渡良瀬の人々――謝花昇(旧稿)   

 以下は、十年余前に書いたもの。今日、あることを調べていて“謝花昇”の名前を見つけ、そういえば・・・と古いものを探し出しました。2005年9月28日に書いたもの。

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 田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想――足尾鉱毒問題の情報化プロセス』(1998.9/社会評論社)

 足尾鉱毒問題を扱ったこの本に、“謝花昇”の名前を見つけて、体がほてるほど興奮してしまいました。鉱毒問題のまだ広く世に知られる前、鉱毒被害の実態をいち早く調査したのが、農科大学の古在由直でしたが、そのころ、謝花は農科大学に在籍していたというのです。といっても、謝花昇についてなにほどのことも知るわけではありません。ただ明治時代の沖縄が、謝花という稀有の人物を介してこの渡良瀬に直結しているような気がして不思議な感慨にとらわれました。

 なお、当時の農商務大臣・榎本武揚が津田仙に同行し足尾鉱毒の被害地に足を運んだこと。その後の榎本の生き方。津田仙自身の生き方・・・。
 それにもまして渡良瀬流域に生れそこに生きた農民の――そこに集約点として田中正造という稀有の人材がいたことは今さら言うまでもないことでしょうが――「個としての、コミュニティとしての」鮮烈な生き方を、この本は淡々と伝えてくれています。
 足尾鉱毒問題をたどること。かなりさぼっていましたが、少しずつでも続けていきたいと思っています。
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# by kaguragawa | 2016-06-17 23:24 | Trackback | Comments(0)

啄木日記の「碧海君」   

 ひょんなことから、石川啄木の日記に何回か(何度も?)でてくる「碧海君」のことが少しわかった。この「碧海君」とは、碧海康温(あおみ・こうおん/やすはる)。当時、東京帝国大学の学生だった青年だ。金田一京助の第二高等学校時代の同窓(同級?)で、ともに東京帝国大学文科大学(のちの文学部)に進んだ縁で、京助と親しく、金田一のもとをたずねた啄木とも知友になったようだ。1907年7月、京助は帝大文科大学言語学科を卒業し樺太に渡りアイヌ語研究をした後、翌年4月から霞ヶ関にあった海城中学校に講師として勤めていたが、碧海康温の方は、哲学科を卒業(1908年?)した後、帝大理科大学地質学科に入りなおしたので、まだ学生だったようだ(1911卒業)。
〔帝大創設時からあった地質学科は、1907年「地質学科」「鉱物学科」に分けられた。この新・地質学科には、碧海のほか江原真伍、大橋良一、河村幹雄、中尾清蔵などのちに地質学会の中心となる錚々たるメンバーがいた。〕

 碧海康温氏。愛知県碧海郡阿乎美村の生まれで、今も岡崎市にある慈光寺という浄土真宗の由緒ある寺の跡取りだったが、弟が寺を継ぎ、本人は学究の道を進んだようだ。(阿乎美村→上青野村→1906六ツ美村→六ツ美町→1962岡崎市)。愛知県からはるばる仙台の二高に進んだきっかけや、大学(哲学科)卒業後、地質学科に再入学されたことなど(その後、研究と教育に従事)、さらに弓道とのかかわりなどなど興味尽きない人である。

 ※金田一京助 1882.05~1971.11.14
   碧海 康温 1883.01~1943.05.28
   石川  一 1886.02~1912.04.13

 なんと驚いたことに、この碧海康温氏、先年亡くなられた法哲学者の碧海純一さんのお父さんなのであった。碧海純一さんが3年前に亡くなられたこともうかつなことに実は昨日になって知った次第なのですが、碧海純一さんのお父さんが啄木の日記に登場する「碧海君」であることも、長尾龍一さんの碧海純一さん追悼文で知ったのでした。
 確か5年ほど前に啄木の日記をざっと通読した際、「碧海」という風変わりな姓を目にしてまっ先に思い浮かんだのは、碧海純一さんのことだったのですが、そのときは確かめる手段もなかったのですが、碧海純一さんが亡くなられたことを機縁にそうしたこともわかったのでした。


 なお、以下は啄木日記の「碧海君」抜き出しメモ一覧です(1908.04啄木上京後)。ほかにも登場箇所があるかも知れません。あくまで参考に。


1908:明治41年7月7日
 四時半頃金田一君の室にゆくと、碧海君と橋本とかいふ人が来てゐた。その二人が帰つて、九時過ぎまで語つた。

同年8月(19日?)
 十七日より今日まで、毎日金田一君碧海君と共に将棋を戦はせり。義太夫は将棋に代れるなり。

同年9月29日
 夜、碧海君が来て詩談。明日は晦日だと思ふと、心は何かしら安からぬ。此日は一日雨。

同年12月5日
 遠藤から手紙。せつ子へ久振に手紙をかいた。九州の菅原芳子と平山良子へも手紙かいた。良子には明星百号送つた。内海信之へハガキを添へて原稿を返してやる。
 夜、碧海君


1909:明治42年4月11日 ※ローマ字日記
 11 TH, SUNDAY.
 Kindaiti-kun no Heya ni wa Awomi-kun ga kite ita. Yo mo soko e itte I jikan bakari Muda-banasi wo sita. Sosite kono Heya ni kaetta.
 (金田一君の部屋には碧海君が来ていた。予もそこへ行って一時間ばかり無駄話をした。そしてこの部屋に帰った。)



 余分なことながら、上に「碧海純一さん」と親しげに書いたのは、我が身の丈に余るマックス・ウェーバーの難解な論文を読んでいた学生時代、書籍の上のことながら、多くのことをわかりやすく教えていただいたご恩によるもの。
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# by kaguragawa | 2016-06-15 19:37 | Trackback | Comments(0)

「袖ふれ合うも多生の縁」   

 きのうが、高橋治さんの一周忌、岩城宏之さんが亡くなって10年にあたる年でした。

 お二人とも、文字通り「袖ふれ合う」程度のご縁が、――岩城さんは私の10代に、高橋さんは30代に――ありました。そして、これもこの歳になって文字通り「多生の縁」を、我が生において感じています。
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# by kaguragawa | 2016-06-14 22:39 | Trackback | Comments(0)

生田春月の死   

 播磨灘に船上から身を投じたという詩人・生田春月の遺体が見つかったのは、今日、1930年の今日6月11日だという。

 ※生田春月 1892.03.12~1930.05.19
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# by kaguragawa | 2016-06-11 23:24 | Trackback | Comments(0)

夢二一行、黒部峡谷に遊ぶ   

 6月10日が、昭和3年(1928年)に竹久夢二が黒部峡谷に遊んだと日だいうことは、前にも書きましたが、この日の黒部峡谷行については思いのほかいろんな記録が残っていることがわかりました。しかもこうした記録の存在は偶然のことではなく、こうした紀行を雑誌の記事にするために仕組まれた一連の企画があったのです。
 峡谷行に同道したのは夢二と翁久允の二人だけではなく、多くのにぎやかなメンバーといっしょだったのです。

 いずれ、そうしたことをこの記事に書き足したいと思っています。いずれ。いずれ。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 23:56 | Trackback | Comments(0)

『名訳詩集』   

  『名訳詩集』 西脇順三郎・浅野晃・神保光太郎編/1969/白凰社 。

 饗宴。ここに凝縮されて示されてあるものの重さというか大きさに厳粛な気持ちになる。

 ここに集められた名詩を世に送り出したのは有島武郎、生田春月、生田長江、上田敏、尾上柴舟、片山敏彦、蒲原有明、小牧健夫、西条八十、山宮允、塩井正男、神西清、吹田順助、鈴木信太郎、高村光太郎、竹友藻風、茅野蕭々、土居光知、永井荷風、中原中也、中山省三郎、夏目漱石、新関良三、西脇順三郎、野口米次郎、昇曙夢、長谷川二葉亭、堀口大学、松浦一、三好達治、森鴎外、柳宗悦、矢野峰人、山内義雄、米川正夫。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 22:42 | Trackback | Comments(0)

バッハが身近なおっさんに――高野さんの魔術   

 きのうのことである取引先へ行こうと車に乗ったところ、地元放送局のラジオ番組から聞えてきたのは聞き覚えのある独特の言い回しの低い声。ほとんど最後の部分しか聞けなかったのですが、「高野さんにとってバッハってどんな存在ですか?」というような問いに「おらにとって、バッハは人生の同伴者のようなもんですちゃ」というような受け答えが聞えてきた。

 このわやくちゃな富山弁の主こそが、なんとあの栄誉ある?ライプツィヒ・バッハ資料財団〔Das Bach-Archiv Leipzig〕の広報室長を勤めておられる高野昭夫さんなのである。高野さんは富山市の出身。1960年生まれというから、私とほぼ?同年代。

 理屈抜きにバッハが身近なおっさんになってしまう不思議なトークである。

 それにしても今年のバッハ音楽祭が始まろうとするこの時期に、高野さん富山にいて大丈夫なのでしょうか。離国寸前のひとときを生地のラジオ放送に出ていただいたのでしょう。トークを最初から聴けなかったのが残念。

 今年は私も、6/10から6/19あたりをライプツィヒ同様、バッハ週間〔Bachwochen〕にしてみようか。
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# by kaguragawa | 2016-06-07 19:56 | Trackback | Comments(0)

携帯で撮った「火星」   

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 肉眼ではしっかり見えているのに携帯のファインダーでは位置決めができず、あえて街灯の斜め上の位置に火星をもってきて撮影したところ、うまくキャッチできました。
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# by kaguragawa | 2016-06-03 23:05 | Trackback | Comments(0)

ジョーク「新しい判断」   

 熊本城のライトアップが再開された。熊本市民のうれしさが伝わってくる。

 政治の私物化――。マスゾエ的意味なら許せないながらも可愛げがあるが、アベ的私物化は日本を腐敗させるもの。そこに横たわっているのは、いつぞや「美しき日本」とか言っていた人とは思えない、汚れた驕りである。HNKのNW9など会見の解説役どころか説得役をつとめるお粗末さだ。
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# by kaguragawa | 2016-06-01 22:14 | Trackback | Comments(0)

岩波文庫に新しい「山家集」・・・   

 5月ももう残すところ1日となった。今年は、春が無く、冬からぐずぐずと夏になってしまったような気さえする。

 安部政治はもう完全な破綻である。サミットの「共有認識」なるものをでっちあげて、そこに増税延期の逃げ道をつくる不正直さ、不信の極みであり、こんな国辱的首相がかつていたものであろうか。

 なかなかの難物だったが堀田善衛が25歳のときにかいた「西行」(1943~44)は、時間をかけ自分なりにていねいに読んだ甲斐はあった。そう言えば、岩波文庫に新しい「山家集」があるのを昨日になって知り、いささかショック。

 ※『西行全歌集』久保田淳、吉野朋美校注(2013.12)
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# by kaguragawa | 2016-05-30 22:35 | Trackback | Comments(0)

『産業革命』近代日本の軌跡 (8)   

 少し歴史を援用?しながら論文もどきのエッセイをようやく書き上げましたが、そのとき偶然図書館で見つけたのが『産業革命』(近代日本の軌跡 (8)/高村直助編/吉川弘文館/1994.06)。
 ちょっと古い本ながら、いろんな面で、いろんな点で教えられることが多くありました。

 上記の本とは別の話ですが、「高岡米商会所」の成立(1885.01)の背景を、どう考えたらいいのか・・・。そんなことも急がずに考えていきたい、と思っています。
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# by kaguragawa | 2016-05-18 22:17 | Trackback | Comments(0)

単なるメモ   

 Mさまへ

 No.129玉垣の《(右)泉州堺 (左)□□善次郎》がそうですね。
 これを「酢屋善次郎」と読んだのは、山元さんの功績ですね。

 〔2015/06/08〕
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# by kaguragawa | 2016-05-04 22:21 | Trackback | Comments(0)

「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ   

 なんとデ・レイケ(Johannis de Rijke)は、1891(明24)年、暴れ川常願寺川の治水工事に富山県に来た時、伏木港もおとずれ、藤井能三と会っていたのだ!。能三の『伏木築港論』(明治24年)に、このように登場する。

 今回富山県の水害検視として来県せし内務省雇工師和蘭人デレーケ氏の伏木港巡回を機として、右「アイカメ」の事を語り以て氏の意見を問ひしに、氏は海底の深浅及び大穴の個所等を試験したる後ち、未だ充分な調査を遂げざれども親部川は築港上最も必要なるものなりとて特に之を賞讃し、而して右「アイカメ」と称する深淵あるが為に多少の修繕を加ふれば如何なる大艦巨舶と雖も容易に川中に入るるを心得べく、其の費用は凡そ五拾万円ほど要するの見積りなれども愈々築港せんとするには、尚ほ充分に測量調査をせざれば能はずと言へり、されば伏木港民の口碑に伝はる「アイカメ」の深淵は氏の鑑定を得て倍々信を措くに足るのみならず、之が為めに如何なる蒸気船も容易に川中に入るを得べしと言うに至りては余は之を天与の地形と謂うも不可なかるべしと信ず。

追記:
 藤井能三とデ・レーケが「あいがめ」を話題に話し合ったとき、そこに同席していたのは誰なのだろう。そもそもデ・レイケを伏木に誘い、この出会いをセッティングしたのは誰なのか・・・。

追記:2016.05.02
 常願寺川砂防事業に詳しいMさんからご教示によると、デ・レイケに随行していた高田雪太郎の日記に、デ・レイケの藤井能三訪問のことが書かれているそうです。埋もれている資料に、大事なことが書かれているようです。詳細はあらためて報告します。
「歴史は忘れられた端役として存するのではない。人が思い出してくれさえすれば声を発するであろう」とは、伏木生まれの堀田善衞のことば。


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# by kaguragawa | 2016-05-01 16:10 | Trackback | Comments(3)

災地にありて災を慮らざる   

 死地にありて死を知らず、災地にありて災を慮らざるは、愚者の事なり。日本にありて、治水の理に通ぜざる、その亦愚者の誹を免れず。
 抑も治水学は日本に於いて将来一科の専門学たるべく、治水術は日本人の為め永く一種の専門術たるべきものなり。否な、日本に生まれて治水に通ぜざる者は、人にして衣食の理に通ぜざるよりも更に危険なり。



 久しぶりに心動かされることばに出会いました。稲垣示が、西師意の『治水論』(明治24)に寄せた「序」から。稲垣示が後に田中正造と行動を共にしたことを思い起こさせます。
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# by kaguragawa | 2016-04-29 21:53 | Trackback | Comments(0)

ある和解の報   

 5年前のニュージーランド地震の被災者の遺族と富山市長との和解が成立したとのニュースに、胸のつかえが降りたような安堵をおぼえた。詳細は略すが、蔭で尽力された人の存在を感じる。天災と人災のあわいで多くの苦悩が繰り返される。熊本に思いが飛ぶ。

 ここ数か月、本務(?)に力が奪われ、一冊の本も読み終えることもなく、過ごしている。よって、このブログにも何も記すことがらが無い。切れ切れの貧食をかてに、わずかな糸は紡いでいるつもりだが、後ろ向きというか下向きというか気組みの欠如に、自ら情ない思いを引きずったままである。
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# by kaguragawa | 2016-04-22 22:04 | Trackback | Comments(0)

越の春~地魚と地酒を堪能   

 けやきの芽吹きが見られ、ハナミズキも花芽が少しほころんできました。
 私には、サクラ前線がどうのこうのということより、心動かされる季節の移ろいです。

 きょうは、友人の誘いで富山湾のキトキトの魚(地魚)と地酒(「成政」と「北洋」)を、決してきれいとは言えないお店で、ゆっくり堪能。
 ここ一か月の追いかけられるような仕事のプレッシャーからしばし解放され、一度風邪で失った声ももどってきて、くつろぎのひとときを過ごしました。


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# by kaguragawa | 2016-04-06 22:24 | Trackback | Comments(0)

春の彼岸といわれれば・・・   

 春分の日といわれてもピンとこないが、春の彼岸といわれれば少し体感的にわかるものがある。

 が、残念なことに、季節のうつろいを味わうどころか、ゆっくり本を読む時間も、いろんな資料を調べる時間も、思索についやす余裕もないこの頃で、よって発見の驚きにも喜びにもひたることのできない日々が続いています。

 長いこと、――引き続きのパソコンの不調も理由の一つですが――このブログにも記事のないこと、そんなわけです。おそらく復帰は5月ごろか・・・と思います。

 そうそう、明日(3月21日)から高志の国文学館で企画展「夢二の旅――たまき・翁久允とのゆかりについて」がはじまる。その3月21日は、岸たまきの兄で、夢二とも縁の深かった岸他丑の歿後60年の命日になる。そうしたことも、心にとめながら春の一日を過ごしたい。
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# by kaguragawa | 2016-03-20 22:50 | Trackback | Comments(2)

ある日本女子大生と井上秀のこと   

 先週の土曜日、NHKの朝番組「あさが来た」を出掛けに見ていると、自分のことを「僕」という若い女性がでてきた。あさの娘千代の女学校の学友のようだ。切れ切れに見ているのでストーリーがのみこめてないが、この女性、のちに日本女子大学の第4代校長になった“井上秀”がモデルなのであろう。

 この井上秀のことを以前しらべたことがあり、あっそういえばと、当時調べたときの秀さんの古い顔写真も思い浮かんできた。ある人から次のような話を聞いたのがきっかけで、井上秀のことを少し調べたのである。

 「父親が亡くなったとき、当時在学していた日本女子大学の校長が葬儀に列席してくださった。」
 話し手は、三島霜川(本名:三島才二)の娘さん。霜川の娘さんは長女も次女も日本女子大学に通っていて、次女の実枝さんが在学中に、父・霜川が亡くなり――それは、1934(昭9)年3月のこと――当時の校長さんも葬儀に参列されていたというのだ。
 そのお話を聞いたちょうどその頃、偶然、児童文学者の岡上鈴江さんが亡くなられた直後で、岡上さんがやはり日本女子大学卒との紹介を目にし、何か胸が騒いだ。なぜ岡上鈴江さんのことを存じ上げていたかと言えば、岡上さんが隣県・新潟県の作家・小川未明の次女だったからである。岡上さんが亡くなられたのが、2011年の1月。97歳だとの新聞記事に、よもやと思い、未明の年譜をひっぱりだしてみたところ、次女の鈴江さんは1913年5月のお生まれだという。息子さん経由で実枝さんにあらためてお尋ねしたところ、実枝さんと鈴江さんとは同学年、同学科(英文学科)だったというのだ。

 よりによって霜川・未明という北国出身の作家の次女同士が同じ大学の同期で同じ学科に学んでいたとは・・・そうした当時の驚きも、同時に調べた校長・井上秀の名前とともに、思い出した次第。。。

 霜川次女の実枝さんも、昨年10月に102歳の天寿をまっとうして亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。


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# by kaguragawa | 2016-02-29 22:56 | Trackback | Comments(0)

啄木はある夜、秋聲を訪ねた   

 以前にも啄木の日記は拾い読みをしたことがあるのですが、先日、ある発表?の参考に少しまとめ読みをしました。
 結局は拾い読み程度の読みになってしまいましたが、いくつかおもしろい箇所を発見しました。その中で、「えっ!」と思ったのは、啄木が徳田秋聲を訪ねていることです。1909年3月13日の項。

 「夜、近所の徳田秋声氏を訪うたが不在、ミルクを飲んで帰って、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があった。」

 当時啄木が下宿していた蓋平館から秋聲の家までは、同じ「森川町一番地」の目と鼻の先。といっても距離は近くとも、細い道を二度ほど道を曲がらなければならないのですが・・・。
 (個人的なことで恐縮ですが、私が徳田秋聲遺宅を始めて訪ねたのも、もと蓋平館跡地に建つ太栄館から細い路地を地図を見ながらのことで、啄木と同じ道程。鮮明にその道筋の情景を覚えています。)

 結局、啄木と秋声は、その後、会う機会はなかった(ということでいいんですよね・・・)。
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# by kaguragawa | 2016-02-27 19:30 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。
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# by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)