タグ:徳田秋声 ( 55 ) タグの人気記事   

啄木はある夜、秋聲を訪ねた   

 以前にも啄木の日記は拾い読みをしたことがあるのですが、先日、ある発表?の参考に少しまとめ読みをしました。
 結局は拾い読み程度の読みになってしまいましたが、いくつかおもしろい箇所を発見しました。その中で、「えっ!」と思ったのは、啄木が徳田秋聲を訪ねていることです。1909年3月13日の項。

 「夜、近所の徳田秋声氏を訪うたが不在、ミルクを飲んで帰って、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があった。」

 当時啄木が下宿していた蓋平館から秋聲の家までは、同じ「森川町一番地」の目と鼻の先。といっても距離は近くとも、細い道を二度ほど道を曲がらなければならないのですが・・・。
 (個人的なことで恐縮ですが、私が徳田秋聲遺宅を始めて訪ねたのも、もと蓋平館跡地に建つ太栄館から細い路地を地図を見ながらのことで、啄木と同じ道程。鮮明にその道筋の情景を覚えています。)

 結局、啄木と秋声は、その後、会う機会はなかった(ということでいいんですよね・・・)。
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by kaguragawa | 2016-02-27 19:30 | Trackback | Comments(0)

秋聲と南大曹   

1)
 12/9の《漱石と南大曹》の余談中に、徳田秋聲の『死に親しむ』にふれ、文中の“彼”〔秋聲の分身〕が診断を受けている「M―ドクトルも、南大曹なのであろうか。」と書きました。その後、大曹に関する私製メモ(前回のものはその要約)をもう一回読み直してみると、確証はもてないのですが、この「M―ドクトル」が南大曹であってもいいのかな、肯定的に考えてもよいのかな・・・という気がしてきます。秋聲研究者の方のご意見をお聞きしたいところです。
 以下、Aは「死に親しむ」の該当箇所で、Bは私の南大曹メモです(太字の部分に注目)。

【A】  「死に親しむ」(1933)より
「癌じゃないですか。」彼はM―ドクトルの診察室で、ベッドに横たわりながら訊いた。十五六年以来同じ質問を口にしたのは、幾度だか知れなかった。
「癌ですか。」M―ドクトルは指で腹を押し押ししながら、うふふと笑った。
「どこにもそんなものはありませんよ。」

「しかし・・・。」
「大丈夫ですよ。軽微な胃潰瘍のようなものですけれども心配ありません。少し続けて薬を呑んで下さい。」
 彼は薬をもらって帰って来た。


【B】  南大曹:1878.03.31~1945.02.26 
 奥州二松松藩(福島)の藩医・近藤玄貞の子。近藤達児(衆議院議員、1875-1931)は、兄。福島県安達郡二本松で生まれ、医業を営んでいた南二郎(山岡房次郎)の養子となる(山岡は、二本松少年隊の一員)。
 1905(明38)年、東京帝国大学医科大学を卒業。1910(明43)年~1912(大1)年、ドイツに留学。1913(大2)年、医学博士。長与称吉の「胃腸病院」に勤務し、二年後、南胃腸病院を開設して一般診療に従事。
 著書に、『胃腸病診断及治療学』(南江堂)などがある。日本消化器病学会会長、癌研究会理事長、日本医科大学教授などを歴任した。
 触診で、病名を言い当てたというエピソードがあり、長男・南博のエッセイ(*)のなかにも、“おれの指はレントゲンよりも正確だというような自信があって、顔色を診ただけでもわかるとか、それから縁起でもない話ですが、患者さんの亡くなる日時、ほとんどあと何日で、場合によっては時間もかなり正確に、そのころまでと言うと大体当たっているというようなことで。”――とある。
 全国的に有名で、日本各地から旅館を予約して治療に通う患者がいたといわれる。

*=「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」一橋の学問を考える会[橋問叢書 第四十七号] 
http://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai47gou/GakusyaTosei.htm

2)
 上記の「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」は、1985年の講演を文字化したもののようです。冒頭の一節には「わが父、南胃腸病院院長・南大曹」というサブタイトルがついています。大曹さんがどんな方だったのか、よく語られていますので、部分的に、抜き写しておきます。

●一日三時間くらいしか睡眠をとらないんです。夏は七時から病院、冬は八時から晩の四時、五時まで。日本で一日に一番多数の患者さんを診ただろうと言われて百人ぐらい。
●病院経営というのは非常にむずかしいので、父なんかは一番合理的にやりました。そのかわり病院と運命を共にするということで、関東大震災のときは京橋の木挽町、いま中央公会堂、あそこだったんですが、焼け落ちる、もう危い瞬間まで自分だけ残って、患者さん、お医者さん、看護婦さん、全部上野の公園に避難させて、自分が最後に病院を出て、いまは自動車道になっていますがそのころは川があって、橋を渡った途端に橋が落ちたということで、やはりリーダーシップをとる人間は、それは船だと船長さんがそうでしょうが、自分の生命よりあずかっている方と部下の生命を大事にするのです。

3)
 最初建てられた「南胃腸病院」は、上に書かれているように、関東大震災で被災。先日書いたように新築されることになります。下の写真を見ていただければおわかりのように立派なものです。設計は、明治生命館や歌舞伎座(三代目)の設計で知られる岡田信一郎です。なお、震災復興で、前を流れる築地川に楓川との連絡水路も新設され、ちょうど病院の前に、めずらしいY字の橋――「三吉橋」が架けられます。
 写真は、その当時(昭和5年)のものだろうと思われ、「彼」(≒秋聲)が渡瀬ドクトル(≒亘理祐次郎)を見舞ったのは、竣工後数年のこの景観の病院だったろうと思われます。
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 手前が震災復興でできたY字橋「三吉橋」、中央が南胃腸病院、病院の奥に見えるのが松屋デパート。
 のちにこの橋が、三島由紀夫「橋づくし」(1956)、堀田善衞「橋上幻像」(1970)の舞台となります。


〔追記〕
【三吉橋】 完工時のデータ
 位置:旧京橋区木挽町1丁目←→同区新富町5丁目←→同区築地1丁目の間
 橋長:82.8m 有効橋幅:15m 
 設計:復興局橋梁課
 起工:昭和4年[1929]2月 
 竣工:昭和4年[1929]12月
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by kaguragawa | 2015-12-11 20:13 | Trackback | Comments(0)

渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について(2)   

5)亘理医院の所在地

  地図に亘理医院の名が記されたものがあることを、本郷在住の忍足和俊氏からご教示 いただき地図の写しもいただいた。ただし、その地図の出所が確認できなかったのだが、同一の地図をこれも国会図書館のデジタルライブラリーで見つけることができた。
『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』(大正1)の〔本郷区18〕のページである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079/607
e0178600_19555722.jpg
 不鮮明だが、赤丸囲いの部分に「亘理医院」とある。★印が徳田家。
 ピンクの道が白山界隈への道である。

(参考)
 本郷区森川町は、もと岡崎本多家の江戸屋敷の跡地である。中心に初代本多平八郎忠勝を祀る「映世神社」を置くそのほぼ全域(前掲図の区域)が、明治に「森川町一番地」とされ、北表通、北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の地区があったという。『帝国医鑑』に亘理医師の開業地として記された「宮前」や、秋聲の住所記載に使われる「南堺」もそうした地区地名である。
 本郷地区に、住居表示制度が実施されたのは、1965(昭和40)年4月。6丁目までだった本郷は、それまでの区域の拡大変更もふくめ七丁目までとなり、森川町地域は本郷六丁目となった。森川町一番地〔森川町107〕のもと亘理医院の地は、文京区本郷六丁目15番9号となっている。

6)亘理祐次郎と「死に親しむ」の渡瀬ドクトルの記載

(年齢)
 「死に親しむ」の渡瀬ドクトルの紹介“同じくらいの年配のダンス友達”の記述は、
亘理祐次郎の生年月日《明治五年十二月二日 〔1872.12.31〕》と、
徳田末雄(秋聲)のそれ《明治四年十二月二十三日〔1872.02.01〕》を並べてみると、
そのとおりである。実質的な誕生日の時差は、11月か月ほどである。
(地理)
 “物の一町と隔たっていないドクトルの家”の記述も、1町≒約110mとすれば、前掲の地図にマーキングした道程距離にほぼあてはまる(実際は150mほどか)。この二人のダンス友達は、患者と医者として、話題の合う友として「映世神社」の前を頻繁に行き来したものであろう。
 なお、亘理医院の地は、祐次郎が亡くなった後、作中にも示唆されていたように、居住者が変わっており、昭和10年の火災保険地図(火保図)には「向岳寮」の名になっている。
(長子の外科医)
 “長子は、医者は医者でも、外科医であった。”“外科の医学士である長子”などの記述は、晩年に近い時期の医師名簿に、父子の名前が出ており、祐邦氏が、慶應大学医学部卒の医学士で外科医であることに、符号する。
(亘理医師の郷里)
 渡瀬ドクトルの出身地は、「死に親しむ」をはじめ渡瀬ドクトルが登場する作品には書かれていないようだが、「彼」が、渡瀬ドクトルが郷里へ身を潜めたことを知り、“ドクトルに見舞の手紙を書こうか、それともそんなに時間がかからないなら、避暑かたがた行ってみようかとも思って、汽車の時間を調べてみたが十五六時間はかかるらしかった。” と書かれており、「帝国医鑑」に記された《宮城県遠田郡涌谷町立町/とおだぐん・わくやちょう・たつちょう》と、当時の東北本線(旧・日本鉄道)と石巻線を乗り継ぐ交通路や時刻表とは厳密な照合ができていないが、ほぼ実態に合うようである。
 なお、宮城県遠田郡涌谷町は、宮城県亘理郡亘理町を本貫の地とする「亘理氏」の一つの拠点であり、両地とも「亘理姓」が今も多い。
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by kaguragawa | 2015-11-28 19:56 | Trackback | Comments(0)

渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について(1)   

(以前、このブログに書いたものもふくめて、レポートをつくり直したので、あらためて掲載します。)

 「死に親しむ」の主要な登場人物で、他の秋聲作品にも「渡瀬ドクトル」の名で登場する医師で秋聲のダンス友達であったこの人物は、どのような人であったのか。
 今までの秋聲研究でも「亘理医師」という名が出るだけで、本人の探索はほとんど等閑視されている状況だった。本人の歿後、遺族が本郷の地を去り、消息がつかめなかったことによるのであろう。

 秋聲作品に〔渡瀬ドクトル〕エッセイに〔W氏〕などとして登場するダンス友達のご近所さんを、追ってみた。

1)
 今回、明治時代の医師名簿を国会図書館のデジタルライブラリーで繰っていて、次のような貴重な記載に出会うことができた。明治43年発行の『帝国医鑑』である。e0178600_2142142.jpg
【帝国医鑑. 第1編】(河野二郎 編/明43.5/旭興信所)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779910/81

宮城県平民 
     亘理 祐次郎
       本郷区森川町一 
       電話下谷七二八

君ハ明治五年十一月二日出生ニテ 遠田郡涌谷町立町ハ
其原籍ナリ
明治三十二年九月廿九日附 医術開業試験ニ合格シテ
免状ヲ受ケ 現所宮前一三六号ニ開業


2)
 大正時代末から発行された『日本医籍録』には、亡くなるまで記載がつづく。
 『大日本医師名簿』によれば、二人体制でやっていた時期のあることもうかがわれる。

【大日本医師名簿 大正14年4月 光明社】
 森川町一  亘理祐太郎   *「祐太郎」は誤植であろう
 同 亘理方 下平軍平 
【日本医籍録 大正14年 第一版】
 亘理祐次郎 森川町一
  明治五年十二月二日生 
  明治卅年 登 九九六七号
 

 *誕生日が、『帝国医鑑』と異なる。なお、「明治五年十二月二日」は旧暦最後の日である(翌十二月三日が、1873年1月1日となる)。秋聲は、旧暦で前年・明治四年末の生まれ(後述)

3)
【日本医籍録 昭和5年版/昭和6年版 両版】e0178600_21175227.jpg
 亘理祐次郎 森川町一
  明治五年十二月二日生 
  明治卅年 登 九九六七号
 
亘理祐邦  森川町一
  明治卅三年五月六日生 
  昭和二年 慶大医学部卒 登 五七三五四号


※この2年間の『日本医籍録』には、慶應医学部を卒業した「亘理祐邦」の名が列挙されている。他資料によれば、祐邦氏は「外科」の医師であることは間違いないので、「死に親しむ」の記述“外科の医学士である長子”が、事実に拠ったものであることがわかる。
※祐邦氏については、亘理医師について早くから情報を集めておられるkamei asamiさんが慶應大学側の資料のご確認をしてくださいました。感謝します。

4)
【日本医籍録 昭和7年版】
 亘理祐治郎 森川町一〇七
  全科 亘理医院 
  明治五年十二月二日生 
  宮城県出身 
  明治卅十年試験及第 登 九九六七号 
  明治卅六年四月現地開業 
  趣味読書


※この年度のものは、亘理氏だけでなく他の医師の記述にも、診療科名、病院名が記載されている。亘理氏の場合「全科」。住所の記載も、広範な「森川町一番地」ではなく、町内全域を街区に分け、連番をつけた「107」が使われている(徳田家は、「124」)。名前の「祐治郎」は誤植であろう。開業年月も、明治36年(1903)年4月と記されている。
 なお、この「107」の地番表記から特定される区画(別紙「火保図」参照」は、次ページの地籍図に記載された「亘理医院」の場所と一致する。

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by kaguragawa | 2015-11-28 19:26 | Trackback | Comments(0)

秋聲忌 墓前祭   

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  静明寺 金沢市材木町
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by kaguragawa | 2015-11-07 20:15 | Trackback | Comments(0)

秋聲「焚火」の火種(2)   

 徳田秋聲「焚火」(1907)、それに先行する三島霜川「霜のあかつき」(1903)――。冬至期の夜明けの“銃猟”にからめた話だということ、話の後半に焚火をする少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との会話を中心とした印象的なシーンが展開されること、これが両作の共通点です。これだけの紹介では、この両作の「類似」が、単に同じ構成要素をもつだけなのか、話の展開もふくめ同一作に近いものなのか、判断ができかねると思いますが、何箇所にもわたり同一の表現や文章群があることから、「〈外形的には〉、話題も話の展開も同一作に〈近いもの〉」と言い切って、先に進みたいと思います。
(このように、両作の話柄の共通点だけを前置きしておいて、話を始めるのは、乱暴であり、なにより私にとっても不都合なのですが、両作品をまるごとここに提示することが時間のつごうなどでできかねるので、そこはお許しいただいて、とりあえずは――できるだけ、行論中に原文の引用を多くいれ、むしろ相違点を浮き立たせることにも留意して――論を進めていくこととします。)

 もう一つ、断り書きをしておきたいのは、こういうことです。論文という体裁でもなく、こういうエッセイ的なものでは、論点や主張点をわかりやすく提示することが難しいと思われるので、要点の一つだけ、切り離して、先に書いておきたいのです。
 ここで考えてみたいと思っていることのねらい(というより「願い」?)の一つは、霜川の作品を改稿したものが、――霜川の名ではなく――秋声の作品として世に出ているという事態の裏側にあるもの、抽象的に言えば、「霜川・秋聲、二人の〈作品を介在させた〉関係性」を、《徳田秋声「焚火」》を素材に考えてみたいということです。実は、この二人の間には、一回完結の単純な代作関係だけではなく、「焚火」に見られるような〈相互的かつ複層的な作品形成〉がほかにもあるのです。といっても、こんな考察?がうまくできて、「新たな視角」といったものが、提示できれば、文学部の卒業論文くらいにはなるのでしょうから、単なる霜川の年譜作成者である私には荷が重い課題ですが。この稿の、潜在的な問題意識として、書き留めておきます。

 脱線めいた行論をもとに戻します。なにより、秋声「焚火」の読み解きをめざすこのエッセイ?では、作品の後半に設定された少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との間の会話、そこにはらまれている「〔叛〕時代的な問題」を、霜川と秋聲に即して、うまく伝えたいと思っているのです。
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by kaguragawa | 2015-10-27 20:02 | Trackback | Comments(0)

秋聲「焚火」の火種―《注》   

・〔秋聲「焚火」の火種(1)〕の注

 発表順としては、霜川に「銃猟」に先だって「曙光」という先駆作があることをすっかり忘れていまして、前項(1)を補訂しました。正直に言うと、きちんと照合する労を惜しんでいまして、あらためて気づいた次第です。
 順を追うと、「曙光」には、ペスという猟犬が登場しますが、「銃猟」には猟犬は登場せず、「霜のあかつき」には猟犬ジャックがでてきます。この猟犬ジャックは、秋聲「焚火」にも登場します。

 さらに、話は繁雑になりますが、明治35年8月の「太平洋」に掲載されている「朝の平和」には、“あか(赤犬)”と呼ばれる西洋種の犬が登場します。 しかも、この「朝の平和」に犬が登場する部分は、「曙光」の一部を転用しているのですが、作品の構成からすると、「曙光」→「朝の平和」→「銃猟」という系列があるとまでは言えないようなので、「朝の平和」は系列作順から除外しました。

 *「朝の平和」は、Yさんからコピーを頂戴したもの(既往の作品年譜に未掲載のもの)。「太平洋」明治35年8月4日号に(一)、「太平洋」明治35年8月11日号に(二)が掲載されている。続稿があるようだが――霜川おなじみの末尾の(をはり)の三文字も、(二)の末にはまだ見えない――、私の無精さゆえ、まだ原紙にあたっていないので不明。
(参照) http://kaguragawa.exblog.jp/21742594/


〔追記〕
 関連のブログ記事に、「銃猟」の名前のtagを付けることとしました。
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by kaguragawa | 2015-10-24 15:55 | Trackback | Comments(0)

秋聲「焚火」の火種(1)   

 『徳田秋聲全集』(八木書店版)の第6巻に、「焚火」という短編が収録されている。この作品を私は読んでいなかったのですが、kamei asamiさんが、先日(10/2)、自身のtwitterで、次のように書いておられるのを目にしました。

 徳田秋聲『焚火』(「趣味」明治40年1月)は、早くから翻案または三島霜川の代作と噂されていて、「中央公論」同年2月時評では〈「焚火」はツルゲネフの「猟人日記」の中に入れても恥かしくない作だ。若し噂の如く三島霜川の作とすれば、霜川の文才詩情なかなか驚くべきものだ。〉と指摘されていま〔す。〕

 秋聲の名で発表された作品「焚火」が霜川の作だといううわさが、発表直後に出ていていたというのである。それに加え、私にとって愉快でありまた不思議でもあったのが、その論評子が「とすれば、霜川の文才詩情なかなか驚くべきもの」と述べているくだりでした。霜川を見直したといわんばかりの口吻は、名前は知られているものの作品が読まれていない三島霜川という作家の状況が、今も100年前も同じであることをでした。と言っても、この不勉強?な論評子とは違い、久保田万太郎などは、「中学時代に霜川氏の小品「スケッチ」を愛読し、それから文学的に学んだことの多い」ことを語っていたというから、見るべき人は見ていたのだなと思うのですが。

 前段というか余談が長くなってしまいました。霜川の作といううわさのあった秋聲の「焚火」という短篇を、――未読であったこの作品のコピーを入手できたので――、ここで少しずつ、読み解いて?みたいと思うのです。
 その際、議論の“つま”に霜川の「霜のあかつき」という作品も取り上げます。
 結論を先取りしながら敷衍すれば、霜川の「霜のあかつき」(明治36年11月「婦人界」/金港堂)と秋聲の「焚火」(明治40年1月「趣味」/彩雲閣)とは、内容に即していえば、《後者が前者の改稿作》の関係にあるからです。つまり、三島霜川「霜のあかつき」の改稿作が、徳田秋聲の「焚火」という作品として世に出ているという、関係になっているのです。
(追記:「霜のあかつき」に更に、「銃猟」←「曙光」という霜川の先駆作があることも、先に、一言しておきます。)

 *「曙光」 明治35年1月「半面」掲載/半面発行所
 *「銃猟」 (小品集)『スケッチ』(明治37年1月/新聲社)所収

 続きは、来週の予定?です。
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by kaguragawa | 2015-10-21 21:49 | Trackback | Comments(0)

渡瀬ドクトルこと〔亘理祐次郎〕   

 『死に親しむ』を中心にいくつかの秋聲作品に、愛すべき人物として登場する“渡瀬ドクトル”は、《亘理 祐次郎》――わたり・ゆうじろう――と見て良いのではなかろうか。

 ずっと気になっていた一事だが、連休の最終日に当時の医師名簿を中心に、少し気合を入れて?調べてみた。

 『帝国医鑑. 第1編』(河野二郎 編/明43.5/旭興信所)に次のような記載がある。

 宮城県平民 亘理祐次郎   本郷区森川町一 電話下谷七二八

 君は明治五年十一月二日出生にて遠田郡涌谷町立町は其原籍なり
 明治三十二年九月弐拾九日附医術開業試験に合格して免状を受け現所宮前一三六号に開業


 web上で閲覧できるいくつかの名簿をのぞいてみると異同がいくつか――例えば、生年月日が同年同月の〔十二月二日〕になっているものなど――がある。いやいや、名前が祐太郎だったり祐二郎だったりするので、安心して確定的なことは言えないのですが、〔祐次郎〕が頻度として多く、ここでは〔亘理祐次郎〕としておくこととします。

 『死に親しむ』には、“同じくらいの年配のダンス仲間”という渡瀬ドクトルの紹介があり、秋声の明治4年、亘理医師の明治5年という一年違いの生年からしても状況が合いますし、住所が森川町1番地(宮前136号)というのも、“物の一町と隔たっていないドクトルの家”の記述を、1町=約110mとすれば、ほぼ合致します。

 ちなみに、町のほぼ全域が《1番地》だった「森川町」には、北表通、北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の地区があったとのこと(――秋声の家は「南堺」で、かつての映世神社の前が「宮前」)。その地区ごとに付された区画番号を網羅的に記載した地図にまだお目にかかっていないので、亘理医院の《森川町1番地(宮前136号)》がどこなのか、「点」として確認できないのが残念なのですが・・・。
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by kaguragawa | 2015-09-24 19:28 | Trackback | Comments(3)

「なすすべなし」なのか――順太郎さんの家   

 なぜか27日・28日と、「正田順太郎」「正田順太郎旧宅」という単語で検索をされ、このブログに来られた方が多くおられた。“どうしてなのだろう?”と不思議に思い、「正田順太郎」で検索してみたところ、27日の北國新聞に(富山新聞にもか)――どちらも紙面は見ていませんが――《徳田秋声の帰省先、解体か 金沢・倒壊の恐れに遺族「なすすべなし」》 という記事が載っていることがわかりました。新聞記事を読まれた方が、さらに情報を得ようと検索されたのでしょう。
(この記事の「帰省先」の語法には異議があり、“なすすべなし”という語を断定的に見出しに使うことには、怒りさえ感じるのですが、そうしたことはまた書く機会を持ちたいと思います。)

 「順太郎さんの家(瓢箪町)を訪ね、「菊見」を読む」という記事を書いたのは5年前のことですが、その時点で、すでに近々家が取り壊されるといううわさ?を聞いていたような記憶があります。

 私には実際のところ現在どういう状況なのかわかるはずもないのですが、今、ここを舞台に率直に書きこまれた人々の交錯を秋聲作品の数々に想い、またこの旧宅をめぐる現在を思い、「落莫」という語が浮かんでくるだけです。
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by kaguragawa | 2014-09-29 22:26 | Trackback | Comments(0)