築地で、霜川「夕汐」を読む   

 3日、4日は東京でした。好い天気でしたので、4日には、木挽町、築地あたりを歩き回ってきました。築地精養軒跡地に建つ時事新報社ビルのスタバで鴎外の『普請中』を思い起こし、築地では佃渡しのあった辺りで霜川の「夕汐」――出掛ける前日にあわててコピーをとって持ってきたものですが――を読んだり、と優雅な?一日を過ごしました。一番のお目当ては、明石町。築地の外国人寄留地跡は、どうしても歩いてみたかったのです。
 
 あらためてゆっくり報告する機会もなさそうなので、ここには雑駁な印象だけを書いておきます。寄留地の跡地である現在の明石町は、不謹慎な言い方でお叱りを受けるのを覚悟して言うと、なんとそのかなりの部分をSt.Luke“聖路加”に占められているのです。河岸の天を摩する聖路加ガーデンの聖路加タワー(48階)と聖路加レジデンス(38階)の兄弟棟?など、真下からのぞき上げた心地といったら(32階には連絡ブリッジがある!)、――一昨年、対岸の佃島からは遠望してはいたのですが――どぎもをぬかれました。

 私の築地への関心は、津田仙の「築地ホテル」に始まり、「築地バンド」(これは太田愛人さんの命名だったでしょうか)を経て、ちょうどその頃偶然読み返した霜川の作品「夕汐」が「築地居留地」を舞台にしていたことにあらためて気づき、ちょっと衝撃を受けて、今に至っています。
 三島霜川の「夕汐」(明治33年)は、アメリカ人商人と日本人女性との間に生れた混血児少年と佃島の少女との淡い想いが冒頭に描かれていますが、膚も髪も眼も色の異なる「異種」の子であり、父親がアメリカに帰国したままの孤児であり、さらに吃音障害を持っている少年の三重の苦衷を理解するすべを、彼が思いを寄せる少女も母親さえも、持つことは不可能であったろうと思われるそうした少年を、霜川は、居留地を背景の作品に巧みに取りこんでいます。
 その少年と少女〔麗三郎とお崎〕がはたらく《開明社活版所》は、平野富二の「築地活版製造所」をモデルにしていると思われ――コンワビルの「活字発祥の地」の碑も見てきました――、このネーミングにも若き霜川の目が、「開明」の裏表を射ぬく異様なトゲをもったものであるところも、私には新たな発見なのでした。

 霜川の「夕汐」と築地――築地と佃島、そしてその渡し、居留地と居留地を取り囲む日本人居住区の格差、鉄砲洲川と見富橋、当時すでにドブと化していた築地川(ただし霜川はそこに潮の満ち干きを書きこんでいる)など――のことは、折を見て作品の註として書きたいと、思いますが・・・いずれ。

〔追記〕この日の逍遥?のスタートは、加藤時次郎の「平民病院跡地」であったこと、締めくくりは、小林多喜二が息を引き取った築地警察署裏の「前田病院の地」(現在も前田病院は引き継がれています)であったことを、付記しておきます。 
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# by kaguragawa | 2015-11-07 18:38 | Trackback | Comments(4)

別格官幣社   

 堀田善衞『19階日本横丁』を読んでいて、次のところで、《おっ!》、と思い、続けて《おやっ?》と思った。

 「ベテランのステュワーデスってなかなか足らないのよ。だいたいが二、三年でやめて行ってしまうでしょう。それに、コックピット(操縦室)の男性クルーとの関係も、なかなか微妙なものなのよ。クルーはね、無理は無いれけど、自分たちは機内サーヴィスの連中とは別世界の人間だと思ってるでしょう」
「ふうん。別格官幣大社か」
「そんなことを言うと、お年が知れてよ、ハッハッハ」


 1)
 久しぶりに、“べっかくかんぺい・・しゃ”にふれて――何十年この言葉を耳にしたことはなかった!――、まず、なつかしさがじわじわとやってきたのである。これが《おっ!》の中身である。そもそも、若い世代?に属する私がどうしてこの表現の場を、知っているのだろうか、自分でも不思議に思えてきたのである。で、幼い頃の記憶をさぐるというわが身の穿鑿にまで想いは及んで、いったのである。
 この「特別の、別格の」ということをいう場合の地口としての「別格官幣・・・」という表現は、いつ頃まで使われたものだろうか。こんな表現(地口)が口に出る世代、そうした表現をそうなんだ、と理解できる世代、というものは、本文に「そんなことを言うと、お年が知れてよ」と、あるようにかなり年齢の上の世代であろう。戦後世代の私が知っているのには、この表現が実際に使われ、耳に残る印象的な体験があったからなのだが、その具体的な現場というものを、手繰り出してみたかったのである。

2)
 もう一つ、こんどは《おやっ?》についてである。なにが問題か?。堀田さんが書かれた“別格官幣「大社」”である。
 私が奇しくも覚えていた地口は、「べっかく・かんぺいしゃ」である。「べっかく・かんぺいたいしゃ」ではない。「別格官幣大社」か「別格官幣社」か――。違いは、「別格/官幣」に続く部分が『大社』なのか『社』なのかである。「別格」に続くのなら「大社」の方が、格が上で、ことばの遊びとしてはその方がおもしろい、とも思えるのであるが、明治からGHQのいわゆる神道指令による廃止まであったこの「社格制度」については、ここは詳細な説明の場ではないが、神祇官が祀る「官幣社」に官幣大社、官幣中社、官幣小社の3種が、地方官が祀る「国幣社」に国幣大社、国幣中社、国幣小社の3種があるが、ほかに別格の官幣社が(つまり語順を換えれば官幣別格社)があるのであって、「別格官幣大社」だけでなく、別格国幣大社も、別格官幣中社もなにもないのである。

 私が幼い頃に耳にし、今まで覚えていた地口「べっかく・かんぺいしゃ」の意味合いについて、こんなことをもちろん幼少のみぎりから知っていたわけではなく、30年ほど前に「神楽川」の流域史を掘り起こしをしようとして越中の寺社史を一所懸命に勉強?した折の、余得である。そのときは、越中の国には一社も存在しない「別格官幣社」のことはすっかり忘れていたのですが・・・。

3)
 別格官幣社のなかでも別格の「靖国神社」、というよりも「別格官幣社」という言葉が世に知られるようになった原因はこの神社だと思われる「靖国神社」についての、おしゃべりを堀田善衞をだしにしてしようと思ったのですが、充分にしゃべり過ぎました。この辺で・・・。
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# by kaguragawa | 2015-10-31 20:11 | Trackback | Comments(2)

グリフィス記念館!   

 福井市に「福井市グリフィス記念館」が今月の10日に開館していたことを今日知りました。
   福井県福井市中央3丁目5番4号 ・・・足羽川沿いのようだ。
 http://www.fukui-rekimachi.jp/griffis/index.html

 来月(11月)の29日(日)に牧野陽子氏、山下英一氏の講演会もあるようだ。
 残念ながらこの日は行けない・・・。
 http://www.fukui-rekimachi.jp/d_evn027.html


 忘れないうちに、メモ!。
 色川大吉さんの『五日市憲法とその起草者たち』(日本経済評論社)
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# by kaguragawa | 2015-10-31 19:27 | Trackback | Comments(0)

新庄の赤門   

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 本命は左側のレンガ造の水門。歴史を感じさせる赤煉瓦水門だが、1900(明治33)年造の現役!である。
 常願寺川上流の上滝地区で取水した常西合口用水の末端に設置された排砂水門(富山市新庄地区)。通称:新庄の赤門。敷地内(常盤台公園)に立派な?説明板があるが、築造年月が記載されていない。仕様や運用の詳細について知りたい。
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# by kaguragawa | 2015-10-28 19:58 | Trackback | Comments(2)

秋聲「焚火」の火種(2)   

 徳田秋聲「焚火」(1907)、それに先行する三島霜川「霜のあかつき」(1903)――。冬至期の夜明けの“銃猟”にからめた話だということ、話の後半に焚火をする少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との会話を中心とした印象的なシーンが展開されること、これが両作の共通点です。これだけの紹介では、この両作の「類似」が、単に同じ構成要素をもつだけなのか、話の展開もふくめ同一作に近いものなのか、判断ができかねると思いますが、何箇所にもわたり同一の表現や文章群があることから、「〈外形的には〉、話題も話の展開も同一作に〈近いもの〉」と言い切って、先に進みたいと思います。
(このように、両作の話柄の共通点だけを前置きしておいて、話を始めるのは、乱暴であり、なにより私にとっても不都合なのですが、両作品をまるごとここに提示することが時間のつごうなどでできかねるので、そこはお許しいただいて、とりあえずは――できるだけ、行論中に原文の引用を多くいれ、むしろ相違点を浮き立たせることにも留意して――論を進めていくこととします。)

 もう一つ、断り書きをしておきたいのは、こういうことです。論文という体裁でもなく、こういうエッセイ的なものでは、論点や主張点をわかりやすく提示することが難しいと思われるので、要点の一つだけ、切り離して、先に書いておきたいのです。
 ここで考えてみたいと思っていることのねらい(というより「願い」?)の一つは、霜川の作品を改稿したものが、――霜川の名ではなく――秋声の作品として世に出ているという事態の裏側にあるもの、抽象的に言えば、「霜川・秋聲、二人の〈作品を介在させた〉関係性」を、《徳田秋声「焚火」》を素材に考えてみたいということです。実は、この二人の間には、一回完結の単純な代作関係だけではなく、「焚火」に見られるような〈相互的かつ複層的な作品形成〉がほかにもあるのです。といっても、こんな考察?がうまくできて、「新たな視角」といったものが、提示できれば、文学部の卒業論文くらいにはなるのでしょうから、単なる霜川の年譜作成者である私には荷が重い課題ですが。この稿の、潜在的な問題意識として、書き留めておきます。

 脱線めいた行論をもとに戻します。なにより、秋声「焚火」の読み解きをめざすこのエッセイ?では、作品の後半に設定された少年と銃猟者(鳥撃ちハンター)との間の会話、そこにはらまれている「〔叛〕時代的な問題」を、霜川と秋聲に即して、うまく伝えたいと思っているのです。
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# by kaguragawa | 2015-10-27 20:02 | Trackback | Comments(0)

秋聲「焚火」の火種―《注》   

・〔秋聲「焚火」の火種(1)〕の注

 発表順としては、霜川に「銃猟」に先だって「曙光」という先駆作があることをすっかり忘れていまして、前項(1)を補訂しました。正直に言うと、きちんと照合する労を惜しんでいまして、あらためて気づいた次第です。
 順を追うと、「曙光」には、ペスという猟犬が登場しますが、「銃猟」には猟犬は登場せず、「霜のあかつき」には猟犬ジャックがでてきます。この猟犬ジャックは、秋聲「焚火」にも登場します。

 さらに、話は繁雑になりますが、明治35年8月の「太平洋」に掲載されている「朝の平和」には、“あか(赤犬)”と呼ばれる西洋種の犬が登場します。 しかも、この「朝の平和」に犬が登場する部分は、「曙光」の一部を転用しているのですが、作品の構成からすると、「曙光」→「朝の平和」→「銃猟」という系列があるとまでは言えないようなので、「朝の平和」は系列作順から除外しました。

 *「朝の平和」は、Yさんからコピーを頂戴したもの(既往の作品年譜に未掲載のもの)。「太平洋」明治35年8月4日号に(一)、「太平洋」明治35年8月11日号に(二)が掲載されている。続稿があるようだが――霜川おなじみの末尾の(をはり)の三文字も、(二)の末にはまだ見えない――、私の無精さゆえ、まだ原紙にあたっていないので不明。
(参照) http://kaguragawa.exblog.jp/21742594/


〔追記〕
 関連のブログ記事に、「銃猟」の名前のtagを付けることとしました。
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# by kaguragawa | 2015-10-24 15:55 | Trackback | Comments(0)

秋聲「焚火」の火種(1)   

 『徳田秋聲全集』(八木書店版)の第6巻に、「焚火」という短編が収録されている。この作品を私は読んでいなかったのですが、kamei asamiさんが、先日(10/2)、自身のtwitterで、次のように書いておられるのを目にしました。

 徳田秋聲『焚火』(「趣味」明治40年1月)は、早くから翻案または三島霜川の代作と噂されていて、「中央公論」同年2月時評では〈「焚火」はツルゲネフの「猟人日記」の中に入れても恥かしくない作だ。若し噂の如く三島霜川の作とすれば、霜川の文才詩情なかなか驚くべきものだ。〉と指摘されていま〔す。〕

 秋聲の名で発表された作品「焚火」が霜川の作だといううわさが、発表直後に出ていていたというのである。それに加え、私にとって愉快でありまた不思議でもあったのが、その論評子が「とすれば、霜川の文才詩情なかなか驚くべきもの」と述べているくだりでした。霜川を見直したといわんばかりの口吻は、名前は知られているものの作品が読まれていない三島霜川という作家の状況が、今も100年前も同じであることをでした。と言っても、この不勉強?な論評子とは違い、久保田万太郎などは、「中学時代に霜川氏の小品「スケッチ」を愛読し、それから文学的に学んだことの多い」ことを語っていたというから、見るべき人は見ていたのだなと思うのですが。

 前段というか余談が長くなってしまいました。霜川の作といううわさのあった秋聲の「焚火」という短篇を、――未読であったこの作品のコピーを入手できたので――、ここで少しずつ、読み解いて?みたいと思うのです。
 その際、議論の“つま”に霜川の「霜のあかつき」という作品も取り上げます。
 結論を先取りしながら敷衍すれば、霜川の「霜のあかつき」(明治36年11月「婦人界」/金港堂)と秋聲の「焚火」(明治40年1月「趣味」/彩雲閣)とは、内容に即していえば、《後者が前者の改稿作》の関係にあるからです。つまり、三島霜川「霜のあかつき」の改稿作が、徳田秋聲の「焚火」という作品として世に出ているという、関係になっているのです。
(追記:「霜のあかつき」に更に、「銃猟」←「曙光」という霜川の先駆作があることも、先に、一言しておきます。)

 *「曙光」 明治35年1月「半面」掲載/半面発行所
 *「銃猟」 (小品集)『スケッチ』(明治37年1月/新聲社)所収

 続きは、来週の予定?です。
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# by kaguragawa | 2015-10-21 21:49 | Trackback | Comments(0)

竹内てるよの祖父竹内四郎   

tosukinaさま

 先日来、竹内てるよの名前を意外なところで見つけ、こっそり?調べていましたら、世田谷赤堤の渓文社時代の竹内てるよについて紹介されているページを見つけました。いろいろ確認しましたらこのページの書き手がtosukinaさんであることが判明!。お聞きしたいことが“山ほど”出てきました。

 今、わたしの方で言えることは、竹内てるよ(照代)の祖父・竹内四郎とは当時の富山県上新川郡新庄町(現:富山市)の旧家竹内家――江戸時代には、加賀藩奥山廻役の役職を担った――の二男(四男とも)であるらしいこと。祖母が同じく新庄町の浄土真宗・亀谷山正願寺の娘〔第16世住職の長女〕であることです。

 今、いくつかのことを確認中です。お暇な折に(この記事を見つけられましたら)、ご連絡くだされば幸いです。
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# by kaguragawa | 2015-10-17 19:52 | Trackback | Comments(3)

千寿ケ原の紅葉   

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 立山山麓千寿ケ原(標高470m)/10.15
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# by kaguragawa | 2015-10-17 19:00 | Trackback | Comments(0)

立山に初冠雪   

 きのう夕方の風が異様に冷たく、いつもと違うな、と思っていたら、立山はきのうからみぞれで、今日「初冠雪」を観測したという。
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# by kaguragawa | 2015-10-12 21:17 | Trackback | Comments(0)

鴨居玲展「踊り候え」   

 鴨居玲展「踊り候え」〔石川県立美術館〕。

 会期末が明日13日だと勘違いしていて、慌てて行ったのですが、会期は25日(日)まででした。

 鴨居悠への関心から、鴨居玲のことを知ったのですが(こんな風に言うと、美術ファンの方から笑われそうですが)、帰宅して何時間も経った今頃になってあの暗い世界が聲のないメッセージとなって蘇えってきます。

 『閑吟集』のことも気になってきました・・・。
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# by kaguragawa | 2015-10-11 19:00 | Trackback | Comments(0)

いくつかの古い小さな消息   

その一
 Fさんへ。冨永徳磨の墓所を知らないかとのお尋ねですが、手元にある富永徳磨『キリスト教の精神――日本と世界』(富永徳磨昇天40年記念出版委員会/新教出版社/1970)の「略歴/昭和5年(1930)」の項には、“雑司ヶ谷墓地に埋葬す”とあります。この〔雑司ヶ谷墓地〕――1935年には「雑司ヶ谷霊園」と改称――には足を運んだことが無く、どこにどのような形で氏がおやすみなのか、見当もつきません。もし行かれることがあれば、教えてください。

その二
 ところで、資料を整理していたらコピーした古い新聞が出てきました(『北陸タイムス』大正三年六月七日)。その「小消息」欄に“尾島千代子(菊子令妹)菊子結婚と前後して同じく洋画小川治平さんと結婚”とあります。

その三
 上記と同じ紙面に「花畑より」と題した兄に寄せた書簡の形でのエッセイが載っている。書き手は「在早稲田 赤壁徳三郎」となっている。とすれば、その兄とは・・・徳彦氏?。

追記
 Y先生がお持ちの藻谷銀河の歌集『仙人掌』には「徳三郎兄へ」の献辞がある。おそらくこの〔徳三郎〕とは、上記の赤壁徳三郎のことだろうと推測されるのだが、赤壁家の系譜が詳細にわからないので残念ながら、銀河と徳三郎の関係がよくわからない。実の従兄弟ではないかと思われるのだが・・・。
 もう一つ。成田龍一『大正デモクラシー』(岩波新書/2007)に「赤壁夕潮」の名が登場する。この夕潮さんの関係もよくわからない。ご存じの方は、お教えくださりたい。

 尾島千代子(尾島(小寺)菊子の妹)が結婚した〔小川治平〕とは、北沢楽天の弟子?の小川治平(1997~1925)のことだと思うのですが確信が持てません。これも、ご存じの方は、教えてください。


追記〔2016.11.20〕
 上の「その一」に記した冨永徳磨の墓所=“雑司ヶ谷墓地”の件ですが、その場所については《一号一四側一七番》という記載を、『冨永徳磨先生記念文集』(冨永徳磨先生記念文集編集委員会(代表:湯浅与三/昭和30年)に見つけました。雑司ヶ谷霊園には行ったことが無いので、この60年ほど前の表記が手掛かりになるのかどうか分かりませんが、報告しておきます。
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# by kaguragawa | 2015-10-11 16:45 | Trackback | Comments(0)

賢治が訪れた木挽町「古宇田医院」   

 銀座木挽町にあったいくつかの古い病院のことを調べていて、久しぶりに「古宇田医院」の名前をみつけ、懐かしく思っていたところに、大村智さんのノーベル賞受賞で北里柴三郎のことも思い出し、この機会にあらためて確認できた「古宇田医院」のことを書いておくこととしました。

 「古宇田医院」の名前がなんで私にとって懐かしい名前なのか。それは、私が宮澤賢治のファンとして賢治の東京での行動を調べていた30年くらいも前のことに関わっているからです。その頃、一つの論文に出会いました。奥田弘さんの「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41))です。賢治ファンの方ならご存知の方が多いと思います。賢治の上京の足跡を、東京のここかしこにたどった、というより「発見」した、今読み返してもワクワクする論文です。この論文のコピーを手にして何度も東京の街々を歩いたことはほんとに懐かしい思い出なのです。そして、その論文に登場する一つの場所が「古宇田病院(医院)」なのです。

 この「古宇田医院」には、賢治の叔母(母イチの末妹)・瀬川コトさんが入院していて、賢治が上京したさいに当時の木挽町にあったこの病院を何度か訪れているのです。
 この奥田さんの論文には、かなり詳細に「古宇田医院」のことが書かれてあって、私が今回偶然出会ったいくつかの資料からもほとんどつけ加えることはありません。で、奥田さんの論文の該当箇所を書き写しておきます。ただし、古宇田傚太郎氏の「傚」が「倣」と誤植されているので、そこだけを直しました。

 病院長、古宇田傚太郎は、茨城県の出身で、明治十六年三月に生れ、昭和三三年六月、同病院にある自宅で死亡した。古宇田傚太郎は、一高を経て、明治四一年東京帝国大学を卒業し伝染病研究所に入り、大正三年、現在地に古宇田傚太郎病院を開業した。
その後、震災、戦災にあったが、よく再建して隆盛をきわめるようになった。昭和三三年死亡後は、同病院は、他の医学協会の使用に提供するようになって、古宇田家から離れるようになった。今、木挽町の名も消え、高層ビルが立つようになってしまった。


 次に紹介するのが、昭和15年度版の医師名簿『日本医籍録』(医事時論社/1941)の記述です。
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 古宇田傚太郎(医博) 木挽町六丁目二
 皮膚科 古宇田医院 明治十六年三月廿二日生茨城県出身 明治四十二年東大医科卒業 卒業後伝染病研究所及母校皮膚科教室ニ於テ研究 大正三年一月現地開業 同十三年四月学位受領 趣味読書


 ここに書かれている、古宇田傚太郎が大学〔東京帝国大学医科大学〕を卒業後在籍した「伝染病研究所」が、北里柴三郎が福沢諭吉や森村市左衛門らの援助を受けて創設したものなのです。ただ、古宇田傚太郎が、北里柴三郎のもと血清学の研究などに勤しんでいた明治末頃は、私立とはいえ内務省管轄の格の高い研究所(芝区白金台)となっていたはずです。

 奥田さんの論文に付されている古宇田病院の写真を、上に複写しておきましたが、立派な病院です。おそらく竣工時に近い時期に撮影されたものと思いますが、そこに記された「京橋区木挽町五丁目三番地」は、上記の1941年の医師名簿の「木挽町六丁目二」と異なりますが、それは移転したのでなく、この辺りの町域・町名が震災復興や開発で〔六丁目〕に変更されたことによるものであることを付記しておきます。現在の、銀座6丁目の昭和通りに面した地〔銀座6丁目14番6号辺り〕に当たります。
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# by kaguragawa | 2015-10-06 19:54 | Trackback | Comments(0)

Jさんへの返信   

 ご指摘の通り、9月には一つしか記事を書かなかったのですが、これは、第一にはパソコンの不調が根本的な原因、第二に或る私事が心詰まりでどうも意欲が向いてこなかった?こと、第三に徳田秋聲の或る自筆原稿を見つけたせいですっかりそれに心奪われていたこと、第四に、第五に・・・といくつもあるのですが、第一、第二については事情は変わっていません。

 が、事態に目をそらさずに、少し、がんばりたいと思っています。

 安保法制の諸法文にも目を通していきたいと考えています。
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# by kaguragawa | 2015-10-04 20:03 | Trackback | Comments(0)

渡瀬ドクトルこと〔亘理祐次郎〕   

 『死に親しむ』を中心にいくつかの秋聲作品に、愛すべき人物として登場する“渡瀬ドクトル”は、《亘理 祐次郎》――わたり・ゆうじろう――と見て良いのではなかろうか。

 ずっと気になっていた一事だが、連休の最終日に当時の医師名簿を中心に、少し気合を入れて?調べてみた。

 『帝国医鑑. 第1編』(河野二郎 編/明43.5/旭興信所)に次のような記載がある。

 宮城県平民 亘理祐次郎   本郷区森川町一 電話下谷七二八

 君は明治五年十一月二日出生にて遠田郡涌谷町立町は其原籍なり
 明治三十二年九月弐拾九日附医術開業試験に合格して免状を受け現所宮前一三六号に開業


 web上で閲覧できるいくつかの名簿をのぞいてみると異同がいくつか――例えば、生年月日が同年同月の〔十二月二日〕になっているものなど――がある。いやいや、名前が祐太郎だったり祐二郎だったりするので、安心して確定的なことは言えないのですが、〔祐次郎〕が頻度として多く、ここでは〔亘理祐次郎〕としておくこととします。

 『死に親しむ』には、“同じくらいの年配のダンス仲間”という渡瀬ドクトルの紹介があり、秋声の明治4年、亘理医師の明治5年という一年違いの生年からしても状況が合いますし、住所が森川町1番地(宮前136号)というのも、“物の一町と隔たっていないドクトルの家”の記述を、1町=約110mとすれば、ほぼ合致します。

 ちなみに、町のほぼ全域が《1番地》だった「森川町」には、北表通、北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の地区があったとのこと(――秋声の家は「南堺」で、かつての映世神社の前が「宮前」)。その地区ごとに付された区画番号を網羅的に記載した地図にまだお目にかかっていないので、亘理医院の《森川町1番地(宮前136号)》がどこなのか、「点」として確認できないのが残念なのですが・・・。
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# by kaguragawa | 2015-09-24 19:28 | Trackback | Comments(3)

姪によせる「挽歌」   

 藻谷銀河(六郎)の歌集『仙人掌』には彼の姪〔綾子〕と甥〔小一郎〕が登場する。この姪と甥は六郎の兄の子等であるが、この子らの父である兄の早い死は六郎をしてこの姪甥に特別の愛情をいだかせるようになったようである。六郎みずからが一歳のときに父を失い、父の顔を知らずに成長するという経験をもっていたいたからであろう。
 その愛しい姪の若き死に、六郎は「挽歌」という歌群をあててその死を悼んでいる。

 「挽歌」のうちのいくつかを紹介する。

 わがままになやまされ来しわれながらやはか死なさじひとりの姪を

 ひたごころ凝りては堅き巌だにつらぬく征矢の癒やさではやまじ

 いにしへゆ言ひならはする手弱女の十九の厄に逝きし子ろはも

 病院ゆむくろになりてもどる子を迎ふる部屋をきよめけるかも

 ぬけがらを怖ぢし綾子よ今よ亡し涙をさそふ蝉のぬけがら



  姪・綾子の死は、大正十一年の夏、大学生であった六郎の帰省中、八月二十一日のことであった。
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# by kaguragawa | 2015-08-21 22:33 | Trackback | Comments(0)

初代の富山県「県会議事堂」   

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 初代の富山県「県会議事堂」(1887〔明治20〕年)。瀧大吉の設計によるという。


〔追記〕 以下は、6年前に(2009年5月25日)に、「幻の「滝の作品」を富山の街に探す」という題で、前のブログに書いたものの再録です。ここに書いている県会議事堂の「パース」についても、いずれ紹介したいと思います。

 一枚の素朴な筆致のパースに出会って釘づけになりました。古いものですが、なぜか不思議な魅力をもっているのです。

 “最初の県会議事堂 明治20年に県庁前に堀を隔てて建てられた”という説明がついています。『富山県のあゆみ』、――富山県の置県90年を記念してつくられたビジュアル県小史というべきもの――もしかしてこれに、写真が載っているのではと、淡い期待をもって開いてみたらば、写真ではなくパースがありました。富山県最初の県会議事堂の正面図です。

 滝廉太郎が幼少期に富山で1年半ほど暮らしたということで、後年の名作「荒城の月」は富山城址をモデルに作曲したもの、「お正月」や「雪やこんこん」は富山の冬が反映した作品、――という主張が近年よく見られます。そうした議論もいいのですが、滝の作品が間違いなくこの富山に存在していた事実をもっと掘り下げてみたいと思っています。ただしここにいう「滝の作品」とは、廉太郎の楽曲ではありません。廉太郎の年長の従兄弟、建築家の滝大吉の作品です。
 初代・〔富山県〕県会議事堂と上新川郡会議事堂が、滝大吉の設計作品だという驚くべき事実をさりげなく教えてくれたのが松本正さんの『滝廉太郎』でした。廉太郎同様(廉太郎以上にか)強い関心をもっている滝大吉の設計した建築物が富山にあったなどとは想定だにしていなかったのですから、この事実にはわくわくしました。“明治時代の県会議事堂の写真なら探せば見つかるかも”と思い、最初に手に取った本のページを、――多少というか、かなりというか、期待しつつ――繰ったら、写真ではなくパースが出てきた、というわけです。
 ただし廉太郎は有名でも、無名の滝大吉は県内の歴史家にとっては興味の対象外だったのでしょう。議事堂のパースには設計者の名前は記されていません。しかし廉太郎以上に、大吉は富山県にとって直接に有縁の人物だったのです。

 この県会議事堂と上新川郡会議事堂があったであろう場所を、旧地図と見比べてほぼ特定し、きょうその地に「パースに描かれた幻の建物を」訪ねてみました。あきらめていた「郡会議事堂」の場所探しも、「郡」とは何だったのかという問いと並行してほぼ「解」をみつけることができましたが、その報告――地図散策と小さな街歩き――は、また後日に。

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# by kaguragawa | 2015-08-17 22:31 | Trackback | Comments(0)

青あらし   

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 命日(8月9日)に少し遅れてしまいましたが、銀河の書を紹介します。(ちょっと上が欠けてしまいました・・・。)
 藻谷六郎(銀河)が寄贈本の自選歌集『仙人掌』の扉うらに書いた歌。

 なお、歌集『仙人掌』に収められているのは次のような漢字遣いのものです。

 青嵐ふくや越前永平寺 汗ばむ帽子ぬぎて登るも

  
〔追記:2014.08.17〕
 ずっと気になっていたことがありました。この「青あらし」の歌が、『富山県文学事典』(1992)の「藻谷銀河」項にも写真版で載っているのですが、『事典』掲載のものと上の写真のものと、字体、筆勢ともによく似ているのです。そこで、今日、あらためて見比べてみましたが、似ているのではなく、各文字の大きさも位置関係も同一のものです。・・・ということは、私が古書店で購入した『仙人掌』は、『富山県文学事典』掲載の写真の出所の『仙人掌』と同じものだ、ということのようです。
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# by kaguragawa | 2015-08-13 20:30 | Trackback | Comments(0)

「蟻」「蜂」「蜘蛛」の学問〔2004.1.12稿の再録〕   

 学 問 の 仕 方

(一)あっちこっち方々から知識を集めてきて貯える
(蟻の学問)

(二)朝に道を聞いて夕べにこれを説く
(蜂の学問)

(三)たくさんのきたならしい虫を食べてこれらを自らの体内を通して消化し美しい銀の糸として吐き出す
(蜘蛛の学問)

━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 郷土史の大先達のT氏のところにお寄りしたらば、氏の師であったというH先生が遺されたという学問の心得のようなものが、表装されて額に納められていました。「知躬」と大書されたあとに、味のある手書きで列記されて、「蟻」「蜂」「蜘蛛」と並んでいます。
気に入ったので、筆写してきました。この内容、生物学の先生であったというH先生のオリジナルのものではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

〔追記〕
 野暮な蛇足ですが…
アカデミズムの外にあって独自の蓄積を残している日本の「民間学」の豊かさが、こういった心持ちに支えられていると思うと、うれしくもちょっと厳粛な気持ちになります。
せいぜい、せっせと「蟻」の真似でもできればと思います。

〔追記;2015.08.09〕
 10年も前に書いたものを引っぱりだしてきて再録しました。文中のH先生と言うのは、林夫門氏のこと。昨日の藤田冨士夫先生の講演に、その名が出てきたので、古い記事を探し出しました。
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# by kaguragawa | 2015-08-09 22:08 | Trackback | Comments(0)

「人・モノ・コト」の奇跡的な出会い   

 日本海文化悠学会の仙石さんに教えてもらって藤田冨士夫先生の講演会「呉羽山丘陵の古墳調査のころ――人・モノ・コトを振り返る――」を聞きにいきました。
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 なかでも医科薬科大学建設予定地での「杉谷4号墳」の発見から「日本海文化を考える富山シンポジウム」にいたる話は圧巻で、この古墳の発見者ご本人が語られる四隅突出型方墳めぐる多くの「人・モノ・コト」の奇跡的な出会いのエピソードは感動的でした。

 写真の黒板に書かれているのが、ヒトデ型の四隅突出型方墳の図。
出雲固有といわれていたこの古墳の遠く隔たった越の国での発見は、日本海をめぐる古代のイメージを変え、神話の見直しをふくむ豊かな古代学を育んでいくことにつながった。

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# by kaguragawa | 2015-08-08 15:24 | Trackback | Comments(0)