タグ:堀田善衞 ( 29 ) タグの人気記事   

堀田善衛『航西日誌』を読む   

 40年前の今日(1977.05.21)、堀田善衛夫妻スペインに向け横浜港を出発――ポーランドの貨客船クズニカでの船旅/ロッテルダム着港6月26日。

 “廻船問屋の伜として生まれた私には、船でヨーロッパへ行くことは生涯の――とは多少大袈裟ではあるが――夢の一つであったのである。”

 これから5週間、日記風に書かれた『航西日誌』を記された日付に合わせ毎日読んでいくことにする。

 なお、『航西日誌』は出航ちょうど一年後の1978年5月21日に、筑摩書房から刊行。
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by kaguragawa | 2017-05-21 20:51 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞――陸軍病院の「門」   

 「一九四三年、夏のある日、召集を解除されて僕は富山陸軍病院の門を出た。それはもう十三年も前のことだ。まったく昨日のことのようにしか思えないのだが。
 門を出て、背広服を着た自分を、僕は何か犯罪者のように感じた。部隊のなかで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あるいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい! と思っていた。」
(堀田善衞「魯迅の墓その他」1956.10)

 ここに書かれてあることを現地で確かめたくて、具体的には陸軍病院の「門」のあった場所に立ってみたくなり、古い地図も多少は参観し現地へ行く機会をうかがっていたのだが、いざ、連休を利用してこの地に足を運ぼうとしたら、この文章が載録されていた『堀田善衞上海日記』がどこを探しても見当たらない。「ええいっ、行こう」、資料ももたずに、駅に向かった。2日前の10月10日のことである。

 実は、富山陸軍病院の“跡地”に行くのは、初めてではない。少なくとも3度はいっているはずだ。堀田が生地・富山県の東部第48部隊に召集された後、営舎のトイレで転倒して肋骨を骨折し、陸軍病院に入院していたことは年譜上の事実であり、堀田自身がどこかで(しかも何箇所かで)書いていることだ。それ故に、今までにも何度かこの地を訪れたのだ。だが、「僕は陸軍病院の門を出た。・・・僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。」と書かれたこのエッセイを読んだ以上は、“あらためて”現地に立つしかない。――と、思い定めた。

 市内電車を終点の「大学前」で降り、かつての連隊跡地に建てられた富山大学の前を通り過ぎ、大学の角を左折し、さらに最初の交差点で右折。この道は、かつて富山連隊から陸軍病院を結んでいた田舎道だった道だ。牛ヶ首用水に架かる藤子橋を渡ったところが、もと陸軍病院の地。新しい地図で確認済みではあったものの、その跡地には今年の三月に小学校が近くから移ってきて新しく校舎が建っていた。そしてこの日は、体育の日にちなんで運動会であった。1,2年生かと思われる児童があわせて踊っているにぎやかな音楽が辺りを圧倒していたものの、基底に不思議な静けさがあった。そして私は正面にまだ紅葉していない、しめったような緑の、呉羽丘陵をながめて、小さな息をすることができた。堀田は呉羽丘陵の濃い緑を――時期は5月のはずだ――、眼に納めたはずだ。  (未了)


 註)引用文冒頭の「一九四三年」は、事実に即せば「一九四四年」である。堀田のこの“間違い”というより“思い違い”が、何に因るものなのか。別に考えてみたいものと思っている。
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by kaguragawa | 2016-10-12 19:53 | Trackback | Comments(0)

読み散らかし・・・から   

 いろんなものを読み散らかした夏休みでした。

 それでも表棹影の日記「まだ見ぬ君え」を――小林弘子『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』収録文によって――再読(というか通読かつ精読)できたことは、うれしいことでした。
 余談ですが、日記中に「東都の鯨洋兄」の名を見つけて、半信半疑の思いをしました。私が知る「鯨洋」は、後に竹久夢二に関わった医師で歌人の岡田道一のことだったからです。岡田は和歌山県生まれで京都帝大医学部卒業ですから明治40年当時の「東都の鯨洋兄」に該当するのか、かなり疑問だったのですが、諸資料から岡田が一高を卒業して京大に進んだこともわかり(つまり京大生になる前の青春時代を東京で過ごしていたことがわかり)「鯨洋兄=岡田道一」の可能性が強まってきました。

 もうひとつ、驚いたのは、水守亀之助『続・わが文壇紀行』に、“堀田善衞の「二つの衝撃」(中央公論)で洩らしているように、文学者はもっと深いところを見て考えなければならぬ。”の文言をみつけたこと。
 明治・大正文学の語り部であるといってもよい水守が、戦後、堀田に言及していることにも驚いたのだが、堀田をこのように読んでいたとは(註:堀田「二つの衝撃」には「文学者はもっと深いところを見て・・・」の文言はない。)信じられないくらいの思いである。
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by kaguragawa | 2016-08-15 22:16 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。
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by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)

[水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり   

 思ってもいない資料を見つけて、――といっても、要は当方の認識不足ということに尽きるのですが――驚きました。

  ある名簿の同じグループに、「野口詮太郎」と「水上峰太郎」の名前を見つけました。〔第四高等中学校/明治二十三年七月卒業生 29人〕――驚きました。竹久夢二の縁者として追いかけている「水上峰太郎」と堀田善衞の縁者として追いかけている「野口詮太郎」。この二人は、同期生として金沢の地で医学を学んでいたのです。それにしても同期生とは、思いもよらないことでした。

 そもそもは、水上峰太郎が金沢の「四高」の卒業生であることを諸資料で知って、四校の卒業生名簿を近代デジタルライブラリで探し出すところから始めたのですが、まずは水上峰太郎が、第四「高等学校」ではなく、第四「高等中学校」の卒業生だったことに、納得かつ落胆。明治3年(資料によっては2年)生れの峰太郎であってみれば、第四高等学校の前身の高等中学校の時代であることに思い至らなかったこと、我ながらまず第一のがっかりだったのです。まあそのがっかりは、峰太郎の名前が四高関係者の中に間違いなく存在していたことで安堵に変わりましたが。
 やれやれと思っているところに、「水上峰太郎」の名の近くに思ってもいなかった「野口詮太郎」の名があって、今度はびっくりです。しかしこれも落胆のタネでもありましたが。
 野口詮太郎が四高の卒業生であることも既知のことではあったのですが、峰太郎と同じ頃に在籍していたことに思い至らなかったこと、頭の中で知識がリンクされていないことが、第二の落胆だったのです。人事興信録の「君は富山県士族野口忠五郎の長男にして 明治三年十一月を以て生れ 大正十年家督を相続す 明治二十三年第四高等中学校医学部を卒業し 同二十四年陸軍三等軍医に任ぜられ 大正六年陸軍軍医監に累進す」という記述を、書き写していながらすっかり忘れていたのです。しかもこの記述は、卒業学校名も「第四高等中学校」と正確に記しているのですから、私のぼけぶりはかなりのもので、さらに落胆が深まったというわけです。

 もう一つ思いもよらぬ名前を見つけて、あわてました。これはまったく想定外である以上にどう考えたらよいのか、悩まされた記載です。「川崎五郎兵衛(川崎順二) 富山」・・・。
 蚕都であった山間の街の八尾〔当時は富山県婦負郡八尾町〕に伝わっていた「おわら」を今日見られるようなおわらに変身させた立役者(初代越中八尾おわら保存会会長)“川崎順二”も金沢の四高医学部の卒業生であることは、記憶にあったのですが〔http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-45c4.html〕、彼は生年〔1898(明31)年〕からして大正10年くらいの卒業生のはず・・・と思っていたからです。そして、今確認したところによえると「大正十一年五月」の卒業生名簿に「川崎順二」の名前があります。これが、八尾の開業医・川崎順二に間違いはないでしょう。・・・とすれば、〔明治二十三年七月卒業生〕中の「川崎順二」は別人?、同名の父親???。八尾の医家「川崎家」のことを、調べてみる必要があるようです。

 ――以上、見つけた古資料にびっくり、我が老朽化頭脳にがっかりの顛末。

 ※水上峰太郎は、竹久夢二の最初の妻・他万喜(岸他万喜)の姉・岸薫が嫁いだ医家。富山市総曲輪で開業。
 ※野口詮太郎は、堀田善衞の父・勝文(野口勝文)の兄。陸軍軍医。
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by kaguragawa | 2015-12-29 14:25 | Trackback | Comments(8)

別格官幣社   

 堀田善衞『19階日本横丁』を読んでいて、次のところで、《おっ!》、と思い、続けて《おやっ?》と思った。

 「ベテランのステュワーデスってなかなか足らないのよ。だいたいが二、三年でやめて行ってしまうでしょう。それに、コックピット(操縦室)の男性クルーとの関係も、なかなか微妙なものなのよ。クルーはね、無理は無いれけど、自分たちは機内サーヴィスの連中とは別世界の人間だと思ってるでしょう」
「ふうん。別格官幣大社か」
「そんなことを言うと、お年が知れてよ、ハッハッハ」


 1)
 久しぶりに、“べっかくかんぺい・・しゃ”にふれて――何十年この言葉を耳にしたことはなかった!――、まず、なつかしさがじわじわとやってきたのである。これが《おっ!》の中身である。そもそも、若い世代?に属する私がどうしてこの表現の場を、知っているのだろうか、自分でも不思議に思えてきたのである。で、幼い頃の記憶をさぐるというわが身の穿鑿にまで想いは及んで、いったのである。
 この「特別の、別格の」ということをいう場合の地口としての「別格官幣・・・」という表現は、いつ頃まで使われたものだろうか。こんな表現(地口)が口に出る世代、そうした表現をそうなんだ、と理解できる世代、というものは、本文に「そんなことを言うと、お年が知れてよ」と、あるようにかなり年齢の上の世代であろう。戦後世代の私が知っているのには、この表現が実際に使われ、耳に残る印象的な体験があったからなのだが、その具体的な現場というものを、手繰り出してみたかったのである。

2)
 もう一つ、こんどは《おやっ?》についてである。なにが問題か?。堀田さんが書かれた“別格官幣「大社」”である。
 私が奇しくも覚えていた地口は、「べっかく・かんぺいしゃ」である。「べっかく・かんぺいたいしゃ」ではない。「別格官幣大社」か「別格官幣社」か――。違いは、「別格/官幣」に続く部分が『大社』なのか『社』なのかである。「別格」に続くのなら「大社」の方が、格が上で、ことばの遊びとしてはその方がおもしろい、とも思えるのであるが、明治からGHQのいわゆる神道指令による廃止まであったこの「社格制度」については、ここは詳細な説明の場ではないが、神祇官が祀る「官幣社」に官幣大社、官幣中社、官幣小社の3種が、地方官が祀る「国幣社」に国幣大社、国幣中社、国幣小社の3種があるが、ほかに別格の官幣社が(つまり語順を換えれば官幣別格社)があるのであって、「別格官幣大社」だけでなく、別格国幣大社も、別格官幣中社もなにもないのである。

 私が幼い頃に耳にし、今まで覚えていた地口「べっかく・かんぺいしゃ」の意味合いについて、こんなことをもちろん幼少のみぎりから知っていたわけではなく、30年ほど前に「神楽川」の流域史を掘り起こしをしようとして越中の寺社史を一所懸命に勉強?した折の、余得である。そのときは、越中の国には一社も存在しない「別格官幣社」のことはすっかり忘れていたのですが・・・。

3)
 別格官幣社のなかでも別格の「靖国神社」、というよりも「別格官幣社」という言葉が世に知られるようになった原因はこの神社だと思われる「靖国神社」についての、おしゃべりを堀田善衞をだしにしてしようと思ったのですが、充分にしゃべり過ぎました。この辺で・・・。
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by kaguragawa | 2015-10-31 20:11 | Trackback | Comments(2)

堀田善衛を読む会第8回例会   

第8回例会は、『インドで考えたこと』

★と き:5月23日(土) 午後1時半~4時半
☆ところ:金沢大学サテライトプラザ(金沢市西町教育研修館内)
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by kaguragawa | 2015-05-20 22:49 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛を読む会第7回例会   

第7回例会は、『海鳴りの底から』

★と き:3月28日(土) 午後1時半~4時半
☆ところ:金沢大学サテライトプラザ(金沢市西町教育研修館内)サロン

『海鳴りの底から』は、1960年〜61年の『朝日ジャーナル』に連載された「島原の乱」をテーマにした作品。


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by kaguragawa | 2015-03-21 20:02 | Trackback | Comments(0)

善衛と功芳の語る「舞踏会の手帖」   

 先日来、堀田善衞の語るフランス映画「舞踏会の手帖」の周辺をうろうろしていました。とてもとても映画通とは言えない私のことですので、堀田の『橋上幻像』を読むまでは「舞踏会の手帖」の名は知りませんでした。にもかかわらず、不思議なことに堀田が紹介する「舞踏会の手帖」の展開を読みながら、この話、どこかで聞いた?読んだ?という気がして仕方がありませんでした。

 きょう、ある本を探していたとき宇野功芳さんの『いいたい芳題』が目についたので、就寝時に快眠剤替わりに読もうと手にとったのが、運のつき?、ついつい読みだしてしまいました。そしてびっくり!。なんと、このエッセイ集のなかに「往年の名画『舞踏会の手帖』」という項があったのである。もちろん、これは何回か読んだものだ。なんのことはない、「舞踏会の手帖」という映画のタイトルは覚えていなかったもののこのオムニバス映画の構成や展開はここで読んでいたし、監督のデュヴィヴィエの名前もここで目にしていたのだ。

 私の記憶の粗放さ?については今更縷々述べない。そんなことより作家の堀田善衛がこの「舞踏会の手帖」の特徴的なワルツについて語っている一方、音楽家の宇野功芳は、登場人物の名まで挙げて細かに映画の内容を語っているところがおもしろいのだ。
 もちろん宇野がこの映画の音楽にふれてないわけではない。宇野は譜面も掲げてこう書いている。
 “クリスティーヌは幻滅して湖のほとりの大邸宅に帰ってくるが、この湖の幻想的な美しさは言語を絶する。コモ湖でロケがおこなわれたということだが、湖を表すという主題曲とともには何度見ても胸がいっぱいになってしまう。”

 文末に、『舞踏会の手帖』のDVDのデータが載っているで、今も入手できるのかは未確認だが、、写しておきます。     *『舞踏会の手帖』〔アイ・ヴィーシー IVCF2027〕(DVD)
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by kaguragawa | 2015-01-23 00:03 | Trackback | Comments(0)

「堀田善衞を読む会〔4〕」余録   

 今回(第4回:09.27)のテキストは、『橋上幻像』の「第二部 それが鳥類だとすれば」――。

 以下、この「第二部」の次の一節に関した余録です。

 “男は、その映画について、つけ加えて言った。あの頃、自分は若かった。ほんの二十一か二かの大学生であった。そのせいがあったかもしれなかったが、この映画には心から感動し、とりわけて未亡人の息子が舞踏会にデビュするに際して、そのワルツの音楽が、未亡人の心を透かして見せ、彼女を過去へ過去へと誘い込むかのように、普通のワルツのリズムとはリズムを逆にして演奏されていた。普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていたことが、いま印象にのこっている、つまりは、ワルツの音楽は時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ、と。”

 本文には、この「男」が“ほんの二十一か二かの大学生であった”時に感動したという映画のタイトルは明記されていませんが、それは読書会で説明されたように、『舞踏会の手帖(Un Carnet de Bal)』というフランス映画(1937、監督:Julien Duvivier)であることはそのストーリーからいっても間違いのないところでしょう。ここで私が注目したいのは、“普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた”という映画中のワルツのことです。といっても、この不思議なワルツそのものに興味を惹かれたのではなく、そんな曲がほんまにあるんかいな?、堀田さんもようやるな、との思いでこの一節を読んだのです。つまり、ワルツの音楽は“時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ”というフレーズを導くための「作り話」といって悪ければ「潤色」として書きこまれたものと思い、巧みな音楽技法を話題に持ちだすという堀田善衛の巧みな話術に感心してしまったのでした。

 「読む会」を終えて帰ってからもこの「ワルツ」のことが気になり、町内会の防災訓練などの合間に少し調べてみました。その映画中の曲(ワルツ)は、モーリス・ジョベール Maurice Jaubert (1900--1940)がこの映画のためにつくった「灰色のワルツ(Valse Grise)」でした。
 以下、堀田が「弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた」と指摘した不思議な?ワルツに関するメモです。以外にも?!、堀田のワルツの記述は「潤色」どころか、堀田の鋭い「耳」の証左だったのです。(興味をもたれた方は、下記の部分をヒントに、みずからお調べください。)

 たとえば「灰色のワルツ+録音」や「灰色のワルツ+逆」などで検索すると、いろいろ書かれているものが見つかります。映画に使われたものは、逆再生と多重録録による斬新なもの――楽譜を逆から演奏したものを録音し、そのレコードを逆回転させて再生し、その録音の上にさらに弦(ストリングス)の音を重ねて録音して得られたもの――のように書かれています(なお、当時は磁気テープが録音メディアとして一般化される前だった)。そうした試みは、映画音楽史上というより、広い意味での音楽制作(創作)の歴史の上でも、ちょっと、画期になるような一つの事件だったようです。
 堀田がこうした裏事情をある程度知っていてあのように書いたのか、まったく事情を知らずに自分の感じた曲の特異性からあそこまで書いたのか、興味深いところです。いずれにせよ、この部分の記述は、堀田の音楽への関心をみずから踏み込んで開示した見過ごせない部分だといえるでしょう。

 こういったこともふくめて、「堀田善衛と音楽」についての、めくばりのきいた、しかも深く掘りさげられた論考が書かれたらいいなぁと、思うことしきり・・・です。
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by kaguragawa | 2014-10-01 21:56 | Trackback | Comments(0)