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急ぎメモ:漱石と内田雄太郎   

 きょう岩波書店の『図書』(2016.11)をのぞいていて【内田雄太郎】の名前に出会った〔長島裕子:漱石が翻刻した英語の教科書――丸善発行のアーサー・ヘルプスの文集〕。
 内田雄太郎――どこかで見た名前だと思って、検索してみたところ、私がその名前を最初に目にしたのは、金沢泉丘高等学校の「一泉同窓会」の会報誌「一泉」であることがわかった。以前、開成中学校(開成学園)のことを調べたときにこの会報誌〔十五号/平成元年3月〕のpdfを読んで、金沢と開成学園の不思議な縁に驚いたことがあるのだ。

 その内田雄太郎が漱石に宛てたユニークなはがきが残されているという(*1)。さらに長島さんの文章によると、内田雄太郎は明治三十年以降、富山県尋常中学校、富山県第二中学校など富山県下の旧制中学校にも在職したことがあるという。内田は富山に赴任する前に松山の愛媛県尋常中学校にいたことがあるのだが、その愛媛の中学校に着任した時(1896)、五高へと離任する夏目金之助と出会っているのではないかという。

 内田は、第四高等学校の前身の金沢第四高等中学校の卒業生で(*2)、故郷の金沢第一中学校に1919年から1927年まで数学の教師として在任しているという。

 長島さんの漱石エッセイを読み進めると富山ゆかりの北星堂まで登場してきて、ちょっとうれしい気持でページをくったことでした。

(おまけに)
 ・・・金沢には漱石と縁のある人間が米山保三郎や黒本植らを筆頭に多くいる。実はきょう、第四高等学校教授の八波則吉の金沢在任中の記録がないか探していたところだったので、少しばかり驚いた次第なのである。なぜというに、あまりふれられることはないが、金沢に足跡を残した八波則吉も、漱石に縁ある人物なのである(八波は、第五高等学校時代の夏目金之助の教え子)。

(*1)『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店/2016.9) 未見

(*2)内田雄太郎は、金沢第四高等中学校の初回卒業生(本科・二部理科/明治22年7月卒業)。あのZ項で有名な木村栄と同期である。出生地など詳しいことはわからないが、卒業生名簿には、「石川/士族」とある。
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by kaguragawa | 2016-11-11 21:52 | Trackback | Comments(0)

漱石と南大曹   

 きょうは、夏目漱石の命日。ふと思い浮かんだのは、主治医・真鍋嘉一郎の要請を受けて、真鍋嘉一郎、宮本叔とともに漱石の最期の治療にもあたった南大曹のこと――。
 
〔参考〕
 夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』から
 “容態がいよいよ険悪なので、真鍋さんも自分の相談相手にその道の先輩を呼んでいただきたいとおっしゃり、そこで宮本博士からお出でを願い、さらには南博士からもお越しを願うことになりました。いらした先生方も皆内出血ということに異議はありませんでしたが、その溜まっている血を出すのにどうしようかというのでたいへんでございました。”


 以下、徳田秋聲の「死に親しむ」を読んだ際につくったメモの中から、南大曹の「南胃腸病院」の部分を、写しておきます。

 医者である渡瀬ドクトルが患者として入院するほど信をおいていた病院で、「木挽町」の“川縁にある”胃腸病院といえば、夏目漱石の最期に際して消化器系の専門医として治療にあたった南大曹の「南胃腸病院」しかないであろう。
 長与称吉の「胃腸病院」にいた南大曹が、木挽町に開業(1915)し、震災後再建(1929)。再建の病院は、岡田信一郎の設計。作中にふれられている“畳敷きの間”は、長与の胃腸病院の様式を受け継いだ控えの間だろう。
 “彼”が診断を受けている“M―ドクトル”も、南大曹なのであろうか。

 南胃腸病院は、大曹歿後、大曹が理事を務めていた癌研究所の附属病院となり(1946)、現在は、跡地に銀座ブロッサムが建つ。

 ■南大曹:1878.03.31~1945.02.26 福島ニ本松生れ  南博(社会心理学)は長男。 
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by kaguragawa | 2015-12-09 22:33 | Trackback | Comments(0)

今日は、飯田青凉の命日   

 今日は、作家・飯田青凉の命日になります。

 夏目漱石が、――今日もまた漱石さんと秋声さん登場ですが――、“三島霜川という人はいい人だけれども金の事は丸で当てにならないそうである。この間中村武羅夫に逢ったらあの人に頼んじゃ駄目だとといっていた。その時、徳田秋声なら好いといった。 もしつてがあるなら徳田君にでも逢って見給え。”という書簡を送った、その手紙の受取人が,飯田青凉である。
 
 清涼は、――この漱石の手紙に先だって――自分の作品を世に出してくれそうな最近売れ筋の作家として、霜川の名を漱石に出して相談したものとみえます。この手紙の日付が明治42(1909)年7月18日ですから、青凉19歳、漱石42歳。この二人の間で、「解剖室」によって文壇にあらためて知られることになった霜川の名が出たものでしょう。

 大文豪漱石と作家志望の青年・清涼。漱石山房の近くに住み、漱石の手紙にもよく登場する飯田青凉のことを知りたいと思ったのですが、文学事典などどこを探してもその名は見えず、諦めかけていたところ、幸運にもそのお孫さんに連絡がとれることになり、どこにも明記されていない飯田青凉の生没年がまず判明したという次第。

 飯田青凉(本名:政良)のことについても、折々、わかったことを少しずつ報告していきたいと思っています。

 *飯田青凉 1889.11.13~1975.08.03

〔追記〕
 漱石と青凉との間で交わされた霜川談義、その話の発端は、おそらく当時最新刊の王春嶺(中村武羅夫)『現代文士廿八人』(日高有倫堂/1909.7)――漱石は無論のこと霜川も掲載――が二人の間で話題になったことだと思われる。そのことは、漱石の書簡に中村武羅夫の名前が見えることからも間違いのないところだろうと思います。
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by kaguragawa | 2011-08-03 23:05 | Trackback | Comments(0)

徳田秋声の《黴》の連載開始   

 100年前の今日――1911(明治44)年8月1日――、東京朝日新聞で徳田秋声の《黴》の連載が始まっています。


 初日掲載分を読んだ夏目漱石は、さっそく小宮豊隆宛ての手紙でその感想を述べています。

“小生九日頃東京を出て大阪に行き和歌山と明石と堺で講演をすることになり候、暑いのに気の知れぬ事に候、それが大阪の新聞のどの位の利益になり候や疑問に候
今日から暑くなり候。秋声の小説今日から出申候。文章しまって、新しい肴の如く候    草々
  八月一日                                 金之助 ”


 漱石が連載初日からこの「黴」という小説に関心をもっているのにはそれなりに理由があり、そのことについてはいつか書きたいのですが、それにしても“文章しまって、新しい肴(さかな)の如く候。”とは、なんと素敵な評言でしょう。

 余談ながら前年の修善寺の大患からようやく立ち直った漱石の夏の関西講演行には、この手紙からも不安が感じられるのですが、漱石ファンの方ならご存じのとおりの結末です。

 話がどんどんそれていったのですが、秋声のこの小説「黴」の連載開始を紹介したのは、話の展開にともなって描かれていく二人の登場人物、笹村と深山(みやま)の葛藤のことを、――それは徳田秋声と三島霜川の投影なのですが――日本文学史の一つの画期に併せて、これからも折に触れ書いてみたかったからなのです。
 
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by kaguragawa | 2011-08-01 23:53 | Trackback | Comments(0)