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瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(1)   

 富山には滝廉太郎に直接、間接に関わる人が思いのほかに多い。
 東京音楽学校の廉太郎の学友で、廉太郎の死後、富山県に関わることになった人のことだけをメモしておきます。

 次稿に、『東京音楽学校卒業生名録』(大正十五年十月)から、廉太郎の卒業年次である明治31年前後の、卒業生の名前を本科専修部の生徒の分だけ写しておきます。ご覧ください。〔「明治三十一年七月卒業」の筆頭に「滝廉太郎」の名前があります。〕

 一学年上に、《桜井信彰》の名前が見えます。櫻井信彰(さくらい・のぶあき)は弦楽器の名手だったようです。在校当時も、演奏会で滝のピアノ、櫻井のヴァイオリン、一学年下の益山鎌吾のチェロの三重奏でブラーガ (Gaetano Braga) のセレナーデを演奏している記録が残っています〔1897.12.24の楽友会演奏会〕。その前後に撮られた3人の写った写真は紹介されることが多いので、目にする機会の多いものです。櫻井は、卒業後ケガのため演奏家としての道は断念し、音楽教師としての道を歩むことになりますが、なんとこの方の奥さんとなるのが富山の人なのです。土井フサ〔房〕さん。先日(27日)紹介した、土井宇三郎の姪です。そして、晩年(1945年)、櫻井信彰は娘の琉璃子と氷見に疎開、琉璃子が国泰寺末寺の宝光寺(氷見市加納)の住持と結婚したことで、氷見に住むことになり氷見で亡くなります。
(以上は、劔月峰『櫻散りぬ――ある小学唱歌教師一族の近代史』(文芸社/2007.4)に多く拠っています。)

 もう一人、注目すべきなのがやはりこれも一学年上の《高塚鏗爾》です。高塚鏗爾(たかつか・こうじ)は、廉太郎が1901(明治34)年4月6日に、横浜港からヨーロッパに旅立った際、日本最後の寄港地・長崎で滝を迎えています(9日)。長崎は当時の赴任先だったかと思われますが、高塚は夫婦で滝を迎え送っています。高塚は、長崎県師範学校などを経て、1908(明治41)年に富山県師範学校に赴任するのです。そして、高塚の音楽的感化によって、一人の若者が音楽に志すことになります。高階哲夫です。
 高塚鏗爾は、富山で多くの音楽教師を育てた富山の音楽界の恩人です。まずそのことをしっかりと覚えておく必要があります。その上で、考えておきたいのは、彼が小学校の音楽教師を育てていく中で、滝廉太郎の思い出を語り、なにより滝の音楽を富山に多く紹介したであろうことです。なお、高塚鏗爾は、『楽理研究』という本を、1917(大正6)年に中田書店から出しています。この中田書店の創業に同級の櫻井信彰の妻フサの伯父が関わっていたことなど知っていたのかどうかは、わかりません。またフサは初産を実家で迎えるために、夫・信彰の赴任地長崎から富山の土井家に里帰りしていますが〔1916(大正5)年〕、富山にいた高塚鏗爾がそうしたことを知りえる状況にあったのかどうかは不明です。(櫻井信彰=高塚鏗爾の間に、親しく近況の報告など手紙のやりとりがされていれば、その可能性はありますが。)
 残念なことに、私には、高塚が富山にいつまでいたのか、また、いつ亡くなったのかなど今のところまったく、わかっていません。が、今書いたように師範学校教師として多くの若者に接しているはずですから、教えを受けた生徒の証言がどこかに残ってないものなのか、そんなことも掘り出すことができればいいのに・・・と思います。

 隣県・石川県の石川県師範学校に赴任した滝の後輩・新清次郎(あたらし・せいじろう)に関わる富山県人もいることと思われるが、新清次郎については別にふれることにします。
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by kaguragawa | 2016-06-29 20:25 | Trackback | Comments(2)

瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)   

 『東京音楽学校卒業生名録』(東京音楽学校/大正十五年十月)から;
(滝廉太郎卒業年次〔明治31年〕前後の本科「専修部」卒業生のみ記載)
 ■当時、東京音楽学校は、「秋」入学でしたので、卒業は「7月」です。
   ☆字体は通用字体に直しましたが、仮名遣いはそのままです。

明治二十九年七月卒業
 安藤 幸  東京 (元 幸田)
 永井幸次  鳥取
 東 クメ  和歌山(元 由比)
 塚越クガ  東京
 高橋二三四 岩手
 草野トメ  長野 (元 鈴木)
 三沢ステ  東京 (元 小関)
 河野虎雄  東京
 山形キク  東京 (元 内田)
 片岡亀雄  東京
 米野鹿之助 三重
 林 ツル  三重 (元 上原)
 鈴木フク  滋賀

明治三十年七月卒業
 橋本正作  栃木
 神山末吉  東京
 高塚鏗爾  東京
 稲岡美賀雄 山形
 鴨下鹿衛  高知 (元 横山)
 桜井信彰  静岡 
 天谷 秀  東京
 田井ハル  滋賀 (元 林)
 小林ヤヘノ 京都
 園江トミ  東京 (元 武田)

明治三十一年七月卒業
 滝廉太郎  大分
 杉浦チカ  東京 (元 高木)
 栗本清夫  東京
 安藤カウ  東京
 石野 巍  東京

明治三十二年七月卒業
 神戸 絢  東京
 益山鎌吾  鹿児島
 田村クニ  富山 (元 河合)


〔大事な追記〕
 上掲の名簿をじっくりご覧になった方がおられるとすれば、気付かれたことがあるはずです。なんと、滝の一学年下に“河合クニ(田村クニ)”という富山県人の女性の名前が見えます。1900(明治33)年入学の上市出身の福井直秋よりも、滝と身近に接したはずの富山県人です。どなたか、このクニさんのことをご存知の方はおられないものでしょうか。

〔追記:2〕
 本文中もこの名簿も、明治32年7月卒業生「益山鎌吾」の名前は上掲資料に従い、“鎌吾”としました。“謙吾”となっている資料もありますが、私には「鎌」「謙」の正否を決める手掛かりがないので、ここでは引用元資料のママです。

 今日は、滝廉太郎〔1879.08.24~1903.06.29〕の命日である。

〔追記:2016.06.30〕
《河合クニ(田村クニ)》については、富山県内でその足跡が見あたらず卒業後は音楽教師の道にはすすまなかったのかと思っていましたが、大阪の清水谷高等女学校、神戸の親和高等女学校(現:神戸親和女子大学)の音楽教諭として田村クニの名前を見つけました。ほっとした気分です。

〔追記:2016.10.31〕
《河合クニ(田村クニ)》は、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることがある史料から判明しました。そうした史実のフォローはこれからです。
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by kaguragawa | 2016-06-29 20:23 | Trackback | Comments(0)

初代の富山県「県会議事堂」   

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 初代の富山県「県会議事堂」(1887〔明治20〕年)。瀧大吉の設計によるという。


〔追記〕 以下は、6年前に(2009年5月25日)に、「幻の「滝の作品」を富山の街に探す」という題で、前のブログに書いたものの再録です。ここに書いている県会議事堂の「パース」についても、いずれ紹介したいと思います。

 一枚の素朴な筆致のパースに出会って釘づけになりました。古いものですが、なぜか不思議な魅力をもっているのです。

 “最初の県会議事堂 明治20年に県庁前に堀を隔てて建てられた”という説明がついています。『富山県のあゆみ』、――富山県の置県90年を記念してつくられたビジュアル県小史というべきもの――もしかしてこれに、写真が載っているのではと、淡い期待をもって開いてみたらば、写真ではなくパースがありました。富山県最初の県会議事堂の正面図です。

 滝廉太郎が幼少期に富山で1年半ほど暮らしたということで、後年の名作「荒城の月」は富山城址をモデルに作曲したもの、「お正月」や「雪やこんこん」は富山の冬が反映した作品、――という主張が近年よく見られます。そうした議論もいいのですが、滝の作品が間違いなくこの富山に存在していた事実をもっと掘り下げてみたいと思っています。ただしここにいう「滝の作品」とは、廉太郎の楽曲ではありません。廉太郎の年長の従兄弟、建築家の滝大吉の作品です。
 初代・〔富山県〕県会議事堂と上新川郡会議事堂が、滝大吉の設計作品だという驚くべき事実をさりげなく教えてくれたのが松本正さんの『滝廉太郎』でした。廉太郎同様(廉太郎以上にか)強い関心をもっている滝大吉の設計した建築物が富山にあったなどとは想定だにしていなかったのですから、この事実にはわくわくしました。“明治時代の県会議事堂の写真なら探せば見つかるかも”と思い、最初に手に取った本のページを、――多少というか、かなりというか、期待しつつ――繰ったら、写真ではなくパースが出てきた、というわけです。
 ただし廉太郎は有名でも、無名の滝大吉は県内の歴史家にとっては興味の対象外だったのでしょう。議事堂のパースには設計者の名前は記されていません。しかし廉太郎以上に、大吉は富山県にとって直接に有縁の人物だったのです。

 この県会議事堂と上新川郡会議事堂があったであろう場所を、旧地図と見比べてほぼ特定し、きょうその地に「パースに描かれた幻の建物を」訪ねてみました。あきらめていた「郡会議事堂」の場所探しも、「郡」とは何だったのかという問いと並行してほぼ「解」をみつけることができましたが、その報告――地図散策と小さな街歩き――は、また後日に。

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by kaguragawa | 2015-08-17 22:31 | Trackback | Comments(0)

もういくつねるとお正月   

 偶然、8年前?に書いたものが見つかったので掲載しておきます。


♪もういくつ寝るとお正月、お正月には・・・♪

 瀧廉太郎の曲「お正月」は、お正月の歌というより、指折り数えてお正月を待つ歌です。 が、この「もう●つ寝るとお正月」というフレーズは、この曲の作詞者・東くめのオリジナルの表現でなく、当時よく使われていた言い回しかも知れない、ということに気づきました。

 きょう偶然この「もう●つ寝ると」という言い回しを、あるところで見つけたのです。
 巌谷小波(いわや・さざなみ)の童話「こがね丸」が発表された『少年文学叢書』(博文館/1891〔明24〕.1)の[凡例]中です。この凡例の末尾で小波は「庚寅の朧月。もう八ツ寝るとお正月といふ日 昔桜亭において 漣山人誌」と記してるのです。(岩波文庫『日本児童文学名作集(上)』)

 しかしこの小波の特徴的な言い回しと、「お正月」の歌いだしの部分とは、偶然の相似なのでしょうか?。

 そうとも言えない事実があります。
 巌谷小波と瀧廉太郎、東基吉・くめ夫妻は交流があったのです。
 「お正月」を含む『幼稚園唱歌』(共益商社/1901〔明34〕.07)の緒言には“作歌を、女子高等師範学校の附属幼稚園において批評掛りを担当せられるゝ東基吉氏、及び漣山人巌谷氏に、作曲を瀧廉太郎氏、鈴木毅一氏及び東クメ氏に乞ひ、歌曲の品題、歌詞の程度、曲節の趣味、音域等、凡て以上の諸先生が多年の経験を基にして製作せられたるものを集め、ここに新に此の書を編したり、(以下略)”とあります。

 となると、やはり♪ もういくつ寝るとお正月 ♪の出処は、巌谷小波かと思うのですが、どうでしょう?。

 なお、小波はライプツィッヒに留学した廉太郎とベルリンで再会しています。
 小波は、ベルリン大学東洋語学校に日本語の講師として先立って赴任していたのです。

〔追記〕
岩波文庫『日本児童文学名作集』は、なかなかユニークな選集です。一度手にとってみられることをお勧めします。
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by kaguragawa | 2012-12-29 06:21 | Trackback | Comments(0)

コーヒーブレイクの落書き――滝廉太郎、管野すが、朝倉文夫   

 後に作曲家となり夭折した滝廉太郎と、後に大逆事件で刑死することになる管野すが(須賀子)が大分県直入郡竹田町(現:竹田市)の直入郡高等小学校でニアミスをしています。おもしろいものです。
 1892(明25)年1月にこの小学校に転入した滝廉太郎は、1894(明27)年4月に16歳で卒業し東京へ、1年後の1895年9月に15歳の菅野が転入し、翌年卒業しています。

 後に彫刻家となる朝倉文夫は、1893(明26年)から1897(明30)年までこの高等小学校にいたはずですから、廉太郎ともスガとも顔見知りだったことになります・・・。滝と朝倉については同窓生として語られることが多く、朝倉の廉太郎像も有名ですが、朝倉と管野はどうなのか。
 清水卯之助さんの『管野須賀子の生涯』(和泉書院/2002)には、この辺りのことが書かれているのだろうか?。


  *瀧廉太郎  1879.08.24~1903.06.29
  *管野すが  1881.06.07~1911.01.25
  *朝倉文夫  1883.03.01~1964.04.18
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by kaguragawa | 2011-11-02 22:14 | Trackback | Comments(0)

意外な人々に出会いがあったかも・・・   

 天保十二年(1841)生まれの岸六郎――のちに夢二の伴侶となり知られるようになった他万喜(たまき)の父です――が、富山に来たのが明治16年。
 天保十三年(1842)生まれの瀧吉弘――若くして亡くなった作曲家・瀧廉太郎の父です――が、富山に来たのが明治19年。
 岸は裁判官として、瀧は県の書記官としてもと富山城のあった場所で官吏として勤め、二人は数年間重なった生活を送っています。官舎もそれぞれ西四十物町、千石町と近くだったようですから、ほぼ同年のこの二人は顔を合わせることがあったのではないかと思います。むしろ官吏仲間としてお互い顔は知っていたと考えた方が自然ですし、案外、親しかったも知れません。なにか不思議な思いがします。
  
 ほぼ同年の二人の意外なニアミスということでいえば、夢二の永遠の女(ひと)と言われる笠井彦乃と、賢治の妹の宮澤トシもそうです。2歳違いです。下の生歿年を見ていただければわかるように、彦乃の方が生まれたのも亡くなったのもそろって2年先です。この二人は、同時代を同じ時間を重ねて生き、二十代の若さでともに結核で亡くなっているのです。

 1915(大4)年、日本女子大の女学生となって上京したトシは、その前年に開店し若い女性に人気のあったた夢二の港屋絵草紙店を訪れたことがあったかもしれない・・・と、これも想像をたくましくして、以前書いたことがありました。が、もしそうだとすれば、宮澤トシは店の女主人たまき(岸他万喜)とも、そして当時女子美術学校の生徒でこの店の常連だった彦乃とも顔を合わせているかも知れないのです。
 もっとも、トシのいた大学の寮・責善寮は大学の創設者・成瀬仁蔵の意向で戒律がきびしくそんな自由がなかったかもしれませんが・・・。
 
  笠井彦乃  1896.03.29~1920.01.16
  宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  宮沢トシ   1898.11.05~1922.11.27

 こんな想像の話はともかく、もっと驚くべき事実があるようなのです。なんと彦乃は女子美術学校に行く前、日本女子大にいたらしいのです。4年で中退したというのですが、とすれば学齢の計算上、彦乃とトシはわずかの期間たりとも日本女子大で出逢っていたかも!?ということになるのですが、実際はどうなのでしょう。興味のあるところです。

〔追記〕
 当時の日本女子大って3年制じゃなかったっけ、4年で中退って変だな?・・・という疑問があったのですが、どうも笠井彦乃は常盤高等小学校を卒業して日本女子大の附属高等女学校に進んだらしいのです。その後、女学校を中退して夢二の勧めで?女子美術学校に行ったというところが正解のようなのです。
 が、これも卒業・進学年次もふくめ正確なところは、私にはまだよくわかっていません。課題としておきたいと思います。
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by kaguragawa | 2010-06-19 01:43 | Trackback | Comments(0)

「神田仲猿楽町の〔奇数番地〕」「香林坊のお坊ちゃん」・・・   

 日記版「めぐり逢うことばたち」の過去ログを検索していたら、ちょうど半年前に、書こうと思いつつ書けないテーマを並べてありました。結局は書かないままになってしまい、今になってみずからの“書かれざる記事”を読んでみたいと思ったりします。そのとき集めた資料はもう四散してしまっていて、あらためて書くことは不可能に近いのです。

 ちなみにそれらのテーマとは、《芭蕉の泊まった小松の立松寺〔龍昌寺〕と、金沢裏五十人町の猫寺・龍昌寺》、《聖公会の博愛教会と女子英学塾――瀧廉太郎のいた麹町の一コマ》、《室生犀星の初上京〔明治43年5月6日〕をめぐる自伝小説の諸相》・・

 そしてここ一週間ほどの間に書こうと思いつつ書けなかった(書かなかった)のテーマを列記しておきます。一つでも文章にして残せたらと思っていますが・・・。

 「〔かきやま〕と〔かきもち〕(2))」「螺旋水車の時代」、「隣り合わせの子規と一葉」「秋声の漱石論――文学と哲学」「神田仲猿楽町の〔奇数番地〕」「香林坊のお坊ちゃん」「霜川〔水郷〕の朗読会」・・・
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by kaguragawa | 2010-01-22 01:14 | Trackback | Comments(0)

番町麴町「幻の文人町」   

 きのう3年前に書いたものを再録しつつ、麴町を走っていた「街鉄」→「東鉄」→「市電」→「都電」と名を変えていった路面電車(賢治の東京時代は「市電」)のことや、「新宿通り」のうち、半蔵門から四谷までが「麴町大通」と呼ばれていることを思い出して、そこをキーワードに検索を楽しみました。

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 いままでその断片だけを、検索にひっかかってきた折々に閲覧していた「麴町界隈わがまち人物館」「麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)」という二つのサイトのホームページを見つけていろんな情報が蓄積されていることを知りました。
 そう言えば、そこにも紹介されている『番町麴町「幻の文人町」を歩く』(新井巌/彩流社)は、網羅的な番町麴町人物紹介ですが、番町麴町にいっときたりとも住んだ石鼎も賢治も取りあげられていないのがとても残念なことです。

 〔追記〕
 『番町麴町「幻の文人町」を歩く』。この本は、昨年平河町にその地でお仕事をされているI氏を訪ねた時、貸していただいた本。おかげで、氏と別れた後、この本をしっかり抱えて坂の多い夜の麴町番町を、一葉や廉太郎の短い生を思いながら、何時間も歩くことができました。
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by kaguragawa | 2010-01-11 20:39 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

5年前の、賢治を東京に訪ねる旅   

 自分の「覚え」のために、日記に書いた5年前の「賢治を東京に訪ねる(尋ねる)旅」を再録しておきます。

■2004/11/14 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(1)

 三丁目坂。こんな名前がつく坂を――いつついたのだろう新しい名前のはずだ――護国寺に向かう広い音羽通りの警察署〔大塚署〕のところから西に登る。かなりの勾配で視線がどうしても足元に落ちてしまう。
 東京のこの坂道を、賢治は毎日(2カ月余)行き来したはずなのである。おそらくその賢治も、ときには雪でぬかるんだこの坂を、目線をいつも下に落としながら、ではなかったろうか……。

 今は、文京区目白台三丁目。宮沢賢治が訪れた大正七年(1918)には、「東京市小石川区雑司ケ谷町」。
 前後のいきさつは、調べていない私には正確に記述できない。が、日本女子大学に在学中だった妹・トシが、高熱を出して入院との報に、賢治と母イチは、年も押し迫った12月27日、急遽、花巻から上京。おそらく宮沢家と旧知であった日本橋の小林六太郎氏がこれも急遽、その病院の近くの宿を探し出し、この親子に世話したのだろう。
 賢治の手紙にトシが入院する「永楽病院」として登場するこの病院は、東京帝国大学附属病院・小石川分院。平成13年に閉院しているものの、いまだ目白台三丁目の坂を音羽通りから登ったところにその広大な敷地のまま建物は残っている(賢治の頃の建物ではないが)。

 “拝啓 今朝無事着京致し候 午後二時永楽病院にて面会仕り候処 別段顔色も悪からず言語等常の如くに御座候
 昨日は朝三十八度 夜三十九度少々 咽喉を害し候様に見え候”

 (この12月27日から翌年の2月6日までほぼ毎日の父への報告書簡の残るその葉書の第1号である。ちなみに、賢治の父あての書簡は、すべて[候文]である。)

 賢治は病院から数分のところ、「雲台館」という名の宿(宿といっても下宿のようなものだったのだろう)から、毎日(おそらく朝と夕方)病院にトシを見舞ったのだ。

 賢治を東京に訪ねる旅。今回は、この「雲台館」と、私の方も“急遽”決めたのでした。


■2004/11/16 (火) 「雲台館」の賢治を訪ねる(2)

 「ここは、あの菊坂の谷間……」。桂林寺横の「雲台館」があったという小路に入り込んだとき、身に迫ってきた不思議な思いでした。

 雑司ヶ谷の一画、ここは――この時の2年後、賢治が花巻を突然飛び出し、日蓮宗の在家集団《国柱会》に通い、多くの童話の萌芽を自らのものにした――あの本郷菊坂の下宿の雰囲気と同じなのです。
 何が、どう、同じなのか。そのとき、この雑司ヶ谷の小路で自分が何を感じていたのか、うまく伝える言葉がないのですが、ひとことで言えば、日の射し方でしょうか・・・。独特の地形によってこの雑司ヶ谷の寺の脇も、菊坂の谷間もなにか、「異界」といった趣があるのです。もちろん一過の旅人に過ぎない者の、たわいもない感想ですが。

 実は、この日(先週の土曜日)ここを訪れたのは、音羽通りからではなく、日本女子大→帝国(東京)大学附属病院の順でした。大学の横から少し歩くと、周囲を独特な塀で囲まれた病院跡地(正門前)に行き着くのですが、ここからは、道が音羽通りの方に、少しカーブしながら落ち込んでいくのが見えるのです。無人の病院前から歩を進め、わずかな勾配が深い勾配に変わるところに、建物のかげになった小路が(突然!)、あらわれてここをきっちりと右に折れたところが、不思議な袋小路(実は、袋小路ではないのですが)なのです。

 私有地と断わりのある小路(すなわち私道)の右側は、一段高い台地?の擁壁。左側に何軒か住宅があるのです。明治時代の古い地図は確かに袋小路になっていてこの小路は、臨済宗の禅寺・桂林寺にぶつかって行き止まりになっています。いずれにせよ道は車の入り込めない細さになり、今は、桂林寺の正面に出るようになっています。

 「雲台館」という名前からアパートのような大きさのものを以前は想像していたのですが、、ここに貴重な資料があり、これが戦後、国鉄の独身寮〔六畳間4室、四畳半7室、三畳2室〕だったという記録されているのです。実際、少し大きめな民家だったと思われます。
(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41)〔1975(昭50)補筆〕)

 ・・・ここには確かに宮沢賢治ならではの世界が――賢治が生み出した作品の世界ではなく、賢治の作品を生み出した世界が――厳存していた、そんな風に思えたのです。そうして私は、一本のイチョウが樹つその小路から出、もう一度坂を登って、病院の跡地に向かいました。坂の左手に小さな喫茶店を見ながら。


■2004/11/17 (水) ある問いかけ

 《「雲台館」の賢治》なるものを書き出して、収拾のつかない状況になってきました。おそらく、適当に打ち切ることになると思いますので、ご了承ください。

 それはさておき、実はこの不思議な――と言っても私はこの地に生活をもたない素通りの人間なわけですが――小路で、私は長い間過ごしました。
 おそらくこの小路は、今ではある場所からある場所への短絡路になっているらしくけっこう人通りはあるのですが、そこで私は不審な人物として、何回も道を行ったり来たりし、座り込んでは奥田氏の論文のコピーを取り出して読んだり、しました。小路を出て、坂道を登ったり下りたりし、音羽通り脇のかつての弦巻川を暗渠化した上に架された首都高速5号線の下をくぐって音羽通りに出たりどれだけの時間を過ごしたでしょうか。

 「雲台館」が後に国鉄の所有になり独身男子寮になったことは、書きましたが〔11/16〕、今ではその独身男子寮としての建物もありません。(道路も含んだ)この地所の所有者であると奥田論文に書かれているT家の古い二階建ての建物が、かつての袋小路の行き当たりにあるのですが、それが元「雲台館」なのか、その隣の新しい二階建てがそうなのか、まったく手掛かりはありません。

 あたりが大分暗くなってきたころ、ちょうどある一軒の家から出てこられた若くはない二人のご婦人に声を掛けてみました。
  「ここに、国鉄の独身寮があったはずですが、どこでしょう?。」

 その方の驚いた顔と言ったら・・・
  「あなたそこにお住まいになってらっしゃったの?。もうありませんよ。あれは、タケシがまだ・・・」で、ほぼ絶句という状態でした(少し、誇張しましたが)。
そして、私は、かつての「雲台館」が、今は立て替えられていることを知ったのでしたが。

 そしてその老婦人は、何度も何度も振り返って、私が立ち去らないでいることを不思議そうに眺めて道を曲がっていかれたのでした。


 翌日曜日のことです。私は瀧廉太郎が住んでいたという一番町に立ち寄って、道に迷いながら突き当たったところが、靖国神社でした。

 「靖国」、――この問題にきちんとした答をだすことに、ここではご猶予を願うとして、雑な話を続けます。――私は躊躇しながら、境内に足を踏み入れました。来てよかったと今ここで書けるのは、いくつかのことがらです。
 斎藤弥九郎の神道無限流の道場跡(飯田町俎橋から後に移った場所)が、この境内の隅(南門近く)にあることを偶然知ったこと。ここに「元宮」と呼ばれるもの――幕末に倒れた志士の御霊をなぐさめるために京都の同志たちが幕府にかくれてひそかに建てたものと説明があります――があるということ。
 そして、ある「問いかけ」に出くわしたことでした。

 境内の案内図にある「元宮」を探して拝殿の左側に回りこんだときでした。そこには、「・・・師団」とか「・・・軍人会」だとかの――おそらく戦争から帰還された方々の同志を弔い旧交を温めるための――記念樹がずっと植わっているのです。
 ここで、突然、ある男性に声を掛けられたのです。

  「モッコクはオスとメスの樹があるのですか?。花が咲くのと咲かないのが・・・」

 見も知らぬただの通りすがりの私に、真剣に寄せられたこの問いかけは、何だったのしょう?。偶然そこに通りかかった私が、植物学者に見えたのでしょうか??。「モッコク」。そうです、《木斛》の樹のことなのです。
 拝殿横の道に沿って手植えされている記念樹の多くが、なぜか「モッコク」なのです。でもその男性にとって、この問いは、どういう意味をもつものだったのでしょう。なぜ、それを知る必要があったのでしょう?。その男性にとって、私は誰だったのでしょうか?
 私が、「樹花」を、自分の日記?のタイトルに並べていることを、その男性は知っていたのでしょうか?????。

 私が発した「問いかけ」。私に発せられた「問いかけ」。
 二つの問いかけが投げかけた波紋、今も、そのまま広がり続けています。

〔追記〕
 モッコク(木斛)は、たしかに雌雄異株の樹です。


■2004/11/19 (金) 「雲台館」の賢治を訪ねる(3)

 わたしが、宮沢賢治を教科書の圏外で知った「虔十公園林」という作品。
童話なのだろうが、そのリアリティはどんなノンフィクションをも超えている不思議な作品である。

 “さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでしまいました。
 ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日子供らが集まりました。”
 

 きょう、久しぶりにこの作品を読んできて、ここまできてアッと叫んでしまいました。ずっとあたまにこびりついていた賢治の父親宛の手紙〔大正七(1918)〕の一節がそのまま蘇ってきました。

“チブス菌は検出せられざりしも熱型によれば全くチブスなり” 
 高熱の続く妹トシを診断した二木謙三博士のことばを伝えた文章です。
“今後の病状は先づ大抵は減退なるべきも万一更に昂進する場合なしと言ひ難し。”

 トシの病状を逐一報告する四十通を超える父親への手紙。この手紙を私は東京へ向かう列車の中で読み、賢治がトシを毎日見舞った東京の雑司ヶ谷(目白台三丁目)の坂道の喫茶店でも読み返しました。
 (けっきょく、トシはチブスでなかったことが判明するのですが、こうしたチブスとの遭遇は、やがて賢治の生き写しとみられる「虔十」と、屈折した賢治=父親の生き写し「平二」のいのちを奪うチブスへと姿を変えて「虔十公園林」に突出することになる・・・。そう言えば、トシ的存在を排除した「虔十の家族」のことを今、考えています。)

 そして病状報告のなかに突如あらわれる賢治の《運命のモティーフ》。

 “尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に見込相附き候。蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買ひ申すべき由・・・”

 22歳の賢治は2か月余、東京で何を考えていたのか。「小川町水晶堂、金石舎」はいまも残っているのだろうか。


■2004/11/20 (土) 賢治とチブス(「虔十と平二」暫定稿)

 非常にうかつだったのですが、チブス(=チフスの濁音化形、誤用)と賢治の遭遇は、盛岡中学卒業時(大正三年〔1914〕)の鼻炎治療のときに始まっていました。(看護婦への片想い(初恋)の話題として知られる岩手病院入院です。)
 そのとき、高熱が出、発疹チフスの疑いをもたれたのです。そして看病にあたった父親も!、倒れてしまうという事態にいたります。
(父・政次郎と賢治の確執の精神史の始まり!)

 虔十公園林における、「虔十と平二」を、「賢治と政次郎」に置きかける「読み」(11/19)は、誤読ではないという思いを強めましたが、いかがでしょう。
(賢治が、自らをkenjuと記していたことは、知られていますが、平二と政次〔郎〕の発音の類似の方が注目です。「虔十公園林」における虔十の父親像と政次郎との対蹠的な記述にも留意。)

 *大正三年の歌稿から

  どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆく時目をつぶれりわれ
  つゝましき午食の鰤を装へるはたしかに蛇の青き皮なり
  目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ 
  十秒の碧きひかりは去りたればかなしくわれは又窓に向く
  粘膜の赤きぼろきれのどにぶらさがり父とかなしきいさかひをする


 ところで、チフス〔typhus〕の語源は、台風〔typhoon〕の語源とも言われるギリシャ神話の風と関わりをもつ巨神テュポンではなかろうか。


■2004/11/21 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(4)

 目白台の三丁目坂の小さな喫茶店での――私はここで歩きづめだった3時間の疲れをいやしながら筑摩文庫の「宮沢賢治全集9」の書簡集の大正七~八年の分を読んだのですが――そこで出逢ったアッちゃんというかわいい子犬と近くの筑波大附属盲学校の生徒さんの話は割愛させてもらうとして;

 この2か月余、賢治は妹トシにつきっきりで看病したわけではない。彼自身、自分の健康報告を父に求められる状況で、伝染病の疑いのある妹には距離をおかざるを得なかったのである。
 盛岡高等農林を卒業後、暫定的に研究生として残るも定まった道を見出せず、賢治も六月には病を得ている。トシ高熱で入院との知らせに最初は重い心で東京に出てきたことだろうが、トシの病状が軽快に向かうにつれ、賢治の好奇心はまた旺盛に動き出していることも書簡からうかがえる。上野図書館、日比谷図書館・・・。

 今あらためて、この大正七年からトシの死にいたる数年間の賢治の年表を追ってみると、不思議な感慨にとらわれます。が、そうしたことを書くには、まだまだ熟せざるものが多いことに気づいて、この《「雲台館」の賢治を訪ねる》は、この辺で切り上げておきたいと思います。

 なお、賢治が人造宝石の製造販売を夢み、父親への書簡中に名を挙げた宝石商「小川町水晶堂、金石舎」は、それぞれ水晶堂ビル、金石舎ビルという名で、今もその地に――神田の小川町交差点近く繁華な靖国通りに面して――名を残していることを報告しておきます。
(それぞれ神田小川町2-2・神田小川町1-8)
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by kaguragawa | 2009-12-19 10:10 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)