タグ:前田普羅 ( 11 ) タグの人気記事   

「双生児の女の運動選手の名まえ」(1)   

 先日来、大きな活字のほるぷ出版の『歌のわかれ・中野重治詩集』を通勤列車のなかで読んでいる。列車の中では大きな活字が助かるのである。それはともかく、読んでいて気になったことがあった。そこで、時間のとれる日曜日となってようやくある本を探しだした。『前田普羅 生涯と俳句』である。この本のある個所をで、一人の女性の名前を確認したかったのである。

 ところで、中野重治と前田普羅。この二人になんの関係があるのか。二人に個別の関係があるかどうかそれは知らない。むしろ文学の潮流のなかでは敵対せざるをえない面がある。その点は、割愛して、本題というか雑題というか話題をもとににもどす。

 久しぶりに開いた中西舗土さんの『前田普羅 生涯と俳句』に次のような記述がある。

 “普羅が年少の頃丑松夫妻が台湾に渡ったと云う。普羅が後年講話の中で「私は子供の時から親子の縁がはなはだ薄く、十四歳の時父母に離れ、東京の学校に一人残されたのであります」と云っていることから推して、明治三十年頃普羅を東京の親戚に残して両親は台湾へ渡った。東京の親戚と云うのは祖母の出の大多和家の一族で、飯田町で牧場を経営していた。(同家へは大正年代、女子短距離競走創始の頃の第一人者寺尾文子が嫁しているとのことである)当時、最も格調高いと云われた「萬朝報」や新聞「日本」が毎日配達されていて、普羅は新聞「日本」で正岡子規の新俳句を熟読したと云う。”

 おそらく20年ほど前に読んだこの個所の「寺尾文子」の名だけをなぜか鮮明に覚えていたのである。この「女子短距離競走創始の頃の第一人者寺尾文子」が、中野重治の「歌のわかれ」に次のように登場していたのである。

 “ある日彼は、文科の事務室の方から医学部の方へ行く道を歩いて行った。そのとき、うしろから駆け抜けるようにして行った二人連れの大学生が、女学生みたようにきゃっきゃっ言ってしゃべって行った名まえが安吉の耳にとまった。それはそのころ名高くなっていたある双生児の女の運動選手の名まえだった。
 安吉の心は動いた。彼は二人連れの大学生のあとを追って桜並木の横の運動場へはじめてはいって行った。
 さっぱりした金網の仕切りの外でしきりに大学生たちが騒いでいた。見物のなかには町の人も多少まじっているらしかった。
 名高い双生児の娘は安吉にもすぐ見つかった。彼女らは顔つきもからだの大きさもほんとうに双生児というにふさわしかった。彼女らは美しくもあった。”


 中野重治は“名高い”を何度も強調しながら、あえてその名を記していない。が、その「双生児の女の運動選手の名まえ」こそ、寺尾正子と前田普羅が名前を挙げた寺尾文子なのである。

 (続く)

※「歌のわかれ」の引用は、上掲ほるぷ出版の『歌のわかれ・中野重治詩集』から。話題の展開のためやむなく途中で切ってしまった引用については、時間と興味のある方はぜひ本文にあたって確認いただきたい。
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by kaguragawa | 2013-06-02 19:20 | Trackback | Comments(0)

“春立つ日”の普羅と一葉   

 “立春”にあたることの多い2月4日。この日の文学上のエピソードを取りあげた以前の記事を2つ。
  
  「オリオンと、春立つ雪の宿」
  (87年前の2月4日/富山)
  http://kaguragawa.exblog.jp/14131006

  「一葉/明治25年2月4日」
  (120年前の2月4日/東京)
  http://kaguragawa.exblog.jp/12086464
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by kaguragawa | 2012-02-04 19:31 | Trackback | Comments(0)

オリオンと、春立つ雪の宿   

 天気予報では今晩は「晴れ」ということで、楽しみにしていた立春の晩の「オリオン座・見」は、雲量が多く断念。せっかく今年は、“立春、オリオン座、雪の宿”の三拍子が揃っていたのに・・・。
 普羅の句を追体験しようという思いを、今年は2年前の日記を再録することで、擬似再現しておきます。

        ━━━━・・・‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━

   オリヲンの真下春立つ雪の宿    前田普羅

 この句が詠まれた「立春の日」、普羅の家宅〔普羅庵〕のあった場所に立ってみたい・・・。
 この願いは、昨晩のぐずついた天気にうって変わって晴天の今日、朝から――“実現できそう!”――そんな思いで、夜を待ちました。

e0178600_23264758.jpg  と言いつつも、大正末年の〔富山県上新川郡奥田村〕の普羅庵の場所をようやく探し当てた旧地図は、行方不明。7時過ぎに記憶にたよって現地に向かいました。当時と違い、家の立て込んだ、しかも東西に走る都市計画道路〔しののめ通り〕がかつての集落を二分していて、大正~昭和初期の趣は残ってないと言っていいのでしょう。
 車を降り立ったのは、現在の富山市弥生町。路面にはまったく雪がなく、普羅が詠んだ「雪の宿」は今日の体感からははずさざるを得ないのですが、晴れ上がった立春の夜、それだけに夜気は肌をさす寒さです。


 普羅がオリオンを見上げたのは何時頃だったのでしょうか。私がその地を訪れた8時頃に、勇者オリオンは正立した星座のかたちでほぼ真南の空にゆったりと懸っていました。「そうだったのか」――不思議と納得できたのは、普羅も見たオリオンは南天にすっくと立って、雪原中の雪の宿と普羅その人を全天の高みから物語を語りかけながら見おろしていたであろう情景だったのです。


〔追記〕
 この句が詠われたと思われる1925(大14)年の立春は、2月4日ですが、そして立春のほとんどが2月4日ですが、前年の1923年・1924年などの立春は2月5日です。
 ちなみに、119年年前=1892(明25)年の「立春」の日、東京は雪でした。この日、樋口一葉は、「よし、雪にならばなれ、なじかはいとうべき」と降りしきる雪の中、師・半井桃水のところへ向かっています。興味のある方は、昨年2月4日の拙記事をご覧ください。
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by kaguragawa | 2011-02-04 22:38 | Trackback | Comments(2)

普羅のいた富山   

e0178600_2315424.jpg 普羅が支局長を務めた「報知新聞」――言うまでもなく今のスポーツ紙ではなく当時は一般紙――の富山支局はどこにあったのだろうか。
 大正期から昭和初期にかけての富山の町は現在とかなり街の相貌が異なるはずだ。一番の違いは、町の真ん中の「神通川廃川地」だ。

 *左は昭和8年当時の富山市街図。
 今はオフィス街となっている神通川の河川敷跡や、分断されてしまった富山城の内堀がまだそのまま残る。
 当時、県庁は城址にあり、他の官公庁も富山城の南(大手門周辺)に集まっており、各新聞社もその近くにあったのではないか。(県庁舎が城内から神通川廃川地の現在地に移るのは、1935(昭10)年。
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by kaguragawa | 2010-05-11 23:19 | Trackback | Comments(0)

普羅、富山着任   

 86年前の今日〔1924(大13)年5月9日〕、報知新聞富山支局長となった前田忠吉(普羅)が富山に着任。
 普羅の、1949(昭24)年9月21日までの25年間にわたる、富山での生活がはじまる。

 “五月八日横浜を発って、九日富山着。二十日更めて家族あげて引越し。富山市外奥田村稲荷に家を借りる。”
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by kaguragawa | 2010-05-09 12:23 | Trackback | Comments(0)

普羅、中居屋、横浜、植物誌という普羅環(flower)   

 前田普羅は晩年、東京で体調のすぐれない孤居の生活を送りながら、多くの地へ足を運んでいますが、最後の遠出となったのが群馬の吾妻渓谷への句旅でした(1952〔昭27〕年1月)。その旅の最後の日を過ごしたのが、定宿?にもしていたのが嬬恋村三原の黒岩長虹の「中居屋」で、“雪の香や静かに積もる大吹雪”の短冊が残されているといいます。

 こんなことも頭の片隅にあったのですが、良寛の辞世の句のことをやいっちさんのブログにコメントしていて、突然思い出したことがありました。良寛も宿にしていたのがやはり「中居屋」だったのです。
 そんなことを思っているうちに、良寛の詩「非人八助」と中居屋重兵衛(黒岩撰之助)、重兵衛の開港地・横浜での生糸商い、普羅の若き日の横浜での生活、横浜での久内清孝との出逢い、富山での吉澤無外との出逢い(この二人との出会いは普羅の広範な植物誌に反映)、・・・といろんなことが私の狭い知見のなかのことではありますが、巡るように湧いてきました。

 きょう全国で最も暑かったのは福島県会津若松市で、33.3℃。我が富山市も最高気温が32.3℃の真夏日で、5月としては観測史上最高とのこと。きのうまで小さな芽であった庭のハルジオンが、うつむく花蕾をつけてにょろりといっせいに立ちあがっている様は異様というより不気味でさえありました。
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by kaguragawa | 2010-05-06 22:36 | ひと | Trackback | Comments(0)

犀星年譜散見   

 室生犀星の年譜を見ていて、「多田不二」の名を見つけ、“あっ”――今までの犀星との付き合いの中で「多田不二」の名はよく見ていたのですが――と、声を上げてしまいました。最近読んだ多田富雄さんの本に付された多田富雄さんの簡単な年譜に「大叔父」として紹介されていたのが「多田不二」だったからです。
 多田不二さんは犀星の田端時代に隣に住んでいたこともあるはずだ。多田不二の作品を手近に読めるのだろうか。。。

 ところで犀星の年譜と普羅の年譜を合わせると、関東大震災の翌年、金沢に避難帰省していた犀星は普羅と句会の席をともにしている。『辛夷』の金沢での創刊記念ということもあったのだろう、普羅が師・虚子を北陸に招いた記念の句会だ。〔1924.9.14。犀川左岸、桜橋をのぼったところにある高岸寺。〕
 犀星は日記に「虚子氏と語る。骨髄までの俳人なり」と書いているという。が、犀星と普羅はその席で親しく話し合うことはなかったようだ。この句会を詠んだ普羅の句も残る;
〔ちなみにこの日は中秋の名月の翌日(旧暦8月16日)で、月齢14.8〕

  二三人木の間はなるる月夜かな

〔追記〕
 一青窈さんが阿久悠を語る番組を見る。「こころの遺伝子~あなたがいたから~「とんがってるものほどやすらぐ 一青窈」――。
 そう言えば、心の中の「とんがっているもの」を詩として世に問うた人々が多くいた時代があるのではないか。大正期の犀星しかり、賢治しかり。そして俳人の前田普羅もそうではなかったのか。



 
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by kaguragawa | 2010-05-03 23:18 | Trackback | Comments(0)

俳誌「辛夷」の《4月17日》 (欄外に)   

 普羅の衣鉢を継ごうとする者にとって――僭越ながら“あえて”私もその一人であると名宣りたいと思いますが――《4月17日》という日は、特別な日であったようです。この日、私が八尾の町に車を飛ばしていたとき、今年の二月号で通巻1000号を迎えた俳誌『辛夷』の“創刊1000号記念大会”というメモリアルな会が、開かれていたなんてまったく知りませんでした。

 前田普羅、中島杏子、福永鳴風、中坪達哉4代の主宰のもとでの俳誌1000号発行という偉業に敬意を表し、心から“おめでとうございます”とお伝えする一方で、私は普羅の句や書いたものに影響を受けつつも、俳誌『辛夷』やそれをめぐる結社の方々とはほとんど無縁であることも記しておかねばなりません。

 ・・・・・と、ここまで食前に書いたのですが、今、普羅について旧日記に以前書いたものを読み返そうとして驚くべき記録を見つけたのです。そこに自分が書いていたこと――自分が行ったこと――を、まったく忘れていたのです。今もその当時の詳細はよく思い出せないのですが、7年前、私は『辛夷』を手にしていたのです。それどころか当時の主宰福永鳴風氏に手紙まで書いていたのです。
 以下、7年前の日記をそのまま写します。

━━━━‥‥・・・・・・・・‥‥…━━━━
■2003/06/20 (金) 「普羅庵」へ

・「辛夷」主宰の福永鳴風先生から、『辛夷』平成15年4月号、ご恵送いただきました。
「辛夷」は、前田普羅が富山にいたとき主宰を引き継ぎ、育てた句誌であり、普羅と交友のあった棟方志功(富山県福光町に疎開)の板画を今も表紙に飾る伝統ある句誌です。

・普羅の富山での足跡をたどりたいという思いの第一歩が、まず当時「上新川郡奥田村稲荷」にあった「普羅庵」の現在地を探すことでした。この「奥田村稲荷」が、現在の富山市弥生町だというところまでは判明したのですが、それ以上の探索をなまけ虫の私は、実行に移さずにいたのです。そのとき、地元の富山ではなく東京の俳句文学館で目についたのが句誌「辛夷」でした。文献をひっくり返しているより「辛夷」同人の方に聞けばいいのだ、といういとも簡単なことに思い到り、富山に帰るなり句誌の奥付で見た主宰の鳴風先生にお便りをさしあげたのでした。

・先生から送っていただいた2ヶ月前の4月号の「辛夷」に、辛夷同人の中坪達哉さんが「普羅庵のあとに立って」という文を書いておられたのです。俳句文学館で見た「辛夷」は5月号だったのか、6月号だったのか、何か知らせるものがあったような気がします。
その中坪氏の文中には;
『富山柳町のれきし』という富山市柳町校下の郷土史には、昭和十年頃の各町内の住宅地図が附録としてついていること、その中に普羅庵のようすが「前田普羅邸」として描かれていることなどが書かれていたのです。
鳴風先生のお便りには、「(普羅庵は)戦災後の都市計画で、あと方もなく、単なる空地です。」と。

・昭和九年刊行の『新訂普羅句集』に普羅自ら曰く;
「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山岳の威容とは、次第に人生観、自然観に大いなる変化を起こしつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る。/「都会人は大自然より都会に隠遁せる人」と思えるに、自分を目して「越中に隠遁せり」と云う都会人あり、終に首肯し能わざる所なり。」

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by kaguragawa | 2010-04-19 23:37 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(0)

八尾の山を歩く普羅   

 八尾の春の山でもう一つ思い出したのが、前田普羅の句集『飛騨紬』(昭和22年)の序文です。北陸の春をこれだけうまく伝える文章は数少ないのではないかと思われるので、少し表記を換えて転記させていただくことにしました。
(もともと「奥飛騨の春=前記」と題して句誌「辛夷」昭和4年5月号に掲載された紀行文の前書きを、そのまま序文として転用したもの。)


 “吹きつづく雪消風は、越中の南に立ちふさがる山々の雪を削る。

 四月の初め、八尾町の郊外に一歩をはなれると、崖という崖、畦という畦はツクシンボウの林となり、赤肌を見せた畑の畔や、城が山の横っ腹には萌黄色のフキノトウが並び、星のようなルリイチゲがぽつりぽつりと咲く。四月二十日の曳き山が近づくと、風雨の往来もあわただしくなるが、枯葉に覆われた卯花村の森のかげには、厚い肉質のカタクリの芽が出る。曳き山の賑わいが山の町をとおり過ぎ、気早な町の家で、初夏らしく、紺の香高い暖簾を掛けると、木の芽のかたい雑木林には、コッサ採る人の背が見え頭が見え、古調のオワラ節が静かに流れてくる。

 牛嶽、祖父が岳、夫婦山、御鷹山、なかなか姿を見せなかった白木峰、金剛堂山、それらの麓には未だ雪は氷のように肘をつっぱっては居るけれど、然し春は争えない。去年の初雪の頃からうち絶えていた、八尾商人と奥飛騨の人々との取引は、本街道からも裏径からも始められるのである。”

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by kaguragawa | 2010-04-07 23:37 | Trackback | Comments(0)

閑話休題   

 今ちょっと興味をもって調べていることで、「この点は“この人に”聞くしかないな、聞きたいな」と思うことがいくつかありました。が、それはかなわぬこと。お聞きしたいと思う方々は、もうこの世におられないのですから。

 金沢を中心とした明治期の北国俳壇のこと、具体的には中川富女のことについて・・・。
 お聞きしたいのは中西舗土さん。20年ほど前、普羅のことでお聞きし、お便りと俳誌「雪垣」を送っていただきました。実は当時、舗土さんがどんな方かよく存じ上げていなかったのですが、今春『前田普羅 生涯と俳句』を読み一度お便りをさしあげようかと思い、すでに亡くなっておられたことを知ったのです。そして、最近『石川近代文学全集18 近代俳句』(1990.4)や『北聲会の群像――明治・大正の俳人』(1992.4)に記されているあることについての細述について、その一歩先のことをお聞きしたいなぁと思うことしきりなのですが、それはかなわないのですから残念でしかたがありません。

 もうお一人、今年の6月に亡くなれたハーンの研究家・高成玲子さんです。ハーン(八雲)の東京帝国文科大学の学生と撮られている記念写真のことについて・・・。私のもっている『文学アルバム小泉八雲』(2000.4)には明治30年、明治32年、明治36年の英文科卒業生らの写真が載っているのですが、はたして「明治33(1900)年」卒業生の写真はないのか。なぜかならば、この年に、先日来話題にしている竹村修(秋竹)が英文学科を卒業しているのです。

 霜川や啄木のことについても、“この人”にこのことを聞いておきたいという方がおられるのですが。。。
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by kaguragawa | 2009-11-10 23:14 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)