夢二一行、黒部峡谷に遊ぶ   

 6月10日が、昭和3年(1928年)に竹久夢二が黒部峡谷に遊んだと日だいうことは、前にも書きましたが、この日の黒部峡谷行については思いのほかいろんな記録が残っていることがわかりました。しかもこうした記録の存在は偶然のことではなく、こうした紀行を雑誌の記事にするために仕組まれた一連の企画があったのです。
 峡谷行に同道したのは夢二と翁久允の二人だけではなく、多くのにぎやかなメンバーといっしょだったのです。

 いずれ、そうしたことをこの記事に書き足したいと思っています。いずれ。いずれ。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 23:56 | Trackback | Comments(0)

『名訳詩集』   

  『名訳詩集』 西脇順三郎・浅野晃・神保光太郎編/1969/白凰社 。

 饗宴。ここに凝縮されて示されてあるものの重さというか大きさに厳粛な気持ちになる。

 ここに集められた名詩を世に送り出したのは有島武郎、生田春月、生田長江、上田敏、尾上柴舟、片山敏彦、蒲原有明、小牧健夫、西条八十、山宮允、塩井正男、神西清、吹田順助、鈴木信太郎、高村光太郎、竹友藻風、茅野蕭々、土居光知、永井荷風、中原中也、中山省三郎、夏目漱石、新関良三、西脇順三郎、野口米次郎、昇曙夢、長谷川二葉亭、堀口大学、松浦一、三好達治、森鴎外、柳宗悦、矢野峰人、山内義雄、米川正夫。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 22:42 | Trackback | Comments(0)

バッハが身近なおっさんに――高野さんの魔術   

 きのうのことである取引先へ行こうと車に乗ったところ、地元放送局のラジオ番組から聞えてきたのは聞き覚えのある独特の言い回しの低い声。ほとんど最後の部分しか聞けなかったのですが、「高野さんにとってバッハってどんな存在ですか?」というような問いに「おらにとって、バッハは人生の同伴者のようなもんですちゃ」というような受け答えが聞えてきた。

 このわやくちゃな富山弁の主こそが、なんとあの栄誉ある?ライプツィヒ・バッハ資料財団〔Das Bach-Archiv Leipzig〕の広報室長を勤めておられる高野昭夫さんなのである。高野さんは富山市の出身。1960年生まれというから、私とほぼ?同年代。

 理屈抜きにバッハが身近なおっさんになってしまう不思議なトークである。

 それにしても今年のバッハ音楽祭が始まろうとするこの時期に、高野さん富山にいて大丈夫なのでしょうか。離国寸前のひとときを生地のラジオ放送に出ていただいたのでしょう。トークを最初から聴けなかったのが残念。

 今年は私も、6/10から6/19あたりをライプツィヒ同様、バッハ週間〔Bachwochen〕にしてみようか。
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# by kaguragawa | 2016-06-07 19:56 | Trackback | Comments(0)

携帯で撮った「火星」   

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 肉眼ではしっかり見えているのに携帯のファインダーでは位置決めができず、あえて街灯の斜め上の位置に火星をもってきて撮影したところ、うまくキャッチできました。
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# by kaguragawa | 2016-06-03 23:05 | Trackback | Comments(0)

ジョーク「新しい判断」   

 熊本城のライトアップが再開された。熊本市民のうれしさが伝わってくる。

 政治の私物化――。マスゾエ的意味なら許せないながらも可愛げがあるが、アベ的私物化は日本を腐敗させるもの。そこに横たわっているのは、いつぞや「美しき日本」とか言っていた人とは思えない、汚れた驕りである。HNKのNW9など会見の解説役どころか説得役をつとめるお粗末さだ。
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# by kaguragawa | 2016-06-01 22:14 | Trackback | Comments(0)

岩波文庫に新しい「山家集」・・・   

 5月ももう残すところ1日となった。今年は、春が無く、冬からぐずぐずと夏になってしまったような気さえする。

 安部政治はもう完全な破綻である。サミットの「共有認識」なるものをでっちあげて、そこに増税延期の逃げ道をつくる不正直さ、不信の極みであり、こんな国辱的首相がかつていたものであろうか。

 なかなかの難物だったが堀田善衛が25歳のときにかいた「西行」(1943~44)は、時間をかけ自分なりにていねいに読んだ甲斐はあった。そう言えば、岩波文庫に新しい「山家集」があるのを昨日になって知り、いささかショック。

 ※『西行全歌集』久保田淳、吉野朋美校注(2013.12)
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# by kaguragawa | 2016-05-30 22:35 | Trackback | Comments(0)

『産業革命』近代日本の軌跡 (8)   

 少し歴史を援用?しながら論文もどきのエッセイをようやく書き上げましたが、そのとき偶然図書館で見つけたのが『産業革命』(近代日本の軌跡 (8)/高村直助編/吉川弘文館/1994.06)。
 ちょっと古い本ながら、いろんな面で、いろんな点で教えられることが多くありました。

 上記の本とは別の話ですが、「高岡米商会所」の成立(1885.01)の背景を、どう考えたらいいのか・・・。そんなことも急がずに考えていきたい、と思っています。
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# by kaguragawa | 2016-05-18 22:17 | Trackback | Comments(0)

単なるメモ   

 Mさまへ

 No.129玉垣の《(右)泉州堺 (左)□□善次郎》がそうですね。
 これを「酢屋善次郎」と読んだのは、山元さんの功績ですね。

 〔2015/06/08〕
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# by kaguragawa | 2016-05-04 22:21 | Trackback | Comments(0)

「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ   

 なんとデ・レイケ(Johannis de Rijke)は、1891(明24)年、暴れ川常願寺川の治水工事に富山県に来た時、伏木港もおとずれ、藤井能三と会っていたのだ!。能三の『伏木築港論』(明治24年)に、このように登場する。

 今回富山県の水害検視として来県せし内務省雇工師和蘭人デレーケ氏の伏木港巡回を機として、右「アイカメ」の事を語り以て氏の意見を問ひしに、氏は海底の深浅及び大穴の個所等を試験したる後ち、未だ充分な調査を遂げざれども親部川は築港上最も必要なるものなりとて特に之を賞讃し、而して右「アイカメ」と称する深淵あるが為に多少の修繕を加ふれば如何なる大艦巨舶と雖も容易に川中に入るるを心得べく、其の費用は凡そ五拾万円ほど要するの見積りなれども愈々築港せんとするには、尚ほ充分に測量調査をせざれば能はずと言へり、されば伏木港民の口碑に伝はる「アイカメ」の深淵は氏の鑑定を得て倍々信を措くに足るのみならず、之が為めに如何なる蒸気船も容易に川中に入るを得べしと言うに至りては余は之を天与の地形と謂うも不可なかるべしと信ず。

追記:
 藤井能三とデ・レーケが「あいがめ」を話題に話し合ったとき、そこに同席していたのは誰なのだろう。そもそもデ・レイケを伏木に誘い、この出会いをセッティングしたのは誰なのか・・・。

追記:2016.05.02
 常願寺川砂防事業に詳しいMさんからご教示によると、デ・レイケに随行していた高田雪太郎の日記に、デ・レイケの藤井能三訪問のことが書かれているそうです。埋もれている資料に、大事なことが書かれているようです。詳細はあらためて報告します。
「歴史は忘れられた端役として存するのではない。人が思い出してくれさえすれば声を発するであろう」とは、伏木生まれの堀田善衞のことば。


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# by kaguragawa | 2016-05-01 16:10 | Trackback | Comments(3)

災地にありて災を慮らざる   

 死地にありて死を知らず、災地にありて災を慮らざるは、愚者の事なり。日本にありて、治水の理に通ぜざる、その亦愚者の誹を免れず。
 抑も治水学は日本に於いて将来一科の専門学たるべく、治水術は日本人の為め永く一種の専門術たるべきものなり。否な、日本に生まれて治水に通ぜざる者は、人にして衣食の理に通ぜざるよりも更に危険なり。



 久しぶりに心動かされることばに出会いました。稲垣示が、西師意の『治水論』(明治24)に寄せた「序」から。稲垣示が後に田中正造と行動を共にしたことを思い起こさせます。
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# by kaguragawa | 2016-04-29 21:53 | Trackback | Comments(0)

ある和解の報   

 5年前のニュージーランド地震の被災者の遺族と富山市長との和解が成立したとのニュースに、胸のつかえが降りたような安堵をおぼえた。詳細は略すが、蔭で尽力された人の存在を感じる。天災と人災のあわいで多くの苦悩が繰り返される。熊本に思いが飛ぶ。

 ここ数か月、本務(?)に力が奪われ、一冊の本も読み終えることもなく、過ごしている。よって、このブログにも何も記すことがらが無い。切れ切れの貧食をかてに、わずかな糸は紡いでいるつもりだが、後ろ向きというか下向きというか気組みの欠如に、自ら情ない思いを引きずったままである。
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# by kaguragawa | 2016-04-22 22:04 | Trackback | Comments(0)

越の春~地魚と地酒を堪能   

 けやきの芽吹きが見られ、ハナミズキも花芽が少しほころんできました。
 私には、サクラ前線がどうのこうのということより、心動かされる季節の移ろいです。

 きょうは、友人の誘いで富山湾のキトキトの魚(地魚)と地酒(「成政」と「北洋」)を、決してきれいとは言えないお店で、ゆっくり堪能。
 ここ一か月の追いかけられるような仕事のプレッシャーからしばし解放され、一度風邪で失った声ももどってきて、くつろぎのひとときを過ごしました。


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# by kaguragawa | 2016-04-06 22:24 | Trackback | Comments(0)

春の彼岸といわれれば・・・   

 春分の日といわれてもピンとこないが、春の彼岸といわれれば少し体感的にわかるものがある。

 が、残念なことに、季節のうつろいを味わうどころか、ゆっくり本を読む時間も、いろんな資料を調べる時間も、思索についやす余裕もないこの頃で、よって発見の驚きにも喜びにもひたることのできない日々が続いています。

 長いこと、――引き続きのパソコンの不調も理由の一つですが――このブログにも記事のないこと、そんなわけです。おそらく復帰は5月ごろか・・・と思います。

 そうそう、明日(3月21日)から高志の国文学館で企画展「夢二の旅――たまき・翁久允とのゆかりについて」がはじまる。その3月21日は、岸たまきの兄で、夢二とも縁の深かった岸他丑の歿後60年の命日になる。そうしたことも、心にとめながら春の一日を過ごしたい。
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# by kaguragawa | 2016-03-20 22:50 | Trackback | Comments(2)

ある日本女子大生と井上秀のこと   

 先週の土曜日、NHKの朝番組「あさが来た」を出掛けに見ていると、自分のことを「僕」という若い女性がでてきた。あさの娘千代の女学校の学友のようだ。切れ切れに見ているのでストーリーがのみこめてないが、この女性、のちに日本女子大学の第4代校長になった“井上秀”がモデルなのであろう。

 この井上秀のことを以前しらべたことがあり、あっそういえばと、当時調べたときの秀さんの古い顔写真も思い浮かんできた。ある人から次のような話を聞いたのがきっかけで、井上秀のことを少し調べたのである。

 「父親が亡くなったとき、当時在学していた日本女子大学の校長が葬儀に列席してくださった。」
 話し手は、三島霜川(本名:三島才二)の娘さん。霜川の娘さんは長女も次女も日本女子大学に通っていて、次女の実枝さんが在学中に、父・霜川が亡くなり――それは、1934(昭9)年3月のこと――当時の校長さんも葬儀に参列されていたというのだ。
 そのお話を聞いたちょうどその頃、偶然、児童文学者の岡上鈴江さんが亡くなられた直後で、岡上さんがやはり日本女子大学卒との紹介を目にし、何か胸が騒いだ。なぜ岡上鈴江さんのことを存じ上げていたかと言えば、岡上さんが隣県・新潟県の作家・小川未明の次女だったからである。岡上さんが亡くなられたのが、2011年の1月。97歳だとの新聞記事に、よもやと思い、未明の年譜をひっぱりだしてみたところ、次女の鈴江さんは1913年5月のお生まれだという。息子さん経由で実枝さんにあらためてお尋ねしたところ、実枝さんと鈴江さんとは同学年、同学科(英文学科)だったというのだ。

 よりによって霜川・未明という北国出身の作家の次女同士が同じ大学の同期で同じ学科に学んでいたとは・・・そうした当時の驚きも、同時に調べた校長・井上秀の名前とともに、思い出した次第。。。

 霜川次女の実枝さんも、昨年10月に102歳の天寿をまっとうして亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。


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# by kaguragawa | 2016-02-29 22:56 | Trackback | Comments(0)

啄木はある夜、秋聲を訪ねた   

 以前にも啄木の日記は拾い読みをしたことがあるのですが、先日、ある発表?の参考に少しまとめ読みをしました。
 結局は拾い読み程度の読みになってしまいましたが、いくつかおもしろい箇所を発見しました。その中で、「えっ!」と思ったのは、啄木が徳田秋聲を訪ねていることです。1909年3月13日の項。

 「夜、近所の徳田秋声氏を訪うたが不在、ミルクを飲んで帰って、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があった。」

 当時啄木が下宿していた蓋平館から秋聲の家までは、同じ「森川町一番地」の目と鼻の先。といっても距離は近くとも、細い道を二度ほど道を曲がらなければならないのですが・・・。
 (個人的なことで恐縮ですが、私が徳田秋聲遺宅を始めて訪ねたのも、もと蓋平館跡地に建つ太栄館から細い路地を地図を見ながらのことで、啄木と同じ道程。鮮明にその道筋の情景を覚えています。)

 結局、啄木と秋声は、その後、会う機会はなかった(ということでいいんですよね・・・)。
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# by kaguragawa | 2016-02-27 19:30 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。
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# by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)

ある地図   

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# by kaguragawa | 2016-02-07 20:25 | Trackback | Comments(0)

本郷通り/森川町の「文圃堂」   

 本郷区森川町にあった「文圃堂」の場所と周辺の状況についてふれた箇所を、店主の野々上慶一さんと佐々木幹郎さんの対談「「文圃堂」のこと」中に見つけましたので、ここで紹介しておきます。(野々上慶一『文圃堂こぼれ話』〔小沢書店/平成13.3〕から)。宮沢賢治、中原中也、『文學界』など、いろんな名前が思い浮かんでくる“本屋”である。同時期の島崎書店が出てくるのも、私には一興でした。

 ――じゃあ、この〔註:『文學界』の〕四冊目までのときは、野々上さんは本郷におられたわけですか。
ええ。本郷にいました。
 ――本郷森川町八三ですね。
ぼくのところの家主が「おかめや」という古い小間物屋なのですが、それはいまでもあるはずなんです。それが家の隣でしたから。「喜多床」という、古い床屋が反対側の隣にあった。棚沢という本屋があったり、角が果物屋だったけれども……。東大正門の通りが真っすぐの通りで。角が果物屋で、次が本屋かな。東大の通りというのは、普通の道があって、東大側は古いレンガ塀で並木道、電車道があって、ごくなんかのところはやかましい音のする電車道に面していたわけだ。
 ――道の角ですか。
角というか、細い路地がありました。反対側の角が棚沢という本屋の支店だったと思う。当時は有名な古本屋でした。本で金を貸してくれるんでね。本店は一高、いまの農学部に寄ったほうにありましたが、その支店が角にあって、次がパン屋、それにおかめや、それから私のところです。だから三軒目かな。その次が喜多床です。文圃堂のあったところは、いまはパン屋になっているという話を聞いたけれども、もう何十年と行ったことがないから、どうかなあ。それから、郁文堂という洋書を扱っている大きな本屋。島崎書店は赤門のすぐ前です。島木健作が手伝ったりしていましたね。島木の兄貴がやっていたんですから。


 文中の「喜多床」――漱石の「三四郎」にも登場――や、中村屋の新宿移転後も続けられていた「パン屋」、もと昼夜銀行の建物だった「郁文堂」などについては、少し添え書きしたいこともありますが、いずれ追記したいと思います。当時、本郷区森川町1番地の83だった文圃堂跡は、現在の住居表示で《本郷6丁目18番9号》にあたるようです。文中にも書かれているように文圃堂と同じ区画で、もう一方の(南東)角地にあった棚沢書店は《本郷6丁目18番12号》。

追記:
 私のコメント(最後の段)に不正確なところがあります。余裕が無いので直せないでいます。しばし、お待ちを。
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# by kaguragawa | 2016-01-29 20:49 | Trackback | Comments(0)

大逆事件 死刑執行   

 105年前の今日(1911年1月24日)、大逆罪で死刑を言い渡された24名のうち特赦で無期懲役となった12名を除く12名の死刑が、東京監獄で執行されました(12番目の管野すがは、翌25日に繰り延べ)。

 石川一(啄木)は、当日の日記にこう書いた。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。


 
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 絵は、竹久茂次郎(夢二)が、1907年8月18日に幸徳秋水宛てに書いた暑中見舞い?はがきの裏に書いたもの。
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# by kaguragawa | 2016-01-24 08:06 | Trackback | Comments(0)

倉田繁太郎の続報   

 銀座・十字屋の創始に関わった倉田繁太郎の履歴がわからないものか、と常々思っていたのですが、今日、思いがけないところで、「倉田繁太郎」に出会いました。それは、次の資料。

 『東京書籍商組合史及組合員概歴』
 編集兼発行 東京書籍商組合 大正元年11月

 次のように記されています。情報の出所は本人か十字屋であろうと思われ、上京の日付までが書きこまれた良質な記述です。

 十字屋 倉田繁太郎 初代(万延元年十月十七日生) 東京市京橋区銀座三丁目二番地

 生国は富山県射水郡作道村にして、世々農を営む。明治九年三月八日出京し、精義塾、若松塾、攻玉社等を転学し、明治十年、原胤昭の経営する十字屋を譲受け、基督教画及び洋書の輸入翻刻を主としたりしが、明治十七年以降楽器の販売を開始し、従って音楽書を出版し、爾来楽器を主とし、書籍出版販売を兼営して今日に及ぶ。

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# by kaguragawa | 2016-01-22 19:58 | Trackback | Comments(0)