タグ:宮澤賢治 ( 32 ) タグの人気記事   

賢治が訪れた木挽町「古宇田医院」   

 銀座木挽町にあったいくつかの古い病院のことを調べていて、久しぶりに「古宇田医院」の名前をみつけ、懐かしく思っていたところに、大村智さんのノーベル賞受賞で北里柴三郎のことも思い出し、この機会にあらためて確認できた「古宇田医院」のことを書いておくこととしました。

 「古宇田医院」の名前がなんで私にとって懐かしい名前なのか。それは、私が宮澤賢治のファンとして賢治の東京での行動を調べていた30年くらいも前のことに関わっているからです。その頃、一つの論文に出会いました。奥田弘さんの「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41))です。賢治ファンの方ならご存知の方が多いと思います。賢治の上京の足跡を、東京のここかしこにたどった、というより「発見」した、今読み返してもワクワクする論文です。この論文のコピーを手にして何度も東京の街々を歩いたことはほんとに懐かしい思い出なのです。そして、その論文に登場する一つの場所が「古宇田病院(医院)」なのです。

 この「古宇田医院」には、賢治の叔母(母イチの末妹)・瀬川コトさんが入院していて、賢治が上京したさいに当時の木挽町にあったこの病院を何度か訪れているのです。
 この奥田さんの論文には、かなり詳細に「古宇田医院」のことが書かれてあって、私が今回偶然出会ったいくつかの資料からもほとんどつけ加えることはありません。で、奥田さんの論文の該当箇所を書き写しておきます。ただし、古宇田傚太郎氏の「傚」が「倣」と誤植されているので、そこだけを直しました。

 病院長、古宇田傚太郎は、茨城県の出身で、明治十六年三月に生れ、昭和三三年六月、同病院にある自宅で死亡した。古宇田傚太郎は、一高を経て、明治四一年東京帝国大学を卒業し伝染病研究所に入り、大正三年、現在地に古宇田傚太郎病院を開業した。
その後、震災、戦災にあったが、よく再建して隆盛をきわめるようになった。昭和三三年死亡後は、同病院は、他の医学協会の使用に提供するようになって、古宇田家から離れるようになった。今、木挽町の名も消え、高層ビルが立つようになってしまった。


 次に紹介するのが、昭和15年度版の医師名簿『日本医籍録』(医事時論社/1941)の記述です。
e0178600_203172.jpg
 古宇田傚太郎(医博) 木挽町六丁目二
 皮膚科 古宇田医院 明治十六年三月廿二日生茨城県出身 明治四十二年東大医科卒業 卒業後伝染病研究所及母校皮膚科教室ニ於テ研究 大正三年一月現地開業 同十三年四月学位受領 趣味読書


 ここに書かれている、古宇田傚太郎が大学〔東京帝国大学医科大学〕を卒業後在籍した「伝染病研究所」が、北里柴三郎が福沢諭吉や森村市左衛門らの援助を受けて創設したものなのです。ただ、古宇田傚太郎が、北里柴三郎のもと血清学の研究などに勤しんでいた明治末頃は、私立とはいえ内務省管轄の格の高い研究所(芝区白金台)となっていたはずです。

 奥田さんの論文に付されている古宇田病院の写真を、上に複写しておきましたが、立派な病院です。おそらく竣工時に近い時期に撮影されたものと思いますが、そこに記された「京橋区木挽町五丁目三番地」は、上記の1941年の医師名簿の「木挽町六丁目二」と異なりますが、それは移転したのでなく、この辺りの町域・町名が震災復興や開発で〔六丁目〕に変更されたことによるものであることを付記しておきます。現在の、銀座6丁目の昭和通りに面した地〔銀座6丁目14番6号辺り〕に当たります。
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by kaguragawa | 2015-10-06 19:54 | Trackback | Comments(0)

赤田秀子さんの写真集『イーハトーブ・ガーデン』   

 宮澤賢治のことをいろいろ教えていただいている赤田秀子さんが写真集『イーハトーブ・ガーデン』を上梓された。

 遅ればせながら歿後80年になる賢治の命日(9.21)にちなんんで何か書こうと思っていたのに、ピッタシの話題でしたので、まだ見ぬ本ながら、届くのを待ちながら、紹介させていただくこととしました。
 赤田さんは『賢治鳥類学』(赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄/1998.5/新曜社)以来の大ファン。賢治が自然に注いだ共感の眼差しを深くフォローされている方だけに、赤田さんのファインダーを通して自然を見る目にも暖かさと詩が宿っている。まだ見ぬ本ながら、多くの方にお勧めする次第なのです。

 赤田さんのこの本について、というより赤田さんの写真については、赤田さんのブログ「イーハトーブ・ガーデン――宮沢賢治の愛した鳥や植物」。
 http://nenemu8921.exblog.jp/20750816/

 赤田秀子写真集『イーハトーブ・ガーデン』(2013.9/コールサック社)

〔追記〕
 歿後80年にちなんで書いてみようと思った〔五・一五事件と賢治〕はいずれ。
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by kaguragawa | 2013-09-23 19:28 | Trackback | Comments(2)

些事のような大事――お盆のことども   

16日
 三島霜川の生家跡を確定したい、との思いが意外な結果に。いずれにせよ、霜川の生誕地は「砺波郡下麻生村八王子686番地」に確定してよいようである。もちろん、実際の生誕地が母の実家〔砺波郡院林村〕であった可能性はあるが、下麻生村八王子の三島家の地番は「686番地」(正確には「686番地の1」である。〔追記:拙「霜川年譜」の記載は、5版から「682番地」と誤記されている。訂正されねばならない。〕

17日
 先日亡くなられた考古学者の森浩一さんのことを思っていたら、藤田冨士夫さんが《森浩一先生を悼む――「日本海学」の先駆者》を地元紙に書かれている。
 最後のシロエビの話には笑わせられ、泣かされた。森先生の「後は自分で考えてみい」のことばを、私もお守りにしたいと思う。

 ある本の校正。史料中の「御震筆」を、「御宸筆」の表記に置き換えるべきかどうか・・・。

18日
 宮澤賢治の友人(冨手一)宛ての手紙が「なんでも鑑定団」に。初公開のようである。はずかしい話だが、賢治の手書きの丸っこい文字にあふれる賢治の思いに、わけもなくただただ涙が。

 霜川の作品の題名、水の郷を意味する「水郷」は、《すいごう》ではなく《すいきょう》と読むのではなかろうか?。

 五木寛之『蓮如―われ深き淵より―』(1995)を、bookoffにてワンコインで入手。

 富山第一高校、ベスト8へ!。
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by kaguragawa | 2013-08-18 20:03 | Trackback | Comments(0)

賢治と小繋(旧稿)   

 以前、旧ブログに書いた記事〔2009年3月16日〕。今日、偶然見つけました。写しておきます。

 『イーハトーブ温泉学』に触発されて岩手の山野に思いを巡らしていて、ふっとこれも岩手の山村・小繋のことが思い起こされて、急いで岩波新書『小繋事件』をさがしだしました。
 小繋村の入会山(いりあいやま)であった小繋山の所有名義が村の旦那(地頭)・立花喜藤太から村外の柵山梅八ら三人の共有に変わったのが、1897(明30)年。これが入会紛争の起点であったわけではないが、村民の生活の糧の山であった小繋の山が、第三者の経済的利害にさらされることになったその起点の年が、賢治の生年の翌年であること。この小繋山の一部を陸軍省の軍馬補充部に売り付け利を稼ごうとした村外者たちの利害と村民の生活が鋭角的に対立し、第一次小繋訴訟が始まったのが、1917(大6)。この訴訟が提訴され争われた場が当時、高等農林学校の学生であった賢治のいた盛岡の地方裁判所だったことも、何の因果なのだろう。もちろん賢治は当時、入会紛争などというものにまったく関心がなかったであろうが、賢治が土質調査に歩いた山々はじつはほとんどが農民の入会山であったことは銘記されていいことだと私には思えるのです。
 そして農民の生活を保障するはずの「入会権」が認定されず、なんと15年かかったこの第一次訴訟の第一審が盛岡地裁で原告敗訴に終わったのが、1932(昭7)年。晩年、農民の生と関わり苦闘した賢治の死の前年なのです。

 賢治の生まるごとが、小繋村の農民の入会紛争の日々と重なっていたという事実を、――ここでは十分に書けませんが、小繋村の田中正造とも言うべき小堀喜代七のこともあわせて――自分なりに咀嚼してみたいと思っています
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by kaguragawa | 2013-06-10 22:11 | Trackback | Comments(0)

盛岡のプジェー神父――宇都宮に「カン蛙」が!   

 なんとプジェ神父が賢治と親しんだ盛岡の地を去り、次に赴任した宇都宮カトリック教会(松が峰教会)には、賢治の童話「蛙のゴム靴」に登場する「カン蛙」のガーゴイルがある!。
 「この教会の大聖堂の完成の1年前に着任したプジェ神父が、賢治を想い、完成間際の大聖堂に「カン蛙」のガーゴイルを付け加えたのだ」との説明もweb上にあるが、あまりにも出来過ぎた話だ。よく調べたら、このガーゴイルは戦後につけ加えられた宇都宮在住の彫刻家・栗原俊明の作品だと言う。

 盛岡での賢治とプジェ神父の親交は、こんなところにその跡をのこしているのですね。愉快な話です。

 「カン蛙」にも驚いたのですが、もっと驚いたのは、この大聖堂の設計者のこと。建築には興味を持っているのですが、松が峰教会を設計したスイス人建築家マックス・ヒンデルについては、はずかしいことに、その名さえ知りませんでした。16年間日本に滞在した彼の設計した多くの建造物が各地に遺されているというのに・・・・。

 金沢市長町の金沢聖霊総合病院の中にある「金沢聖霊修道院聖堂」もマックス・ヒンデルの設計だという。次回の金沢行きには、何をさておいてもこの「修道院聖堂」に足を運びましょう。
(追記:間抜けな話ですが、この「修道院聖堂」、金沢の歴史的建築物の一つとして、なぜか私の「金沢見て歩き計画」のなかに入っていました。どうしてこの聖堂のことを知ったものか・・・。)

 *マックス・ヒンデル(Max Hinder 1887~1963)
 http://modern-building.jp/Max_Hinder.html
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by kaguragawa | 2013-02-18 22:55 | Trackback | Comments(0)

盛岡のプジェー神父――石川光子と宮澤賢治   

 石川啄木の伴侶となった堀合節子が啄木と知り合った頃(明治32年)、節子は盛岡女学校に学んでおり、そんなことがきっかけになったのかと思いますが、節子を姉のように慕っていた啄木の妹光子(ミツ)も、渋民高等小学校を出た後、このカトリック系の盛岡女学校に進みます(明治38年)。光子は、結局石川家の経済的事情もあり、修学もままならず退学することになるのですが、この折のことが、『悲しき兄啄木』(1948)に、次のように書かれています。

 私が渋民に帰らなければならなかったのは、兄のそのときの状態として学資が出なかったことによるのですが、別の方法でなら全然続けられなかったというわけではなかったのです。
 実は盛岡女学校は天主教の学校でした。フランス人の校長のタカエ先生や舎監のマリヤ先生、それにプジェ神父などから私が「もし希望するのであったら、学資を出してやろう。そして東京の仏和女学校に入学させよう」という話でした。そこを卒業して母校盛岡女学校の先生にするということなのです。
 私はどんなに喜んだことでしょう。早速渋民に帰ってそのことを父母に相談しました。すると、
 「お寺でそだっていながらヤソのお世話になるなどは怪しからぬこと――たってというなら勘当だ」
 などと思いもよらぬ強い反対でした。


 そして、光子は翌年(明治40年)1月には女学校を退学し、5月には兄啄木と北海道に渡ることになるのです。このあとの光子の宗教的変遷やそもそも光子がキリスト教へ関心をもつようになったことに兄啄木の影響があったことについては、多くの書かれたものがあるのでここでは割愛します。

 ここで、注目しておきたいのが光子の回想の中に登場する《プジェ神父》のことです。盛岡のカトリック神父プジェといえば、宮沢賢治のファンの方なら賢治の短歌や詩に、
ブジェー師よ かのにせものの赤富士を 稲田宗二や持ちゆきしとか/プジェー師よ いざさはやかに鐘うちて 春のあしたを 寂めまさずや〕などと登場するプジェー師の名をきっと思い出されることでしょう。そうです、賢治の作品に登場する盛岡天主公教会のプジェーが、石川光子に修学を続ける手だてを講じようとしたプジェ神父なのです。
 『宮澤賢治語彙辞典』によると、プジェー神父(Armand Pouget/1869~1943)は、明治35年から大正11年まで盛岡にいたようですから、同じ女学校を卒業しながらも早く卒業した堀合節子はプジェーとは顔を合わせていないかもしれませんし、教会とは無縁だった啄木も会う機会はなかったことでしょう。しかし、啄木の妹光子と少し時代は遅れますが(約10年後)賢治が、盛岡でプジェーと縁ができているのですから不思議なものです。

 このプジェー神父〔Pouget,Hippolyte Pierre Jean Armand〕についてはもっと多くのことを知りたいと思っていますが、盛岡のあと宇都宮の松が峰教会に移られたようですが、日本で亡くなられたのかどうかも私にはわかりません。ご存じの方があれば、ご教示いただければと思います。

〔補記〕
 石川光子(三浦光子)のその後については、あらためて書きたいと思っていますが、光子自身の著作のほか小坂井澄『兄啄木に背きて――光子流転』(1986/集英社)、藤坂信子『羊の闘い――三浦牧師とその時代』(2005/熊本日日出版社)の2冊のすぐれた本があることをお知らせしておきます。


〔追記〕
 いろいろ検索した結果、ようやく、次のようなサイトにたどりつきました。驚いたことに、一緒に調べていただいた賢治研究者の浜垣さんも、このページを見つけられたようです。
http://archives.mepasie.org/notices/notices-biographiques/pouget-1
http://archives.mepasie.org/annales-des-missions-etrangeres/na-c-crologe-missionnaire-2

POUGET Hippolyte (1869-1943), né le 19 novembre 1869 à Prades (Aveyron), entra au Séminaire des M.-E. en 1888, fut ordonné prêtre le 27 mai suivant, et partit pour la mission de Hakodaté le 19 juillet 1893. Après l'étude de la langue, il travailla dans le département de Mi-yagi, et, en 1898, fut envoyé dans l'île de Sado. En 1901, il fut chargé d'établir un poste dans le port de Otaru. De 1903 à 1925, il fut responsable du poste de Morioka. Il fut ensuite nommé curé de Fukushima. Agrégé en 1934 à l'archidiocèse de Tokyo, il fut chargé de la paroisse de Utsu-nomiya. En 1938, quand fut divisé l'archidiocèse de Tokyo, il suivit Mgr Chambon à Yokoha-ma, puis se retira à Wakabachô. Il mourut le 3 avril 1943 à Yokohama. Il était collectionneur de gardes de sabres (suba), et fit don de sa collection au musée de Tokyo.

POUGET Hippolyte Pierre Jean Armand, missionnaire à Yokohama (Japon), décédé en mission le 6 avril 1943, à l'âge de 74 ans.
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by kaguragawa | 2013-02-16 22:52 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―2》   

 1922(大11)年8月の鈴木三重吉の清水良雄宛ての書簡がある。

 “暑いですね。十月号は一人でおやりになるお意気込みの由、小野君から伝承。これは大変でしょう。昨日、木内君を休養のため小田原にやりました。二三泊の上、子供たちといっしょに、全部引き上げて来る筈です。小僧のやつが、昨日、日本橋で自転車から突き落とされ怪我をして帰ってきました。木内は出たアトだし、家事の方一人でよわりました。今夜から小野先生が宿直してくれます。今日午飯は、私が茄子を煮、冷や奴豆腐を仕入れ、つけものを刻み、小野大将がメシを炊きました。この暑さでも、日曜以外は毎日乗馬です。もう、いよいよ外乗りして、歩き廻れることになりました。明朝は小野大人がワガハイの乗馬を実見に来るそうです。” 〔大正11年8月11日付け〕

 清水良雄は、鈴木三重吉が創刊した児童文学の雑誌『赤い鳥』の美術に携わった洋画家で、彼の表紙画は目にされた方も多いと思います。文中の「十月号」はもちろん『赤い鳥』の大正11年10月号のことです。そして、ここに「小野君」「小野先生」「小野大将」「小野大人(うし)」として四様に名前が挙がっているのは、誰あろう、《小野浩》氏です。
 詳細は、ここでは略しますが、小野は『赤い鳥』の中心編集スタッフだったのです。上の三重吉の書簡は「鈴木三重吉全集」からのものですが、小野の名前は全集に収められているものだけでも清水良雄宛ての書簡を中心に多くにわたっています。読めば小野が三重吉の信頼を得て、清水良雄と三重吉のパイプ役になっていることが歴然と見えてきます。

 では、小野はいつから『赤い鳥』の編集に関係するようになったのでしょうか。これについても三重吉の清水宛ての書簡が語っています。1919(大8)年のものです。

 “おはがき拝受。五月号口絵は、諸方面で大好評です。子供も喜ぶそうです(中略)七月号は第三巻第一号とし、多少、排列、装飾をかえて記念号にしたいものです。その御相談に、そのうち伺います。小野浩君、よく働き、存外、タスカリます。ともかく、それで生活する人ですから、仕事も命じやすく、大将も、どんどん片づけ、ちょっともオックーがりません。来月号から、一任するつもりです。(後略)” 〔大正8年4月14日付け〕

 正確な日付は分かりませんが、1919年の春から三重吉のもとで『赤い鳥』の手伝いを始めたこと、しかも仕事ぶりが高く評価されていることがわかります。e0178600_15175565.jpg 
 その後、“編集になれた小野君が創作をやるので円満退社”〔1921.3.1付け小宮豊隆宛て書簡〕ということがあったようですが、編集がうまくまわらず、結局、1年後に小野に復帰してもらうという経緯を経ます。最初に紹介した清水宛ての書簡は、復帰後の小野が鈴木家の家事にまで携わっている状況が書かれているわけです。(引き続き、小野は1923年8月の三重吉書簡にも登場します。)

 ところが、これほどに『赤い鳥』の編集の中心にいた小野浩が、清六氏の回想によれば、兄・賢治の童話原稿を持って訪ねたという『コドモノクニ』の発行所である「東京社」にいたことになっています(前回紹介の宮沢清六「兄のトランク」参照)。
 ――が、どう考えても、1932年当時、小野浩が三重吉の片腕として『赤い鳥』の編集をしながら、ライバル社の東京社にも在籍したとは思えないのです。


 ・・・この事態をどのように考えたらよいのでしょうか。賢治研究の側から、この点に疑問が呈されたことはないようですが。

 *写真は『赤い鳥』創刊号の清水良雄の表紙画
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by kaguragawa | 2012-01-29 15:16 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―1》   

 前項で紹介した9年前の《ルソーとラモー》を書いたのが、2003年の10月24日だったのですが、その前日〔23日〕に《小野浩と宮沢賢治》というタイトルの文章を書いていました。
 読み直してみたら、少しつけ加えたいこともでてきたのと、ほんとに偶然なのですがこの項に関するある文献を入手したので、あらためて《小野浩のこと》というタイトルで整理してみたいと思います。(なお次稿は、1/29の予定)

 まず、2003年10月24日の稿《小野浩と宮沢賢治》と、2004年1月4日の稿《1月4日の賢治》との2つの〔旧稿〕を紹介しておきます。

●「小野浩と宮沢賢治」 (10/23/2003)

 宮沢賢治とほとんど同時代に生きた、しかも同じ年に亡くなった童話作家がいます。小野浩です。
 生没年を併記してみるとそのことがよくわかります。
 2歳違いのこの二人は、日本が戦時体制に入っていこうとする矢先、1933(昭8)年に、宮沢賢治は27歳で、小野浩は29歳で、亡くなっています。賢治がちょうど1か月さきでした。あまりにも奇妙に重なり合った人生です。

  *宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  *小野 浩  1894.06.29~1933.10.21

 賢治はご承知のように東北岩手県の生まれですが、一方、小野は九州鹿児島の生まれです。
 じゃ、“この二人に何か接点があったのか”、と問われるならば、何もなかったとお答えするしかありません。では、同時代人だったこと以外に、まったく関係がなかったのかと、問い直されると、「不思議なすれ違いがあったようです。」という答になりそうです。

 そんな話の続きは、来年の1月4日(?)に、もう少し具体的なことがわかっていれば、あらためて報告させていただきたいと思います。

 とりあえず、命日から少し経ってしまいましたが、今日は小野浩の簡単な略歴だけ、紹介させていただきたいと思います。

 「小野 浩」
 明治27〔1894〕.6.29~昭和8〔1933〕.10.21/鹿児島県加茂郡竹原町生まれ。
 早稲田大学英文科を大正6年に卒業。
 「赤い鳥」社に入社、10年以上「赤い鳥」の編集に携わり、また同誌上に「鰐」「かばんをおっかける話」「金のくびかざり」などを発表。
主著に童話集「森の初雪」がある。
 その他「新青年」にブラックウッドの「意外つゞき」などを翻訳した。
 (『新訂作家・小説家人名事典』(日外アソシエーツ/2002.10)ほかより)

 〔追記〕
 小野浩の生誕地を、上に「鹿児島県」と書きましたが、地図で確認しようとしたらば、鹿児島県には加茂郡竹原町はありませんでした。
 これは今年3月ごろの図書館で書き写した手書きメモによって書いたのですが、これは私の書き写しミスのようです。間の抜けた話ですみません。鹿児島県ではなく、「広島県」のようです。ただし、加茂郡竹原町は、現在、「竹原市」になっているようです。そういったことも含めて、あらためて確認しますが、とりあえず、上の記述はそのままにしておきます。

●「1月4日の賢治」  (01/04/2004) 

 妹トシを前年の11月に亡くした賢治は、年が明けるとまた思い立ったように上京し、当時本郷にいた弟清六の下宿を訪れます。
 1923(大12)年1月4日のこととされています。
 童話原稿がつまったトランクを清六の前に差し出し、どこかで発表してもらうように交渉してくれと頼むのです。この時、賢治27歳、清六は18歳です。
 清六はその原稿を、なんと「婦人画報」に持ち込むのです。応対した編集者は、数日後に「これは私の方に向きませんので」と返し、再び東京に立ち寄った賢治はそのトランクを持ってまた雪の花巻に帰っていきます。
 このとき応対した「婦人画報」の編集担当というのが、“小野浩”です。

 当時、清六がどこに下宿していたのか、そして清六が原稿の入ったトランクを下げて訪れた「婦人画報」がどこにあったのか、知りたくて、この話をフォローしてみたのです。が、なにかこの話には無理があるような気がしてならないのです。
 (肝心なこの疑点の内容、公開できるほどのものでもないので、今は指摘するだけにさせてもらって、もう少し調べて後日、あらためて、その機会を持ちたいと思っています。悪しからず。)

 ※ 小野浩の生地は、やはり広島県でした。10/23日記に私の資料写し誤りかと書きましたが、いくつかの辞典類にはやはり「鹿児島県」と誤植?されています。
 ※ ちなみに今年〔2004年〕の4月1日は、宮沢清六さんの生誕100年にあたります。
 

(資料1)
 ……大正十二年の正月に、兄はその大きなトランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現れた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さしてみろやじゃ」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んでみて下さい」と言って帰ったのだった。
 あの「風の又三郎」や「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 「これは私の方に向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
(『兄のトランク』(宮澤清六/筑摩書房/1987.9〔初出1941『創元』3月号〕)

(資料2)
 一月四日 上京。例のトランクいっぱいの原稿も持っていき、弟清六が本郷区竜岡町に学業で滞在中だったから東京堂の婦人画報編集部へもってゆくよういいつけた。その夜きょうだいふたりでレストランへ出かけて会食。何でもいいから見はからってもってこいといったら大皿にさざえの壺やきがきて「これはとられるかな」と笑った。賢治はそれよりトシの分骨を国柱会の妙宗大霊廟に納める手続をとるため静岡県三保にあった国柱会本部まで行った。清六は東京堂婦人画報編集部小野浩にあい原稿を見てもらうことにした。この中には「楢ノ木大学士の野宿」などが入っていたのであるが結果は雑誌に向きませんからと断わられた。やがて賢治がそれを持って十一日帰る。小野浩は、のちに『赤い鳥』の編集者となり、一九二七(昭和二)年六月号(第十八巻六号)の『赤い鳥』に「お人形と写真」という童話などを発表している。なお分骨は春、父と妹シゲが三保へ納める。
(『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史/中公文庫/1991.1)



〔追記〕
 小野浩の続稿は、↓の〔小野浩〕のタグをクリックしてください。

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by kaguragawa | 2012-01-22 19:37 | Trackback | Comments(0)

“見えざりし支那の学生”――神田の中国留学生   

 宮澤賢治の1916(大5)年の上京時、神田猿楽町の東京独逸学院で「独逸語夏季講習会」に学んだ折の歌、

  “独逸語の講習会に四日来て又見えざりし支那の学生”

 が、“又見えざりし”という語とともに、ずっと心に錘のようになって残っているのですが、『東京人』11月号〔特集/チャイナタウン神田神保町〕が、知りたいと思っていた神田神保町と中国留学生の関わりをしっかりととらえてくれていました。
 徳田秋声の『北国産』(1908)が、この“チャイナタウン神田神保町”の裏側をとらえていることも思い起こされてきます。

 そのあたりのことを、いずれ書いて見たいと思います。
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by kaguragawa | 2011-11-01 22:21 | Trackback | Comments(0)

『宮澤賢治――雨ニモマケズという祈り』   

 『宮澤賢治――雨ニモマケズという祈り』(重松清・澤口たまみ・小松健一/新潮社/2011.7)

 最近、賢治の「雨ニモマケズ・・・」という詩文に接して、賢治の“希求”を思ったものですが、この本であらためて賢治を語ろうとした人々は、この詩に、賢治の生に、“祈り”を読みとっています。

 もしかして既刊本のごてごての賢治像になれた人々には少しものたりなくうつるかも知れない、とおせっかいな危惧もいだきますが、私には少し特異な小松健一さんのフォトともあいまって今までの賢治像から自由なナチュラリストを見つけてうれしく思いました。

 著者の澤口たまみさんにお送りしたメッセージを再録しておきます。
e0178600_8341898.jpg
 “ごぶさたしています。今日、店頭で見つけさっそく買ってさっそくページを繰りました。感想はあらためて・・・と思いますが、著者の賢治像を押しつけがちな――それが著者の意図ではないにせよ――賢治本が多い――なかで、かざらない賢治に逢えるような気がする本でした。「自然から紡いだ言葉たち」は澤口さんならでは切り口が新鮮で、小松さんの全巻にわたるこれも自由なイメージのフォトと一体になっておだやかにほほえむ賢治を想いました。巻をおいて、「雨ニモマケズという祈り」、このサブテーマが三陸鉄道島越駅にぽつんと残された詩碑や甲斐の山々とも静かに響いてきました。”

 賢治の絶筆となった短歌二首を大きな版で紹介していただいたことは感謝にたえません。
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by kaguragawa | 2011-07-23 15:41 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)