タグ:冨永徳磨 ( 11 ) タグの人気記事   

いくつかの古い小さな消息   

その一
 Fさんへ。冨永徳磨の墓所を知らないかとのお尋ねですが、手元にある富永徳磨『キリスト教の精神――日本と世界』(富永徳磨昇天40年記念出版委員会/新教出版社/1970)の「略歴/昭和5年(1930)」の項には、“雑司ヶ谷墓地に埋葬す”とあります。この〔雑司ヶ谷墓地〕――1935年には「雑司ヶ谷霊園」と改称――には足を運んだことが無く、どこにどのような形で氏がおやすみなのか、見当もつきません。もし行かれることがあれば、教えてください。

その二
 ところで、資料を整理していたらコピーした古い新聞が出てきました(『北陸タイムス』大正三年六月七日)。その「小消息」欄に“尾島千代子(菊子令妹)菊子結婚と前後して同じく洋画小川治平さんと結婚”とあります。

その三
 上記と同じ紙面に「花畑より」と題した兄に寄せた書簡の形でのエッセイが載っている。書き手は「在早稲田 赤壁徳三郎」となっている。とすれば、その兄とは・・・徳彦氏?。

追記
 Y先生がお持ちの藻谷銀河の歌集『仙人掌』には「徳三郎兄へ」の献辞がある。おそらくこの〔徳三郎〕とは、上記の赤壁徳三郎のことだろうと推測されるのだが、赤壁家の系譜が詳細にわからないので残念ながら、銀河と徳三郎の関係がよくわからない。実の従兄弟ではないかと思われるのだが・・・。
 もう一つ。成田龍一『大正デモクラシー』(岩波新書/2007)に「赤壁夕潮」の名が登場する。この夕潮さんの関係もよくわからない。ご存じの方は、お教えくださりたい。

 尾島千代子(尾島(小寺)菊子の妹)が結婚した〔小川治平〕とは、北沢楽天の弟子?の小川治平(1997~1925)のことだと思うのですが確信が持てません。これも、ご存じの方は、教えてください。


追記〔2016.11.20〕
 上の「その一」に記した冨永徳磨の墓所=“雑司ヶ谷墓地”の件ですが、その場所については《一号一四側一七番》という記載を、『冨永徳磨先生記念文集』(冨永徳磨先生記念文集編集委員会(代表:湯浅与三/昭和30年)に見つけました。雑司ヶ谷霊園には行ったことが無いので、この60年ほど前の表記が手掛かりになるのかどうか分かりませんが、報告しておきます。
[PR]

by kaguragawa | 2015-10-11 16:45 | Trackback | Comments(0)

思いがけぬ所で、出会った冨永徳磨   

 きょう、徳田秋聲記念館企画展「徳田秋聲らしからぬ!~しゅうせいとこどもむけよみもの~」に出かけました。まさに秋声らしからぬ、と思われる、作品やそれにからむエピソードなどが集められています。この企画展については、あらためて紹介したいのですが、今日はそこで出会った一冊の本のことだけ書いておきます。

 ナサニエル・ホーソン/富永徳磨訳『緋文字(ひもんじ)』1903(明36)年/東文館

 秋聲がホーソンのギリシャ神話(ミダス王伝説)をもとにした寓話「Golden Touch(何でも金になる話)」――私は未読――を「土耳古王の所望」として翻案していることに関連して一冊の本が展示してあったのである。(ちなみに、なんでも秋聲にはほかにも「幻影」や「少女の望」というホーソン原作の翻案があるのだと言う。)
 ここに冨永徳磨訳の『緋文字』について書いたのは、以前、この【めぐり逢うことばたち】(旧日記時代)に書いたことのあるのを思いだしたからなのです。秋声は知っていたか知らなかったかは不明ですが、この冨永徳磨訳の『緋文字』は、長老派キリスト教の牧師であった徳磨の金沢教会時代に訳された作品のはずなのです。

 冨永徳磨訳の『緋文字』の現物を予期もしていていなかった徳田秋聲記念館でみたことをきっかけに、旧日記に書いた冨永徳磨の関する記事を、例えば02/10/2008〔冨永徳磨と金沢〕のように、旧日記の日付を頭につけて再録しました。

 ・06/10/2006〔もう一つの指ケ谷町〕
 ・12/15/2006〔二人の詩人の見えざる出逢い〕
 ・02/10/2008〔冨永徳磨と金沢〕
 ・02/13/2008〔金沢香林坊にあった「金沢石浦町教会」〕

 この記事の下の「冨永徳磨」のtagをクリックしていただければ、「冨永徳磨」関連の記事をまとめて読むことができるようになりました。
 冨永徳磨については、旧記事にまとまりなく書かれている国木田独歩や八木重吉との関係だけでなく、金沢での西田幾多郎との交流や当時の四高生・加藤完治との交わりなども含め、《金沢時代の冨永徳磨》のことを掘り起こしてくださる方がおられればと思うのですが・・・。とても興味深いテーマのはずです。

〔追記〕
 〔ホーソン『緋文字』東文館〕は、国立国会図書館デジタル化資料で見ることができました。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874627
 それによるとこの本の訳者名は、内表紙には〔著者 富永蕃江訳〕となっている一方、奥付には〔訳者 富永徳磨〕となっています。
 なお、巻末に発行者のことばとして次のように記されています。;
「訳者蕃江君遠く金沢にありて伝道に従事す 平素文士の独立を尊び高邁の気を愛す故に先輩と雖も漫に加筆するを喜ばず 赤裸々を以て世波に投ずるを寧ろ優れりとす されば訳者素より其責を甘受する所ならんも発行者の不文或は訳者の意を充たす能はざる所あらんも知るべからず 故に江湖に対する本書一切の責任は全く発行者の責任なりとす 訳者幸に諒之   明治三十六年十一月三日」
[PR]

by kaguragawa | 2013-07-21 19:50 | Trackback | Comments(0)

《新島襄》《津田仙》《高田畊安》   

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。
 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、独歩の死に遡る十年前〔1898(明31)年〕に生を享けた《八木重吉》は、1927年(昭2)年に29歳で生を閉じています。

 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。
 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。

 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死の十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。

 そして何の因果か、独歩が亡くなった神奈川県茅ケ崎の結核療養所「南湖院」で、重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も、二人を結んでいる不思議な人物です。

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945

    *******************************************************

 ここまでは、6年前前の旧日記「めぐり会うことばたち」に書いたものです。その後、《冨永徳磨》が北陸の金沢に深く関わっていたことを驚きをもって知りました。そのご徳磨が富山の各地にも説教に足を運んでいたこともわかってきましたが調べる余裕もなく時を過ごしていますが。
 そしてもう一人の《高田畊安》についても、その師・新島襄とのつながりが少しわかってきました。とすれば、《津田仙》と《高田畊安》のつながりも気になってきます。
 そうしたことをいずれ書こうかと、予告めいたメモを書いた次第です。


 
[PR]

by kaguragawa | 2012-04-28 16:04 | Trackback | Comments(2)

ギブンス、島倉房、冨永姉妹   

 (今日も、自分の備忘のためのメモ書き)

 『北陸学院100年史』(1990.3)を借り出して、また驚いてしまいました。巻末の「教職員一覧」を見ていたらば、それぞれ別の関心から気になっている人々が、きちんと並んで記されているのです。

  K.A.ギブンス 1903.2―1913.9
  島倉 房    1903.4―1928.3
  冨永 富    1903.4―1906.9
  冨永 胖    1903.4―1906.9

 一か所にまとまっていたのは、ご覧のように教職員としての――当時の「北陸女学校」ですが――就業がほぼ同時期(1903〔明36〕年)だからです。
 K.A.ギブンスは、加藤完治をキリスト教にみちびいたキリスト者です(昨日の項参照)。島倉房は、竹久夢二の妻となった岸他万喜の少女時代をみちびいたキリスト者です。そして冨永富(とみ)と冨永胖(ひろ)の二人は、先日来このブログに登場している金沢教会の牧師・冨永徳磨の妹たちです。彼女らは同時期に北陸女学校に奉職していたのです。

 島倉房については、金沢湯涌夢二館での昨年夏の企画展《「岸たまき」夢二の妻とその郷里・金沢》での展示説明を、書き写しておきます。(写し間違いがあるかも知れません)

 “たまきが金沢で出会い、またその名を記憶していた人々の中で唯一人人物像がはっきりしているのは「島倉房子(ふさ)」である。
 房子は金沢女学校(現北陸学院)を明治31年に卒業し、後に母校の教員、寄宿舎の舎監をつとめた人物である。
 房子は金沢女学校の在学中の明治28年に金沢教会で洗礼を受け、卒業後は日曜学校(教会学校)を手伝っていたという。たまきが同校へ入学した事実はないため、考えられる接点として、当時石浦町にあったこの金沢教会の日曜学校が浮上するのである。
 実は後の明治43年、夢二が金沢を訪れた際に房子を訪れたとき、たまきの面識や信仰について話を交わしたと手紙で報告している。たまきは肖像写真まで見せながら房子像を語り、夢二に「偉くて神秘的な」女性として強い関心を抱かせたようだ。たまきがキリスト教に入信していくきっかけを作った重要な人物ではないかとみられる。”

[PR]

by kaguragawa | 2011-03-10 23:57 | Trackback | Comments(0)

金沢時代の冨永徳磨   

 今まで断片的に書いてきた冨永徳磨(さしあたりその金沢教会牧師時代/1903.1~1906.9)について、少しずつわかってきました。2冊の本が入手できたおかげです。
 まず、『金澤教會百十年史』(1997.06)。この本は多くのページを割いて金沢時代の冨永を紹介しています。そして『冨永徳磨先生記念論文集』(1955.12)。この昇天25年記念事業として編まれた限定250部という本を多少高価であったのですが入手することができました。

 そしてこの2冊の本にも書いてないちょっと驚くべきことも、今日、知ることになりました。
 昨日の記事に国民高等学校との関わりで名前だけ書いた“加藤完治”。彼は金沢の第四高等学校の卒業生〔在学:1902~1906〕なのですが、なんと彼は、金沢教会で冨永徳磨から洗礼を受けていたのです。
[PR]

by kaguragawa | 2011-03-09 23:06 | Trackback | Comments(0)

金沢街歩き――本多町界隈   

 土曜の午前中は、金沢の街歩き。午後からは剣町先生と奥様にお会いして談笑。帰宅後、先生からいただいた小竹家関係の書類を見ていたらば、小竹虎一の住所が〔中本多町三丁目拾番地〕と書いてあって、地図と照合して俄然目の覚めるような思い。そこは、大乗寺坂から降りてきた道に今、金城幼稚園が建っている場所〔現:本多町2丁目1番付近〕ではないか。そこは、鈴木大拙の生誕地の近くであり、午前に、冨永徳磨の居宅跡〔茨木町3番地/現:本多町3丁目11-28〕や第四高等学校(四高)の「三々塾」跡を訪ねて本多町界隈を歩いた折に、行ったり来たりした場所なのである。
 午前中に森山二丁目に訪ねた岸家の菩提寺・浄光寺のこともふくめ、――説明抜きで上に登場している人人の詳細も――いずれ報告。

 きょう日曜は、ブログ友・酔流亭さんを越中八尾駅に迎えて、八尾、富山をドライブ。充分におもてなしのできなかったことを反省しつつ、今さらながら八尾の蚕業(生糸生産)の歴史を思う。そういえば、吉井勇の八尾での歌(歌集「流離抄」「寒行」)を整理しようとの思いも手つかずのままだった・・・。
[PR]

by kaguragawa | 2011-03-06 18:34 | Trackback | Comments(2)

《上柿木畠三五》そして啄木の《上柿木畠四五》(2)   

 啄木と同郷、同年代(20代前半)の友人で金沢にいる、その男の名は、豊巻剛・・・。もしかして、彼は四高生では?。
 推測は当たっていました。彼は、第四高等学校の学生として岩手から金沢に来て下宿をしていたようです。といっても四高の卒業生名簿を調べる余裕などなく、これだけ啄木の日記に登場するのであれば、『石川啄木事典』(2001.9)に載っているのではないか?。と思って調べたところ、「豊巻剛(とよまき・たけし)」の項がありました。以下、事典の同項を写したものです。

 豊巻 剛 とよまき たけし
 1887年(明治20).3~1910年(明治43).4.5 号、黒風。
 岩手郡玉山村生まれ。啄木の中学の2年後輩で白羊会、闇潮会同人。1905年(明治38)盛岡中学校卒業。同年9月に啄木が創刊した文芸誌『小天地』に長詩「古障子」を寄稿し、校正なども手伝った。金沢の第四高等学校を経て東大文学科に進んだが、結核のため在学中に、24歳の若さで没した。没後、有志の手により『黒風遺稿』が刊行された。(浅沼秀政)


 啄木は1886(M19)年2月20日の生まれ(戸籍上)、1912(M45)年4月13日の死亡ですから、豊巻剛は啄木の1年後に生まれ、短命だった啄木よりも2年先んじて亡くなっています。
 四高名簿を調べれば正確なことはわかると思いますが、盛岡中学で啄木の2年後輩だということから豊巻の中学入学を1900(M33)年とし5年の在学とすれば、四高生として金沢にいたのが1905(M38)年から1908(M41)年までとなります。
 1908(M41)年の東大(正確には東京帝国大学文科大学)入学とすれば、同じ年に啄木が上京していて、翌年の1月に二人が東京でばったり出会うというところで、啄木の日記の記述と符合します。

 ともあれ、豊巻剛が第四高等学校の学生として3年間?を金沢で過ごしたその時代の金沢のこと、当時の四高のことなども折を見てしらべてみたいなと思っています。

 ちなみに、《上柿木畠四五番地》は鞍月用水に架かる茜屋橋の近くではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

〔追記〕
 もしかして・・・と思ったら、やはりそうでした。豊巻剛が四高にいた時期、西田幾多郎が教授として(1899-1909)倫理やドイツ語を教えていました。ただし、残念なことに西田幾多郎については私は何も知らないので、何も語ることができません。ただ、もう一人この時代、金沢にとても気になる人が、いました。金沢教会の牧師だった神学者・富永徳磨です。
 冨永徳磨は、あまり注目されていませんが、国木田独歩にも八木重吉にも大きく関わった人物です。金沢には、1903~1906の期間いたはずです。柿木畠の金沢教会のことを先日書いたとき、冨永のことを久しぶりに思い出し、冨永のことを調べに、近々金沢に行こうと思っていたところだったのです。
 (以前、旧日記に書いた《冨永徳磨》関連の記事です。)
 http://www3.diary.ne.jp/search.cgi?user=325457&cmd=search&word=%95y%89i
[PR]

by kaguragawa | 2011-02-19 17:10 | Trackback | Comments(0)

02/10/2008〔冨永徳磨と金沢〕   

 国木田独歩にも八木重吉にも大きく関わった神学者・冨永徳磨が日本基督教会金沢教会(金沢石浦町教会)の牧師として金沢に赴任していたことがある(1903~1906?)ということは知っていたのですが、その「金沢石浦町教会」がどこにあったものか、調べる余裕もありませんでした。が、ふと検索してみたらば、当時の場所――昨年まで農林中央金庫金沢支店があった場所、香林坊・大和デパートの正面左手――がわかっただけでなく、その当時の建物の一部(礼拝堂)が移築され(現在、日本基督教団若草教会)国の登録有形文化財に指定されていることも知りました。〔金沢市若草町13-44〕
 *日本基督教団若草教会のHP:http://www14.ocn.ne.jp/~wakakusa/wach-intro.html

 ホーソンの「緋文字」の最初の初訳も冨永徳磨が、冨永蕃江の名で世に出していることもこの金沢時代のことのようですし、当時四高の教授であった西田幾多郎と交流ももっていたようなのです。
[PR]

by kaguragawa | 2008-10-02 19:38 | Trackback | Comments(0)

02/13/2008〔金沢香林坊にあった「金沢石浦町教会」〕   

 普段の生活では、植木等の「無責任男」の上を行くようないい加減で口から出まかせの生き方をしている私ですが、自分の書いたものはそれが引用であったりまして借用であったりすると,ついつい?確認するのに手間暇かけさらには身銭を切ったりしてしまうこともたびたびです。(そのせい?でもありませんが、この日記に点在する無数の誤謬に気づいているのですが、直す気力には欠けていてそのままになっています。)

 まぁそんなこんなで、前日に書いた「日本基督教会金沢教会(金沢石浦町教会)」のあった場所「現在の農林中央金庫(香林坊・大和デパートの正面左手)」に、立ってみたくなって、まったく計画もないままふらりと金沢に足を運ぶことになりました。
(追記:私がこのとき見た農林中央金庫金沢支店の建物はすでに閉鎖された後のものであったことが、後日の確認で判明しました〔2007.7閉鎖とのこと〕。私はなんと残された看板をみていたのでした。)

 さらに、前日読み終えた『雪に燃える花――日塔貞子の生涯――』(安達徹/桜桃花会/2007.5)に印象的に登場した“室生朝巳”(犀星の次男)のことが思い出されて、「室生犀星記念館」に3度目の訪問をすることになってしましました。

 なんと犀星記念館で何の気なしに開いた田辺徹さんの『回想の室生犀星』(博文館新社/2000.3)に、室生犀星、尾山篤二郎、田辺孝次の三人組?が、冨永徳磨が金沢を去った後と思しき頃、「日本基督教会金沢教会(金沢石浦町教会)」に出入りしていたらしいことが書かれてあって、びっくり。

 ユニークな二冊の本の紹介も含めて今日の金沢の報告は、あらためて。

〔追記:2013.7.21〕
 今年(2013)6月、もと「日本基督教会金沢教会(金沢石浦町教会)」のあった場所〔現:金沢市香林坊1-2-16/農林中央金庫の跡地〕に「ホテルトラスティ金沢香林坊」がオープンしたようです。今日、近くに行ったのですが、確認するのを忘れていました。
[PR]

by kaguragawa | 2008-02-13 19:39 | Trackback | Comments(0)

12/15/2006〔二人の詩人の見えざる出逢い〕   

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。

 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、それに遡る十年前〔1898(明31)年〕に《八木重吉》は生を享け、29歳で生を閉じています。
 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。

 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を太く結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。
 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死後十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。
 (そして何の因果か、独歩が亡くなった「南湖院」という神奈川県茅ケ崎の結核療養所で重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も二人を結んでいる不思議な人物です。)

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945
[PR]

by kaguragawa | 2006-12-15 19:35 | Trackback | Comments(0)