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スタバの“環水公園 冬の仲間達”   

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 金曜日の夕刻は、世界一美しい環境にあるといわれるスターバックスの富岩運河環水公園店で。

 店内には、“環水公園の冬の仲間達”!!!!
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by kaguragawa | 2016-11-18 21:26 | Trackback | Comments(0)

鏡花、ポストの周りを廻る   

 泉鏡花が郵便物をポストに投函した後も、ちゃんと集配されるか心配でポストの周りをなんども廻っていたという有名な?エピソードがあります。つい先日、このエピソードの典拠(典拠の一つ?)を、偶然見つけましたので、以下に、その全文をここに写しておきます。八波則吉のエッセイ「此の師、此の弟子」がそれです。
 八波の書き方からしても、鏡花がここに書かれているような話をほかの場所でもしている可能性があるので、ほかの人の伝える同様のエピソードがあるのか知れませんし、鏡花自身がどこかで書いているかもしれませんが・・・。


 明治三十六年、紅葉山人が亡くなられて間もない時のことである。門人の泉鏡花氏が故郷の金沢へ帰省された。四高生の同志が氏を迎へて、一夜茶話会を催して山人の逸話を聴いた。席上、鏡花氏が語られた談話の中で、今なほ忘れ得ないものがある。
「紅葉先生は、実に文章に苦心されるお方でした。」
 と冒頭して、
「先生は、日本紙の原稿用紙に、毛筆で綺麗に書かれるのでしたが、書き損じた時は必ず丹念に張紙されたものです。時には、張った上に又張って、三重も四重も張られている個所があります。試に、そっと剥がして見ると、同じ字句の場合もあります。全く雕心鏤骨されたものである」
 と述べられた。金色夜叉中の名文を暗誦していた青年学徒は、さもこそと感激した。
 良時あつて鏡花が又言はれた。
「で、私は、先生の原稿を投函する時は、必ず二三度、ポストの周囲を見廻したものです。若しや貴重な原稿が函の外に落ちはしなかつたからうか……」
 これを聴いた自分は、此の師にしてして此の弟子ありと感じた。


 ※「此の師、此の弟子」〔『随筆 身辺雑話』(東洋図書/1936.11)より〕

 なお、文中の「良時」には「しばらく」のルビがついています。ほかのルビは省略しました。
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by kaguragawa | 2016-11-16 22:36 | Trackback | Comments(0)

漱石と内田雄太郎(2)   

(承前)

追記〔2016.12.14〕
 昨日、『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店)を入手しました。なんと、内田雄太郎が漱石に宛てた絵はがきが、その表紙をかざっているのです。ただ、そのハガキが紹介されている本文(19p)のコメントには、内田について愛媛県尋常中学校から「郷里の富山県尋常中学校に転職」とあって、内田雄太郎が富山出身と読めるのです。果たしてそうなのでしょうか?。
 前項の(*2)に記したように、第四高等中学校の記録には「石川士族」とあるのです。「石川士族」は誤植なのでしょうか。(言うまでもまく、内田の第四高等中学校在学時、富山県は石川県から分離しています。)
 どなたかきちんとした情報を教えていただければと思います。

追記2〔2016.12.14〕
 内田雄太郎の「富山第二中学校」在任は、私の持っている「富山県立高岡中学校会員名簿」(昭和22)によれば、
 担任学科   数、物
 就任年月   明治三一、四
 転退任年月  明治三三、三
 本籍     石川
――となっており、内田が1898年4月の富山県高岡尋常中学校開校に合わせて、富山県尋常中学校から転任したことがわかる。
 彼の出身県が、「富山」でなはなく「石川」であることは、この本籍地記載からも間違いないと思われる。
 なお、この名簿では、内田雄太郎の名前の上に×印がついておりこの時点で(昭和22年12月調とのこと)亡くなっていたことがわかる。

追記3〔2016.12.15〕
 長島は岩波の『図書』(2016.11)で、富山県尋常中学校からの転任先を「富山県第二中学校」と記すが、内田の転任先は正確には「富山県高岡尋常中学校」である。「富山県第二中学校」に改名されるのは、転任1年後の1899年4月である。
 余談ながら、1899年4月に、「富山県第三中学校」が魚津に創設され、併せて「富山県尋常中学校」は、「富山県第一中学校」に改名し、さらに2年後の1901年10月に、第一(在・富山)、第二(在・高岡)、第三(在・魚津)の中学校はそれぞれ「県立富山中学校」「県立高岡中学校」「県立魚津中学校」と改名されることになる。
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by kaguragawa | 2016-11-14 21:32 | Trackback | Comments(0)

急ぎメモ:漱石と内田雄太郎   

 きょう岩波書店の『図書』(2016.11)をのぞいていて【内田雄太郎】の名前に出会った〔長島裕子:漱石が翻刻した英語の教科書――丸善発行のアーサー・ヘルプスの文集〕。
 内田雄太郎――どこかで見た名前だと思って、検索してみたところ、私がその名前を最初に目にしたのは、金沢泉丘高等学校の「一泉同窓会」の会報誌「一泉」であることがわかった。以前、開成中学校(開成学園)のことを調べたときにこの会報誌〔十五号/平成元年3月〕のpdfを読んで、金沢と開成学園の不思議な縁に驚いたことがあるのだ。

 その内田雄太郎が漱石に宛てたユニークなはがきが残されているという(*1)。さらに長島さんの文章によると、内田雄太郎は明治三十年以降、富山県尋常中学校、富山県第二中学校など富山県下の旧制中学校にも在職したことがあるという。内田は富山に赴任する前に松山の愛媛県尋常中学校にいたことがあるのだが、その愛媛の中学校に着任した時(1896)、五高へと離任する夏目金之助と出会っているのではないかという。

 内田は、第四高等学校の前身の金沢第四高等中学校の卒業生で(*2)、故郷の金沢第一中学校に1919年から1927年まで数学の教師として在任しているという。

 長島さんの漱石エッセイを読み進めると富山ゆかりの北星堂まで登場してきて、ちょっとうれしい気持でページをくったことでした。

(おまけに)
 ・・・金沢には漱石と縁のある人間が米山保三郎や黒本植らを筆頭に多くいる。実はきょう、第四高等学校教授の八波則吉の金沢在任中の記録がないか探していたところだったので、少しばかり驚いた次第なのである。なぜというに、あまりふれられることはないが、金沢に足跡を残した八波則吉も、漱石に縁ある人物なのである(八波は、第五高等学校時代の夏目金之助の教え子)。

(*1)『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店/2016.9) 未見

(*2)内田雄太郎は、金沢第四高等中学校の初回卒業生(本科・二部理科/明治22年7月卒業)。あのZ項で有名な木村栄と同期である。出生地など詳しいことはわからないが、卒業生名簿には、「石川/士族」とある。
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by kaguragawa | 2016-11-11 21:52 | Trackback | Comments(0)

三島正六――牛込区原町   

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 牛込区原町二の五十二
    三 島 正 六

 おそらく住所の覚え書きとして書かれたメモのようだが、名前を〔章六〕と書いて〔正六〕と直し、訂正印?を押してある。
 誰が書いたものか?。――徳田一穂さんだ。
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by kaguragawa | 2016-11-05 19:44 | Trackback | Comments(0)

一か月前の夕暮れ   

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ここ数日、冬の入り口のような日々。10月の夕暮れが懐かしい。いたち川の太平橋より雄山と剱。
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by kaguragawa | 2016-11-03 19:42 | Trackback | Comments(0)