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“犀星忌”   

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 きょう、犀星ゆかりの雨宝院で「犀星忌」の催しがありました。
 今年の3月26日は、室生犀星歿後50年にあたる。
 ちょっと緊張してお堂の玄関をあけたのですが、高山住職の“お元気でしたか、遠いところからようこそ”と声をかけていただいて、ほっとしました。

 岡野弘彦さんの含蓄ある講演「室生犀星さんの家」を拝聴。在りし日の折口信夫と室生犀星。
 ひとまず話が終わってからの余談?、柳田国男の話には身の凍るような思いをしました。(私は柳田のことをずっと誤解していたのではなかろうか。)

 いつも「犀星忌」の頃は「あんず」の花咲く頃だが、今年は雨宝院のあんずもまだ。
 富山も金沢も、朝の雪がうっすりと残った。春のおとずれを心待ちにするのみ。
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by kaguragawa | 2012-03-25 18:38 | Trackback | Comments(2)

霜川の作品「向日葵」(1)   

 昨日の秋声墓前祭のあとの米田憲三先生の記念講演「三島霜川の生涯と秋声」のことを紹介する前に、同時代人がリアルタイムで三島霜川についてふれた文章を紹介しておきたいと思います。ここに登場する霜川の作品「向日葵」に注目しておきたいからです。

 その同時代人とは、《表棹影》――おもて.とうえい。本名、表作太郎、金沢の地で文学に志していた若者です。金沢時代の室生犀星の親友であり、犀星の『性に目覚める頃』にも登場し、“日は紅しひとにはひとの悲しみの厳そかなるには涙は落ちつれ」”という棹影の歌が紹介されています。
 そして以下に紹介するのは、1907(明治40)年に書かれた棹影の日記〔1月21日〕の一部分です。中央文壇で活躍する秋声や霜川など北陸の作家への醒めた注視が、印象的です。
 (現代表記に直したほかにも何箇所か表記を変えてあります。)

 21日

 纏綿として少女の忍び泣くような雨は万物の新生命を培うと降る。枇杷の花白し。
 数々泥に塗れた秋声の小説“黄金窟は昨日で漸と終結して霜川の“鶯屋敷”が北国紙に出た。とかくの批評は後日のことだが、“向日葵”の如な半途で尻切蜻蛉となるやつは今から御免だ。況んや二度のお勤めなるにおいておや、だ。
 十二月の「新声」を漸と取り出して読んだ。車前草社の詩稿なべて振わず。詩壇に泡沫の“鈴虫の歌”誦すべし。三木露風の歌、三誦飽かず。夕暮、春波の美文また読むべし。
 今夜は誰も来ず、外へも出ず。真面目に机の前に坐った。日記のペンの余瀝に詩を作りかけてみた。
 寒念仏がカンカン鉦を敲いてきた。哄、偽信仰者、哄、乞食坊主。ああ世を誤るものは汝らなるかな。不快な鉦の音はますます聞こえて止まぬ。
 

 引用は笠森勇編『表棹影作品集』(桂書房/2003.6)からですが、連載が途中で打ち切られた霜川の小説「向日葵」については、「不明」と編者注があります。


   *表 棹影  1891.01.26~1909.04.28

〔追記〕
 なお、棹影の生没年からもわかるように、彼は18歳の若さで亡くなっています。犀星の『性に目覚める頃』は歿後十年の棹影追悼作でもあったのです。
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by kaguragawa | 2010-11-14 14:57 | Trackback | Comments(0)

8月1日――犀星と賢治の生誕の日に   

 夏が来れば思い出す~♪ではないが、8月1日になるといろんなことが次々と想起されてきます。
 以下、クーラーのきいた部屋で書くことにためらいを覚えつつの、メモです。

 今日が、室生犀星の誕生日とされていること――。8月1日が犀星の誕生日であることに疑問を呈したものを読んだことはないのですが、彼の出生の経緯からしても、私には8月の1日と言う確定した日付には疑問を感じます。しかし、夏の盛りを思い出させるこの8月の朔日は、“夏の日の匹婦の腹に生まれけり”という犀星の句と併せて犀星を想うに欠かせない日なのです。

 実は、竹久夢二の金沢での個展が1915(大6)年9月、市内の金谷館でおこなわれたことの詳細をTさんに報告しないといけなくて、このときのことを犀星は『女ひと』という随筆集の文章で書いていることも、併せて書こうと思っているのですが、少し時間をいただきたいと思います。
 (犀星はこの年の夏から秋にかけて、養父・真乗の危篤と死、とみ子さんとの婚約などで金沢にいることが多かったのです。また夢二の世話をした西出朝風――彼も八朔の生まれ――はなんとこのとき千日町に住んでいて犀星の近くにいたのです。)

 さらに、犀星と「金谷館」で思い出すのが、萩原朔太郎の犀星を訪ねての来沢〔1915(大4)〕5月〕のことです。このとき金谷館で歓迎の会がもたれているのです。

 “萩原朔太郎氏はすぐる八日正午着の列車で来沢。西町松籟館に投じた。同時に白秋氏も来沢するはずであったが、雑誌「アルス」の方が手を離せないので中止となった。やむを得ない事であった。十四日には朔太郎氏の歓迎会を金谷館で開くことになった。人魚詩社並びに私等の同人が主催となって、室生犀星氏を初めとし多田不二、志筑茂二、安島清太郎の諸氏、それに萩原朔太郎氏と小畠真一、八田健一の両氏並びに私のつごう八人、極めてなつかしい夜であった。皆、非常に酔った。非常に酔って唄った。山村暮鳥氏よりは「朔を殺さないでください」といって来た。非常に嬉しいことである。ことに犀星氏は最も喜んでいた。超えて一七日、萩原朔太郎氏、遂に帰国の途につかれた。それは非常にかなしい夜更けであった。”(「遍路」〔大正4年〕6月号/編集後記〔西尾憲二郎〕)

 8月1日に戻って、やはり犀星のつながりで思い出すのが、犀星の次男・朝巳さんの金沢連隊への入隊と富山大空襲のことです。
 以下は室生朝子『父犀星と軽井沢』の(毎日新聞社/1987.9)の一節です。

 “昭和二十年になると、〔注:軽井沢の〕町の中ではほとんど男性を見かけなくなった。日本中に男性がいなくなったともいえるほどで、憲兵隊の人達と体に故障のある人、そして弟だけであった。だが七月の末、最後の召集令状が弟にも配達された。
 私は金沢の連隊まで弟を見送っていった。叔母の家に泊まったが、髪をまだ切っていなかった弟を見て、叔母は一喝した。入隊の前日、彼は床屋へいった。連隊の営門前で弟と別れた私は、すぐに軽井沢に戻った。列車が富山を出て間もなく、空襲警報がでて列車は止まった。富山が空襲を受けたのであった。”

 そして、8月1日の富山大空襲のこととなるとやはり、父の富山空襲語りのことを書いておきたいと思うのですが、時間が尽きました。

 今日8月1日をやはり戸籍上の誕生日とする宮澤賢治のことと、斎藤文一さんの『科学者としての宮沢賢治』(平凡社新書/2010.7)のことも日をあらためます。
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by kaguragawa | 2010-08-01 21:59 | Trackback | Comments(2)

100年前の今日、犀星、東京へ(1)   

 100年前の今日――1910(明治43)年5月5日の夜――、室生犀星は、みずからの文学の可能性を試すべく東京に旅立ちました。といっても客観的に「5月5日」と証明する資料はなく、この日は犀星のいくつかの自伝的記述によるものです。

 “自分はその給料を貰うた晩に直に出発できるよう、着替えや少しばかりの書物、それから一揃えのコーヒー茶碗をも荷作りの用意をしていた。このコーヒー茶碗は何故持って歩くのか自分にもよく分りかねる気持ちであった。恐らく当時こういう西洋風な珍しい器物を愛していた気持からかも知れなかった。その日は町に桐の花の光り、若葉の樹々の頂には幟が立っていた。自分は元より母や兄にも事情は明かさず、生涯忘れることのできない感銘の深い日だった。停車場の歩廊には自分を送る者がいよう筈がなく、むしろ自分は憎悪に絡んだ気持で、晩の直行に乗るのであった。”

  “煤煙の罩(こ)めた新橋ステエションに降り立った自分は、迎えに来ている田辺孝次や吉田三郎、それから幸崎伊次郎の顔を歩廊の人ごみの中に見出した。彼等は美術学校の制帽を眉の上にまで深くかぶり、その姿は自分の恐怖している都会生活の概念を一蹴して見せた。電車に乗り声高に話し合うていると、自分の神経を脅かしていた都会の生活の予感は、最早自分に関係の無いもののように思われた。
 砲兵工廠の外壁を電車が曲るときに、その窓際に美しい女学生の顔を見出し、その鮮やかな肉顔はむしろ美し過ぎて薄ら寒い戦慄の感じにさえ変るのであった。田辺の下宿は団子坂の上であった。晩食の後に自分と幸崎は田辺に連れられ、浅草公園の活動の通りを散歩していた。雑踏の中にある刺激的な境遇の変化は、自分の半生を瞬間的に粉砕した。自分は群衆や楽隊や人の匂いに慣れ、そういう明るい中を歩くことに快楽を感じた。同時に田舎の青い風景をも自分は頭の中から抹殺した。自分等は六区の淫売窟を廻り、この大都会の千九百六年代の穴を覗きみるのであった。”
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by kaguragawa | 2010-05-05 20:29 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

犀星年譜散見   

 室生犀星の年譜を見ていて、「多田不二」の名を見つけ、“あっ”――今までの犀星との付き合いの中で「多田不二」の名はよく見ていたのですが――と、声を上げてしまいました。最近読んだ多田富雄さんの本に付された多田富雄さんの簡単な年譜に「大叔父」として紹介されていたのが「多田不二」だったからです。
 多田不二さんは犀星の田端時代に隣に住んでいたこともあるはずだ。多田不二の作品を手近に読めるのだろうか。。。

 ところで犀星の年譜と普羅の年譜を合わせると、関東大震災の翌年、金沢に避難帰省していた犀星は普羅と句会の席をともにしている。『辛夷』の金沢での創刊記念ということもあったのだろう、普羅が師・虚子を北陸に招いた記念の句会だ。〔1924.9.14。犀川左岸、桜橋をのぼったところにある高岸寺。〕
 犀星は日記に「虚子氏と語る。骨髄までの俳人なり」と書いているという。が、犀星と普羅はその席で親しく話し合うことはなかったようだ。この句会を詠んだ普羅の句も残る;
〔ちなみにこの日は中秋の名月の翌日(旧暦8月16日)で、月齢14.8〕

  二三人木の間はなるる月夜かな

〔追記〕
 一青窈さんが阿久悠を語る番組を見る。「こころの遺伝子~あなたがいたから~「とんがってるものほどやすらぐ 一青窈」――。
 そう言えば、心の中の「とんがっているもの」を詩として世に問うた人々が多くいた時代があるのではないか。大正期の犀星しかり、賢治しかり。そして俳人の前田普羅もそうではなかったのか。



 
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by kaguragawa | 2010-05-03 23:18 | Trackback | Comments(0)

「犀星忌」と岡あやめの会   

 犀川縁の文学碑にも雨宝院の庭にもアンズが満開です。そんな中、雨宝院での犀星忌(四十九回忌)と小島千加子さんの講演の場に参加させていただきました。
 不覚にも小島千加子さんが岩波文庫の犀星『女ひと』の解説を書いておられる方だということに気づかずにいて、あわてて講演の前に『女ひと』の一,二編と解説を読んだ次第。

 犀星晩年の10年間、小島さんは新潮の編集者として馬込の犀星宅や軽井沢の別荘にもしげく足を運ばれ、犀星のあたたかさ、やさしさ、するどさを、間近に見てこられた方だったのです。編集者としての犀星エピソードから、不条理にきびしかった養母ハツにも思いやりと礼節を保ち続けた人間・犀星に話が及ぶあたりから、これも不覚なことに小島さんの犀星への慕い語りに涙がとまらなくなってしまいました。

 やさしい雰囲気につつまれた雨宝院を見守るように、犀星ゆかりの杏(あんず)が咲いている犀星忌でした。


〔追加〕
 ウェッジ文庫に犀星の随筆集『天馬の脚』が加わっていました。
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by kaguragawa | 2010-03-27 23:34 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(3)   

(承前)

 犀星研究のなかでも犀星が文壇デビューまでを丹念にフォローした船登芳雄さんの『評伝室生犀星』には、1909・1910(明42・43)年の犀星の動向がこう書かれています。

 “七年四か月にわたる裁判所の勤務を退職した二十歳の犀星は、まず文筆の才を生かすべく、新聞記者をめざすことになる。ただし、退職後三、四年の動静は自伝小説以外に確たる裏づけ資料が残っていない。(中略)
 「福井新聞」入社も功を奏せず、養家に帰った犀星は、またもや養母の罵声に耐えなければならなかった。ところが、年が明けて程なく、再び俳句仲間の先輩の伝手で、地元の「石川新聞」へ入社することになる。同紙は、当時の政党である政友会の県内における機関紙的な色彩を帯びて、明治四十一年に発刊されたばかりの新聞であった。入社はしたものの取材廻りをする新米記者生活は、犀星の文学志望を満たすものでなかったことはもちろんである。上京の意欲が、ますますふくらんでくることになる。(後略)”

 『室生犀星文学年譜』(室生朝子・本多浩・星野晃一編)の「明治四三年(1910)二十一歳」の項は“二月頃、石川新聞社に入社。家を出て下宿”――と記したあと、新保千代子さんの『室生犀星ききがき抄』を次のように引用しています。 

 “今度もまた俳句の先輩、松平柳孫の紹介で米原於兎男を訪れた。米原が社長をしていた金沢の「石川新聞」に入社することができた。「石川新聞」時代の犀星を知る人に、郷土史家、八田健一老がある。八田氏は当時、「北陸新聞」の記者であった。……八田と犀星は同じ学校回りで、よく一緒に歩いた。犀星はそのほか、刑務所も受け持っていたが、小倉の袴に、ねずみ色の鳥打帽をかぶり、下からのぞいた長髪はいかにも無精気であった。黒いマントを風になびかせたところも、お世辞にも颯爽とは言えなかった。”
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by kaguragawa | 2010-03-11 23:45 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(2)   

 昨年は、昨年の100年前――すなわち1909年――の啄木、犀星、賢治の動向(行動)をそれぞれのかなり詳細な年譜にしたがって、追体験しようと試みました。犀星は10代の前半から勤めていた裁判所の下働きのような仕事を金石の登記所を最後にやめた年でしたし、賢治は盛岡中学校に入学した年でした。そういうわけで金沢の外港・金石(かないわ)に足を運んで犀星の下宿跡や詩作の基調音にもなっている浜辺の波音を聞きたいと思っていたのですが、残念なことに果たせませんでした。
 そして今年は、犀星の人生の一画期となる初上京の年なのです。が、犀星は上京の前にしばらくの間、新聞社で職を得るのです。それが2月からなのか3月からなのか、確たる記録もないせいでしょう、年譜によってさまざまなのですが、勤務先の新聞社は「石川新聞」ということで一致しています。そんなわけで、石川新聞とはどんな新聞なのか調べてみようと、年初からぼんやりと考えていたのですが、もう気がついたら3月になってしまっていたというわけです。

 そんなとき、“〔向田虎次郎は〕「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。”という、筏井虎ノ門の略歴を目にしてあわててしまったという次第なのです。
 
 とりあえず、この「石川新聞」のことや当時の犀星の動向について、手元の資料を書き写して、次の探索のステップにしようと思うのです。

 (続く)
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by kaguragawa | 2010-03-10 21:17 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(1)   

 明治大正期の金沢を中心とした石川県下での新聞の状況については基本的なことがらも知らないので、きのう「北陸新報社」という文字を入力しながらこれは現在の「北國新聞」の前身だったはず・・・などといい加減なことを考えつつ、さらに犀星がそこで働いていたということから犀星が1910年に上京する直前にいた新聞社だな、とこれもいい加減に考えていましたが、どちらも私の勘違いでした。

 1.「北陸新報」と「北國新聞」は別のものであること(この両者の間になんらかの系譜関係があるかどうかは、今から確認)、
 2.犀星が上京直前に短期間ながら記者?として勤めていた――ちょうど100年前のことです――のは「石川新聞社」でした。

 といわけで、基本的なことがらから調べ直しです。
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by kaguragawa | 2010-03-09 20:47 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

竹の門と犀星   

 昨年末、江沼半夏さんの『筏井竹の門覚書』を読んで以来気になっていたのが、筏井竹の門(向田虎次郎、のち筏井家に養子)が生まれたのが“金沢市裏千日町”(正確には出生当時は町村制未施行で、〔金沢町裏千人町〕)だという記述でした。

 ところで室生犀星の出生地を、簡便に“金沢市千日町”としているものもありますが、これも正確には“金沢市裏千日町31番地”です。向田虎次郎(筏井竹の門)が生まれたのが明治4年、犀星が生まれたのが明治22年ですから少し年齢差はありますが、二人は同じ《裏千人町》生まれなのです。とすれば気になるのが向田虎次郎が生まれたのは裏千人町のどのあたりなのか?ということです。いずれにせよ裏千日町はそんなに大きな町ではありませんでしたから、ご近所です。

 残念なことに詳細な記述がある可能性のある『筏井竹の門覚書』も、そこから書き出したメモも手元にはありません(実は、こうした雑情報がぎっしりメモされている「かぐら川閻魔帳」ともいうべき雑記帳を紛失!)。そんな折、『高岡を愛した先人たち』の「筏井竹の門」の項(二ヶ竹亮介・稿)に興味深い記述を見つけました。

 “竹の門は、廃藩置県三ヶ月後の明治四年(1871)十月十六日(新暦11月28日)、金沢裏千日町の旧加賀藩士・向田家に生まれた。名は虎次郎、未熟児であり、体は小さく虚弱体質であったという。野町小学校卒業後は、紺屋に奉公に出された。虎次郎は染物の下弟子として図画を習う。これが将来、俳画に目覚める素地となった。のち「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。
 そして明治二十年頃から兄の影響で句作を始め、新聞にも掲載されたという。
 明治二十五(1892)、姉婿の弁護士・鶴見武三郎を頼り高岡に移住し、その事務員となる。一方、日本派俳句を提唱した正岡子規に共鳴し。新聞「日本」の俳句欄に投句をした。(以下略)”

 竹の門と犀星は、出生地や通った小学校が同じだけでなく、若い時代から同じく俳句への嗜好をもち、勤め先も一時同じだったようなのです。そしてこの「北陸新報社」について、犀星の側から調べてみようと思っていた矢先だったのです。
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by kaguragawa | 2010-03-08 23:08 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)