タグ:伏木のこと ( 11 ) タグの人気記事   

「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ   

 なんとデ・レイケ(Johannis de Rijke)は、1891(明24)年、暴れ川常願寺川の治水工事に富山県に来た時、伏木港もおとずれ、藤井能三と会っていたのだ!。能三の『伏木築港論』(明治24年)に、このように登場する。

 今回富山県の水害検視として来県せし内務省雇工師和蘭人デレーケ氏の伏木港巡回を機として、右「アイカメ」の事を語り以て氏の意見を問ひしに、氏は海底の深浅及び大穴の個所等を試験したる後ち、未だ充分な調査を遂げざれども親部川は築港上最も必要なるものなりとて特に之を賞讃し、而して右「アイカメ」と称する深淵あるが為に多少の修繕を加ふれば如何なる大艦巨舶と雖も容易に川中に入るるを心得べく、其の費用は凡そ五拾万円ほど要するの見積りなれども愈々築港せんとするには、尚ほ充分に測量調査をせざれば能はずと言へり、されば伏木港民の口碑に伝はる「アイカメ」の深淵は氏の鑑定を得て倍々信を措くに足るのみならず、之が為めに如何なる蒸気船も容易に川中に入るを得べしと言うに至りては余は之を天与の地形と謂うも不可なかるべしと信ず。

追記:
 藤井能三とデ・レーケが「あいがめ」を話題に話し合ったとき、そこに同席していたのは誰なのだろう。そもそもデ・レイケを伏木に誘い、この出会いをセッティングしたのは誰なのか・・・。

追記:2016.05.02
 常願寺川砂防事業に詳しいMさんからご教示によると、デ・レイケに随行していた高田雪太郎の日記に、デ・レイケの藤井能三訪問のことが書かれているそうです。埋もれている資料に、大事なことが書かれているようです。詳細はあらためて報告します。
「歴史は忘れられた端役として存するのではない。人が思い出してくれさえすれば声を発するであろう」とは、伏木生まれの堀田善衞のことば。


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by kaguragawa | 2016-05-01 16:10 | Trackback | Comments(3)

「運動場に能三(のうそう)さん」   

 「運動場に能三(のうそう)さん」という歌を聞きました。伏木小学校で歌われている曲のようです。軽やかなワルツ調の曲でした。
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 聴き書きしたものなので改行や漢字使いなど原詩と違うかと思いますが、ここに歌詞を紹介しておきます。
 作詞者や作曲者については存じ上げません。ご存知の方があればお教えください。

 
   運動場に能三(のうそう)さん
   港や町見て立っている
   いつも前見て立っている
   やさしい目をして立っている

      けさ「おはよう」とごあいさつ
      「今日も元気でおやり」よと
      見おろしているよやさしい目
      だけどちょっぴりいばってる

        さっき「さよなら」したときに
        「のうそうさん」と呼んでみた
        おひげがピーンとはねてたよ
        だけどやっぱりやさしいね

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by kaguragawa | 2013-11-30 16:14 | Trackback | Comments(0)

初代の藤井能三像   

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 上は、初代の藤井能三の銅像。原型師は荒井秀山。
 (1922)
 左は、現在の藤井能三の銅像。原型師は米 治一。
 (1952)

 台座は、共通で吉田鉄郎。柔らかな線がすてきだ。

  〔追記〕
 実は昨晩、この像の記事を書いていて台座が吉田鉄郎の作だと知り、もう一度、ゆっくり見たくて今日も伏木へ。
 なお、この写真では読めないが真ん中の緑色の盤に書かれた「藤井能三」の字は松方正義のもの。
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by kaguragawa | 2013-11-24 14:28 | Trackback | Comments(2)

初冬の伏木街歩き   

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 いろんなことが気になり、急に思い立っての伏木探訪とあいなりました。
 写真は、伏木近代化に先頭的かつ戦闘的役割を果たした藤井能三の銅像。能三は、堀田善衛の祖父・善右衛門(善五郎)と同年〔弘化三年(1846)〕の生まれ。
 伏木小学校敷地の一画、能三公園に、伏木港を望んで立つ。

 伏木小学校は、堀田善衛の母校〔当時は、伏木尋常高等小学校〕だが、能三像(初代)は、堀田善衞が入学する3年前の1922年に創校50周年記念として建てられた。シルクハットを右手に持つ初代の像は戦時中に台座(吉田鉄郎の作)を残して供出させられ、これは二代目(1952年)のもの。
 なお、堀田善衛が在学した頃の校舎(男子校舎)跡はグラウンドになってい、往時の運動場が現在の校舎になっている。初代の銅像は、この旧校舎の前に立っていた。

 
 午前中は小春日和の好天。伏木の高台から立山連峰も眺めたが、そのころ真砂岳では大きな雪崩が起きていたころだ。
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by kaguragawa | 2013-11-23 19:47 | Trackback | Comments(1)

海波為めに鳴り、白鴎為めに舞ふ   

 今から100年前(1913〔大2〕年)の庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典の後の関係者のみの祝賀会での総務委員長(代理)のあいさつ文を紹介します。これを述べたのは《堀田善右衞門》、堀田善衞の祖父(累代でいうと曽祖父)にあたる善右衞門です。 

 本日を卜(ぼく)し茲に本築港竣成祝賀会を開催するは洵に欣喜に堪へざるなり。
 今や本港は各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり。是れ偏に本築港の完成は邦家交通上の一大進展たるのみならず、一面地方に於ける人文の啓発と、経済上の発展とを促進せし動機たりしに外ならざるなり。故を以て昨は当築港事業に努力せられたる官民諸氏を招請して賀式を挙行し、今又本港に関係浅からざる紳士諸君と共に此空前の盛式を行ふ。海波為めに鳴り、白鴎為めに舞ふ。衷心洵に喜ひの情に堪へざると同時に本港開発の貢献者たる藤井能三君の如き、既に物故して此歓を倶にすること能はざるは頗る遺憾とする所なりと雖も、君の遺蹟は永く之を伝ひて本港の発展に資するや疑はず。
 惟ふに本港の前途は実に洋々たるものあると共に、此海陸の要衝に当れる本港民の責務も亦決して軽しとせず。希くは、本港の利用開発に尽されんことを一言希望を述べて式辞とす。


 工事の竣工は1912年でしたが、式典は明治天皇の崩御があり翌年の1913年10月3日に行なわれたようです。本文中にあるように伏木港の近代化に尽くした藤井能三――善右衛門とほぼ同年のはず――もこの式典を目にすることなく、この年の4月20日にみまかっています。
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by kaguragawa | 2013-10-01 22:35 | Trackback | Comments(0)

自分の覚えのための写真   

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by kaguragawa | 2013-09-08 22:28 | Trackback | Comments(0)

伏木港まつりの日に   

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 今は道路位置も変わってしまっているが、上の写真、中央、少し奥に――黒い車の停まっているいるあたりから右側に――下の写真の商家があった。左の向うむきに立っている道路標識あたりに玉川に架かる橋があった。
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by kaguragawa | 2013-08-03 15:40 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛、生誕の日   

 95年前の今日〔1918(大7)年7月17日〕、我が富山県の港町・伏木(高岡市伏木地区)はどんな天候だったのか・・・。最近の猛暑や豪雨を思うにつけ、ちょっと気になり、調べてみました。一世紀近く前の一地区の天候がわかるのか、と思われる向きもおありかと思いますが、当時、伏木には「測候所」があり、幸いなことにこの地区の当時の気象記録が残っていて、それをweb上で見ることもできるのである。
 (この伏木測候所は、同地の廻船問屋の当主・藤井能三よって1882(明15)年につくられた私設の!測候所。1887(明20)年に富山県に移管。なお1918(大7)年当時の所長は、――3年後〔1921年〕台風来襲に際し警報発令の不手際の責を一身に負って自死した――大森虎之助氏。参照:新田次郎『迷走台風』)

 その伏木測候所記録によれば、95年前の《7月17日》――伏木のこれも廻船問屋・堀田家の三男として生を享けた堀田善衛の生誕の日――は、「晴れ」だったようである。が、翌18日には57ミリの雨量が記録されていてかなりの雨量である(実はこの日が7月の最大雨量を記録した日)。それも明け方から昼前に集中して降ったようである。前日の16日にも22ミリの雨量が記されているから、堀田善衛の生まれた17日は梅雨明け前の不安定な天候の「晴れ」のなか日だったようなのである。

 そしてここからは余談。堀田善衛の生まれた数日後に、伏木の港に招かれざる?一隻の汽船があわただしく来船した。越中の女一揆とも呼ばれた「米騒動」勃発の渦中にあった伊吹丸が、積みこむはずの米を積まずに(積めずに)、魚津から伏木に緊急避難?!したのである。

 県東部の港で米の積み出しを阻止しようとして起こったこの年の米騒動は、県西部の米の積み出し港であった伏木にも飛び火したのであろうか。そんなことも堀田善衛の米騒動への言及と併せて掘り起こし、いつか書いてみたいと思っています。
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by kaguragawa | 2013-07-17 22:36 | Trackback | Comments(0)

「伏木湊町須岬」と「伏木浦」(1)   

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 高岡市伏木の古い地図2枚。驚いたことに、明治30年代の伏木湊町近辺の地図(上)と、江戸期の絵図(伏木港の原初形)をリライトした図(下)がぴったりと重なる。
 注目は、絵図の左から右に伸びた砂嘴――寄洲と書かれた部分――。絵図と比較すれば、この砂嘴部分が地図上にもくっきりと見えてくるだろう。一方、右の舌状の岬の先が、おそらく人工的にけずり取られて、地図では無くなっていることもわかってくる。


 右下が上の地図の拡大図。e0178600_20101520.jpg真ん中を上下に流れる川の右側の青色部分はおそらく「狐島」、その下の黄色部分は「須岬」という字名をもつ地域だが、「須岬」は「洲崎」と読み替えると地名の由来がはっきりするであろう。
 注意深く見ていただければ、図の一番下に赤文字で左から右に「五十三級」と書きこまれた「三」の左上に鳥居マークが目に入るが、湊の象徴でもあった金毘羅宮である。

 さて、絵図から数百年、この地図作成時から100年。ここに描かれた伏木湊町はどう変わったのか。
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by kaguragawa | 2013-06-17 22:36 | Trackback | Comments(3)

堀田善衞の生家跡を訪ねる(3)   

 JRの伏木駅から歩いて行ける距離なのかどうかも確認しないまま、氷見線に乗り込んでしまったのですが、小さな駅舎内に観光案内所がありそこを訪ねました。伏木の町は、勝興寺(越中国庁跡という)や万葉歴史館など車では何度も来ているのですが、旧町をゆっくり歩いたこともなければ、どの辺りがめざす廻船問屋が立ち並ぶ通だったのか、それが駅から歩いていけるところなのかがわからないのです。

 駅の案内所にあった簡略な地図には、堀田善衛の生家跡はしるしてないものの八軒問屋があった地区にあると言う伏木図書館は記載があり、それを頼りに近くへ行ってみることにしました。そのとき、私の不安げな様子を見て取ったのか案内所の方が「どこへいかれるのですか」と声を掛けてくださり、なんと幸いなことに資料としてもっておられた「明治期の居宅絵図」をいただけることになったのです。
 なんともうれしいことに、そこには廻船問屋の家々が藤井能三(能登屋)、堀田善右衛門(鶴屋)、稲尾徳平(氷見屋)などとはっきりと記してあるのです。

 “生家跡といってもそこにはなにも残っていませんから。”という言葉にお礼を言って、駅前から旧町の辺りへ向かって歩き始めました。何もなくてもよいのです。私は、“その地に立ってみたい”、それだけなのですから。
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by kaguragawa | 2010-02-14 15:55 | Trackback | Comments(0)