06/13/2007〔古代越の地域国家を〕   

 門脇禎二先生が亡くなられた。「先生」といっても、直接の先生といったわけでは無論なく、ある小さな講演会で間近に先生の謦咳に接したという程度のことに過ぎません。しかし、門脇先生には、先生とお呼びしたくなるような親しみ――それは先生の著書と講演から、学問的な厳格さと発想の柔軟さを根底に、考古学的事実と古史文献に即して史的真実を発見する学的態度を学ばせてもらったということですが――を、感じてきたということなのです。

 以下、読売新聞の記事からの抜粋です。
 “中大兄皇子らが蘇我蝦夷・入鹿親子を死に追いやり、律令国家を建設したとされる「大化改新」(645年)を後世の脚色と否定し、学界に衝撃を与えた。
 また、大和政権がその他の地域に支配権を広め、統一していったとする主流学説にも異を唱え、大和政権とは別の有力な王国があったとする「地域国家論」を提唱した。”

 私などが越の古代学に門外漢ながら関わっているのも門脇先生の「地域国家論」の魅力によるところがとても大きいのです。

 『日本海域の古代史』(門脇禎二/東京大学出版会/1896.9)――この本の荒海の装丁デザインには古代日本海への関心を鼓舞されます――を久しぶりに取り出しています。今夜は、この本の能登論や出雲論を拾い読みをして、先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

  *門脇禎二  1925.09.28~2007.06.12
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# by kaguragawa | 2007-06-13 06:43 | Trackback | Comments(0)

06/10/2007〔「三島野」〕   

 ある発行物に書いた「家持の越の歌をたずねて」の《三島野》を転載しておきます。空いたスペースをふさぐために書いたもので、地域ならではの話題ということで「三島野考」になりました。

━━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━━

 ■■で家持の歌を取りあげましたが、この歌に登場した「三島野」について、少し考えて見たいと思います。
 なぜなら、万葉の時代から「三島野」と呼ばれたこの◆◆周辺の射水平野が、奈良時代にどのようなところであったのかを知る手がかりが、家持の歌に 多く残されているからなのです。

 では、「三島野」が具体的にどのあたりだったか、どのような場所であったのか、家持の歌から探ってみましょう。
 万葉集には、二つの歌に「三島野」が登場します。三島野が登場する一番目の歌は、天平十九年(747)九月二十六日に歌われた長歌で、二番目の歌は、■■にも紹介した天平二十一年(749)三月十六日に歌われた短歌です。

 これらの歌に「三島野」の位置を特定できるヒントがあるのでしょうか。

 二番目の歌から見てみましょう。

    三島野に霞(かすみ)たなびきしかすがに 昨日も今日も雪は降りつつ

 これは「三島野に霞たなびき」という表現からして、“眺められた情景”であることは間違いのないところです。そして歌が作られた事情からしても、当時越中の国庁や国守館があった伏木の高台から家持が、東南の平野部を眺めて詠んだものと考えるのが一番自然です。しかも「三島野」は、霞や雪が見渡せる範囲ですから、伏木高台から ほど近い平野をさすものとも思われます。
 ここから推定されるのは、現在の射水平野の西側(旧大島町・大門町の範囲)が当時「三島野」と呼ばれていたのではなかろうかと言うことです。

 では、もう一つの天平十九年の長歌の方を見てみたいと思います。
 これは、家持が愛用していた鷹狩り用の鷹を老召使いが逃がしてしまい、それを夢のお告げで追いかけるという おもしろい歌です。ここには鷹の逃飛行が具体的に書き込まれています。
 この歌の詳しい紹介は、次回にしたいと思いますが、この長歌の中に家持の愛鷹“大黒”は、

   三島野を脊向(そが)いに見つつ 二上の山飛び越えて 雲隠り翔(かけ)り去りにき

と、三島野を背にして二上山を越えて飛び去ったと歌われているのです。

(続く)

━━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━━

〔追記〕
 以上、たいしたことは書いてないのと自発的に書いたものではないので、単なる記録として転載しました。が、最後の部分に、雲のかかった二上山の写真を載せたため、引用した「二上の山飛び越えて雲隠り翔り去りにき」のイメージがとても広がったのはうれしいことでした。
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# by kaguragawa | 2007-06-10 06:48 | Trackback | Comments(0)

06/10/2007〔 『私のなかの東京』〕   

 岩波の現代文庫に野口冨士男さんの『私のなかの東京――わが文学散歩』が加わるらしい。(6/15発売)

 絶版になって久しく、古書しか入手方法はないかと諦めていたので、楽しみ。
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# by kaguragawa | 2007-06-10 06:46 | Trackback | Comments(0)

06/09/2007〔ヴィオラとともに〕   

 今井信子『憧れ――ヴィオラとともに』(春秋社/2007.5)

 世界に雄飛するヴィオラ奏者・今井信子さんの自伝的エッセイ。

 やぁなんと思いっきりのいい、茶目っ気いっぱいのお嬢さんなのだろう、ノブちゃんは、今も!。
 飾り気のない文章ながら、おもしろい本。しかも、第5章「カルテットの日々」は、音楽好きな人でなくとも考えこまされる刺激的な問題提起に満ちています。

*今井信子 1943.03.18~

http://www.shunjusha.co.jp/book/93/93475.html
http://www.kajimotomusic.com/artist_jap/nobuko_imai.html
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# by kaguragawa | 2007-06-09 06:45 | Trackback | Comments(0)

06/07/2007〔玄手川(げんてがわ)〕   

 高岡市(富山県)の南郊に東藤平蔵と西藤平蔵という地域(大字)がある。私などこういう地名を目にするだけで理由もなくうれしくなるのですが、ここに玄手川という広い用水というほどの川幅の河川が流れて藤平蔵(トヘイゾウ/トウヘイゾウとも)を西と東に分けています。最近はトミヨの生息などで注目を集めていますが、名も知られぬ川でした。
 神楽川という今ではその流路もあきらかでない川の流域史を追っかけようとしている私には、こうした中小河川の歴史や有り様が気になって仕方がないので、玄手川の名前が復活しつつあることはこれもうれしいことなのです。

 で、今日、ある名簿を整理していて、さらに驚きうれしくなったのがこの辺りに「玄手」という姓の人がいるということの発見でした。こういう地域に根ざした中小河川――最近、“里川”という造語?があるようですが――が姓になって残っていること、おそらく今後も残っていくだろうこと、とても私にはうれしいことなのです。
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# by kaguragawa | 2007-06-07 06:44 | Trackback | Comments(0)

06/05/2007〔高森文夫に語る中也が〕   

 福島泰樹『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書/2007.5)

 福島さんの語りの巧みさに――ここには適度に仕込まれた周到さがもたらす心地よさがある――引き込まれてしまう。
先日、少し紹介した中也の父・謙助のこともいくつかのエピソードともに書き込まれていて、軽い興奮と不思議な安心を覚えながら読みました。

 ・・・といっても、今読み始めたばかり。
 福島さんはどんな新しい中也を浮かび上らせようというのか、少し時間を惜しんで読み進めたいと思っています。

〔追記〕
 まさか、本居宣長の『直毘霊』や宮本武蔵の『独行道』が中也の口から語られていたとは思いませんでした。そんなことや高森の生地・東郷村のことなど、あらためて書く機会をもちたいと思います。
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# by kaguragawa | 2007-06-05 14:37 | Trackback | Comments(0)

12/15/2006〔二人の詩人の見えざる出逢い〕   

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。

 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、それに遡る十年前〔1898(明31)年〕に《八木重吉》は生を享け、29歳で生を閉じています。
 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。

 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を太く結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。
 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死後十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。
 (そして何の因果か、独歩が亡くなった「南湖院」という神奈川県茅ケ崎の結核療養所で重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も二人を結んでいる不思議な人物です。)

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945
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# by kaguragawa | 2006-12-15 19:35 | Trackback | Comments(0)

06/13/2006〔ベイヌムとの再会〕   

ベイヌムのベートーヴェンの2番のシンフォニーを店頭で見つけて、(ふところが寂しい折柄)瞬時とはいえ迷いながらも入手。

こういう演奏が聴けたことは私にとって奇跡的なことです。
何を隠そう、2番のシンフォニーがベートーヴェンのなかで一番のお気に入りなのです。

1951年のアムステルダムコンセルトヘボウのブラームスの第一番を聞いたときの感激が重なってよみがえってきました。(1951年うんぬんはもちろん後からの知識で、偶然レコード店で試聴用に流されていたのがこの演奏でした。ぜったいどこにも存在し得ない弦の肌触りが、ベイヌム=コンセルトヘボウでした!)
細かな話で恐縮ですが、第一楽章の導入部からアレグロに入る部分にあんなにも印象的な六連符が繰り返されているとは。

上の1951年のブラームスも含めベイヌムの遺された録音がフィリップスから入手しやすい形で出始めたようです。
http://www.universal-music.co.jp/classics/special/legends_of_20th_century/eduard_van_beinum.html
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# by kaguragawa | 2006-06-13 06:42 | Trackback | Comments(0)

06/10/2006〔もう一つの指ケ谷町〕   

 かなり前に、宮沢賢治と八木重吉の年譜を横にならべてながめてみたこともあったのですが、きょうあるきっかけから重吉の年譜を見ていて1918・1919(大正七・八)年、東京の小石川、本郷のあたりで、二人はすれちがっている可能性があることに気づきました。

 当時、重吉は東京高等師範学校の大塚の寮にいて、指ケ谷町の小石川福音教会に通い、1919年の3月には駒込基督会(本郷東片町96)の冨永徳磨牧師により洗礼を受けています。
 一歳半ほど年長の賢治はこの時期、妹トシの看病のために雑司ヶ谷に下宿していて上野の図書館などにも通っていたのでした。

〔追記〕
 富永徳磨の姓の文字を「冨永」に改めました。(2008.2.10)
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# by kaguragawa | 2006-06-10 06:45 | Trackback | Comments(0)

03/29/2006〔『どうで死ぬ身の一踊り』〕   

 店頭にはなかったものの在庫があったのでしょう、書店の外商の人に頼んでおいたら存外早く手元に届きました。 ――西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』。
 すぐに読もうかどうか迷ったのですが――というのは今週中=年度内の仕事があれもこれもと山のようにありながらとりかかれず気持ちだけが切羽詰っているのです――ついページを繰ったのが、そのまま一気に読んでしまうことになってしまいました。

 と、報告だけにしておきます。
この本に限っていえば霜川情報はほとんどなかったのですが西村氏が藤澤清造に有縁の人ということで尾山篤二郎の書をお持ちだったところからしても、――そしてさらに大きな清造=篤二郎の遺物(それが何かはこの本を読まれたい)を入手されることになるのですが――、霜川についても多くのことを調べられていることは想像がつきます。
 いずれなんらかの出逢いがまたあることだろうと思います。
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# by kaguragawa | 2006-03-29 14:47 | Trackback | Comments(0)

03/23/2006〔藤澤清造――。〕   

 藤澤清造――。三島霜川とのつながりで名前だけは知っていたのですが、彼が北陸は石川県、しかも能登〔鹿島郡藤橋村(現・七尾市〕の出身であること、その破天荒ともいえる生き方の諸相、さらにこの知られざる作家の掘り起こし(掘り尽し?)に執念を燃やしている若き作家(西村賢太)のいること等々、まったく知りませんでした。

 霜川自身の(霜川の側の)記録が少なく、年譜といえるものさえない状態の霜川を知るには、彼の交友関係――例えば三木露風、石井漠、登張信一郎(竹風)など――をたんねんに追っていくほかないなと思い始めたばかりでしたので、若き霜川の生き方と重なるところのある藤沢清造については興味津々です。

*藤澤清造 1889(明22)10.28~1932(昭7)01.29


〔追記〕
 藤澤清造の生地の表記は、彼の生年月日が正しければ、訂正が必要ではないかと考えています。いずれ。
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# by kaguragawa | 2006-03-23 14:48 | Trackback | Comments(0)

06/13/2005〔訂正〕   

 2004/11/17「ある問いかけ(1)」 中の、
 “音羽通り脇のかつての野川を暗渠化した上に架された首都高速5号線”部分の河川名「野川」を「弦巻川」に訂正しました。
ずっと思い違いをしていました。
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20041117

 弦巻川〔ツルマキガワ〕は、源頼朝(義家とも)が弓の弦を清めて巻き直したという言い伝えによるとのことですが、その当否はともかく、こうした川の名前残したいものです。
 http://www.geocities.jp/pccwm336/sub19.html

 ちなみにこの音羽通り――今、音羽通りになっている目白台と小日向の間の窪地は、鼠ヶ谷と呼ばれていたようです――の両側を川が流れていました。西側(護国寺に向かって左側)を流れ下るのが弦巻川で、東側(右側)の流れは東青柳下水です。

 異土?のこととは言え、こうした暗渠化され生活から遠ざけられた川のこととなると他人事ではない我がかぐら川(神楽川)なのです。

 〔追記〕
 弦巻川;
 http://blog.livedoor.jp/tokyowater/archives/cat_1051490.html

 野川;
 http://homepage1.nifty.com/awc/awc-nogawa01.html
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# by kaguragawa | 2005-06-13 06:41 | Trackback | Comments(0)

06/12/2005〔おくのほそ道・春日部・楸邨〕   

2005/05/17に「「おくのほそ道」初泊の寺」の「追記」で、春日部に加藤楸邨が国語教師としての時代を過ごしていたことを大発見のように書きましたが、楸邨自身「奥の細道」と春日部、円空について書いた文章を残していました。(『奥の細道吟行』中の「そもそものはじめは 奥の細道とのかかわり」)
段々ものがわかってくると自分の無知がいっそう恥ずかしくなるのですが、しかたがありません。

楸邨の名文の蕪雑な要約紹介はさらにはずかしいので、加藤楸邨『奥の細道吟行』(平凡社ライブラリー/1993.5〔初刊は1974〕)をお読みいただければ幸いです。

講談社学術文庫に再録されていた楸邨『芭蕉の山河』にもこのあたりのことふれてあったのかも知れませんが、絶版のこの文庫なくしてしまって確かめようがありません。
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# by kaguragawa | 2005-06-12 07:42 | Trackback | Comments(0)

06/12/2005〔「菊の湯」と「菊水湯」〕   

昨日、“本妙寺境内地跡に銭湯があります。”(『古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩』からの情報)と書きましたが、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』を探し出して巻末の地図を見てみたところ、なんと「菊坂付近略図」(羽根田富士雄氏の回想図)に「赤心館」の細い道をはさんだ向かいに、たしかに「菊の湯」という浴場が書き込まれていました。

菊坂の銭湯と言えば菊坂の下道にある「菊水湯」が有名?ですが、内湯の無かった当時、こうした銭湯は数多くあったのでしょうね。(その創業者の多くが富山県や新潟県の出身者だと聞いたことがありますが、未確認です。〔追記:その7~8割が、石川・富山・新潟県出身者だとあるサイトにありました。〕)

『アルビレオ』第3号〔特集:賢治TOKIOを行く〕(1995.4)に福島泰樹さんの「鴬谷から菊坂へ~東京の賢治を歩く」という小紀行――氏の『宮沢賢治と東京宇宙』の前哨となったもの――が載っているのですが、そこに「菊水湯は80年前に建ったんですって。ならば賢治は当然、入浴している。一葉はどうだったのだろう。啄木はいかに・・・。」とありますが、残念ながら一葉はすでに世になく、啄木は「菊水湯」ではなく「菊の湯」を利用したでしょうね。

なお、『古地図・現代図で歩く』は、もっぱら「明治大正東京散歩」の方を利用していて「戦前昭和東京散歩」は見ることはほとんどなかったのですが、後者には「浴場」が、煙突の記号で書き込まれているということも大きな発見でした。

〔後期:1〕
本妙寺の境内の番地が82で、墓地が94と飛んでいますが、その間の番地は本妙寺門前にあった正立院とか雲妙院とかの子院に割り当てられています。
(明治20年刊行内務省地理局編「東京五千分一図」)

〔追記:2〕
済生学舎に関する記述を近藤富枝『本郷菊富士ホテル』の中でみつけました。“済生学舎は明治九年に開かれている。明治十七年以降医者になる道は、大学を卒業して無試験で資格を得るか、どこかの病院で長い間代診をして医学と臨床の研究をするか、済生学舎に通学して、ニ期の医術開業試験を受けるか、三つに一つの道を選ぶよりなかった。”
:医術開業試験と済生学舎
http://www.nms.ac.jp/nms/kaibou1/Ihistory.htm
http://www1.linkclub.or.jp/~yosihide/kuba-7
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# by kaguragawa | 2005-06-12 07:41 | Trackback | Comments(0)

06/11/2005〔『俳人はぎ女』〕   

・『俳人はぎ女』(福田俳句同好会(盛田成信)編/桂書房/2005.5)

1907〔明40〕からほぼ5年間に、高濱虚子・松根東洋城選の「国民俳句」(国民新聞の俳句欄)を中心に600句もの句作品が掲載されたにもかかわず忽然と消え、やがて夫の代作説までも出てその評価が逆に俳壇からの抹殺に近い状態になってしまっていた富山の女性俳人澤田はぎ女の、地元有志による復権の書。
・・・と言えば、かなりものものしいのですが、「一章 はぎ女句抄」にとられている五十句の新鮮な世界にふれるだけでも心が軽くなりました。
 
 吾夫を外へはやらじ月こよひ
 此君の妻で嬉しや桃の花
 乳張ってくるわりなさや更衣

 
 元旦や田に降る雪もはつはつし
 尾を振って鮒の機嫌や温む水
 叩いては買わぬ客のみ西瓜かな
 魚屋とあらがう家や暮れの秋
 地の底に釣瓶の音や冬ごもり

また本書には虚子、東洋城、句佛からの書簡も収められており〔三章 はぎ女への書簡〕、なかでも松根東洋城との書簡の交感の様子から当時北陸の一隅での家庭をもつ女性の句作、投稿がいかに地域から白眼視されたか、そのはぎ女の苦悶に東洋城がともに悩みながらの懇切な指導振りが伝わってきます。

“御子様寝つきの後句作遊ばし、二時三時にも御成りの事御勉強驚き入り候。聞くとも嬉しききわみには候得共、からだの為の又何よりは家の為の、いかゞと思ふに果して母君の御不興とや、私よりは今更勉強して下されと申す元気は無御座候。さるとて句を止めてたゞの家政のみにては尚更そんな残酷なことは云う勇気も無之候。母君の御叱りも無理ならず、君のなされ方も嬉しく。充分御察しはすれどどちらともさつぱり云へぬ私の心も御察し下され度候。”

 はぎといふ女に生れ星祭

この句を、萩の絵とともに裏表紙に装丁された本のつくりも美しいものです。

“地方においてのこういう本物に接すると、東京にいて中央、地方などという問題は軽くふっ飛んでしまう。”(沢木欣一『俳の風景から』中のはぎ女評)は、このような本の出版にもあてはまるのではないかと思えてきます。

*澤田はぎ女(はつい) 1890(M23).06.14~1982(S57).12.25
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# by kaguragawa | 2005-06-11 06:50 | Trackback | Comments(0)

06/09/2005〔菊坂町82番地「赤心館」〕   

安島様へ

《武蔵野文学散歩 石川啄木・赤心館へ/明治41年5月4日~9月6日》、さっそく拝見しました。
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/index.htm

数年前(2003.2)、この辺り(本郷菊坂)の坂を行ったり来たりしたことを思い出しました。
賢治と夢二の跡を追って菊坂の賢治の下宿跡や夢二が滞留していた菊富士ホテルの跡を探しましたが、夢二のいとしき人“しの”(笠井彦乃)が通っていた「女子美術学校」がここにあったことは現地に行ってはじめて知り驚いたものです。
(夢二が女子美術学校生であった彦乃(当時19歳)に出逢ったのは、大正3年、翌年に女子美術学校は、女子美術専門学校になっています。)

安島さんの報告によると、
“新潮日本文学アルバム(新潮社p66)ほか、赤心館の写真は見ることができますが、その具体的なありかはさっぱりです。番地で追えば、本郷区菊坂町82番地は現在の文京区本郷5-5-5にあたります。”とのことですが、
たしかに本妙寺の境内全部が82番地(広大な墓地は94番地)ですから、境内地にあった小さな?下宿の位置は特定するのは難しいかもしれませんね。

今手元にありませんが、中公文庫にはいっている近藤富枝さんの『本郷菊富士ホテル』には、周辺地図は載ってなかったでしょうか?。
私は、『古地図・現代図で歩く 明治大正東京散歩』(人文社)が使いよくてとても重宝していますが、この姉妹編の『古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩』を見ましたら、すでに本妙寺はありませんが、境内地跡に銭湯が一つあります。そんなこともヒントになるかもしれませんね。
(『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』(アイランズ編著/草思社)の現代図に「赤心館跡」として具体的にドットが打ってありますが、正確なものなのかどうかわかりません。)

〔追記〕
なお女子美術学校(現:女子美術大学)の変遷は、女子美のHPにくわしく載っていますね。女子美術学校が、弓町から移転してこの地に開学したのは、ちょうどこの頃(1909〔明42〕.07)ですね。
http://www.joshibi.ac.jp/main/aboutjoshibi/history.html
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# by kaguragawa | 2005-06-09 06:44 | Trackback | Comments(0)

06/08/2005〔たまにサッカー話題〕   

シュートは芸術である、とつくづく思います。

いつぞやの中村俊輔のシュートもそうでしたが――話題にしようと思いながら書き逃してしまいました、――きょうの北朝鮮戦の柳沢、大黒のシュートもそれぞれにすばらしいものでした。
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# by kaguragawa | 2005-06-08 06:37 | Trackback | Comments(0)

06/08/2005〔《漱石が歩いた東京》〕   

NHK教育テレビ「知るを楽しむ」で、《漱石が歩いた東京》が、半藤一利さんと落語家柳家花緑さんの案内で4回にわたって放送されるという。
自分のメモ用に、ここに書いておきます。

第1回 6/8 吾輩は落語好きである
第2回 6/15 猫は吾輩である
第3回 6/22 吾輩は食いしん坊である
第4回 6/29 吾輩はケチではない 
(水曜の午後10:25~10:50) 

自慢ではありませんが、漱石も鴎外もその代表作も読んでない私には、文学論的な部分はあまり興味はなくて、――ただしテキストを読むと、なかなか魅力的――町を訪ね歩くところが魅力なだけです。

といってもNHKの教養講座、今までもタイトルに惹かれて見ようと思ったことがありますが、寝転がって見ていて10分ほどのところでいつも熟睡状態に入り込んでしまうのが常でした。
おそらく今回も、テキストだけ読むことになるでしょうが。
(テキスト、写真もたくさんあって、けっこうおもしろい。)

ところで、
「サライ」(6月2日号/Vol.17-No.11)も、夏目漱石の特集でした。
北陸の人間にとって、金沢の森八の和菓子「長生殿」が紹介されていたのは驚きでした。

・ハーンの松江時代の愛弟子で漱石とも親交のあった大谷正信宛の手紙〔漱石の熊本時代/大正4(1915)7月14日〕に;
「今日は又金沢名産の長生殿一折御恵贈にあづかりましてありがたう存じます。あれは頗る上品な菓子で東京には御座いません、家族のものと風味致します」とあるそうです。
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# by kaguragawa | 2005-06-08 06:36 | Trackback | Comments(0)

06/07/2005〔Nさんに感謝〕   

旧友?のNさんにご紹介いただいたHPを読んでいたら、ついつい時間がたってしまいました。

硬質で真摯な思索は、私がとうの昔に亡くしてしまったものでした。
(もともと持ってなかったと言ったほうが正確ですが・・・。)

内容を紹介するより直接読んでいただいた方がいいのですが、
Nさんにも、むろんHPの書き手Oさんにも承諾を得られれば
いずれまた紹介するこちができると思います。

いつもおじゃましているNさんのHPも、リンク集にいれたいので、これは交渉してみましょう。

〔追記/2005.06.07〕
気が付かなかったのですが、きのう私のメモ帳の方に、N〔nyanon〕さんが書き込みをしてくださっていました。
nyanonさんのサイト「dilettante」は、http://www.geocities.jp/nyanon2002/です。
「diary」からは、大事なことをいくつも教えていただいています。
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# by kaguragawa | 2005-06-07 06:42 | Trackback | Comments(0)

06/06/2005:モーツァルトのRegina Coeli   

 久しぶりにモーツァルトの「モテット集」(クリストファー・ホグウッド指揮/エンシェント室内管弦楽団:ソプラノ/エマ・カークビー)を聞きました。

「躍れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」の名で邦訳されている「エクスルターテ・ユビラーテ」。この曲が苦手で、聞かずにしまってあったCDなのです。
が、2曲目のK.108の「レジーナ・チェリ」(Regina Coeli「天の元后(女王)」とも訳されますが聖母マリアのことです。)が、曲、演奏とも素晴らしい。
最初のイタリア旅行からザルツブルグに帰ったときのモーツァルト15歳の作品というからとんでもない話である。(1曲目収録の有名なモテット「躍れ・・・」は17歳の作品)

このRegina Coeliの第三楽章の部分のアダージョは、CDの解説に特別指摘はされていませんが、ペルゴレージのスターバト・マーテルをモーツァルトはかなり意識しているのではないかとも思わせる音の響きがします。イタリアでモーツァルトは、夭折した天才ペルゴレージの作品に出逢ったことは間違いないと思われます。

ところで、最近また脳にいい、身体にいい、という効能書きのモーツァルトCDがたくさん出ていますが、実際どうなのでしょう。
モーツァルトは苦手と言いながら、モーツァルトを聴く時間の多くなった昨今です(聴くのは特定の曲だけですが)。
老化した身体がモーツァルトを求めているのでしょうか。
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# by kaguragawa | 2005-06-06 06:38 | Trackback | Comments(0)