タグ:徳田秋声 ( 55 ) タグの人気記事   

《噛んで含むような話?》   

・その一

 「噛(か)んで含むような話しぶりに感銘をうけました。」という文章をみて、「あれれ・・・」と思った。
 これはどうみてもおかしいのだ。
 「噛んで含む」ではなく「噛んで含める」だろう。web上の辞書には、こう書かれている。1.の語釈に、語源も読み取れる――。

【噛んで含める(かんでふくめる)】
 1 親が、食物をかんで柔らかくして子供の口に含ませてやる。
 2 よく理解できるように丁寧に言い聞かせる。「―・めるような説明」


・その二

 ある人が、文中の「噛んでくくめる」という文章を見て、「あっこれは誤植だ。」と言った。

「噛んでくくめる」は、「噛んでふくめる」の間違いだろう、というわけだ。
 だが、さにあらず。「くくめる」に漢字をあてれば、【哺める】【銜める】【含める】だ。
耳慣れないことばだが「噛んでくくめる」という表現があるのだ。また「噛んで含める」は、「かんでふくめる」とも「かんでくくめる」とも読めるのだ。

 ・・・と物知り顔で書いているが、「噛んでくくめる」を誤植だと思った「ある人」とは、誰あろう「私」なのだ。一昨日の項に登場する徳田秋聲の小説『黴』を読んでいて、――もう10年ほど前のことだが――「噛んでくくめる」に出会って、こういう表現を初めて知ったのだ。

 以上、きのう『黴』を読み返していて思い出し、自分用に 「噛んで含む?」メモをした次第。

〔追記〕
 今、webのgoo辞書を見ていたら「噛んでくくめる」の用例に、〔「博士は噛んで―・めるように言うのだったが」〈秋声・縮図〉〕と、ある。『黴』だけでなく『縮図』にも、「噛んでくくめる」は登場するようだ。秋聲は、終生、「噛んでくくめる」を使ったようだ。
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by kaguragawa | 2014-06-02 22:48 | Trackback | Comments(0)

「今日の金沢記:驚き3題」   

 先週に引き続き今週も土曜は金沢。今月のブログ記事はほとんどないので、皐月晦日に「今日の金沢記」、急ぎ落書き3題。

1)石川県立図書館で、『絵で見る明治商工便覧』(全10巻)閲覧。
 選ばれた作品の復刻版。期待して足を運んだ「解題」「解説」はいっさい無く、びっくりとがっかり・・・。こんな復刻版ってあるのか。。。

2)徳田秋聲記念館の連続講座「女性が読む秋聲文学の“今”」、第一回は、江種満子さん(文教大学名誉教授)で、読む秋聲作品は『黴』。
 江種先生のみごとに整序されたお話と秋聲もかたなしのユーモアある笹村評も一驚でしたが、それに加えて驚いたのは、参加者の中にもこのとっつきにくい作品『黴』を愛読玩味!されている方がおられたこと。

 秋聲記念館のオリジナル文庫『黴』も、今日!発売。紙面がととのっていて読みやすい。

 いくつも宿題をいただき、ありがたく退散。

3)あうん堂で、ご主人に、《南陽堂》のことを尋ねてみた。
 この尾張町の古書店、ずっと店が閉まっていてどうされたのだろうと思っていたところ、店内からいよいよ本が消えてしまったのだ・・・。
 ほんとうにほんとうに驚いたことに、店主の柳川さんは一昨年末に亡くなられたのだという。かつて富山の市電荒町電停前にあった「南陽堂」とこの尾張町の「南陽堂」について、柳川さんにお聞きしたのは、2年前のことでした。以下、そのときのメモ;

 “ご主人の顔を見てびっくり。富山の南陽堂のおやじさんとよく似ておられる。なんでも金沢・南陽堂ご主人の母親のお兄さん(すなわち伯父さん)が、富山南陽堂のご主人にあたられるのだそうです。富山南陽堂のご主人は20年ほど前に亡くなれているそうで、その折、店を閉められたそうです。しばし、歓談。”

 個人的には40年前の学生時代からたびたび寄っていた〔金沢橋場町の南陽堂〕が消滅してしまい、ぽっかりとどこかに穴のあいた思い。そして――先に姿を消した〔富山荒町の南陽堂〕にも亡き父との忘れることのできない思い出がある。

 忘れられない柳川家のお二人の古書人のお冥福をお祈りしたい。
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by kaguragawa | 2014-05-31 22:30 | Trackback | Comments(0)

秋聲忌 墓前祭   

e0178600_22144764.jpg 11月9日 静明寺

 初冬ながら暖かな日。
 参列者が白菊を供えた。

 いつものことながら、私のような者がこの場に居並ぶことに違和感をおぼえながらも、秋聲にゆかりのあった霜川に少しはゆかりをもたせてもらった者として、合掌させていただく。
 もちろん秋聲作品の愛読者であることに間違いはないのですが。

 墓碑の周りの白壁は、なんと石川近代文学館と徳田秋聲記念館の学芸員の方々が、今年、丹精込めて!塗り直したものという。ちょっと感激。


 この後、秋聲記念館で大貫伸樹さんの講演。

 
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by kaguragawa | 2013-11-10 22:22 | Trackback | Comments(0)

『新著文芸』〔第一巻第一号〕 (1)   

 ある方のご厚意で『新著文芸』の初号(第一巻第一号)の現物を手にとってみることができました。いまからちょうど110年前の1903(明治36)年の7月1日発行の文芸雑誌です。三島霜川を追っている私にとっては、重要な雑誌です。

 目次には、次のような作品が並んでいます。

  すきぶすき 徳田秋聲
  無限恨   小栗風葉・木内茶庵
  名人の夜  斎藤弔花
  塩田    三島霜川
  思ひ子   高橋山風
  破家の露  秋香女史
  姫物語   奴之助


 明治36年時点で霜川とともに雑誌の初号の目次に名を連ねる人々の名を一覧して不思議な感慨を覚えるのですが、即席文学史家の私などがとかく知ったかぶりの言及は避けます。ほかに名の挙がっている人物で書き足しておきたいのは、口絵石版の作者;小峰大羽、評林欄に「文壇不振の二原因」「三子者に学位を授けよ」を書いている桐生悠々です。

 第一号ですので、編集者のことばがあります。(仮名遣い、句読点は原文のままとしました)

 こゝに同人会い集まりて一の文芸雑誌を発行す。敢て今日の文壇に貢献するところ多しと叫ばざれど。また徒に閑月日の痴切符を以て甘むずるにあらず。聊か相約し相期して孜々兀々たるの効果。もしそれ平生の志に酬ゆるをえば自ら足る。洛陽の紙値は措て問はず。たゞ未見の知己幾何にあるのみ。
 癸卯の夏 修養堂主人 奴の助 


 奥付きは;

  編集者  稲岡正文
     東京市下谷区中根岸町五十四番地
  発行者  江原豊治
     東京市下谷区中根岸町五十四番地
  発行所  弘文社

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by kaguragawa | 2013-07-08 22:28 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「若い叔父」【吉野才次郎】(2)   

 前項の【「若い叔父」吉野才次郎】に、少し説明を付します。

 「院林村(いんばやしむら)」――厳密に言うと吉野家のあった小矢部川支流山田川以東の院林地区――は、1889(明22)年の町村制施行時に、砺波郡広塚村に合併され、後、東砺波郡広塚村院林→東砺波郡福野町院林を経て、現在、南砺市院林となっている。
 なお、田中清一氏の「三島家系図」の附表に、吉野家の檀那寺を「加賀国金沢町 真宗 端泉寺」とあるのは、「瑞泉寺」の誤植。南砺市井波にある浄土真宗の巨刹・瑞泉寺の金沢市白菊町9−5にある分寺「瑞泉寺」がそれである。なぜ、檀那寺が金沢にあるのか、そのことは吉野家の出が金沢にあることを示していると考えて良さそうであるし、この南砺地方と金沢の古くからの交流を考えれば特別のことがらでもないと言える。いずれにせよこのことの考察は、今私の課題をはみだしてはいるが、念頭には置いておきたい。

〔追記〕
  徳田秋聲は、『黴』の五十九節で、同じ人物を「深山の義理の叔父」とも書いています。そこで、この“義理”という点についても、私考を一度書いたのですが、議論が煩瑣にわたるためブログ上では削除したことを付記しておきます。
・(1)霜川の“義理”の叔父で,「若い叔父」にあてはまる人物は、――現在判明している系譜上は――いないこと。
・(2)秋聲は、お銀の母親に「深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪(うちわ)のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」とふくみをもたせて言わせている。このことと、“義理”のことば遣いとが――秋聲のあたまのなかで――結びついているのかもしれない、
との2点を、指摘するにとどめます。
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by kaguragawa | 2013-05-23 21:13 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「若い叔父」【吉野才次郎】(1)   

 私製の「三島霜川年譜」に註としてつけられた「メモ」があります。そのなかの【吉野才次郎】という項目を、次のように補訂しました。徳田秋聲の『黴』に“深山の若い叔父”として登場する人物についての「私見」ですが、あらたな資料を見つけたのを機に、タイトルを【「若い叔父」吉野才次郎】とし、少し説明を補ったものです。

*2.【「若い叔父」吉野才次郎】
 徳田秋聲の『黴』に、秋聲の妻が作品中「お銀」として登場するが、そのお銀が秋聲の小石川表町の家にやってくる前の湯島時代の記述に、お銀の友だち「お鈴」の同棲相手として“深山の若い叔父”が登場する。この人物は、『黴』の前史ともいえる『足迹』では、“お増”の同棲相手“芳村”として登場し、医師試験を受けようとして勉強中の人物として描かれている。この人物は、霜川の母とめの弟・吉野才次郎と考えてよいのではあるまいか。

 霜川の母の実家である吉野家は砺波郡院林村の村医。田中清一氏の近親者調査の労作「三島家系図」によれば、才次郎の生まれは1875(明8)年、霜川の1歳年長で、「(霜川の)若い叔父」の条件に合致し、「よし」の音も共通する。が、吉野才次郎その人の事績を追った研究はなく、詳細は不明であり、今後の課題である。
 もし、吉野才次郎=作中の「若い叔父」とするなら、霜川は才次郎から湯島天神下での人間関係を聞き知っていたと思われ、これが、後に妻の湯島時代の人間関係――ここに霜川を含める読み方も可能であろう――にこだわり、とらわれ続ける『黴』の主人公の物語の背景をかたちづくることになる。
 なお、新たな調査によれば、明治40年代、才次郎は家長名「養元」を名乗っていた兄・徳太郎と共に、後にその後を継いで、医業に従事していたことが新聞の広告などからうかがわれる。

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by kaguragawa | 2013-05-21 21:20 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(3)   

 参考に、該当する年度の田岡嶺雲の年譜を、少し旧いものですが『田岡嶺雲選集』(西田勝編/青木文庫/1956.2)から写しておきます。少しわかりにくいところもありますが、嶺雲の『金蘭記』などを読むと、帝国大学卒業時の「夜鬼窟」と呼ばれた下宿が《弥生町の下宿》であるように思えます。
 秋聲が、「(嶺雲の)他にも文壇的に知名の人がいたように思う。」と書いていた通り、笹川臨風・藤田剣峯・白河鯉洋・藤井紫影・中野逍遙・藤岡東圃といった人々の名が見えます。藤岡東圃(作太郎)は金沢の出身です。 

・明治24年
 9月  帝国大学文科大学漢文学科選科に入学した。

・明治25年
 夏   本郷5丁目裏通りの素人下宿から風通しのいい駿河台の下宿に移り(そのため初めて入質した)そこで数十枚の蘇東坡伝を書き、雑誌『史海』に投書し十円を得た(かれの処女作か)。その後、牛込榎町の下宿屋、原町の法華寺、染井の植木屋と転々放浪し、ユーゴーの作品などに傾倒した。(最後に弥生町の下宿屋に移った。)

・明治26年
 11月 キューバ独立戦争に参加しようと念じた。『松尾芭蕉』を脱稿した。

・明治27年
  7月 大学を卒業した。その下宿を「夜鬼窟」と称し、笹川臨風・藤田剣峯・白河鯉洋・藤井紫影・中野逍遙・藤岡東圃らが集まった。

・明治28年
  2月 山縣五十雄と雑誌『青年文』を創刊。
  3月 『青年文』で一葉の『たけくらべ』、眉山の『大盃』等を評価した。
  5月 遼東還付に失望の感を抱く一方、『国民新聞』の抹殺的評価に対して透谷・古白の死を論じた。
  7月 鏡花の『夜行巡査』、柳浪の『黒蜥蜴』等の作品を悲惨小説と名づけて歓迎した。
 12月 一葉の『にごりえ』、中野逍遙の詩篇を高く評価した。

・明治29年
  3月 大我居士の『貧天地大飢寒窟探検』、松原岩五郎の『最暗黒の東京』、横山源之助の『都会の反面』等の仕事を高く評価し、貧民問題の研究を提唱した。
  4月 箱根に、そして西京に遊ぶ。
  6月 津山中学に赴任した。


 とりあえず、データを秋聲側と嶺雲側から出しました。どこかに、弥生町にあったこの下宿の位置を確定できる手がかりがあるような気がします。
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by kaguragawa | 2013-02-25 23:26 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(2)   

 二つの関心から、《田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿》のことを考えてみたいと思っています。
 その一つは、小さなことがらではありますが、徳田秋聲の年譜的事象から抜け落ちている事実の掘り出しです。もう一つは、秋聲が書いているように《士族階級とみえる「同郷の」人々が》、すなわち加賀藩の士族たちが、大学に通う若者を対象とした寄宿舎に近い形態の下宿を経営していたとするなら、その実態をあきらかにすることによって明治期の加賀藩士の動向の一端を知ることができるのではない、ということです。

 手掛かりは、先回、書き写した二つの秋声の文章に尽きています。
 (以下、『光を追うて』を(A)、「大学界隈」を(B)として、参照しています。)

 1.)場所は、本郷区向ヶ岡弥生町〔*1〕。「高い石の段々のうえにある」(A)と書かれているところから、当時の番地で言えば、〔向ヶ岡弥生町3番地〕の方ではなく弥生坂を降りる方の〔2番地〕であろうと思われます。といっても、2番地も3番地も、それぞれかなり広範な地区であり、イロハニホ・・・で区画され、そこに地番がつくという地割になっています〔*2〕。
 なお、「横山という下宿」(B)という表現にも、もちろん要注目ですが、「士族階級とみえる同郷の人々」と「横山」の名をすぐに結びつけることは避けたいと思っています。

 2.)秋聲の書いたものによれば、田岡嶺雲がこの下宿にいたのは、明治28年6月頃ですが、いつからいつまでいたのか、これは不明です。そして、秋声がここにいたのは嶺雲よりは後ですが、可能性としては明治29年12月以前になろうかと思います。それ以降は、ほぼ居所がその居住時期もふくめて、秋聲研究のなかで確定されているからです。

 3.)そしてこの下宿の特徴として、学に志す若者のためのものだとしても、かならずしも加賀出身者に限られていないということです。そのことは嶺雲が下宿していることでも知られますが、秋聲が「今思い出すとその下宿に田岡嶺雲もいたことがあったし、他にも文壇的に知名の人がいたように思う。」(B)と書いていることでもあきらかです。そして「その下宿から大学に通っていた人にどうかすると会などで呼びかけられて冷やりとするくらい、自分の生活は貧しいものであった」(B)とも書いていて、〔B〕の随筆が書かれた1927(昭和2)年頃、当時の下宿人がみんなそれなりの地位に就いていて功なり遂げた姿をいろんな会合で目にするというのです。

 *1.「弥生が岡」(A)は、向ヶ岡弥生町という町名をフリーハンドで書いたら、こうなったと考えてよさそうである。該当箇所は、あえて架空の地名を用いる必要もない個所である。
 *2.ちなみに、明治34年に徳田秋聲と三島霜川が共同生活を送った弥生町は、〔向ヶ岡弥生町3番地トの11〕である。


 
 一方の、田岡嶺雲の方に、手がかりはないのでしょうか。
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by kaguragawa | 2013-02-23 16:18 | Trackback | Comments(0)

田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(1)   

 経営史の瀬岡誠教授が、「十四会準拠集団」と呼んでおられる明治期のもと加賀藩士が中核をなす企業家集団に、漠とした興味というか関心を持っているのですが、そんなことの周辺に、浮かんできたのが徳田秋聲が自伝的文章で追憶的に記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「弥生が丘」の「高い石の段々のうえにあ」ったという下宿のことです。

 明治維新以後、林賢徳らのもと加賀藩士が加越能三州出身者の育英のための組織(のちの加越能育英社)を作り、「久徴館」「明倫学館」というような寄宿舎を東京につくったという記憶があったのですが、こうした動きと、秋聲が記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「下宿」が重なるのです。

 私の知りたいのは、端的には、いっとき田岡嶺雲が下宿しており――その下宿の嶺雲を秋聲は訪ねている――、秋聲ものちにいっとき住んだその下宿が、《どこにあったどのようなものなのか》、なのです。が、それをまず秋聲の書いたもの糸口に探し求めたいと思うのです。
 事前に言っておくと、時代は明治28年(1995)の6月です。

 秋聲の記述には、「弥生が岡」の「高い石の段々のうえ」とあってと手がかりになる言葉はあるのですが、これだけで場所が特定できるわけではありません。まして、「弥生が丘」という地名はそのままでは、明治期の東京にも存在しないのです。しかし、ここであきらめてはいけません。秋聲は、この時期の記憶を、二つの文章にしているのです。一つは上に引いた「自伝的小説といわれる『光を追うて』。もう一つが「大学界隈」というエッセイです。
 関わりのある個所を、それぞれのテキストから写しておきます。

 それはさておき、博文館の編集室の片隅から送った等の投書は、間もなく「青年文」に載せられ、編輯の誰かに指摘されたが、数日して或る時主幹の田岡嶺雲から手紙が来て、あの種類の評論なら、時々載せても可いということだったので、等は感激し、嶺雲を弥生が岡下宿に訪ねて見た。
 高い石の段々のうえにある其の下宿は、後に等も入ったことがあって、士族階級とみえる同郷の人々が遣っていたが、嶺雲は其の奥の方の部屋に、金縁の眼鏡の奥から、大きい目を鋭く光らせ、土佐っぽらしい率直さで彼を迎えたが、貧弱で陰気くさい無口の等を見て失望したに違いなかった。彼は弟子の天才鏡花を讃め、師匠の才人紅葉を謗ったが、歯切れの好い弁舌と、漢字仕立てながらも尖鋭な頭脳の閃きと、神経の動きの敏捷さとに、鈍い等は一層気の利かない人間として座らされていた。

        『光を追うて』から

 二度目に上京した時――それはちょうど日露戦争のたけなわな頃でしたが、戦争も鎮まって大分たってから、自分はどういう伝手だったか弥生町の横山という下宿にいた事があったが、その頃その下宿から大学に通っていた人にどうかすると会などで呼びかけられて冷やりとするくらい、自分の生活は貧しいものであったが、今思い出すとその下宿に田岡嶺雲もいたことがあったし、他にも文壇的に知名の人がいたように思う。
        「大学界隈」から

 ――この二つの引用は状況が違うように見えますが、このあと、嶺雲と秋聲の二人が一緒に雑誌「青年文」の山県悌三郎を上駒込に訪問するくだりが二つの文章に同様に続きますから、同じ場面であると考えてよいものです。
 もう一度、秋聲のテキストを整理してみたいと思います。

                           (続く)
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by kaguragawa | 2013-02-16 18:56 | Trackback | Comments(0)

三木露風書簡の秋聲と霜川(9)   

 三島霜川の一般に公開されている年譜は、2010年秋の徳田秋聲記念館(金沢市)の企画展「鬼才・三島霜川―秋声と北陸の作家たちⅢ」ガイドペーパーに載っている年譜――以下、「霜川展年譜」と略記――がいちばん新しく、広範な事実を拾い上げている充実した年譜なのですが、この霜川展年譜の明治39年の項にはこう記されています。
――「11月頃、本郷森川町1番地の秋聲宅の書生部屋へ移る。」

 じつは、いくつかの資料によれば明治35年の「絶交」後、すでに37年の前半ぐらいから秋聲と霜川の交友は恢復していると考えられます。その後の、お互いの家を行き来するだけでなく、一緒に歌舞伎を見に行ったりという経緯は『黴』にも書かれているとおりだと思われます。そして『黴』の枠外の話として、明治39年の晩秋以降の一時期、霜川が秋聲宅の一室(玄関脇の書生部屋)に居候して小説の執筆に精を出すという、上の霜川展年譜に書かれているようなことになったようなのです。

 ・・・私は、「絶交」はこのように時を追って“順調に”恢復したものだと思っていたのです。が、『黴』を読み直していて、あらためてある一節に、「うーん」とうなってしまいました。

 お銀はそんな時、傍へ行っていいか悪いか解らなかった。半日外へ出ていた間に、深山とどこで何を話して来たか、それも不安であった。深山の口から、何か自分を苛めるような材料(たね)でも揚げて来たかのように、帰るとすぐ殺気立った調子で呼びつけられたのが厭でならなかった。あの当時、双方妙な工合で仲たがいをした深山の胸に、自分がどういう風に思われているかということは、お銀にも解っていた。自分と笹村との偶然の縁も、元はといえば深山の義理の叔父から繋がれたのだということも、何かにつけて考え出さずにはいられなかった。

 これは、回復し始めた秋声と霜川の関係を見守るお銀の心理と心裏です。お銀(はま夫人)がこうしたわだかまりを心底に持ち続けていたとすれば、霜川の秋聲宅への居候的同居というのはありえないことだったのではないか・・・。 
 そうなのです。『黴』には、霜川との明治39年晩秋の秋聲宅への再同居は、小説の展開する時間――最後の場面は明治40年5月と想定される――の範囲内であるにもかかわらずまったくふれられていないのです。つまり、作品上では、秋聲と霜川の「恢復」は完成しないまま幕を閉じられているのです。
 現実における霜川の秋声宅への再同居と、こうした事実の小説『黴』における欠落。ここで、小説と現実は分離しているのです。これは『黴』を論じる場合の興味ある論点の一つですが、私は、作品論ではなく、お銀(秋聲夫人・はま)のわだかまりと霜川の秋声宅への再同居という一見矛盾する現実の方に目を凝らしたいと思います。
 この謎を解く鍵が、――前の(8)で書いた――一穂氏のいのちにも関わる病を知ったときの霜川の“おろおろとあたふた”だった、と考えるのです。

 もう一度、事態の流れを追ってみましょう。

  交友の恢復=〔明治37~38年〕
    ・秋聲が幼い一穂をつれて木戸別邸の霜川のもとを訪ねるなど
     しかし、秋聲夫人はこころよく思えない
  幼児の大患=〔明治39年晩夏~秋〕
    ・一穂の1ヶ月余の入院生活
  秋聲宅への霜川の再同居=〔明治39年晩秋~冬〕
    ・霜川が、秋聲宅にいそうろう
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by kaguragawa | 2013-02-09 19:46 | Trackback | Comments(0)