タグ:南原繁 ( 5 ) タグの人気記事   

若き射水郡郡長赴任   

 今年は(今年も、というべきか)いろんなことで、もたもたしている。
 気がついたら、もう3月14日である。

 若き日の内務官僚・南原繁が富山県の射水郡の郡長として当地に赴任したのが100年前(1917年)の今日であった。
 翌日には、伏木港(当時は伏木港の地も射水郡であった)に足を運んでいる、と私のメモにある。伏木港は、射水郡にとってだけでなく、富山県にとっても重要な交易の拠点港であった。

 南原の在任中の射水郡の動きに目をとめてみたいと考えているし、追々、そうした報告も書き留めたいと考えています。
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by kaguragawa | 2017-03-14 23:30 | Trackback | Comments(0)

山崎延吉の弟子・庄司幸吉   

 気がついたら今月は、一つしか記事を書いてない!・・・。

 気がついたら裏庭に、シュウカイドウが咲いていた!・・・。


 忘れないうちに、メモ。

 南原繁が生みの親である「射水郡立農業公民学校」(1819年創校)の初代校長が、山崎延吉の弟子・庄司幸吉だったことを今日知った。
 といっても、郡会で「農業公民学校」というユニークな学校創設の提案理由の説明をおこなった直後、一本の電話で内務省に呼び戻されることになった射水郡長南原は、その離任後の人事には関与していないのではないか・・・。
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by kaguragawa | 2014-09-20 23:33 | Trackback | Comments(0)

南原繁「歌集形相」から   

 秋聲記念館では、7月31日から「桐生悠々展」。
 『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』などの文筆活動で当局と闘い続けた悠々の亡くなったのがアメリカとの開戦を3ヶ月後にひかえた1941年9月10日。
 文学的デビューを語りあいともに金沢から上京した悠々の若き日の友だった徳田秋声の新聞連載中の芸者の一代記『縮図』が、当局からの圧力によって中断したのがその5日後の9月15日・・・。
 このような人生の軌跡をもった二人の出会いと交流はどのようなものであったのか。

 秋声、悠々の人生が東京と名古屋という異地で不思議な交わりをもった1941年、秋。
 ようやく手に入れた南原繁「歌集形相」のなかに、同じ時期に率直に詠われた歌が残る。

    十月十七日第三次近衛内閣倒れ東条内閣つくらる

  一死国に報いむと言挙げし大臣近衛の三月にして去る

  一人に総理陸軍内務大臣を兼ぬこの権力のうへに国安からむ

  権をとれる者ら思へヒットラーといへども四面楚歌は敢えてなさざらむ

  あまりに一方的なるニュースのみにわれは疑ふこの民の知性を

    十二月八日

  人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ

  日米英に開戦すとのみ八日朝の電車のなかの沈痛感よ

  民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾(うべな)はむか
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by kaguragawa | 2011-06-20 01:08 | Trackback | Comments(2)

射水郡郡長・南原繁と射水の人・堀田善衛   

 ある偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、を――戸惑いというかちょっと心嬉しい思いももって、――思案しています。

 先日、堀田善衛展に行こうとした私の背後から、“ちょっとちょっと”と、声をかけたのは堀田氏と同郷の藤子不二雄氏だったのですが、(堀田氏の生まれた伏木は、安孫子素雄氏の生地・氷見と藤本弘の生地・高岡の中間)、堀田氏が藤子不二雄の生んだ“オバQ”についてユニークな取りあげ方をしていること知って、いよいよ興が深まってきました。そんなことを書こうかと思っていた矢先、“おい君、おい君”と声をかけてきたもう一人の人物がいました。
 一昨日、話題にさせていただいた戦後のこの国の在り方にも大きな影響を与えた政治学者・南原繁氏です。

 堀田善衛氏の生地は、たとえば簡単なものでは、富山県高岡市生まれとなっていますが、氏の生誕時点【1918〔大正7〕年】でいえば「富山県射水郡伏木町」です。この伏木町は、1942(昭和17)年4月、善衛氏の父君勝文氏らの働きかけで高岡市に編入合併されたのですが、上に書いたように善衛氏が生まれた1918年当時の伏木町は射水郡内の4町のうちの一つだったのです。
 なんと奇しくもこのとき射水郡の郡長だったのが、南原繁だったのです。

 大学を卒業して間もない南原が内務省の官僚として、「郡長」を志望し、富山県の射水郡に郡長としての職を得て赴任したのは今から93年前の今頃、1917年3月。南原は単に役人の一履歴として日本海にのぞむ寒村ならぬ寒郡の郡長を無難に事無く勤めたわけではありません。内村鑑三の弟子として理想の種子をこの地にいくつも残していったのです。そのことは別の機会にふれるとして、射水郡が南原のもとで大きくその内実を変え始めようとしていた1918年7月に、射水郡下の伏木町に堀田善衛は生まれたのです。この偶然は、のちに、敗戦をまじかに見据えていた時期、30歳の年齢差もあり置かれた環境も大きく違うなかで、ともに敗戦によってしか日本の再生はないと模索していた偶然をも思い起こさせてくれるものです。

 余談ですが、郡長として伏木を訪れた南原繁と彼とほぼ同年であったはずの堀田勝文――善衛氏の父・勝文氏の生年をまだ確認できずにいるのですが、彼(当時、野口勝文)と小泉信三が慶應大学で同窓だったということからの推測ですが――とは、何度か会い若者らしい理想をもって伏木や射水の未来について意見を交わしたのではないか、と想像するのですが、どうでしょう。

 ・・・というわけで、いくつかの偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、楽しく思いを巡らしているのです。
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by kaguragawa | 2010-03-03 23:19 | ひと | Trackback | Comments(3)

《南原繁シンポジウム》on射水市   

 メモ。

 《南原繁シンポジウム》聴講。加藤節氏の基調講演「南原繁の戦後体制構想――ナショナリズムとデモクラシーをめぐって」は、南原繁の葛藤し実践する素顔を戦中、戦後のいくつもの局面で描き、そこを導入として南原の思索の射程が現代まで及んでいること、いな今こそ南原に学ぶべきであることを教えてくださいました。
 それにしても半世紀前の南原発言は、現代の憲法状況にとっても、なんと根源的で示唆的であることか。
 
 戦後の日本に大きな影響を与えた政治学者で教育家でもあった南原繁をめぐるシンポジウムが、富山の片田舎で開かれたにはわけがありました。南原は東京大学を卒業後、内務省にはいり射水郡長として現在の射水市の地に実践の場を得たのです。南原が射水の地に残したものについて普段語られることはありませんが、その「後世への遺物」の大きさには驚くべきものがあると考えています。

 こうしたことがらについては、時間のあるときにあらためて。
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by kaguragawa | 2010-03-01 23:29 | ひと | Trackback | Comments(0)