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三木露風書簡の秋聲と霜川(8)   

 話が、三木露風の書簡からかなり遠くなってしまいました。ここで、露風の手紙の一節をもう一度紹介します。

 「徳田秋聲君の愛児が大病で入院中でしたが、此度全快、赤飯をふるまわれました。」

 この手紙は、『黴』の次のくだりを読めば、なるほどと思われるでしょう。正一が退院したのちの経過の部分である。

 「何はおいても、お義理だけは早くしておきたいと思いますがね……。」と言うお銀に促されて、床揚げの配り物をすると一緒に、お冬へ返礼に芝居をおごったり、心配してくれた人たちを家へ呼んだりするころには、子供はまだ退院当時の状態を続けていたが、秋になってからは肥立ちも速かであった。

 笹村夫婦は、正一の退院後、快気祝いとして「床揚げの配り物」をしたり、「心配してくれた人たちを家へ呼んだり」したのである。そして露風も「赤飯」をふるまわれたのである。
 しかし、ちょっと考えてみるとこれは不思議な事態です。赤飯をふるまわれるほど、露風は秋聲と親しかったのでしょうか。前にも紹介した傍若無人とも言える言動の多い当時18歳の露風が、よくも知らない秋聲夫妻の幼児のことを、そんなに親身になって気遣ったのでしょうか。そもそも露風は秋聲と面識があったのでしょうか。

 (2)にも書きましたが、露風が霜川と知り合ったのがこの年(明治39年)の春。岐阜で新聞記者のまねごとをするが、ものにならず1ヶ月余で退社。東京にもどってきたのが9月23日。そのとき、かなり快方に向かっていたとはいえ、幼い一穂氏は入院中だったのですが、遠地にいた露風が、面識もない――説明抜きでこのように断言しておきますが――徳田秋聲の男児の発病、危機的な状況での入院という修羅場を知っていたはずがありませんし、見ず知らずの幼児のことを心から気遣うはずもなかったのです。であれば、めでたく一穂氏が退院したからといって露風が「赤飯をふるまわれ」る必然性は毫もなかったのです。

 深く考える必要はないでしょう。露風は、徳田邸におもむいて赤飯をふるまわれた霜川に同伴していて、ご相伴にあずかっただけなのです。こう考えるしかありません。むしろ露風には充分に事情が飲み込めていなかった可能性すらあります。無論、露風は徳田秋聲の名は充分に知っていたでしょう、そして霜川と秋聲が友人であることも知っていたかも知れません。が、霜川と一緒に快気祝いに徳田家を訪れたこのとき、はじめて秋聲の風貌や人となりの一端を知り、秋聲と霜川の十年来のあれこれも少し知ったはずです。

 再び、露風の手紙から離れます。私がここで考えておきたいのは、一穂氏のいのちにも関わる病を知ったときの霜川の“おろおろとあたふた”です。霜川はこの事態を知ったとき、平静でおられたでしょうか。霜川は跡は継がなかったものの村医者の家に育っています。村医者の手では充分な治療もできないまま死んでいった嬰児や幼児を何人もみていたはずです。
 霜川も記していなければ、秋聲も記していない、霜川なりの“おろおろとあたふた”を、敢えて憶測ですが、書いてみたいと思うのです。
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by kaguragawa | 2013-02-04 20:46 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(6)   

 『黴』には、幼児の入院と退院にあたっての肉親の切ないまでの神仏への願いと感謝が、点された「燈明」でくっきりと描かれている。

 《茶の室(ま)の神棚や仏壇には、母親のつけた燈明が赤々と照って、そこにいろいろの人が集まっていた。「どうか戻されるようなことがなければいいがね。」》
といった状況で病院に向かった正一は、再び、
《家では神棚に燈明が上げられたりした。神棚に飾ってある種々のお礼のなかには、髪結のお冬が、わざと成田まで行って受けて来てくれたものなどもあった。》という状況で、長い病院生活を経て幸いにも生還したのである。

 ところで、徳田一穂氏(秋聲長男)の幼児期の入院は、具体的には、明治39年の「いつからいつまで」のことだったのであろうか。
 『全集』の「年譜」は、入院を〔8月下旬〕、入院期間を〔1ヶ月余〕としている。とすれば、退院は、9月下旬から10月上旬になるであろう。長い期間である。では、作品『黴』に笹村の長男正一の入退院の時期や期間は、どのように記されたのであろうか。
 いくつかの個所を抜き出しておく。その期間が、9月を中心にした1ヶ月をわずかに超えたものであったことが、いくつかの記述から浮かびあがる。病室の片隅での笹村と妻二人の「三十幾日」にわたる食事の情景や、近くのニコライ会堂の鐘の音でそれは読者に知らされている。笹村はニコライ堂の鐘の音を少なくとも4度聞いたと書かれているのだ。

 病室の片隅に、小さい薄縁(うすべり)を敷いてある火鉢の傍で、ここの賄所(まかないじょ)から来る膳や、毎日毎日家から運んでくる重詰めや、時々は近所の肴屋からお銀が見繕(みつくろ)って来たものなどで、二人が小さい患者の目に触れないようにして飯を食う日が、三十幾日と続いた。   〔69〕

 つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこへ見に行った。   〔71〕

 入院当時には満員であった病室が、退院するころにはぽつぽつ空きができて来た。まだ九月の半ばだというのに強い雨が一度降ってからは、急に陽気が涼しくなって、夜分などは白いベッドの肌触りが冷たいほどであった。 〔70〕

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by kaguragawa | 2013-02-02 07:16 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(5)   

 前にも引いた『徳田秋聲全集』別巻の「徳田秋聲年譜」(松本徹)にはこう書かれている。“八月下旬、一穂が疫痢のため駿河台東京小児科病院に入院。一時は危篤状態に。一か月余入院。”

  「3歳から6歳ぐらいの小児にみられる、細菌性赤痢の一病型。発熱・嘔吐・ひきつけ・意識混濁などを呈し、死亡率が高かった」と説明される「疫痢」という小児特有の症状は、秋聲が『黴』に描く症状そのまま――病名は明記されていないものの――である。今でこそ、おそれられる病でなくなっているものの私の記憶にもまだ「疫痢」の語の響きは、鮮明である。明治時代には――資料によって数値は異なるが――生存率は、50%前後だったようだ。
 病院の管理下での治療が功を奏し無事退院できたものの、自宅であたふたと介抱していれば、あるいは病院への搬入が遅れていれば、あきらかに奪われた命だったことはまちがいないであろう。「助からないかもしれない・・・」この思いは、子を気遣う肉親には次から次へとおぞましい連想を肉親を呼び起こしていったことであろう。

 それは病の知らせを聞いた金沢にいる笹村の老母にも衝撃であったにちがいない。

 机のうえに二、三通来ている手紙のなかには、甥が報じてやったまだ見ぬ孫の病気を気遣って、長々と看護の心得など書いてよこした老母の手紙などがあった。手紙の奥には老母の信心する日吉さまとかの御洗米が、一ト袋捲き込まれてあった。老母は夜の白々あけにそこへ毎日毎日孫の平癒を祈りに行った。
 それを読んでいる笹村の目には、弱い子を持った母親の苦労の多かった自分の幼いおりのことなどが、長く展(ひろ)がって浮んだ。同じ道を歩む子供の生涯も思いやられた。そうしていつかは行き違いに死に訣れて行かなければならぬ、親とか子とか孫とかの肉縁の愛着の強い力を考えずにはいられなかった。


 ところで、「年譜」が記す「駿河台東京小児科病院」とはどこのことなのだろう。病院名まで書かれているということは徳田家に何かの記録が残っていたのであろうか。私には、知るよしもないが、ここ2,3日調べた限りでは、この「駿河台東京小児科病院」とは、資料によっては「東京小児科医院」「東京小児科院」とも書かれている瀬川昌耆(1856~1920)の瀬川小児科病院(現在の瀬川小児神経学クリニック)に間違いないであろう。入院の日に、院長が千葉に出向いていることも瀬川が千葉医学専門学校の教鞭をとっていたことと符合するし、その立地もニコライ聖堂に近く電車通りに近い当時の西紅梅町で、『黴』記載のディテールに一致する。

 「病勢はもっともっと上る。その峠をうまく越せれば、後は大して心配はなかろう。」
 入院の翌日に、初めて診察に来た老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった。


 小児科の神様といわれ、秋声に“老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった”と書かせた瀬川昌耆(せがわ・まさとし)は、この当時、ちょうど50歳であった。
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by kaguragawa | 2013-01-31 20:01 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(4)   

 一方、秋聲の方はというと、明治36年夏、はま夫人との間に長男一穂氏が生まれ、小石川の霜川と同居していた借家から本郷の森川町一番地の家――仮に「陸橋の家」と呼んでおきます――に移っています(明治37年夏)。
 秋聲はこの地を気に入っていましたが、傾斜地で水の便がわるかったこともあり、新しい地主から明け渡しを求められたのを機に、ほんのいっとき富坂の方に移り、次に森川町一番地の家に移ってきます。(今度も森川町一番地ですが、さきほどの「陸橋の家」とは別の町の南側の場所です。なぜ同じ一番地かというと、かつてこの地に住んでいた岡崎本多藩の家臣団が住んでいた区域全体がそのまま、「森川町一番地」となったからなのです。すなわち「町全体が、大きな“一番地”」だったのです。)

 この秋聲の最後の転居は、明治39年の晩春から初夏にかけてのことですが、この家に移ってまもなく、3歳になったばかりの長男一穂さん――『黴』では“正一”――が、生死をかけた大病を患うことになるのです。

  『黴』では、「次に引き移って行った家では、その夏子供が大患(おおわずら)いをした。」と、まず書き出されています。

 その前から悪くなっていた正一の胃腸は、ビールと一緒に客の前に出ていた葡萄のために烈しく害(そこな)われた。蒸し暑いその一晩が明けるのも待ちきれずに、母親と一つ蚊帳(かや)に寝ていた子供は外へ這い出して、めそめそした声で母親を呼んでいた。(中略)
 一時に四十二度まで熱の上った子供は、火のような体を小掻捲(こがいま)きにくるまれながら、集まって来た人々の膝のうえで一日昏睡状態に陥ちていた。そして断え間なく黒い青い便が、便器で取られた。そのたびにヒイヒイ言って泣くのが、笹村の耳に響いた。
「〔医者が〕今度という今度は、少し失敗(しくじ)りましたねって、そう言うんですよ。もし助けようと思うなら、入院させるよりほかないんですって。家ではどうしても手当てが行き届かないそうですから。」


 ・・・三木露風の手紙に書かれていた「徳田秋聲君の愛児が大病で入院」という事態に立ち至るのです。
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by kaguragawa | 2013-01-30 19:51 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(3)   

 ここで、多少脇道にそれるのを承知のうえで、明治28/29年から明治38/39年にわたる10年間の徳田秋聲と三島霜川の交友史のおさらいをするつもりだったのですが、謎の部分も残り煩雑になるので、明治38/39年に限定することにします。
 話は、重なり合う《徳田秋聲と三島霜川》と、《小説『黴』の笹村と深山》の2つの物語〔ヒストリーとストーリー〕を行ったり来たりしますが、『』が秋声の実人生をベースにして書かれているからです。以下、「笹村=徳田秋聲」、「深山=三島霜川」として、読んでくださされば、けっこうです。

 『黴』に描かれた笹村と深山の――同居開始後数ヶ月でおとずれた――「絶交」が、話の起点になりますが、その前後のいきさつは略します。
 そして、「旧(もと)の友情の恢復」がやってきます。(『黴』はそれを絶交の3年後としているのですが、これを実際の秋聲と霜川の関係に置きかえると、いったん関係が絶たれたのは明治35年の夏、関係の修復は明治38年ということになります(*1)。)

 深山は、笹村との共同生活から離れて、絶交3年後の時点では「ある人の別荘の地内にある貸家の一軒」に住んでおり、ここに笹村も訪ねてきます。ここを舞台に「旧(もと)の友情の恢復」の情景が印象的に描かれることになります。

 深山はそのころ、そっちこっち引っ越した果て、ずっと奥まったある人の別荘の地内にある貸家の一軒に住まっていた。笹村は時々深い木立ちのなかにあるその家の窓先に坐り込んで、深山が剥(む)いて出す柿などを食べながら、昔を憶い出すような話に耽(ふけ)った。庭先には山茶花(さざんか)などが咲いて、晴れた秋の空に鵙(もず)の啼き声が聞えた。深山はそこで人間離れしたような生活を続けていたが、心は始終世間の方へ向いていた。

 「ずっと奥まったある人の別荘の地内」とは、霜川の実人生に即せば、本郷の北、現在の山手線「駒込駅」の南にあった――「北豊島郡巣鴨町上駒込28番地〔現:豊島区駒込1丁目から文京区本駒込5丁目にかけて〕――「木戸侯爵染井別邸」の広大な屋敷地のことです。現在の六義園の、本郷通りをはさんだ、東にあったこの屋敷地は、もと江戸郊外の本郷丹後守(旗本)の屋敷地だっただけに森のような場所だったようですが、今は分割され、大きなマンションなどがいくつも立ち並ぶ区域になっています。
 ここ「木戸侯爵別邸」に、何の縁があったものか霜川はもぐりこむように入り込み、住んでいたのです。

 ・・・そうそう、忘れずに書いておかねばなりません。明治39年9月、住むところの無くなった三木露風が霜川の温情で?ころがりこんだのも、この駒込の侯爵別邸だったのです。


 *1)秋声と霜川のこの関係の「恢復」は、実際は、おそらく絶交半年後の明治37年前半からなされていたのではないかと思われます。そうしたことの跡付けをすることは、興味深い課題ですが、ここでは割愛して、小説の展開に従い「恢復」を端的に明治38年として、話を進めてあります。
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by kaguragawa | 2013-01-30 19:48 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(2)   

 この当時〔1906(明治39)年の9月中下旬〕、三木露風と三島霜川、徳田秋聲はどのような関係にあったのでしょうか。まず当時の彼らの年齢を列記しておきます。ちょっと驚かれるかもしれませんが、満年齢で、露風17歳、霜川30歳、秋聲34歳です(ちなみに手紙を受けとった旭晃は、24歳)。

 端的に露風の行動だけ順を追って書いておきます。――文学に志して前年夏に上京していた露風が霜川と面識を得たのが明治39年の春、文芸雑誌『新聲』の誌友会(ないしその準備会)においてです。その後、就職せざるをえなくなり、岐阜で文芸雑誌を編集していた面識もない小木曽旭晃をとつぜん訪ね就職先のあっ旋を頼んだのが、同年7月末。旭晃が美濃新聞の編集者の職を紹介したものの、その地にまったく縁のない17歳の世間知らずの若者が務まるはずもなく一か月余で退職。今度は、東京の知人の誰彼を問わず、HELP!の手紙を出したようで、霜川(だけ?)が、ならば私の方においで、と救いの手を差しのべ、東京に戻ったのが9月23日。おそらくその日の夜には、上駒込の霜川の住処にもぐりこんだ・・・という流れのようです。

 その日(23日)のうちに、旭晃宛てに東京着報告の手紙(第一便)を出し、おそらく旭晃からの返信をふまえて(第一便から一週間ほど後に)出した第二便が、きのうほぼ全文を紹介した小木曽旭晃宛ての手紙なのです。

 17歳の青年・三木露風のまっすぐというか、向う見ずというか、若者らしいとはいえ傍若無人な生き方には驚きます。露風は、上駒込の木戸孝允(侯爵)の染井別邸だった広大な敷地内の小屋のような家屋に住む三島霜川とこうして、生涯にわたる縁のスタートを切ります。そして霜川を通して徳田秋聲ともすぐに親交をもつようになったようなのです。

 ここで、三木露風の小木曽旭晃宛ての書簡から、あらためて徳田秋聲と三島霜川に関わる部分だけ抜き出しておきます。

 「徳田秋聲君の愛児が大病で入院中でしたが、此度全快、赤飯をふるまわれました。因みに同君の小説「おのが縛め」という長篇は苦心の作で万朝に掲載することになりました。」
 「三島霜川は近き内に霜川集と称する散文小説の立派な単行本を出す由。」


 論を進めるには、霜川と秋聲の当時の状況にもふれないといけませんね。

 (続く)
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by kaguragawa | 2013-01-27 11:21 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(1)   

 以下に紹介するのは、三木露風が岐阜の小木曽旭晃宛てに出した手紙の一節である。(引用は安部宙之介『続・三木露風研究』(木犀書房/1969.5)から)
 三木露風のことをよくご存じの方はこの書簡のこともご存じかも知れませんが、そんなに広く知られたものではないと思います。少なくとも、私はきのう初めて読んだものです。徳田秋聲資料としても、三島霜川資料としても大変貴重なものです。
 なお、発信日は不明ですが、それをほぼ特定できるキーワードがいくつも見られます。「徳田秋聲君の愛児が大病で入院中でしたが、此度全快」の文言からは、秋聲の『黴』の一節を想起される方がおられることでしょう。文学史的にもおもしろそうな話題がちらばっています。というわけで、一部略して、書き写しておきます。


 美濃長良河畔の別れは忘れがたい詩です。山鳩誌友会は盛んでしたでしょう。折角美濃に在住して其の席に連なることが出来なかったのは返す返すも残念至極です。
(一部略)
 野口安から原稿到着の由、安心せり。正富及び前田の原稿は成るべく急がせましょう。〔前田〕夕暮、〔正富〕汪洋氏とも「野の花」及び「ホノホ」とは追い追い関係を断つようにいっていました。しかし山鳩には無論以後永く寄稿させます。それだけは確かです。来月分に僕も御厄介になりましょう。
 今夜、〔正富〕汪洋と痛飲して、詩壇を罵り大いに溜飲を下げた。今別れたところです。汪洋の「小鼓」という詩文集は愈々来月下旬、佐久良書房からでることになりました。〔伊藤〕銀月一人だけ序を書いているようです。奇警なこの作物がいずれ近々に新聞か雑誌に現われるでしょう。本郷座で「無名氏」という脚本を興業しています。西村酔夢が訳した西洋の小説ですが、なかなか評判がよろしい。
 以後僕がよる雑誌はしばらく黙っておきましょう。しかし、意外な処にあらわれますよ。どうかご注目なさってください。新聞では読売日曜文壇に頻りに書きます。読売新聞をご覧になっていますか。
 「白鳩」は来春まで休刊することに決しました。徳田秋聲君の愛児が大病で入院中でしたが、此度全快、赤飯をふるまわれました。因みに同君の小説「おのが縛め」という長篇は苦心の作で万朝に掲載することになりました。
 「夢の華」は立派なものです。なお鉄幹晶子共選の青年新派歌集「常世」という詩集も近い内に出るでしょう。〔相馬〕御風、〔片山〕天絃、〔小川〕未明は早稲田文学に入社。三島霜川は近き内に「霜川集」と称する散文小説の立派な単行本を出す由。尾上柴舟の此度の詩集は多分「白塔」と題せらるでしょう。きょうはこれまで。秋風寒し。偏に自重を祈る。
  旭晃兄 硯北
                露風生


 上に日付不明と書きましたが、この旭晃宛ての書簡が書かれたのは、おそらく1906(明治39)年の9月下旬でしょう。露風が美濃新聞をやめて岐阜から東京に戻ったのが9月23日、秋聲の「おのが縛」の万朝報連載が始まるのは10月2日から――『徳田秋聲全集』別巻の「徳田秋聲年譜」(松本徹)による――だからです。なんといっても、私が霜川資料として注目したいのは、「三島霜川近き内に「霜川集」と称する散文小説の立派な単行本を出す由。」の一文なのですが、これについては、最後にふれることとして、まずこの当時の露風、秋聲、霜川について書きたいと思います。


〔追記〕
 岐阜の文人・小木曽旭晃(修二/おぎそ・きょっこう)――当時、文芸誌『山鳩』主宰――は、131年前のきのう(1月25日)が、生誕の日だったようである。
  * 小木曽旭晃 1882.01.25~1973.10.27
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by kaguragawa | 2013-01-26 16:04 | Trackback | Comments(0)

「三橋亭」「為子さん」「鬼太郎」」のことなぞ   

 徳田秋聲の短編「白い足袋の思出」に名前の出てくる上野広小路の洋食屋「三橋亭(さんきょうてい)」、豆腐料理の「忍川(しのぶがわ)」――ともに現存しない――がかつてあった場所が、ほぼ特定できました。鴎外の「雁」に出てくるやはり上野広小路のこれも有名な「雁鍋」。これも、場所がわかったのですから、心はもう上野に飛んでいます。この辺りは10年ほどまえに行ったきりで、最近は足を運んだことが無いのです。といっても、時間もお金も無い身分ですので、いつかの機会を狙うのみです。
 鴎外の「雁」の背景になっている場所――秋聲「白い足袋の思出」のそれとも重なる――を、文学散歩よろしく歩いてみたいもの。今年の夢(願望)の一つです。

 堺為子――。堺利彦夫人となった人ですが、今日、女性人名事典というような書名の本を幾冊か見る機会があって、偶然目にはいったので、何冊かページを繰ってみました。それぞれにかなり詳しくこのタメ(為子)さんのことを紹介しているのですが、生地の記述が「金沢」のものと、「大阪」のものとがあるのです。育ったのは大阪に間違いはないのですが、生まれたのはどこなのか・・・。実は、堺為子さんのことについては、黒岩比佐子さんと少しばかりやりとりをしたことがあり、為子さんの両親が金沢に住みついたもと大阪の商人であることまでは情報を交換したのですが、為子さんの生地のことについてはお聞きしようと思いながら、聞きそびれてしまいました。そうしたこともふと思い出しました。

 《daily-sumus》で、岡鹿之助のことが取りあげられていて、ちょっと確認したいこともあって、googleのお世話に。
 ・・・無知というか無恥というか、はずかしくも岡鹿之助が岡鬼太郎の子であることを知らずに、いたのです。やれやれ。

 ということで、「知るは喜びなり」という某アナウンサーの語り口を思い出しながら、「知るはガマンなり、知るは思い出なり、知るは冷や汗なり」とあらためて追認した次第。

〔追記〕
 今確認したら、黒岩さんのブログ《古書の森日記》〔2009年秋〕に、堺為子をめぐってのやりとりが残っていました。黒岩さんの「堺利彦を調べ始めてみて、あまりの幅広さと読むべき資料の多さに、天を仰ぐ毎日です。」の言葉が、今になって胸を打ちます。
 http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51697665.html
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by kaguragawa | 2013-01-08 21:13 | Trackback | Comments(0)

お二人の命日に   

 “斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』が手に入るようでしたら、その中にちょっとびっくりする話(三島霜川が風呂嫌いだったという話)が書かれています。拙著では、三島霜川の名誉のために、あえてそのことには触れませんでしたので。”

 5年前、黒岩比佐子さんの『編集者 国木田独歩の時代』が出版された折、黒岩さんが教えてくださった霜川情報です。

 霜川の風呂嫌い。「霜川の名誉のために、あえてそのことには(『編集者 国木田独歩の時代』の中で)触れませんでした」と黒岩さんはそうおっしゃってくださって、故人とはいえ、その名誉に気遣ってくださったのです。が、なんと昨日、黒岩さんのご命日にあたる昨日、同じ口調で、私に「霜川の風呂嫌いがある本に載っているのを見つけました。でもあまりいい話でもないので、お知らせしませんでした・・・」と徳田秋聲の墓前祭の場で教えてくださった方がありました。秋聲のお孫さん、徳田章子さんです。

e0178600_22215025.jpg きのう今年の墓前祭がおこなわれた徳田秋聲の命日は、昭和18年の11月18日。69年前の今日。
 そして昨日11月17日が、黒岩比佐子さんの命日でした。今年が三回忌になります。

 黒岩さんに教えていただいた斎藤弔花の『国木田独歩と其周囲』は今年になってようやく入手できて、風呂嫌いのことだけでなく、もっと興味深い情報を2つ、この本から得ることができました。ところで、この斎藤弔花という作家のこともっと知りたいと思っていたのですが、偶然手に取った『滋賀近代文学事典』(2008)でその晩年のことを知ることができました。秋聲を偲び、黒岩比佐子さんを偲んで、斎藤弔花の晩年を、次項で紹介しておきます。
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by kaguragawa | 2012-11-18 15:37 | Trackback | Comments(2)

徳田秋聲の墓前祭   

 しぐれるなか静明寺で徳田秋聲の墓前祭。
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 墓前祭後の墓碑と献花

 帰宅した今になって考えてみるに、昨年の墓前祭からの1年の間に、〔秋聲と霜川〕に限って言うと、いくつかのできごとがありました。
 なんといっても、徳田章子さんが、霜川〔三島才二〕が秋聲に宛てた大正6年のはがきを探し出してくださったこと。そうしたことが機縁になって念願の本郷秋聲宅訪問がかなったこと、などなど。

 かと言って、私の秋聲墓前祭に参加に、“おまえは、どういう資格で秋声の墓前祭などに参加するのだ。”と、いう自問がなくなったわけではありません。ただ今年、私の心を少し軽くしたのは、『秋聲さん、ようやく「足迹」読みましたよ。』と、いう報告ができることでした。「足迹」がやっとおもしろく?読めたのです。今まで何度も何度も挫折していたのですが・・・・。
 まぁそんなところで、秋聲さん、報告にうかがえたというところなのです。
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by kaguragawa | 2012-11-17 20:31 | Trackback | Comments(0)