通読した際、「碧海」という風変わりな姓を目にしてまっ先に思い浮かんだのは、碧海純一さんのことだったのですが、そのときは確かめる手段もなかったのですが、碧海純一さんが亡くなられたことを機縁にそうしたこともわかったのでした。


 なお、以下は啄木日記の「碧海君」抜き出しメモ一覧です(1908.04啄木上京後)。ほかにも登場箇所があるかも知れません。あくまで参考に。


1908:明治41年7月7日
 四時半頃金田一君の室にゆくと、碧海君と橋本とかいふ人が来てゐた。その二人が帰つて、九時過ぎまで語つた。

同年8月(19日?)
 十七日より今日まで、毎日金田一君碧海君と共に将棋を戦はせり。義太夫は将棋に代れるなり。

同年9月29日
 夜、碧海君が来て詩談。明日は晦日だと思ふと、心は何かしら安からぬ。此日は一日雨。

同年12月5日
 遠藤から手紙。せつ子へ久振に手紙をかいた。九州の菅原芳子と平山良子へも手紙かいた。良子には明星百号送つた。内海信之へハガキを添へて原稿を返してやる。
 夜、碧海君


1909:明治42年4月11日 ※ローマ字日記
 11 TH, SUNDAY.
 Kindaiti-kun no Heya ni wa Awomi-kun ga kite ita. Yo mo soko e itte I jikan bakari Muda-banasi wo sita. Sosite kono Heya ni kaetta.
 (金田一君の部屋には碧海君が来ていた。予もそこへ行って一時間ばかり無駄話をした。そしてこの部屋に帰った。)



 余分なことながら、上に「碧海純一さん」と親しげに書いたのは、我が身の丈に余るマックス・ウェーバーの難解な論文を読んでいた学生時代、書籍の上のことながら、多くのことをわかりやすく教えていただいたご恩によるもの。
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by kaguragawa | 2016-06-15 19:37 | Trackback | Comments(0)

大逆事件 死刑執行   

 105年前の今日(1911年1月24日)、大逆罪で死刑を言い渡された24名のうち特赦で無期懲役となった12名を除く12名の死刑が、東京監獄で執行されました(12番目の管野すがは、翌25日に繰り延べ)。

 石川一(啄木)は、当日の日記にこう書いた。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。


 
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 絵は、竹久茂次郎(夢二)が、1907年8月18日に幸徳秋水宛てに書いた暑中見舞い?はがきの裏に書いたもの。
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by kaguragawa | 2016-01-24 08:06 | Trackback | Comments(0)

君は沢山読み沢山書き給へ   

 歌人・橋田東声宛ての幸徳秋水の書簡があると知って、古い本ながら『増補 幸徳秋水の日記と書簡』のことを思い出し探した。ようやく本も見つかり、ページを繰ったら東聲宛ての書簡も載っていた。
 東声の年譜的事実が今一つよくわかっていないが、この書簡(はがき)は1907(明治40)年のものだから、東声の第七高等学校時代(2年?)のことのようだ。「秋水と東声」この不思議な組み合わせは、どうして生まれたのか、私にはわかっていないが、東声が同郷の先輩、秋水に便りを出したことがきっかけのようだ。

御端書拝見。僕は不相変病気で寝て居る。今度の出版は三年来の出版を集めたので、新作はない。書肆が仰山な広告をしたので少々気恥かしい。併し彼としては商略で致方ないだらう。君が所謂「文壇の花形役者」なぞいふものには、僕等は到底なることも出来ねば又成りたくもない。僕は文学芸術を翫賞するけれども、文学者、芸術家はあまり好まぬ。僕自身の著述や文章は芸術としてではない。唯だ社会の悲惨救済のために、自分の赤誠を吐露するに過ぎなぬ。芸術から見たら卑俗かも知れないが、僕はこの卑俗を甘んずるつもりだ。君は沢山読み沢山書き給へ。学科などはどうでも好い。折々落第してもよい。
  明治四十年春
                         幸徳秋水
橋田東聲様


 文中の「今度の出版」については、塩田庄兵衛氏の注を写しておきます。――「論文集『平民主義』(隆文館)は、明治40年4月25日付で発行と同時に禁止された。」
 同日発禁といっても流通?はしたようで、東声と同年生まれの歌人・石川啄木はこの本を入口に秋水に近づいたのではなかったか。
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by kaguragawa | 2015-02-28 19:02 | Trackback | Comments(2)

盛岡のプジェー神父――石川光子と宮澤賢治   

 石川啄木の伴侶となった堀合節子が啄木と知り合った頃(明治32年)、節子は盛岡女学校に学んでおり、そんなことがきっかけになったのかと思いますが、節子を姉のように慕っていた啄木の妹光子(ミツ)も、渋民高等小学校を出た後、このカトリック系の盛岡女学校に進みます(明治38年)。光子は、結局石川家の経済的事情もあり、修学もままならず退学することになるのですが、この折のことが、『悲しき兄啄木』(1948)に、次のように書かれています。

 私が渋民に帰らなければならなかったのは、兄のそのときの状態として学資が出なかったことによるのですが、別の方法でなら全然続けられなかったというわけではなかったのです。
 実は盛岡女学校は天主教の学校でした。フランス人の校長のタカエ先生や舎監のマリヤ先生、それにプジェ神父などから私が「もし希望するのであったら、学資を出してやろう。そして東京の仏和女学校に入学させよう」という話でした。そこを卒業して母校盛岡女学校の先生にするということなのです。
 私はどんなに喜んだことでしょう。早速渋民に帰ってそのことを父母に相談しました。すると、
 「お寺でそだっていながらヤソのお世話になるなどは怪しからぬこと――たってというなら勘当だ」
 などと思いもよらぬ強い反対でした。


 そして、光子は翌年(明治40年)1月には女学校を退学し、5月には兄啄木と北海道に渡ることになるのです。このあとの光子の宗教的変遷やそもそも光子がキリスト教へ関心をもつようになったことに兄啄木の影響があったことについては、多くの書かれたものがあるのでここでは割愛します。

 ここで、注目しておきたいのが光子の回想の中に登場する《プジェ神父》のことです。盛岡のカトリック神父プジェといえば、宮沢賢治のファンの方なら賢治の短歌や詩に、
ブジェー師よ かのにせものの赤富士を 稲田宗二や持ちゆきしとか/プジェー師よ いざさはやかに鐘うちて 春のあしたを 寂めまさずや〕などと登場するプジェー師の名をきっと思い出されることでしょう。そうです、賢治の作品に登場する盛岡天主公教会のプジェーが、石川光子に修学を続ける手だてを講じようとしたプジェ神父なのです。
 『宮澤賢治語彙辞典』によると、プジェー神父(Armand Pouget/1869~1943)は、明治35年から大正11年まで盛岡にいたようですから、同じ女学校を卒業しながらも早く卒業した堀合節子はプジェーとは顔を合わせていないかもしれませんし、教会とは無縁だった啄木も会う機会はなかったことでしょう。しかし、啄木の妹光子と少し時代は遅れますが(約10年後)賢治が、盛岡でプジェーと縁ができているのですから不思議なものです。

 このプジェー神父〔Pouget,Hippolyte Pierre Jean Armand〕についてはもっと多くのことを知りたいと思っていますが、盛岡のあと宇都宮の松が峰教会に移られたようですが、日本で亡くなられたのかどうかも私にはわかりません。ご存じの方があれば、ご教示いただければと思います。

〔補記〕
 石川光子(三浦光子)のその後については、あらためて書きたいと思っていますが、光子自身の著作のほか小坂井澄『兄啄木に背きて――光子流転』(1986/集英社)、藤坂信子『羊の闘い――三浦牧師とその時代』(2005/熊本日日出版社)の2冊のすぐれた本があることをお知らせしておきます。


〔追記〕
 いろいろ検索した結果、ようやく、次のようなサイトにたどりつきました。驚いたことに、一緒に調べていただいた賢治研究者の浜垣さんも、このページを見つけられたようです。
http://archives.mepasie.org/notices/notices-biographiques/pouget-1
http://archives.mepasie.org/annales-des-missions-etrangeres/na-c-crologe-missionnaire-2

POUGET Hippolyte (1869-1943), né le 19 novembre 1869 à Prades (Aveyron), entra au Séminaire des M.-E. en 1888, fut ordonné prêtre le 27 mai suivant, et partit pour la mission de Hakodaté le 19 juillet 1893. Après l'étude de la langue, il travailla dans le département de Mi-yagi, et, en 1898, fut envoyé dans l'île de Sado. En 1901, il fut chargé d'établir un poste dans le port de Otaru. De 1903 à 1925, il fut responsable du poste de Morioka. Il fut ensuite nommé curé de Fukushima. Agrégé en 1934 à l'archidiocèse de Tokyo, il fut chargé de la paroisse de Utsu-nomiya. En 1938, quand fut divisé l'archidiocèse de Tokyo, il suivit Mgr Chambon à Yokoha-ma, puis se retira à Wakabachô. Il mourut le 3 avril 1943 à Yokohama. Il était collectionneur de gardes de sabres (suba), et fit don de sa collection au musée de Tokyo.

POUGET Hippolyte Pierre Jean Armand, missionnaire à Yokohama (Japon), décédé en mission le 6 avril 1943, à l'âge de 74 ans.
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by kaguragawa | 2013-02-16 22:52 | Trackback | Comments(0)

金沢と豊巻剛(3)   

 江南文三は、古い辞典類では石川県生まれだったり、金沢生まれだったりの記述がみられますが、これは間違いのようですね。戸籍上は明治20年12月26日、東京市本郷区曙町一番地出生となっているようです。開成中学校を卒業して、第四高等学校に進んだようです。辞典類には異同があって私には確としたことをここに書けないのですが、四高の入学は、豊巻剛と同年の明治38年と考えてよいのではないでしょうか。
 四高の同期として知り合った豊巻が盛岡の出身と聞いて、江南から豊巻に尋ねたのはないでしょうか。

 江南:豊巻君、君は盛岡中学校の卒業ということだが、石川一(はじめ)君を知らないか?。
 豊巻:えっ、江南君は、どうして石川さんをご存じなんですか?
 江南:石川君は僕と同じように『明星』の同人なんだよ。
     彼の作品が、「白蘋」の名で明星に載ったのが3年前、明治35年の秋、
     僕はそれに刺激を受けて2年前から明星に投稿を始めたんだよ。

 上の対話は私の戯作で、実際のところ江波文三が啄木の作品に刺激を受けたかどうかはわかりませんが、ともに明星に作品を寄せる早熟の文才を持っており、お互いの存在は知っていたのでしょう。

 ここに盛岡:石川啄木(明治19年生)、金沢:江南文三(20年生)、豊巻剛(20年生)のトライアングルができあがったようです。

  『石川近代文学事典』(浦西和彦編/和泉書院/2010.3)には、【江南文三】の項があり、“38年に金沢の第四高等学校に入学。41年10月、北辰詩社の機関紙として創刊された「響」に寄稿し、第二号に「赤き唇」を発表。四高在学中に、「北辰会雑誌」や「スバル」に詩を発表した。42年9月、東京大学英文科に入学。翌年1月から大正2年12年まで「スバル」の編集を担当した。”とあります。

 金沢での豊巻と江南の間にどれほどの親交があったものかまったくわからないのですが、『響』はともかく、四高の『北辰会雑誌』には、豊巻も寄稿しているのではないかということです。これは、調べてみたいと思います。この辺りから金沢における豊巻剛の足跡を追う手がかりが得られるのではないかと思うのです。

 その後、豊巻は留年せず四高を3年間で卒業し、明治41年東京帝国大学文科大学国文科に進学、4年在学した江南はその翌年、豊巻を追うように同学の英文科に進学。一方、北海道を経て明治41年5月、東京に出てきた啄木は、東京での文学的交流を広げながら、42年1月、途絶した『明星』をその主要メンバーとして新たな文芸雑誌『スバル』として再生させます(第2号は、啄木みずから編集)。この『スバル』に、江南は当初金沢から寄稿したようですし、東京へ出てからこの編集を受け継ぎ、43年1月からは発行名義人も啄木から引き継ぐこととなります。
 東京の地で、啄木、豊巻、江南の三人が顔を合わせたのかどうかわかりません。その機会が訪れる前に、豊巻が亡くなってしまった可能性があるからです〔明治43年4月歿。享年24〕。その翌年に豊巻の雅号「黒風」を刻した遺稿集『黒風遺稿』が出されたといいますから、江南も関わったのかも知れません。
 残念なことにこの『黒風遺稿』、国会図書館にも、岩手県下の図書館にも、石川県下の図書館にも架蔵されていないようです。どなたか情報をお持ちの方があれば、お寄せくださるとうれしく思います。

 啄木の友人が金沢の第四高等学校(四高)にいたという短い報告を書くつもりが、推測ばかりの内容皆無のものになってしまいました。が、この豊巻剛が3年間、金沢でどのような生活を送ったのか、その豊巻の金沢での足跡を終える資料が残されているのか、おそらくは自由を謳歌したであろうこの同郷の友の金沢での学生生活を啄木はどのように受けとったのか、など、確認してみたいことがらもいくつ出てきました。
 いずれにせよ、資料の発掘が必須です。今は、豊巻の名前「剛」の読みについての報告で、お終いにしたいと思っています。 
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by kaguragawa | 2012-12-01 18:24 | Trackback | Comments(1)

金沢と豊巻剛(2)   

 啄木の書いた『小天地』の社告を紹介しながら、ちょっとひっかかっていたことがありました。。啄木が豊巻の四高進学を“遠く金沢の学寮に遊ぶ”と書いていることでした。四高という具体名を出さずにさらりと言ったところはさすがと思ったのですが、それにしても「寮」とは?・・・、と思っていたのですが、2つの面ですっきりしました。一つは、そもそも“学寮”にカレッジ(college)の原義が活かされてつかわれていること、一つは、四高に文字通りの学寮《時習寮》があったことです。

 実は昨日、仕事で金沢に行く用があり、《石川四高記念交流館》に立ち寄ったのですが、そこであらためて「時習寮」の存在を再認識しました。そこの展示にこの寮名が論語からとられていることの説明に続いて“南・中・北寮の3寮があり収容人員は約190人。入学生徒のうち金沢市出身者以外は、原則入寮と定められたが、門限や食事などに悩まされ、1年で出る生徒も多かったという。”と、あるのです。

 豊巻も明治38年9月の入学当初は、四高構内にある「時習寮」に入ったのではないでしょうか。そしてなんとその翌年の明治39年3月に時習寮の南寮が全焼しているのですね。こうしたタイミングで、豊巻は学校にほど近い上柿木畠に移ったのかもしれませんね。

 ここまでが前書きで、この第二便では、豊巻剛の名前「剛」の“読み”について書くつもりだったのですが、もう少し、啄木との関係で金沢の豊巻剛のことを書いておきます。先の便を書いた後で、ひょっこり思い出したのです。『石川啄木全集』の第七巻の「書簡集」を、「書簡集」だけを、もっていたぞ・・・と。たしかに有りました。
 急いで索引をみると、この書簡集には、啄木が豊巻に宛てた書簡が7通収録されていました。この最後のものが、豊巻が啄木のもとから金沢に去った1か月後に出されたものだったのです。ここに写しておきます。

昨日貴信拝誦、うれしく存じ居候、
小天地二号は、小生の健康がゆるしがたきものあり、未だ発行致さず居候、その代り十一月には紙数を増やして特別号とす、二十五日頃までに御稿御恵みを乞ふ、江南君へも御伝へ被下度候、
秋雨粛々として降る日也、杜陵の風物日々に寥落を加ふ、
兄願くは健在なれ、
  十月二十日


 先のお便りに、「『小天地』の第2号に、豊巻は金沢から寄稿していた可能性が強いのですが、それに併せて豊巻は金沢の文物の報告を啄木に書き送っていたと考えてもよいのではないか・・・」と書きましたが、やはり豊巻と啄木との間に、『小天地』の続号をめぐって手紙のやりとりがなされていたのです。啄木返信に見られる「貴信拝誦、うれしく存じ居候」の文言や盛岡の現況報告から、豊巻は金沢の風物を近況に併せて書いて送ったとみてよいでしょう。
 注目すべきは、《江南君》の文字がみえることです。江南文三・・・。金沢の地にかすかな啄木の所縁を求めてうろついていたらば、そこには後年、啄木の後を継いで『スバル(昴)』の発行名義人となる江南文三(えなみ・ぶんぞう)もいたのです。

 そう言えば、私が金沢の豊巻剛を見つけた啄木の住所録を、あらためて見るとそこに;

  江南白雪氏   金沢市第四高等学校寄宿舎時習寮

と、あるではありませんか。江南文三(白雪)がいたのは、上に紹介した《時習寮》だったのです。
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by kaguragawa | 2012-11-27 20:16 | Trackback | Comments(0)

金沢と豊巻剛(1)   

 S先生へ

 先日来、豊巻剛の件で、お調べいただき有り難うございました。お礼と併せて、2つばかし報告をさせていただこうと思って筆をとりました。

 「豊巻剛」は、啄木の日記で何度か目にした名前だったのですが、その豊巻剛が同じく啄木の日記の住所録に「金沢市上柿木畠四五」と録されていたことから、第四高等学校の学生だったのかなと興味を持ったのが始まりでした。もしやと思って調べた『石川啄木事典』(おうふう/2001)に次のように記してあったことは、このブログでも報告しました。

 豊巻 剛 とよまき たけし
 1887年(明治20).3~1910年(明治43).4.5 号、黒風。
 岩手郡玉山村生まれ。啄木の中学の2年後輩で白羊会、闇潮会同人。1905年(明治38)盛岡中学校卒業。同年9月に啄木が創刊した文芸誌『小天地』に長詩「古障子」を寄稿し、校正なども手伝った。金沢の第四高等学校を経て東大文学科に進んだが、結核のため在学中に、24歳の若さで没した。没後、有志の手により『黒風遺稿』が刊行された。(浅沼秀政)


 事典の記載からこの豊巻が四高生として金沢にいたのは、1905(明38)年から1908(明41)年までかな?と推測したのですが、ご調査いただいた『四高同窓会名簿』によりますと、間違いなく「第四高等学校/一部文科」に在籍しており、卒業が明治41年7月とのこと。「当時の科の構成は、一部は法科と文科、二部は工科、理科、農科、薬学科、三部は医科となっております。」と、ていねいに教えていただいて、一つ懸案事項が明快になったこと、うれしく思いました。

 これ以上のことは、学籍簿などが引き継がれている第四高等学校の実質的な承継校である金沢大学に調査依頼をするしかないようですが、今の私にはそこまでの気力がありません。それよりも「7月卒業」というご報告に、“あっ、そうか”とうなずくと同時に、“はっ”とひらめいたことがありました。うかつにも、このころ旧制の高等学校が9月始まり(秋入学)であることをすっかり忘れていたのです。

 この豊巻さん、明治41年7月の卒業であって、もし留年が無かったとすれば、入学は明治38年9月になるのです。啄木のことはそんなに詳しくない私でも、この「明治38年9月」の日付には、思い当ることがありました。
 そう、啄木が盛岡で編集発行した文芸雑誌『小天地』の発行が、明治38年9月なのです。豊巻が盛岡から遠地金沢の第四高等学校に向かった時期と、この『小天地』の発行の時期は重なるのではないか・・・。たしか、豊巻は、『小天地』に詩を寄稿していたはずです。帰宅するや否や、復刻版の『小天地』を引っぱりだしました。そこには、豊巻剛の「古障子」という風変わりな詩が間違いなく載っていたのです。が、私が驚いたのは、この詩だけではありませんでした。Sさんにぜひお知らせしたいことが書かれていたのです。
 『小天地』巻末の「社告」にはこのように書かれています。一部略して写しておきます。

 ●世に我が『小天地』程、匆卒の間に成りたる雑誌は少なかるべく候。余が初めて同人大信田落花の来訪に接し、会談三時間、本誌発刊のことを決し、即時相携へて我が草庵を立ち出で印刷販売等の諸件に就いて、市内を奔馳したりしは、実に八月の十一日の夕なりき。爾来倥偬僅かに二旬、幾多の困厄障礙ありしに不拘、期日に遅るること一両日のみにして、遂に茲にこの初号を読者諸君の机下に呈するを得るに至れるは、寄稿家諸氏の深大なる同情に依るとは云へ、抑々また天祐と謂つべき乎。
 ●ただ之等の際に当り、寄稿家諸氏の深き同情と豊巻剛、岡山月下、小林花京、阿部月城等諸君の注意深き尽力とによりて、茲に恙なく呱々の声をあぐるに至れり。特に豊巻君が遠く金沢の学寮に遊ぶべき日を眼前にひかえ乍ら、日々校正の労をとられたると、阿部君が任地に赴くの途次、万事を犠牲にして務められたるとは、余の厚く感謝する所に候。


 石川啄木はこの「社告」に、“遠く金沢の学寮に遊ぶべき日を眼前にひかえ”た豊巻剛の尽力をその名を挙げて深謝しているのです。啄木は、同郷の後輩がこのとき盛岡中学校を卒業し、「金沢の学寮」(=金沢の第四高等学校)に行くことをはっきりと知っていたのです。
 こうしたことから、金沢の豊巻剛の足跡を追ってみるのも一興かと思うのです。発行はされなかったものの発行直前まで進んでいた『小天地』の第2号に、豊巻は金沢から寄稿していた可能性が強いのですが、それに併せて豊巻は金沢の文物の報告を啄木に書き送っていたと考えてもよいのではないか・・・。

 豊巻剛に関する報告のもう一つは、豊巻の名「剛」の読みに関する点です。『石川啄木事典』には「たけし」としてあるのですが、「つよし」かも知れないのです。この点はあらためて。

〔追記〕
 「社告」中の人名は、原文のままですが、「岡山月下」は岡山不衣(儀七)、「小林花京」は小林花郷(茂雄)のことだろうか。岡山儀七は、後日、岩手毎日の編集長として宮沢賢治のいくつかの作品の初出に関わることになる。
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by kaguragawa | 2012-11-23 19:38 | Trackback | Comments(0)