急ぎメモ:漱石と内田雄太郎   

 きょう岩波書店の『図書』(2016.11)をのぞいていて【内田雄太郎】の名前に出会った〔長島裕子:漱石が翻刻した英語の教科書――丸善発行のアーサー・ヘルプスの文集〕。
 内田雄太郎――どこかで見た名前だと思って、検索してみたところ、私がその名前を最初に目にしたのは、金沢泉丘高等学校の「一泉同窓会」の会報誌「一泉」であることがわかった。以前、開成中学校(開成学園)のことを調べたときにこの会報誌〔十五号/平成元年3月〕のpdfを読んで、金沢と開成学園の不思議な縁に驚いたことがあるのだ。

 その内田雄太郎が漱石に宛てたユニークなはがきが残されているという(*1)。さらに長島さんの文章によると、内田雄太郎は明治三十年以降、富山県尋常中学校、富山県第二中学校など富山県下の旧制中学校にも在職したことがあるという。内田は富山に赴任する前に松山の愛媛県尋常中学校にいたことがあるのだが、その愛媛の中学校に着任した時(1896)、五高へと離任する夏目金之助と出会っているのではないかという。

 内田は、第四高等学校の前身の金沢第四高等中学校の卒業生で(*2)、故郷の金沢第一中学校に1919年から1927年まで数学の教師として在任しているという。

 長島さんの漱石エッセイを読み進めると富山ゆかりの北星堂まで登場してきて、ちょっとうれしい気持でページをくったことでした。

(おまけに)
 ・・・金沢には漱石と縁のある人間が米山保三郎や黒本植らを筆頭に多くいる。実はきょう、第四高等学校教授の八波則吉の金沢在任中の記録がないか探していたところだったので、少しばかり驚いた次第なのである。なぜというに、あまりふれられることはないが、金沢に足跡を残した八波則吉も、漱石に縁ある人物なのである(八波は、第五高等学校時代の夏目金之助の教え子)。

(*1)『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店/2016.9) 未見

(*2)内田雄太郎は、金沢第四高等中学校の初回卒業生(本科・二部理科/明治22年7月卒業)。あのZ項で有名な木村栄と同期である。出生地など詳しいことはわからないが、卒業生名簿には、「石川/士族」とある。
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# by kaguragawa | 2016-11-11 21:52 | Trackback | Comments(0)

三島正六――牛込区原町   

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 牛込区原町二の五十二
    三 島 正 六

 おそらく住所の覚え書きとして書かれたメモのようだが、名前を〔章六〕と書いて〔正六〕と直し、訂正印?を押してある。
 誰が書いたものか?。――徳田一穂さんだ。
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# by kaguragawa | 2016-11-05 19:44 | Trackback | Comments(0)

一か月前の夕暮れ   

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ここ数日、冬の入り口のような日々。10月の夕暮れが懐かしい。いたち川の太平橋より雄山と剱。
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# by kaguragawa | 2016-11-03 19:42 | Trackback | Comments(0)

河合理右衛門、河合クニのことなど   

 富山出身の女性が東京音楽学校で瀧廉太郎の1年下に在籍したことは、6月29日の「瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)」に書きましたが、この女性《河合クニ》が、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることを今日知りました(*)。
 河合理右衛門についても、ユニークな総曲輪史誌『総曲輪懐古館』(1977)の主要な登場人物として名前は知っていますが、その生涯については私にはまったく未知の人です。

 そうした瀧廉太郎の周辺のことは、ゆっくり調べていきたいと思っています。河合理右衛門、河合クニ(田村クニ)についてご存じの方は、情報を寄せていただければ幸いです。

(*)スバル文化会(富山県内の文芸関係有志)が発行していた雑誌「スバル」(2巻5号/1934.9)掲載の「富山芸術文化史」(其の六)の「明治32年7月21日」の項に、次のように記されている。
 「富山市河合理右衛門氏次子クニ子は七月東京音楽学校専修部を卒業帰富せり。直ちに大阪清水谷高等女学校に奉職なす」
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# by kaguragawa | 2016-10-31 22:10 | Trackback | Comments(0)

きょう(10/14)の立山連峰   

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# by kaguragawa | 2016-10-14 21:27 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞――陸軍病院の「門」   

 「一九四三年、夏のある日、召集を解除されて僕は富山陸軍病院の門を出た。それはもう十三年も前のことだ。まったく昨日のことのようにしか思えないのだが。
 門を出て、背広服を着た自分を、僕は何か犯罪者のように感じた。部隊のなかで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あるいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい! と思っていた。」
(堀田善衞「魯迅の墓その他」1956.10)

 ここに書かれてあることを現地で確かめたくて、具体的には陸軍病院の「門」のあった場所に立ってみたくなり、古い地図も多少は参観し現地へ行く機会をうかがっていたのだが、いざ、連休を利用してこの地に足を運ぼうとしたら、この文章が載録されていた『堀田善衞上海日記』がどこを探しても見当たらない。「ええいっ、行こう」、資料ももたずに、駅に向かった。2日前の10月10日のことである。

 実は、富山陸軍病院の“跡地”に行くのは、初めてではない。少なくとも3度はいっているはずだ。堀田が生地・富山県の東部第48部隊に召集された後、営舎のトイレで転倒して肋骨を骨折し、陸軍病院に入院していたことは年譜上の事実であり、堀田自身がどこかで(しかも何箇所かで)書いていることだ。それ故に、今までにも何度かこの地を訪れたのだ。だが、「僕は陸軍病院の門を出た。・・・僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。」と書かれたこのエッセイを読んだ以上は、“あらためて”現地に立つしかない。――と、思い定めた。

 市内電車を終点の「大学前」で降り、かつての連隊跡地に建てられた富山大学の前を通り過ぎ、大学の角を左折し、さらに最初の交差点で右折。この道は、かつて富山連隊から陸軍病院を結んでいた田舎道だった道だ。牛ヶ首用水に架かる藤子橋を渡ったところが、もと陸軍病院の地。新しい地図で確認済みではあったものの、その跡地には今年の三月に小学校が近くから移ってきて新しく校舎が建っていた。そしてこの日は、体育の日にちなんで運動会であった。1,2年生かと思われる児童があわせて踊っているにぎやかな音楽が辺りを圧倒していたものの、基底に不思議な静けさがあった。そして私は正面にまだ紅葉していない、しめったような緑の、呉羽丘陵をながめて、小さな息をすることができた。堀田は呉羽丘陵の濃い緑を――時期は5月のはずだ――、眼に納めたはずだ。  (未了)


 註)引用文冒頭の「一九四三年」は、事実に即せば「一九四四年」である。堀田のこの“間違い”というより“思い違い”が、何に因るものなのか。別に考えてみたいものと思っている。
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# by kaguragawa | 2016-10-12 19:53 | Trackback | Comments(0)

手塚治虫最後のベートーヴェン   

 探検バクモン(NHK)。「手塚治虫最後の仕事場」

 手塚治虫が最後に聞いていたレコードの音が再生された途端、はずかしながら、涙が止まらなくなった。
 ベートーヴェンの第九の第三楽章、アダージョ。

 久しぶりに「ヒョウタンツギ」に出会えて、もう心がいっぱいになっていたのだ。
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# by kaguragawa | 2016-10-10 22:53 | Trackback | Comments(0)

公金窃盗者を目の前に見て、言わねばならぬことは   

 “人を見たら泥棒と思え”ということわざ?(格言?)があるが、今日、“議員を見たら泥棒と思え”と言っても差し支えない状況であることが、私の地元の議会で判明した。なんともやりきれない、情けない、事態ではある。
 白紙の領収書に任意の数字を書き込んだり、パソコンで領収証をでっちあげてまで、それと引き換えに公費を受け取ると言うのであれば、落ちていたものをネコババしたという“できごころ”とはまったく違う、意図的で厚顔無恥な 税金泥棒、税金遣い込みであり、議員という人々の職責を考えた場合、まったくまったく、「ぜったいありえるはずのない行為」、公職者の公金窃盗犯罪である。しかもこの人たちが、無責任に議員辞職を積み重ね、富山市議会では辞職者「12人」であるという。
 よりによって、この人たちが、議員給与の値上げを、まさにお手盛りで決めて恥じないと言うのだから、信義は地に落ちてしまい踏みつけられてしまっている。
 これは、私たちが選んだまさに私たちの“選良”たちの行為である。

 “議員”というのは、私たちの何なのか。これほどまでに私たちは、自治というものを理解もせず、まして創造もしていなかったのである。  (未了)
 
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# by kaguragawa | 2016-10-04 22:28 | Trackback | Comments(0)

飛鳥寛栗師と三島霜川・正六親子のこと   

 飛鳥寛栗(あすか・かんりつ)師が昨日亡くなられた。享年一〇二。

 15年前、縁あって『それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情』(樹心社/1999)を手にして以来、近くて遠い大先達として――師が前住職を務められた善興寺(高岡市中田)は、拙宅から車で20分余の近さ――お名前だけは存じ上げてきましたが、4年前善興寺本堂で「三島霜川を読む」という朗読会があった折に、少しお話をさせていただく機会に恵まれました。
 先月も薩摩の「隠れ念仏」のことを調べる必要があって『越中僧・薩摩開教の記憶』(桂書房/2015)を、読ませていただいて、甑島にも大魯の影響で三業派の隠れ念仏が強かったことを教えていただいたばかりである。

 私の手元には、2.5メートル余もある「三島霜川誕生の地」と書かれた大きな木碑(*)の脇に“二人の男性”が立っている写真がある。一人は、霜川の息子さんの正六さんである。もう一人が誰かわからなかったのだが、つい先日、善興寺の現住職の飛鳥寛惠さんから、「これは父・寛栗です」と教えていただいた。この写真が撮られたのは1970(昭和35)年夏とのことだから、私など霜川の跡追いをしている人間には、大きな意味を持つ写真である。
 寛栗師は、霜川の生地である中田町が高岡市に合併される前の中田町時代に、中田文化会の中心として霜川の顕彰に松田富雄氏とともに尽力され、その地が高岡市となってからも「三島霜川選集刊行会」の副会長を務められたのである。

 そして寛栗師が著された『善興寺史誌』(1964)の資料編「慶應二年惣門徒書上帳」の檀家中に「般若組 下麻生村 間兵衛」の名が見える。これは累代、「間兵衛(間平)医者」と呼ばれた三島家のことであろう。

 なんと昨年百歳で『越中僧・薩摩開教の記憶』を世に出された寛栗師は百壱歳で亡くなられた。今頃、お浄土で30年前に亡くなられた二歳年下の三島正六さんと再会されていることであろう。

〔追記〕
 *この木碑(木柱碑)は、雑誌「高志人」に水守亀之助の三島霜川回想記「三島霜川を語る」が連載されたのを機に霜川復興の気運が地元で高まり、霜川の生誕地の中田町の文化会が1956(昭和31)年8月に建てたもの。
 その後、霜川の三〇年忌法要の年〔1964(昭和39)年〕に現在の石碑に建て替えられた。この年の一連の行事は、松田富雄、飛鳥寛栗氏らを中心とした中田町文化会と三島霜川顕彰会が主催しておこなわれた。
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# by kaguragawa | 2016-10-01 21:58 | Trackback | Comments(0)

庭すみに見つけたキノコ   

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# by kaguragawa | 2016-09-17 21:27 | Trackback | Comments(0)

今朝の立山連峰――某駅にて   


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自分のある記録です
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# by kaguragawa | 2016-09-05 23:16 | Trackback | Comments(0)

『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』   

『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』(梧桐書院/2016.8.8))
 金澤敏子/向井嘉之/阿部不二子/瀬谷實 共著

 何より読みやすく写しとられた100年以上前の新聞記事の“数々”。これがまずこの本のいのちだろう。変体仮名を読みなれない方には明治前記の新聞は少し酷かも知れないが、ほとんどの記事が本文中に翻刻してあるので、時代の息吹をそのまま伝える当時の記事に接することができる。

 もちろん、この本は資料集ではない。が、――1978(明治11)年や1988・89(同22・23)年の「米騒動」も含め――“掘り出され・選ばれた”本書の多くの資料群の有り様は、たとえば「モラル・エコノミー」といった問題提起と相まって、著者らの事実に向き合う姿勢を強く伝えている。

 「米騒動」研究史上この本がどんな意味をもつのか、専門外の私などにはまったく分からないし、著者らは「新聞資料の収集に追われ、どこまで本来の目的である、米騒動から見たジャーナリズムの検証に近づけたかは心もとない」と語るが、1918年米騒動の100年を2年後に控えて、今後の議論のあらたな論点になりうる基本的かつ斬新な問題をいくつも提示している本ではないかと思える。何よりも、「米騒動」の真実に近づきたいと願う人に、この“労作”に掘り起こされ示された記録――それが権力者側が残したものであれ――は、貴重な事実を示してくれるであろう。

 最後に目次を転記して、内容の紹介にかえます。

  第一章 近代国家――それは米と新聞から始まった
  第二章 倫理と暴力――全国に伝播した明治期最大の米騒動
  第三章 自立を始めた新聞と民衆――明治の米騒動とは何だったのか
  第四章 民衆意識の峰――ドキュメント 大正の米騒動
  第五章 権力とジャーナリズム――治安維持法への導火線
  第六章 米騒動以後のジャーナリズム――今、何が問われているのか

 なお、4人の著者は、分担執筆ではなく“共著者”として本書の形成に関わっているようであるが、各著者が、どのような論点にどのようにかかわっているのか、そうした説明はない。

 (追記:地元のジャーナリスト/井上江花や横山源之助の立脚点・論説が高く評価されているが、それに関して言えば、やはり北陸のジャーナリスト/桐生悠々の「新愛知」1918年〔8月16日〕の論説「新聞紙の食糧攻め――起てよ全国の新聞紙!」への言及が第五章にないのは、個人的には寂しい思いがする。)
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# by kaguragawa | 2016-08-28 23:02 | Trackback | Comments(0)

読み散らかし・・・から   

 いろんなものを読み散らかした夏休みでした。

 それでも表棹影の日記「まだ見ぬ君え」を――小林弘子『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』収録文によって――再読(というか通読かつ精読)できたことは、うれしいことでした。
 余談ですが、日記中に「東都の鯨洋兄」の名を見つけて、半信半疑の思いをしました。私が知る「鯨洋」は、後に竹久夢二に関わった医師で歌人の岡田道一のことだったからです。岡田は和歌山県生まれで京都帝大医学部卒業ですから明治40年当時の「東都の鯨洋兄」に該当するのか、かなり疑問だったのですが、諸資料から岡田が一高を卒業して京大に進んだこともわかり(つまり京大生になる前の青春時代を東京で過ごしていたことがわかり)「鯨洋兄=岡田道一」の可能性が強まってきました。

 もうひとつ、驚いたのは、水守亀之助『続・わが文壇紀行』に、“堀田善衞の「二つの衝撃」(中央公論)で洩らしているように、文学者はもっと深いところを見て考えなければならぬ。”の文言をみつけたこと。
 明治・大正文学の語り部であるといってもよい水守が、戦後、堀田に言及していることにも驚いたのだが、堀田をこのように読んでいたとは(註:堀田「二つの衝撃」には「文学者はもっと深いところを見て・・・」の文言はない。)信じられないくらいの思いである。
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# by kaguragawa | 2016-08-15 22:16 | Trackback | Comments(0)

8月15日。   

8月15日。

 昨日の記事ランキング。
 
 1 佐伯安一さん
 2 三島霜川「ひとつ岩」――いわき市四倉の人々へ
 3 〔かきやま〕と〔かきもち〕
 4 [水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり
 5 上柿木畠の時空散策
 6 霜川の“水の郷”
 7 「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ
 8 渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について
 9 よりによって今日、富山の「産業革命遺産」を訪う
 10 原敬を語る服部之総

 いろいろな折に書いたなつかしい、だが未完結な、記事が並んでいる。


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# by kaguragawa | 2016-08-15 19:38 | Trackback | Comments(0)

佐伯安一さん   

 先日来、佐伯安一先生米寿記念文集『常民へのまなざし』を読んでいたところでしたので、今朝の新聞で、佐伯安一さんが亡くなられた記事に接して茫然としてしまいました。

 おそらく先生の最後の講演になったのであろう高岡の佐渡家文書についての講義を、野暮用のためお聞きする機会を失ってしまった心残りがずっと、尾を引いていました。

 佐伯安一さんと懇意にされていた方が私の周囲に何人もいらっしゃったので、先生にご紹介いただく機会が何度もあったのに、そして敢えてその機会を避けたわけでもないのに、先生には親しくお話させていただくこともかなわないままになりました。

 今後も、いやこれからこそ、遺された業績を通してお導きくださることを遠くで願いつつ、ご冥福をお祈りします。
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# by kaguragawa | 2016-08-04 22:47 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”(2)   

 「水の郷」と「水郷」の文体を比較できるように、併記してみては・・・とのNさんからの要望?もあり、前稿と同じ箇所をここにならべて紹介します。

・「水の郷」(『婦人界』明治三十七年六月号)より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。

・「水郷」(『文庫』明治39年7月号)より
水の郷と謂はれた位の土地であるから、実に川の多い村であツた。川と謂ツても、小川であツたが、自分の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、恰ど碁盤の目のやうになツてゐた。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかツた。川が多くツて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解る。蛍は奇麗な水の精とも謂ツて可よいのだから、自分の村には蛍が沢山ゐた。

 両作品の文体の違いはあきらかです。しかし、この両作品の違いは、文体の違いだけにとどまるものではありません。話の筋はほぼ同じなのですが、改稿作では紙幅の関係もあったのでしょうが 消しさられてしまった部分がかなりあるのです。
 きわどい言い方をすれば、「水の郷」は――日露戦争の――戦中文学であり、「水郷」は戦後文学です。そして、戦中文学であった「水の郷」に意識して書き込まれていた当時の霜川の「トゲ」の部分、これをしっかりと復元して書きとめておきたいというのが、ここ数年間、霜川作品を読んできた私のささやかな願いなのですが、なかなか余裕がありません。今回も、予告だけということで・・・。
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# by kaguragawa | 2016-08-04 22:04 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”   

 三島霜川の作品には、清冽な小川が縦横に走りいつも微かな水音が聞こえているような村が登場する。霜川が“水の郷”と呼ぶ村である。まさに霜川(三島才二)の生まれ故郷である富山県西部の庄川右岸の砺波郡と射水郡にわたる一帯が、後背の丘陵地の伏流水が自噴しここかしこに流れるこうした村々だったのである。

 そうした“水の郷”が、そのタイトルも「水の郷」という小説(*1)の冒頭部分に描かれていますが、うかつにも「鶯屋敷」(*2)にもそうした描写があることに気をとめることがありませんでした。きのう、読み直して気づいた次第です。

  *1 「水の郷」 『婦人界』  明治37年6月号
  *2 「鶯屋敷」 『北國新聞』 明治40年1月20~23日

 ここで「鶯屋敷」のその部分を紹介しておくことにします。ここには、“水の郷”の語も出てきます。

・・・自体此の村は、水の便利が好い。村は、全く水の郷。戸毎の前後を遶つて、小流は、縦に横に流れてゐる。村の者は、此の流で夕、米をとぎ、朝、顔を洗ふのであつた。勿論鍬も洗へば、洗濯もする、鍋も洗へば、芥も捨てる、雖然流れは急であるから、汚れた物は直に流して了つて、何時でも清かである。此の朝も、流れは澄んで、鏡のやうであつた。

 なお、『婦人界』に発表された「水の郷」は、改変されて2年後に「水郷」の題で『文庫』に掲載されることになります。「水郷」の方は、――霜川顕彰の動きのなかで『三島霜川選集(上巻)』に収録され、現在、青空文庫でも読めますのでご覧いただければわかるように――文末が《だ・である調》であるのに対し、先行作の「水の郷」の方は、『婦人界』の読者を強く意識したのでしょう、《です・ます調》の語りかけるような文体が使われていて独特の味わいがあります。

 以下は、「水の郷」の“水の郷”紹介部分です。

・「水の郷」より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。


〔追記:1〕
 実は、霜川には「鶯屋敷」と題された作品がもう一つあるとされているのですが、残念ながら未見です。上掲の新聞掲載作「鶯屋敷」(明治40年)は、先行作であるそのもう一つの「鶯屋敷」の改稿作の可能性があるのですが、今は確かめようがありません。ただ、新聞掲載作のこの「鶯屋敷」中に、幼い女の子が福島安正の「討露軍歌」の断片を片言で口ずさんだりする箇所があり、日露戦争中に発表された先行作との関連を想像させています。

〔追記:2〕
 「水郷」という作品のタイトル“水郷”の読みは、当然に「すいごう」ではありません。当時「すいきょう」と読まれていた可能性が強いのです。この点についても、稿をあらためます。
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# by kaguragawa | 2016-08-01 23:17 | Trackback | Comments(0)

7月の終わりに   

 今月はいくつものことに――文字通り?――、追いつ=追われつ、で気がついたらブログの書き込みが皆無となってしまいました。
 せめて“みそか”の今日、メモをいくつか。

 丸山眞男については、名前を知っている程度のことなので当然のことでもあるのですがすが、彼のノートが『自己内対話』というタイトルで公刊されていたことを一昨日まで知りませんでした。

 (独り言ですが;「丸山眞男ってこんなにわかりやすい文章と簡潔な思考をもった人だったのですか?。」)

 昨日、『漱石紀行文集』(岩波文庫)購入。ブーイングを甘受しますが、思ったままを;「これらのうちのいくつかは、あえて文庫にいれるほどのものなのでしょうか。」

 今日、上掲文庫の漱石の文章について確認したいこと――具体的には「満韓ところどころ」中の“イン宣教師”と“リヴェリー”の表記――があり、「漱石全集」と照合しようと久しぶりに図書館に足を運んだのですが、第12巻だけ、誰かが借りたのかありませんでした。

 千代の富士が亡くなったという。さびしい。
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# by kaguragawa | 2016-07-31 22:58 | Trackback | Comments(0)

瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(1)   

 富山には滝廉太郎に直接、間接に関わる人が思いのほかに多い。
 東京音楽学校の廉太郎の学友で、廉太郎の死後、富山県に関わることになった人のことだけをメモしておきます。

 次稿に、『東京音楽学校卒業生名録』(大正十五年十月)から、廉太郎の卒業年次である明治31年前後の、卒業生の名前を本科専修部の生徒の分だけ写しておきます。ご覧ください。〔「明治三十一年七月卒業」の筆頭に「滝廉太郎」の名前があります。〕

 一学年上に、《桜井信彰》の名前が見えます。櫻井信彰(さくらい・のぶあき)は弦楽器の名手だったようです。在校当時も、演奏会で滝のピアノ、櫻井のヴァイオリン、一学年下の益山鎌吾のチェロの三重奏でブラーガ (Gaetano Braga) のセレナーデを演奏している記録が残っています〔1897.12.24の楽友会演奏会〕。その前後に撮られた3人の写った写真は紹介されることが多いので、目にする機会の多いものです。櫻井は、卒業後ケガのため演奏家としての道は断念し、音楽教師としての道を歩むことになりますが、なんとこの方の奥さんとなるのが富山の人なのです。土井フサ〔房〕さん。先日(27日)紹介した、土井宇三郎の姪です。そして、晩年(1945年)、櫻井信彰は娘の琉璃子と氷見に疎開、琉璃子が国泰寺末寺の宝光寺(氷見市加納)の住持と結婚したことで、氷見に住むことになり氷見で亡くなります。
(以上は、劔月峰『櫻散りぬ――ある小学唱歌教師一族の近代史』(文芸社/2007.4)に多く拠っています。)

 もう一人、注目すべきなのがやはりこれも一学年上の《高塚鏗爾》です。高塚鏗爾(たかつか・こうじ)は、廉太郎が1901(明治34)年4月6日に、横浜港からヨーロッパに旅立った際、日本最後の寄港地・長崎で滝を迎えています(9日)。長崎は当時の赴任先だったかと思われますが、高塚は夫婦で滝を迎え送っています。高塚は、長崎県師範学校などを経て、1908(明治41)年に富山県師範学校に赴任するのです。そして、高塚の音楽的感化によって、一人の若者が音楽に志すことになります。高階哲夫です。
 高塚鏗爾は、富山で多くの音楽教師を育てた富山の音楽界の恩人です。まずそのことをしっかりと覚えておく必要があります。その上で、考えておきたいのは、彼が小学校の音楽教師を育てていく中で、滝廉太郎の思い出を語り、なにより滝の音楽を富山に多く紹介したであろうことです。なお、高塚鏗爾は、『楽理研究』という本を、1917(大正6)年に中田書店から出しています。この中田書店の創業に同級の櫻井信彰の妻フサの伯父が関わっていたことなど知っていたのかどうかは、わかりません。またフサは初産を実家で迎えるために、夫・信彰の赴任地長崎から富山の土井家に里帰りしていますが〔1916(大正5)年〕、富山にいた高塚鏗爾がそうしたことを知りえる状況にあったのかどうかは不明です。(櫻井信彰=高塚鏗爾の間に、親しく近況の報告など手紙のやりとりがされていれば、その可能性はありますが。)
 残念なことに、私には、高塚が富山にいつまでいたのか、また、いつ亡くなったのかなど今のところまったく、わかっていません。が、今書いたように師範学校教師として多くの若者に接しているはずですから、教えを受けた生徒の証言がどこかに残ってないものなのか、そんなことも掘り出すことができればいいのに・・・と思います。

 隣県・石川県の石川県師範学校に赴任した滝の後輩・新清次郎(あたらし・せいじろう)に関わる富山県人もいることと思われるが、新清次郎については別にふれることにします。
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# by kaguragawa | 2016-06-29 20:25 | Trackback | Comments(2)

瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)   

 『東京音楽学校卒業生名録』(東京音楽学校/大正十五年十月)から;
(滝廉太郎卒業年次〔明治31年〕前後の本科「専修部」卒業生のみ記載)
 ■当時、東京音楽学校は、「秋」入学でしたので、卒業は「7月」です。
   ☆字体は通用字体に直しましたが、仮名遣いはそのままです。

明治二十九年七月卒業
 安藤 幸  東京 (元 幸田)
 永井幸次  鳥取
 東 クメ  和歌山(元 由比)
 塚越クガ  東京
 高橋二三四 岩手
 草野トメ  長野 (元 鈴木)
 三沢ステ  東京 (元 小関)
 河野虎雄  東京
 山形キク  東京 (元 内田)
 片岡亀雄  東京
 米野鹿之助 三重
 林 ツル  三重 (元 上原)
 鈴木フク  滋賀

明治三十年七月卒業
 橋本正作  栃木
 神山末吉  東京
 高塚鏗爾  東京
 稲岡美賀雄 山形
 鴨下鹿衛  高知 (元 横山)
 桜井信彰  静岡 
 天谷 秀  東京
 田井ハル  滋賀 (元 林)
 小林ヤヘノ 京都
 園江トミ  東京 (元 武田)

明治三十一年七月卒業
 滝廉太郎  大分
 杉浦チカ  東京 (元 高木)
 栗本清夫  東京
 安藤カウ  東京
 石野 巍  東京

明治三十二年七月卒業
 神戸 絢  東京
 益山鎌吾  鹿児島
 田村クニ  富山 (元 河合)


〔大事な追記〕
 上掲の名簿をじっくりご覧になった方がおられるとすれば、気付かれたことがあるはずです。なんと、滝の一学年下に“河合クニ(田村クニ)”という富山県人の女性の名前が見えます。1900(明治33)年入学の上市出身の福井直秋よりも、滝と身近に接したはずの富山県人です。どなたか、このクニさんのことをご存知の方はおられないものでしょうか。

〔追記:2〕
 本文中もこの名簿も、明治32年7月卒業生「益山鎌吾」の名前は上掲資料に従い、“鎌吾”としました。“謙吾”となっている資料もありますが、私には「鎌」「謙」の正否を決める手掛かりがないので、ここでは引用元資料のママです。

 今日は、滝廉太郎〔1879.08.24~1903.06.29〕の命日である。

〔追記:2016.06.30〕
《河合クニ(田村クニ)》については、富山県内でその足跡が見あたらず卒業後は音楽教師の道にはすすまなかったのかと思っていましたが、大阪の清水谷高等女学校、神戸の親和高等女学校(現:神戸親和女子大学)の音楽教諭として田村クニの名前を見つけました。ほっとした気分です。

〔追記:2016.10.31〕
《河合クニ(田村クニ)》は、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることがある史料から判明しました。そうした史実のフォローはこれからです。
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# by kaguragawa | 2016-06-29 20:23 | Trackback | Comments(0)