越の春~地魚と地酒を堪能   

 けやきの芽吹きが見られ、ハナミズキも花芽が少しほころんできました。
 私には、サクラ前線がどうのこうのということより、心動かされる季節の移ろいです。

 きょうは、友人の誘いで富山湾のキトキトの魚(地魚)と地酒(「成政」と「北洋」)を、決してきれいとは言えないお店で、ゆっくり堪能。
 ここ一か月の追いかけられるような仕事のプレッシャーからしばし解放され、一度風邪で失った声ももどってきて、くつろぎのひとときを過ごしました。


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# by kaguragawa | 2016-04-06 22:24 | Trackback | Comments(0)

春の彼岸といわれれば・・・   

 春分の日といわれてもピンとこないが、春の彼岸といわれれば少し体感的にわかるものがある。

 が、残念なことに、季節のうつろいを味わうどころか、ゆっくり本を読む時間も、いろんな資料を調べる時間も、思索についやす余裕もないこの頃で、よって発見の驚きにも喜びにもひたることのできない日々が続いています。

 長いこと、――引き続きのパソコンの不調も理由の一つですが――このブログにも記事のないこと、そんなわけです。おそらく復帰は5月ごろか・・・と思います。

 そうそう、明日(3月21日)から高志の国文学館で企画展「夢二の旅――たまき・翁久允とのゆかりについて」がはじまる。その3月21日は、岸たまきの兄で、夢二とも縁の深かった岸他丑の歿後60年の命日になる。そうしたことも、心にとめながら春の一日を過ごしたい。
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# by kaguragawa | 2016-03-20 22:50 | Trackback | Comments(2)

ある日本女子大生と井上秀のこと   

 先週の土曜日、NHKの朝番組「あさが来た」を出掛けに見ていると、自分のことを「僕」という若い女性がでてきた。あさの娘千代の女学校の学友のようだ。切れ切れに見ているのでストーリーがのみこめてないが、この女性、のちに日本女子大学の第4代校長になった“井上秀”がモデルなのであろう。

 この井上秀のことを以前しらべたことがあり、あっそういえばと、当時調べたときの秀さんの古い顔写真も思い浮かんできた。ある人から次のような話を聞いたのがきっかけで、井上秀のことを少し調べたのである。

 「父親が亡くなったとき、当時在学していた日本女子大学の校長が葬儀に列席してくださった。」
 話し手は、三島霜川(本名:三島才二)の娘さん。霜川の娘さんは長女も次女も日本女子大学に通っていて、次女の実枝さんが在学中に、父・霜川が亡くなり――それは、1934(昭9)年3月のこと――当時の校長さんも葬儀に参列されていたというのだ。
 そのお話を聞いたちょうどその頃、偶然、児童文学者の岡上鈴江さんが亡くなられた直後で、岡上さんがやはり日本女子大学卒との紹介を目にし、何か胸が騒いだ。なぜ岡上鈴江さんのことを存じ上げていたかと言えば、岡上さんが隣県・新潟県の作家・小川未明の次女だったからである。岡上さんが亡くなられたのが、2011年の1月。97歳だとの新聞記事に、よもやと思い、未明の年譜をひっぱりだしてみたところ、次女の鈴江さんは1913年5月のお生まれだという。息子さん経由で実枝さんにあらためてお尋ねしたところ、実枝さんと鈴江さんとは同学年、同学科(英文学科)だったというのだ。

 よりによって霜川・未明という北国出身の作家の次女同士が同じ大学の同期で同じ学科に学んでいたとは・・・そうした当時の驚きも、同時に調べた校長・井上秀の名前とともに、思い出した次第。。。

 霜川次女の実枝さんも、昨年10月に102歳の天寿をまっとうして亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。


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# by kaguragawa | 2016-02-29 22:56 | Trackback | Comments(0)

啄木はある夜、秋聲を訪ねた   

 以前にも啄木の日記は拾い読みをしたことがあるのですが、先日、ある発表?の参考に少しまとめ読みをしました。
 結局は拾い読み程度の読みになってしまいましたが、いくつかおもしろい箇所を発見しました。その中で、「えっ!」と思ったのは、啄木が徳田秋聲を訪ねていることです。1909年3月13日の項。

 「夜、近所の徳田秋声氏を訪うたが不在、ミルクを飲んで帰って、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があった。」

 当時啄木が下宿していた蓋平館から秋聲の家までは、同じ「森川町一番地」の目と鼻の先。といっても距離は近くとも、細い道を二度ほど道を曲がらなければならないのですが・・・。
 (個人的なことで恐縮ですが、私が徳田秋聲遺宅を始めて訪ねたのも、もと蓋平館跡地に建つ太栄館から細い路地を地図を見ながらのことで、啄木と同じ道程。鮮明にその道筋の情景を覚えています。)

 結局、啄木と秋声は、その後、会う機会はなかった(ということでいいんですよね・・・)。
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# by kaguragawa | 2016-02-27 19:30 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。
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# by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)

ある地図   

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# by kaguragawa | 2016-02-07 20:25 | Trackback | Comments(0)

本郷通り/森川町の「文圃堂」   

 本郷区森川町にあった「文圃堂」の場所と周辺の状況についてふれた箇所を、店主の野々上慶一さんと佐々木幹郎さんの対談「「文圃堂」のこと」中に見つけましたので、ここで紹介しておきます。(野々上慶一『文圃堂こぼれ話』〔小沢書店/平成13.3〕から)。宮沢賢治、中原中也、『文學界』など、いろんな名前が思い浮かんでくる“本屋”である。同時期の島崎書店が出てくるのも、私には一興でした。

 ――じゃあ、この〔註:『文學界』の〕四冊目までのときは、野々上さんは本郷におられたわけですか。
ええ。本郷にいました。
 ――本郷森川町八三ですね。
ぼくのところの家主が「おかめや」という古い小間物屋なのですが、それはいまでもあるはずなんです。それが家の隣でしたから。「喜多床」という、古い床屋が反対側の隣にあった。棚沢という本屋があったり、角が果物屋だったけれども……。東大正門の通りが真っすぐの通りで。角が果物屋で、次が本屋かな。東大の通りというのは、普通の道があって、東大側は古いレンガ塀で並木道、電車道があって、ごくなんかのところはやかましい音のする電車道に面していたわけだ。
 ――道の角ですか。
角というか、細い路地がありました。反対側の角が棚沢という本屋の支店だったと思う。当時は有名な古本屋でした。本で金を貸してくれるんでね。本店は一高、いまの農学部に寄ったほうにありましたが、その支店が角にあって、次がパン屋、それにおかめや、それから私のところです。だから三軒目かな。その次が喜多床です。文圃堂のあったところは、いまはパン屋になっているという話を聞いたけれども、もう何十年と行ったことがないから、どうかなあ。それから、郁文堂という洋書を扱っている大きな本屋。島崎書店は赤門のすぐ前です。島木健作が手伝ったりしていましたね。島木の兄貴がやっていたんですから。


 文中の「喜多床」――漱石の「三四郎」にも登場――や、中村屋の新宿移転後も続けられていた「パン屋」、もと昼夜銀行の建物だった「郁文堂」などについては、少し添え書きしたいこともありますが、いずれ追記したいと思います。当時、本郷区森川町1番地の83だった文圃堂跡は、現在の住居表示で《本郷6丁目18番9号》にあたるようです。文中にも書かれているように文圃堂と同じ区画で、もう一方の(南東)角地にあった棚沢書店は《本郷6丁目18番12号》。

追記:
 私のコメント(最後の段)に不正確なところがあります。余裕が無いので直せないでいます。しばし、お待ちを。
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# by kaguragawa | 2016-01-29 20:49 | Trackback | Comments(0)

大逆事件 死刑執行   

 105年前の今日(1911年1月24日)、大逆罪で死刑を言い渡された24名のうち特赦で無期懲役となった12名を除く12名の死刑が、東京監獄で執行されました(12番目の管野すがは、翌25日に繰り延べ)。

 石川一(啄木)は、当日の日記にこう書いた。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。


 
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 絵は、竹久茂次郎(夢二)が、1907年8月18日に幸徳秋水宛てに書いた暑中見舞い?はがきの裏に書いたもの。
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# by kaguragawa | 2016-01-24 08:06 | Trackback | Comments(0)

倉田繁太郎の続報   

 銀座・十字屋の創始に関わった倉田繁太郎の履歴がわからないものか、と常々思っていたのですが、今日、思いがけないところで、「倉田繁太郎」に出会いました。それは、次の資料。

 『東京書籍商組合史及組合員概歴』
 編集兼発行 東京書籍商組合 大正元年11月

 次のように記されています。情報の出所は本人か十字屋であろうと思われ、上京の日付までが書きこまれた良質な記述です。

 十字屋 倉田繁太郎 初代(万延元年十月十七日生) 東京市京橋区銀座三丁目二番地

 生国は富山県射水郡作道村にして、世々農を営む。明治九年三月八日出京し、精義塾、若松塾、攻玉社等を転学し、明治十年、原胤昭の経営する十字屋を譲受け、基督教画及び洋書の輸入翻刻を主としたりしが、明治十七年以降楽器の販売を開始し、従って音楽書を出版し、爾来楽器を主とし、書籍出版販売を兼営して今日に及ぶ。

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# by kaguragawa | 2016-01-22 19:58 | Trackback | Comments(0)

田中範康作品集Ⅱ[音の情景]   

 田中範康作品集Ⅱ[音の情景]
 Works of Noriyasu Tanaka II “The Scenes of the Sounds”
 
 2011年の「作品集」に続いて、一昨年(2014)「作品集Ⅱ」が出ていることを知りませんでした。たった今、amazonで注文しました。楽しみ。

 http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD103.html
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# by kaguragawa | 2016-01-05 20:18 | Trackback | Comments(0)

《三島霜川》略歴巡り(4)   

三島霜川 ミシマソウセン(劇)

名は才二、明治九年四月富山県西砺波郡麻生村に生れ、「山霊」「スケッチ」「孤巌」「村の病院」「平民の娘」「虚無」等を著した。「演芸画報」記者。
現住所 東京市外池袋字本村


 出典:『明治大正文学美術人名辞書』
  ・編纂者 松本龍之助
  ・発行  大正十五年四月五日 (1926.04)
  ・発行所 立川文明堂
          大阪市南区安堂寺橋通三丁目四十五番地
  ・執筆者 記載なし(松本龍之助か)


 ※以前の「《三島霜川》略歴巡り」は、2年前!のこのブログにあります。
 http://kaguragawa.exblog.jp/m2014-02-01/

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# by kaguragawa | 2016-01-04 19:55 | Trackback | Comments(0)

2016年元日   

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 バッハの“インヴェンションとシンフォニア”をアンドラーシュ・シフのピアノで。
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# by kaguragawa | 2016-01-01 17:28 | Trackback | Comments(0)

初日の出 (三島霜川)   

 ふと眼を覚ますと、もう餅を焼いている芬(かおり)は、微かに鼻をうつ・・・、おお!今年という今年は初日を拝むはずだっけ。私は、勢いよく床を離れた。食事の時は何時でも一家が団欒(まどい)する部屋には、祖母やら母やら妹やら、皆いろりを取り巻いて、忙(せわ)しそうに餅を焼いている、いろりには柴が盛んに燃えて、部屋は、うっすりと煙っていた。
「もう直にお雑煮をいただくんだよ。早く顔を洗っていらっしゃい。」
 祖母は、ふと後ろを振り向いていった。私は軽くうなづいた。
「今日は昔風に、門(かど)の川で顔を洗ってきましょう。」
といいながら、土間へ飛び下りて、草履を突っかけた。そして、躍るような勢いで外へ飛び出した。

 見ると、東の空には、藍やら、紫やら、瑞雲群がり立って、その底の底の方には、微かな紅が見透かされる。
「ほ!、ちょうどいい」
 途端に、どこやらで、き、き、きいと刎ね釣瓶をあげる音・・・多分若水を汲んでいるのであろう。戸口には、門松青々として、家の栄を慶んでいるかと思われた。それを見てすらも、気が伸び伸びする。
 間もまく私は、門川の岸に立った。清冽な流れは、いささかの瀬を作りながら、静かに流れている・・・それも若水!私は、流れを掬(むす)んで嗽(うがい)をした。指先から、ちらちらと白気が立つ・・・顔を洗っていると、血も心も新しくなってくるような心地がする。

 しばらく経った。群がり立っていた雲は、いつか、どこへか片付けられてしまって、山の影は際立って黒くなってきた・・・かと思うと、東の空に一抹の紅が動いて・・・動くようにパッと染められて、旭は、赫灼として、悠(ゆるやか)に山の端に昇るのであった。流れの瀬にも、幽(かすか)な紅がちらちらする・・・この新しい光を浴びて、流れは、急に勢いづいた・・・勢いづいたように、その音が高くなったように思われた。
 夜の幕はまったく破られて、旧い年はとこしえにこの世から消えて了った。空は、映々(はえばえ)しくなって、燦爛たる初日の光、そこらに輝きわたるかと見れば、
「やあ、今年も好い元日だ!」
とさながら天上から落ちてきたかのよう、天気の和静を神に感謝するような、喜悦と満足との溢れた声がした。
 雑煮煮る煙が、村の戸ごとの屋根から朝の煙盛んに登り始めた。



 ※三島霜川の明治37年の『文芸界』新年号の作品です。幼少期の思い出をエッセイ風に仕上げたものなのでしょう。36年期の諸作品と同様の田園詩的筆致が見られますが、私にとって興味深いのは、歿年不明の“祖母”が登場していること。
 この年の同じ1月1日づけで短編作品集『スケッチ』(新聲社)が発行されると同時(2月)に、一つの方向転換を告げる「村の病院」が発表されます。その境目にある小品です。

(2013.01.03の記事を再録)
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# by kaguragawa | 2016-01-01 17:27 | Trackback | Comments(0)

大晦日の紅さざんか   

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 雪のない大晦日
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# by kaguragawa | 2015-12-31 14:08 | Trackback | Comments(0)

[水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり   

 思ってもいない資料を見つけて、――といっても、要は当方の認識不足ということに尽きるのですが――驚きました。

  ある名簿の同じグループに、「野口詮太郎」と「水上峰太郎」の名前を見つけました。〔第四高等中学校/明治二十三年七月卒業生 29人〕――驚きました。竹久夢二の縁者として追いかけている「水上峰太郎」と堀田善衞の縁者として追いかけている「野口詮太郎」。この二人は、同期生として金沢の地で医学を学んでいたのです。それにしても同期生とは、思いもよらないことでした。

 そもそもは、水上峰太郎が金沢の「四高」の卒業生であることを諸資料で知って、四校の卒業生名簿を近代デジタルライブラリで探し出すところから始めたのですが、まずは水上峰太郎が、第四「高等学校」ではなく、第四「高等中学校」の卒業生だったことに、納得かつ落胆。明治3年(資料によっては2年)生れの峰太郎であってみれば、第四高等学校の前身の高等中学校の時代であることに思い至らなかったこと、我ながらまず第一のがっかりだったのです。まあそのがっかりは、峰太郎の名前が四高関係者の中に間違いなく存在していたことで安堵に変わりましたが。
 やれやれと思っているところに、「水上峰太郎」の名の近くに思ってもいなかった「野口詮太郎」の名があって、今度はびっくりです。しかしこれも落胆のタネでもありましたが。
 野口詮太郎が四高の卒業生であることも既知のことではあったのですが、峰太郎と同じ頃に在籍していたことに思い至らなかったこと、頭の中で知識がリンクされていないことが、第二の落胆だったのです。人事興信録の「君は富山県士族野口忠五郎の長男にして 明治三年十一月を以て生れ 大正十年家督を相続す 明治二十三年第四高等中学校医学部を卒業し 同二十四年陸軍三等軍医に任ぜられ 大正六年陸軍軍医監に累進す」という記述を、書き写していながらすっかり忘れていたのです。しかもこの記述は、卒業学校名も「第四高等中学校」と正確に記しているのですから、私のぼけぶりはかなりのもので、さらに落胆が深まったというわけです。

 もう一つ思いもよらぬ名前を見つけて、あわてました。これはまったく想定外である以上にどう考えたらよいのか、悩まされた記載です。「川崎五郎兵衛(川崎順二) 富山」・・・。
 蚕都であった山間の街の八尾〔当時は富山県婦負郡八尾町〕に伝わっていた「おわら」を今日見られるようなおわらに変身させた立役者(初代越中八尾おわら保存会会長)“川崎順二”も金沢の四高医学部の卒業生であることは、記憶にあったのですが〔http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-45c4.html〕、彼は生年〔1898(明31)年〕からして大正10年くらいの卒業生のはず・・・と思っていたからです。そして、今確認したところによえると「大正十一年五月」の卒業生名簿に「川崎順二」の名前があります。これが、八尾の開業医・川崎順二に間違いはないでしょう。・・・とすれば、〔明治二十三年七月卒業生〕中の「川崎順二」は別人?、同名の父親???。八尾の医家「川崎家」のことを、調べてみる必要があるようです。

 ――以上、見つけた古資料にびっくり、我が老朽化頭脳にがっかりの顛末。

 ※水上峰太郎は、竹久夢二の最初の妻・他万喜(岸他万喜)の姉・岸薫が嫁いだ医家。富山市総曲輪で開業。
 ※野口詮太郎は、堀田善衞の父・勝文(野口勝文)の兄。陸軍軍医。
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# by kaguragawa | 2015-12-29 14:25 | Trackback | Comments(8)

クリスマス店じまい   

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  立山スギのクリスマスツリー
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# by kaguragawa | 2015-12-25 22:17 | Trackback | Comments(0)

霜川「島の大尉」をめぐるあれこれ(1)   

 ふらりと入った小さな古本屋屋で、ちょっと意外な本を見つけてうきうきしながら、何気なくビニールにはいった古雑誌を2,3冊より分けたところで、何度も見たことのある表紙が目に飛び込んできた。e0178600_2062287.jpg憩う軍馬を背景に《戦争文学 四月之巻》と篆書体の大きな表題文字が書かれ、右肩には2行の角書きで、「日露戦争実記/定期増刊」とある。内容は見ることはできないが、何度も何度も、黒岩さんのサイト「古書の森日記」で目にしたものだから間違いはない。

 この《日露戦争実記/定期増刊/戦争文学 四月之巻》――明治37年4月23日発行/日露戦争実記第8号――には、三島霜川の「島の大尉」という小説が掲載されているのだ。
 私にとっては、この「島の大尉」という小説は、ある報告会で、この小説の一節を紹介したこともある思い出のある短篇小説であり、この掲載誌「日露戦争実記」は、5年前に亡くなられた黒岩さんと雑談をかわした思い出深いものでもあるのだ。大げさかも知れないが、“奇跡”の出会いである。

 霜川は、この「日露戦争実記/定期増刊/戦争文学」にいくつか作品を発表しており、私が読んだものはこの「島の大尉」「荒浪」「予言者」だけなのだが、とりわけ「島の大尉」「荒浪」は、三島霜川を考えるためにはとても大切な作品なのである。

 作品の紹介は措いておいて(*1)、今回雑誌の実物を入手したことによって、私には疑問だった書誌的事項のいくつかが判明したので、以下、そのことだけメモしておきます。「定期増刊/戦争文学」ということがよくわからなかったのですが、こういうことでした。

 育英舎から出ていた「日露戦争実記」は、月3回の刊行(旬刊)で、毎月8日、18日、28日に発行されることになっており(*2)、それに加えて毎月増刊として「戦争文学」号が刊行されたようなのである(*3)。そこで毎月刊行=定期増刊「戦争文学」という表題にしたようなのである。

 *1 作品名は明記せずに、この小説の会話部分を紹介したことがありました。
    「やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。」(2014.02.14)
     http://kaguragawa.exblog.jp/21685893/

 *2 「日露戦争実記」創刊号では、刊行日を〔毎月1日、11日、21日〕としている。いつから、この号〔通巻第13号の「戦争文学 四月之巻〕に書かれているような〔毎月8日、18日、28日〕になったのか、その後もその刊行日は変わらなかったのか、は未調査である。

 *3 この「戦争文学 四月之巻」は、4月23日の刊行:日露戦争実記通巻第8号であり、「戦争文学 五月之巻」は、5月25日の刊行:通巻第13号、「戦争文学 六月之巻」は、6月27日の刊行:通巻第16号のようである。「戦争文学」の刊行日は、必ずしも一定しなかったようである。(これはnet上の情報から拾いだしたもの)

〔追記〕
 書誌的事項やこの育英舎の「日露戦争実記」については、書きたいことがいくつかあるので、続編を書きたいと思っています。私の精進次第です・・・。


〔追記:2〕
 この「戦争文学 四月之巻」には、広津柳浪「天下一品」、小栗風葉「決死兵」、徳田秋聲「通訳官」、三島霜川「島の大尉」が掲載されていて、秋聲の作品は、全集で読んだものだが、これについても“秋聲の作品として”考え直してみたいことがあるが、私には荷が重い。
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# by kaguragawa | 2015-12-21 19:51 | Trackback | Comments(0)

霜川生誕地碑へ   

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 久しぶりに霜川(三島才二)生誕地碑へ。今日は、立山連峰がこの地からもよく見える。
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# by kaguragawa | 2015-12-20 18:19 | Trackback | Comments(0)

秋聲と南大曹   

1)
 12/9の《漱石と南大曹》の余談中に、徳田秋聲の『死に親しむ』にふれ、文中の“彼”〔秋聲の分身〕が診断を受けている「M―ドクトルも、南大曹なのであろうか。」と書きました。その後、大曹に関する私製メモ(前回のものはその要約)をもう一回読み直してみると、確証はもてないのですが、この「M―ドクトル」が南大曹であってもいいのかな、肯定的に考えてもよいのかな・・・という気がしてきます。秋聲研究者の方のご意見をお聞きしたいところです。
 以下、Aは「死に親しむ」の該当箇所で、Bは私の南大曹メモです(太字の部分に注目)。

【A】  「死に親しむ」(1933)より
「癌じゃないですか。」彼はM―ドクトルの診察室で、ベッドに横たわりながら訊いた。十五六年以来同じ質問を口にしたのは、幾度だか知れなかった。
「癌ですか。」M―ドクトルは指で腹を押し押ししながら、うふふと笑った。
「どこにもそんなものはありませんよ。」

「しかし・・・。」
「大丈夫ですよ。軽微な胃潰瘍のようなものですけれども心配ありません。少し続けて薬を呑んで下さい。」
 彼は薬をもらって帰って来た。


【B】  南大曹:1878.03.31~1945.02.26 
 奥州二松松藩(福島)の藩医・近藤玄貞の子。近藤達児(衆議院議員、1875-1931)は、兄。福島県安達郡二本松で生まれ、医業を営んでいた南二郎(山岡房次郎)の養子となる(山岡は、二本松少年隊の一員)。
 1905(明38)年、東京帝国大学医科大学を卒業。1910(明43)年~1912(大1)年、ドイツに留学。1913(大2)年、医学博士。長与称吉の「胃腸病院」に勤務し、二年後、南胃腸病院を開設して一般診療に従事。
 著書に、『胃腸病診断及治療学』(南江堂)などがある。日本消化器病学会会長、癌研究会理事長、日本医科大学教授などを歴任した。
 触診で、病名を言い当てたというエピソードがあり、長男・南博のエッセイ(*)のなかにも、“おれの指はレントゲンよりも正確だというような自信があって、顔色を診ただけでもわかるとか、それから縁起でもない話ですが、患者さんの亡くなる日時、ほとんどあと何日で、場合によっては時間もかなり正確に、そのころまでと言うと大体当たっているというようなことで。”――とある。
 全国的に有名で、日本各地から旅館を予約して治療に通う患者がいたといわれる。

*=「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」一橋の学問を考える会[橋問叢書 第四十七号] 
http://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai47gou/GakusyaTosei.htm

2)
 上記の「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」は、1985年の講演を文字化したもののようです。冒頭の一節には「わが父、南胃腸病院院長・南大曹」というサブタイトルがついています。大曹さんがどんな方だったのか、よく語られていますので、部分的に、抜き写しておきます。

●一日三時間くらいしか睡眠をとらないんです。夏は七時から病院、冬は八時から晩の四時、五時まで。日本で一日に一番多数の患者さんを診ただろうと言われて百人ぐらい。
●病院経営というのは非常にむずかしいので、父なんかは一番合理的にやりました。そのかわり病院と運命を共にするということで、関東大震災のときは京橋の木挽町、いま中央公会堂、あそこだったんですが、焼け落ちる、もう危い瞬間まで自分だけ残って、患者さん、お医者さん、看護婦さん、全部上野の公園に避難させて、自分が最後に病院を出て、いまは自動車道になっていますがそのころは川があって、橋を渡った途端に橋が落ちたということで、やはりリーダーシップをとる人間は、それは船だと船長さんがそうでしょうが、自分の生命よりあずかっている方と部下の生命を大事にするのです。

3)
 最初建てられた「南胃腸病院」は、上に書かれているように、関東大震災で被災。先日書いたように新築されることになります。下の写真を見ていただければおわかりのように立派なものです。設計は、明治生命館や歌舞伎座(三代目)の設計で知られる岡田信一郎です。なお、震災復興で、前を流れる築地川に楓川との連絡水路も新設され、ちょうど病院の前に、めずらしいY字の橋――「三吉橋」が架けられます。
 写真は、その当時(昭和5年)のものだろうと思われ、「彼」(≒秋聲)が渡瀬ドクトル(≒亘理祐次郎)を見舞ったのは、竣工後数年のこの景観の病院だったろうと思われます。
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 手前が震災復興でできたY字橋「三吉橋」、中央が南胃腸病院、病院の奥に見えるのが松屋デパート。
 のちにこの橋が、三島由紀夫「橋づくし」(1956)、堀田善衞「橋上幻像」(1970)の舞台となります。


〔追記〕
【三吉橋】 完工時のデータ
 位置:旧京橋区木挽町1丁目←→同区新富町5丁目←→同区築地1丁目の間
 橋長:82.8m 有効橋幅:15m 
 設計:復興局橋梁課
 起工:昭和4年[1929]2月 
 竣工:昭和4年[1929]12月
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# by kaguragawa | 2015-12-11 20:13 | Trackback | Comments(0)

漱石と南大曹   

 きょうは、夏目漱石の命日。ふと思い浮かんだのは、主治医・真鍋嘉一郎の要請を受けて、真鍋嘉一郎、宮本叔とともに漱石の最期の治療にもあたった南大曹のこと――。
 
〔参考〕
 夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』から
 “容態がいよいよ険悪なので、真鍋さんも自分の相談相手にその道の先輩を呼んでいただきたいとおっしゃり、そこで宮本博士からお出でを願い、さらには南博士からもお越しを願うことになりました。いらした先生方も皆内出血ということに異議はありませんでしたが、その溜まっている血を出すのにどうしようかというのでたいへんでございました。”


 以下、徳田秋聲の「死に親しむ」を読んだ際につくったメモの中から、南大曹の「南胃腸病院」の部分を、写しておきます。

 医者である渡瀬ドクトルが患者として入院するほど信をおいていた病院で、「木挽町」の“川縁にある”胃腸病院といえば、夏目漱石の最期に際して消化器系の専門医として治療にあたった南大曹の「南胃腸病院」しかないであろう。
 長与称吉の「胃腸病院」にいた南大曹が、木挽町に開業(1915)し、震災後再建(1929)。再建の病院は、岡田信一郎の設計。作中にふれられている“畳敷きの間”は、長与の胃腸病院の様式を受け継いだ控えの間だろう。
 “彼”が診断を受けている“M―ドクトル”も、南大曹なのであろうか。

 南胃腸病院は、大曹歿後、大曹が理事を務めていた癌研究所の附属病院となり(1946)、現在は、跡地に銀座ブロッサムが建つ。

 ■南大曹:1878.03.31~1945.02.26 福島ニ本松生れ  南博(社会心理学)は長男。 
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# by kaguragawa | 2015-12-09 22:33 | Trackback | Comments(0)