タグ:三島霜川 ( 180 ) タグの人気記事   

めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                                       野口冨士男
  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                                       堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞を読む会 」は、〔ここ〕です。
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by kaguragawa | 2017-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

飛鳥寛栗師と三島霜川・正六親子のこと   

 飛鳥寛栗(あすか・かんりつ)師が昨日亡くなられた。享年一〇二。

 15年前、縁あって『それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情』(樹心社/1999)を手にして以来、近くて遠い大先達として――師が前住職を務められた善興寺(高岡市中田)は、拙宅から車で20分余の近さ――お名前だけは存じ上げてきましたが、4年前善興寺本堂で「三島霜川を読む」という朗読会があった折に、少しお話をさせていただく機会に恵まれました。
 先月も薩摩の「隠れ念仏」のことを調べる必要があって『越中僧・薩摩開教の記憶』(桂書房/2015)を、読ませていただいて、甑島にも大魯の影響で三業派の隠れ念仏が強かったことを教えていただいたばかりである。

 私の手元には、2.5メートル余もある「三島霜川誕生の地」と書かれた大きな木碑(*)の脇に“二人の男性”が立っている写真がある。一人は、霜川の息子さんの正六さんである。もう一人が誰かわからなかったのだが、つい先日、善興寺の現住職の飛鳥寛惠さんから、「これは父・寛栗です」と教えていただいた。この写真が撮られたのは1970(昭和35)年夏とのことだから、私など霜川の跡追いをしている人間には、大きな意味を持つ写真である。
 寛栗師は、霜川の生地である中田町が高岡市に合併される前の中田町時代に、中田文化会の中心として霜川の顕彰に松田富雄氏とともに尽力され、その地が高岡市となってからも「三島霜川選集刊行会」の副会長を務められたのである。

 そして寛栗師が著された『善興寺史誌』(1964)の資料編「慶應二年惣門徒書上帳」の檀家中に「般若組 下麻生村 間兵衛」の名が見える。これは累代、「間兵衛(間平)医者」と呼ばれた三島家のことであろう。

 なんと昨年百歳で『越中僧・薩摩開教の記憶』を世に出された寛栗師は百壱歳で亡くなられた。今頃、お浄土で30年前に亡くなられた二歳年下の三島正六さんと再会されていることであろう。

〔追記〕
 *この木碑(木柱碑)は、雑誌「高志人」に水守亀之助の三島霜川回想記「三島霜川を語る」が連載されたのを機に霜川復興の気運が地元で高まり、霜川の生誕地の中田町の文化会が1956(昭和31)年8月に建てたもの。
 その後、霜川の三〇年忌法要の年〔1964(昭和39)年〕に現在の石碑に建て替えられた。この年の一連の行事は、松田富雄、飛鳥寛栗氏らを中心とした中田町文化会と三島霜川顕彰会が主催しておこなわれた。
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by kaguragawa | 2016-10-01 21:58 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”(2)   

 「水の郷」と「水郷」の文体を比較できるように、併記してみては・・・とのNさんからの要望?もあり、前稿と同じ箇所をここにならべて紹介します。

・「水の郷」(『婦人界』明治三十七年六月号)より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。

・「水郷」(『文庫』明治39年7月号)より
水の郷と謂はれた位の土地であるから、実に川の多い村であツた。川と謂ツても、小川であツたが、自分の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、恰ど碁盤の目のやうになツてゐた。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかツた。川が多くツて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解る。蛍は奇麗な水の精とも謂ツて可よいのだから、自分の村には蛍が沢山ゐた。

 両作品の文体の違いはあきらかです。しかし、この両作品の違いは、文体の違いだけにとどまるものではありません。話の筋はほぼ同じなのですが、改稿作では紙幅の関係もあったのでしょうが 消しさられてしまった部分がかなりあるのです。
 きわどい言い方をすれば、「水の郷」は――日露戦争の――戦中文学であり、「水郷」は戦後文学です。そして、戦中文学であった「水の郷」に意識して書き込まれていた当時の霜川の「トゲ」の部分、これをしっかりと復元して書きとめておきたいというのが、ここ数年間、霜川作品を読んできた私のささやかな願いなのですが、なかなか余裕がありません。今回も、予告だけということで・・・。
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by kaguragawa | 2016-08-04 22:04 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”   

 三島霜川の作品には、清冽な小川が縦横に走りいつも微かな水音が聞こえているような村が登場する。霜川が“水の郷”と呼ぶ村である。まさに霜川(三島才二)の生まれ故郷である富山県西部の庄川右岸の砺波郡と射水郡にわたる一帯が、後背の丘陵地の伏流水が自噴しここかしこに流れるこうした村々だったのである。

 そうした“水の郷”が、そのタイトルも「水の郷」という小説(*1)の冒頭部分に描かれていますが、うかつにも「鶯屋敷」(*2)にもそうした描写があることに気をとめることがありませんでした。きのう、読み直して気づいた次第です。

  *1 「水の郷」 『婦人界』  明治37年6月号
  *2 「鶯屋敷」 『北國新聞』 明治40年1月20~23日

 ここで「鶯屋敷」のその部分を紹介しておくことにします。ここには、“水の郷”の語も出てきます。

・・・自体此の村は、水の便利が好い。村は、全く水の郷。戸毎の前後を遶つて、小流は、縦に横に流れてゐる。村の者は、此の流で夕、米をとぎ、朝、顔を洗ふのであつた。勿論鍬も洗へば、洗濯もする、鍋も洗へば、芥も捨てる、雖然流れは急であるから、汚れた物は直に流して了つて、何時でも清かである。此の朝も、流れは澄んで、鏡のやうであつた。

 なお、『婦人界』に発表された「水の郷」は、改変されて2年後に「水郷」の題で『文庫』に掲載されることになります。「水郷」の方は、――霜川顕彰の動きのなかで『三島霜川選集(上巻)』に収録され、現在、青空文庫でも読めますのでご覧いただければわかるように――文末が《だ・である調》であるのに対し、先行作の「水の郷」の方は、『婦人界』の読者を強く意識したのでしょう、《です・ます調》の語りかけるような文体が使われていて独特の味わいがあります。

 以下は、「水の郷」の“水の郷”紹介部分です。

・「水の郷」より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。


〔追記:1〕
 実は、霜川には「鶯屋敷」と題された作品がもう一つあるとされているのですが、残念ながら未見です。上掲の新聞掲載作「鶯屋敷」(明治40年)は、先行作であるそのもう一つの「鶯屋敷」の改稿作の可能性があるのですが、今は確かめようがありません。ただ、新聞掲載作のこの「鶯屋敷」中に、幼い女の子が福島安正の「討露軍歌」の断片を片言で口ずさんだりする箇所があり、日露戦争中に発表された先行作との関連を想像させています。

〔追記:2〕
 「水郷」という作品のタイトル“水郷”の読みは、当然に「すいごう」ではありません。当時「すいきょう」と読まれていた可能性が強いのです。この点についても、稿をあらためます。
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by kaguragawa | 2016-08-01 23:17 | Trackback | Comments(0)

《三島霜川》略歴巡り(4)   

三島霜川 ミシマソウセン(劇)

名は才二、明治九年四月富山県西砺波郡麻生村に生れ、「山霊」「スケッチ」「孤巌」「村の病院」「平民の娘」「虚無」等を著した。「演芸画報」記者。
現住所 東京市外池袋字本村


 出典:『明治大正文学美術人名辞書』
  ・編纂者 松本龍之助
  ・発行  大正十五年四月五日 (1926.04)
  ・発行所 立川文明堂
          大阪市南区安堂寺橋通三丁目四十五番地
  ・執筆者 記載なし(松本龍之助か)


 ※以前の「《三島霜川》略歴巡り」は、2年前!のこのブログにあります。
 http://kaguragawa.exblog.jp/m2014-02-01/

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by kaguragawa | 2016-01-04 19:55 | Trackback | Comments(0)

初日の出 (三島霜川)   

 ふと眼を覚ますと、もう餅を焼いている芬(かおり)は、微かに鼻をうつ・・・、おお!今年という今年は初日を拝むはずだっけ。私は、勢いよく床を離れた。食事の時は何時でも一家が団欒(まどい)する部屋には、祖母やら母やら妹やら、皆いろりを取り巻いて、忙(せわ)しそうに餅を焼いている、いろりには柴が盛んに燃えて、部屋は、うっすりと煙っていた。
「もう直にお雑煮をいただくんだよ。早く顔を洗っていらっしゃい。」
 祖母は、ふと後ろを振り向いていった。私は軽くうなづいた。
「今日は昔風に、門(かど)の川で顔を洗ってきましょう。」
といいながら、土間へ飛び下りて、草履を突っかけた。そして、躍るような勢いで外へ飛び出した。

 見ると、東の空には、藍やら、紫やら、瑞雲群がり立って、その底の底の方には、微かな紅が見透かされる。
「ほ!、ちょうどいい」
 途端に、どこやらで、き、き、きいと刎ね釣瓶をあげる音・・・多分若水を汲んでいるのであろう。戸口には、門松青々として、家の栄を慶んでいるかと思われた。それを見てすらも、気が伸び伸びする。
 間もまく私は、門川の岸に立った。清冽な流れは、いささかの瀬を作りながら、静かに流れている・・・それも若水!私は、流れを掬(むす)んで嗽(うがい)をした。指先から、ちらちらと白気が立つ・・・顔を洗っていると、血も心も新しくなってくるような心地がする。

 しばらく経った。群がり立っていた雲は、いつか、どこへか片付けられてしまって、山の影は際立って黒くなってきた・・・かと思うと、東の空に一抹の紅が動いて・・・動くようにパッと染められて、旭は、赫灼として、悠(ゆるやか)に山の端に昇るのであった。流れの瀬にも、幽(かすか)な紅がちらちらする・・・この新しい光を浴びて、流れは、急に勢いづいた・・・勢いづいたように、その音が高くなったように思われた。
 夜の幕はまったく破られて、旧い年はとこしえにこの世から消えて了った。空は、映々(はえばえ)しくなって、燦爛たる初日の光、そこらに輝きわたるかと見れば、
「やあ、今年も好い元日だ!」
とさながら天上から落ちてきたかのよう、天気の和静を神に感謝するような、喜悦と満足との溢れた声がした。
 雑煮煮る煙が、村の戸ごとの屋根から朝の煙盛んに登り始めた。



 ※三島霜川の明治37年の『文芸界』新年号の作品です。幼少期の思い出をエッセイ風に仕上げたものなのでしょう。36年期の諸作品と同様の田園詩的筆致が見られますが、私にとって興味深いのは、歿年不明の“祖母”が登場していること。
 この年の同じ1月1日づけで短編作品集『スケッチ』(新聲社)が発行されると同時(2月)に、一つの方向転換を告げる「村の病院」が発表されます。その境目にある小品です。

(2013.01.03の記事を再録)
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by kaguragawa | 2016-01-01 17:27 | Trackback | Comments(0)

霜川「島の大尉」をめぐるあれこれ(1)   

 ふらりと入った小さな古本屋屋で、ちょっと意外な本を見つけてうきうきしながら、何気なくビニールにはいった古雑誌を2,3冊より分けたところで、何度も見たことのある表紙が目に飛び込んできた。e0178600_2062287.jpg憩う軍馬を背景に《戦争文学 四月之巻》と篆書体の大きな表題文字が書かれ、右肩には2行の角書きで、「日露戦争実記/定期増刊」とある。内容は見ることはできないが、何度も何度も、黒岩さんのサイト「古書の森日記」で目にしたものだから間違いはない。

 この《日露戦争実記/定期増刊/戦争文学 四月之巻》――明治37年4月23日発行/日露戦争実記第8号――には、三島霜川の「島の大尉」という小説が掲載されているのだ。
 私にとっては、この「島の大尉」という小説は、ある報告会で、この小説の一節を紹介したこともある思い出のある短篇小説であり、この掲載誌「日露戦争実記」は、5年前に亡くなられた黒岩さんと雑談をかわした思い出深いものでもあるのだ。大げさかも知れないが、“奇跡”の出会いである。

 霜川は、この「日露戦争実記/定期増刊/戦争文学」にいくつか作品を発表しており、私が読んだものはこの「島の大尉」「荒浪」「予言者」だけなのだが、とりわけ「島の大尉」「荒浪」は、三島霜川を考えるためにはとても大切な作品なのである。

 作品の紹介は措いておいて(*1)、今回雑誌の実物を入手したことによって、私には疑問だった書誌的事項のいくつかが判明したので、以下、そのことだけメモしておきます。「定期増刊/戦争文学」ということがよくわからなかったのですが、こういうことでした。

 育英舎から出ていた「日露戦争実記」は、月3回の刊行(旬刊)で、毎月8日、18日、28日に発行されることになっており(*2)、それに加えて毎月増刊として「戦争文学」号が刊行されたようなのである(*3)。そこで毎月刊行=定期増刊「戦争文学」という表題にしたようなのである。

 *1 作品名は明記せずに、この小説の会話部分を紹介したことがありました。
    「やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。」(2014.02.14)
     http://kaguragawa.exblog.jp/21685893/

 *2 「日露戦争実記」創刊号では、刊行日を〔毎月1日、11日、21日〕としている。いつから、この号〔通巻第13号の「戦争文学 四月之巻〕に書かれているような〔毎月8日、18日、28日〕になったのか、その後もその刊行日は変わらなかったのか、は未調査である。

 *3 この「戦争文学 四月之巻」は、4月23日の刊行:日露戦争実記通巻第8号であり、「戦争文学 五月之巻」は、5月25日の刊行:通巻第13号、「戦争文学 六月之巻」は、6月27日の刊行:通巻第16号のようである。「戦争文学」の刊行日は、必ずしも一定しなかったようである。(これはnet上の情報から拾いだしたもの)

〔追記〕
 書誌的事項やこの育英舎の「日露戦争実記」については、書きたいことがいくつかあるので、続編を書きたいと思っています。私の精進次第です・・・。


〔追記:2〕
 この「戦争文学 四月之巻」には、広津柳浪「天下一品」、小栗風葉「決死兵」、徳田秋聲「通訳官」、三島霜川「島の大尉」が掲載されていて、秋聲の作品は、全集で読んだものだが、これについても“秋聲の作品として”考え直してみたいことがあるが、私には荷が重い。
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by kaguragawa | 2015-12-21 19:51 | Trackback | Comments(0)

霜川生誕地碑へ   

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 久しぶりに霜川(三島才二)生誕地碑へ。今日は、立山連峰がこの地からもよく見える。
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by kaguragawa | 2015-12-20 18:19 | Trackback | Comments(0)

築地で、霜川「夕汐」を読む   

 3日、4日は東京でした。好い天気でしたので、4日には、木挽町、築地あたりを歩き回ってきました。築地精養軒跡地に建つ時事新報社ビルのスタバで鴎外の『普請中』を思い起こし、築地では佃渡しのあった辺りで霜川の「夕汐」――出掛ける前日にあわててコピーをとって持ってきたものですが――を読んだり、と優雅な?一日を過ごしました。一番のお目当ては、明石町。築地の外国人寄留地跡は、どうしても歩いてみたかったのです。
 
 あらためてゆっくり報告する機会もなさそうなので、ここには雑駁な印象だけを書いておきます。寄留地の跡地である現在の明石町は、不謹慎な言い方でお叱りを受けるのを覚悟して言うと、なんとそのかなりの部分をSt.Luke“聖路加”に占められているのです。河岸の天を摩する聖路加ガーデンの聖路加タワー(48階)と聖路加レジデンス(38階)の兄弟棟?など、真下からのぞき上げた心地といったら(32階には連絡ブリッジがある!)、――一昨年、対岸の佃島からは遠望してはいたのですが――どぎもをぬかれました。

 私の築地への関心は、津田仙の「築地ホテル」に始まり、「築地バンド」(これは太田愛人さんの命名だったでしょうか)を経て、ちょうどその頃偶然読み返した霜川の作品「夕汐」が「築地居留地」を舞台にしていたことにあらためて気づき、ちょっと衝撃を受けて、今に至っています。
 三島霜川の「夕汐」(明治33年)は、アメリカ人商人と日本人女性との間に生れた混血児少年と佃島の少女との淡い想いが冒頭に描かれていますが、膚も髪も眼も色の異なる「異種」の子であり、父親がアメリカに帰国したままの孤児であり、さらに吃音障害を持っている少年の三重の苦衷を理解するすべを、彼が思いを寄せる少女も母親さえも、持つことは不可能であったろうと思われるそうした少年を、霜川は、居留地を背景の作品に巧みに取りこんでいます。
 その少年と少女〔麗三郎とお崎〕がはたらく《開明社活版所》は、平野富二の「築地活版製造所」をモデルにしていると思われ――コンワビルの「活字発祥の地」の碑も見てきました――、このネーミングにも若き霜川の目が、「開明」の裏表を射ぬく異様なトゲをもったものであるところも、私には新たな発見なのでした。

 霜川の「夕汐」と築地――築地と佃島、そしてその渡し、居留地と居留地を取り囲む日本人居住区の格差、鉄砲洲川と見富橋、当時すでにドブと化していた築地川(ただし霜川はそこに潮の満ち干きを書きこんでいる)など――のことは、折を見て作品の註として書きたいと、思いますが・・・いずれ。

〔追記〕この日の逍遥?のスタートは、加藤時次郎の「平民病院跡地」であったこと、締めくくりは、小林多喜二が息を引き取った築地警察署裏の「前田病院の地」(現在も前田病院は引き継がれています)であったことを、付記しておきます。 
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by kaguragawa | 2015-11-07 18:38 | Trackback | Comments(4)

秋聲「焚火」の火種(2)   

 徳田秋聲「焚火」(1907)、それに先行する三島霜川「霜のあかつき」(1903)――。冬至期の夜明けの“銃猟”にからめた話だということ、話の後半に焚火をする少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との会話を中心とした印象的なシーンが展開されること、これが両作の共通点です。これだけの紹介では、この両作の「類似」が、単に同じ構成要素をもつだけなのか、話の展開もふくめ同一作に近いものなのか、判断ができかねると思いますが、何箇所にもわたり同一の表現や文章群があることから、「〈外形的には〉、話題も話の展開も同一作に〈近いもの〉」と言い切って、先に進みたいと思います。
(このように、両作の話柄の共通点だけを前置きしておいて、話を始めるのは、乱暴であり、なにより私にとっても不都合なのですが、両作品をまるごとここに提示することが時間のつごうなどでできかねるので、そこはお許しいただいて、とりあえずは――できるだけ、行論中に原文の引用を多くいれ、むしろ相違点を浮き立たせることにも留意して――論を進めていくこととします。)

 もう一つ、断り書きをしておきたいのは、こういうことです。論文という体裁でもなく、こういうエッセイ的なものでは、論点や主張点をわかりやすく提示することが難しいと思われるので、要点の一つだけ、切り離して、先に書いておきたいのです。
 ここで考えてみたいと思っていることのねらい(というより「願い」?)の一つは、霜川の作品を改稿したものが、――霜川の名ではなく――秋声の作品として世に出ているという事態の裏側にあるもの、抽象的に言えば、「霜川・秋聲、二人の〈作品を介在させた〉関係性」を、《徳田秋声「焚火」》を素材に考えてみたいということです。実は、この二人の間には、一回完結の単純な代作関係だけではなく、「焚火」に見られるような〈相互的かつ複層的な作品形成〉がほかにもあるのです。といっても、こんな考察?がうまくできて、「新たな視角」といったものが、提示できれば、文学部の卒業論文くらいにはなるのでしょうから、単なる霜川の年譜作成者である私には荷が重い課題ですが。この稿の、潜在的な問題意識として、書き留めておきます。

 脱線めいた行論をもとに戻します。なにより、秋声「焚火」の読み解きをめざすこのエッセイ?では、作品の後半に設定された少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との間の会話、そこにはらまれている「〔叛〕時代的な問題」を、霜川と秋聲に即して、うまく伝えたいと思っているのです。
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by kaguragawa | 2015-10-27 20:02 | Trackback | Comments(0)