<   2016年 10月 ( 6 )   > この月の画像一覧   

河合理右衛門、河合クニのことなど   

 富山出身の女性が東京音楽学校で瀧廉太郎の1年下に在籍したことは、6月29日の「瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)」に書きましたが、この女性《河合クニ》が、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることを今日知りました(*)。
 河合理右衛門についても、ユニークな総曲輪史誌『総曲輪懐古館』(1977)の主要な登場人物として名前は知っていますが、その生涯については私にはまったく未知の人です。

 そうした瀧廉太郎の周辺のことは、ゆっくり調べていきたいと思っています。河合理右衛門、河合クニ(田村クニ)についてご存じの方は、情報を寄せていただければ幸いです。

(*)スバル文化会(富山県内の文芸関係有志)が発行していた雑誌「スバル」(2巻5号/1934.9)掲載の「富山芸術文化史」(其の六)の「明治32年7月21日」の項に、次のように記されている。
 「富山市河合理右衛門氏次子クニ子は七月東京音楽学校専修部を卒業帰富せり。直ちに大阪清水谷高等女学校に奉職なす」
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by kaguragawa | 2016-10-31 22:10 | Trackback | Comments(0)

きょう(10/14)の立山連峰   

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by kaguragawa | 2016-10-14 21:27 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞――陸軍病院の「門」   

 「一九四三年、夏のある日、召集を解除されて僕は富山陸軍病院の門を出た。それはもう十三年も前のことだ。まったく昨日のことのようにしか思えないのだが。
 門を出て、背広服を着た自分を、僕は何か犯罪者のように感じた。部隊のなかで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あるいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい! と思っていた。」
(堀田善衞「魯迅の墓その他」1956.10)

 ここに書かれてあることを現地で確かめたくて、具体的には陸軍病院の「門」のあった場所に立ってみたくなり、古い地図も多少は参観し現地へ行く機会をうかがっていたのだが、いざ、連休を利用してこの地に足を運ぼうとしたら、この文章が載録されていた『堀田善衞上海日記』がどこを探しても見当たらない。「ええいっ、行こう」、資料ももたずに、駅に向かった。2日前の10月10日のことである。

 実は、富山陸軍病院の“跡地”に行くのは、初めてではない。少なくとも3度はいっているはずだ。堀田が生地・富山県の東部第48部隊に召集された後、営舎のトイレで転倒して肋骨を骨折し、陸軍病院に入院していたことは年譜上の事実であり、堀田自身がどこかで(しかも何箇所かで)書いていることだ。それ故に、今までにも何度かこの地を訪れたのだ。だが、「僕は陸軍病院の門を出た。・・・僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。」と書かれたこのエッセイを読んだ以上は、“あらためて”現地に立つしかない。――と、思い定めた。

 市内電車を終点の「大学前」で降り、かつての連隊跡地に建てられた富山大学の前を通り過ぎ、大学の角を左折し、さらに最初の交差点で右折。この道は、かつて富山連隊から陸軍病院を結んでいた田舎道だった道だ。牛ヶ首用水に架かる藤子橋を渡ったところが、もと陸軍病院の地。新しい地図で確認済みではあったものの、その跡地には今年の三月に小学校が近くから移ってきて新しく校舎が建っていた。そしてこの日は、体育の日にちなんで運動会であった。1,2年生かと思われる児童があわせて踊っているにぎやかな音楽が辺りを圧倒していたものの、基底に不思議な静けさがあった。そして私は正面にまだ紅葉していない、しめったような緑の、呉羽丘陵をながめて、小さな息をすることができた。堀田は呉羽丘陵の濃い緑を――時期は5月のはずだ――、眼に納めたはずだ。  (未了)


 註)引用文冒頭の「一九四三年」は、事実に即せば「一九四四年」である。堀田のこの“間違い”というより“思い違い”が、何に因るものなのか。別に考えてみたいものと思っている。
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by kaguragawa | 2016-10-12 19:53 | Trackback | Comments(0)

手塚治虫最後のベートーヴェン   

 探検バクモン(NHK)。「手塚治虫最後の仕事場」

 手塚治虫が最後に聞いていたレコードの音が再生された途端、はずかしながら、涙が止まらなくなった。
 ベートーヴェンの第九の第三楽章、アダージョ。

 久しぶりに「ヒョウタンツギ」に出会えて、もう心がいっぱいになっていたのだ。
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by kaguragawa | 2016-10-10 22:53 | Trackback | Comments(0)

公金窃盗者を目の前に見て、言わねばならぬことは   

 “人を見たら泥棒と思え”ということわざ?(格言?)があるが、今日、“議員を見たら泥棒と思え”と言っても差し支えない状況であることが、私の地元の議会で判明した。なんともやりきれない、情けない、事態ではある。
 白紙の領収書に任意の数字を書き込んだり、パソコンで領収証をでっちあげてまで、それと引き換えに公費を受け取ると言うのであれば、落ちていたものをネコババしたという“できごころ”とはまったく違う、意図的で厚顔無恥な 税金泥棒、税金遣い込みであり、議員という人々の職責を考えた場合、まったくまったく、「ぜったいありえるはずのない行為」、公職者の公金窃盗犯罪である。しかもこの人たちが、無責任に議員辞職を積み重ね、富山市議会では辞職者「12人」であるという。
 よりによって、この人たちが、議員給与の値上げを、まさにお手盛りで決めて恥じないと言うのだから、信義は地に落ちてしまい踏みつけられてしまっている。
 これは、私たちが選んだまさに私たちの“選良”たちの行為である。

 “議員”というのは、私たちの何なのか。これほどまでに私たちは、自治というものを理解もせず、まして創造もしていなかったのである。  (未了)
 
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by kaguragawa | 2016-10-04 22:28 | Trackback | Comments(0)

飛鳥寛栗師と三島霜川・正六親子のこと   

 飛鳥寛栗(あすか・かんりつ)師が昨日亡くなられた。享年一〇二。

 15年前、縁あって『それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情』(樹心社/1999)を手にして以来、近くて遠い大先達として――師が前住職を務められた善興寺(高岡市中田)は、拙宅から車で20分余の近さ――お名前だけは存じ上げてきましたが、4年前善興寺本堂で「三島霜川を読む」という朗読会があった折に、少しお話をさせていただく機会に恵まれました。
 先月も薩摩の「隠れ念仏」のことを調べる必要があって『越中僧・薩摩開教の記憶』(桂書房/2015)を、読ませていただいて、甑島にも大魯の影響で三業派の隠れ念仏が強かったことを教えていただいたばかりである。

 私の手元には、2.5メートル余もある「三島霜川誕生の地」と書かれた大きな木碑(*)の脇に“二人の男性”が立っている写真がある。一人は、霜川の息子さんの正六さんである。もう一人が誰かわからなかったのだが、つい先日、善興寺の現住職の飛鳥寛惠さんから、「これは父・寛栗です」と教えていただいた。この写真が撮られたのは1970(昭和35)年夏とのことだから、私など霜川の跡追いをしている人間には、大きな意味を持つ写真である。
 寛栗師は、霜川の生地である中田町が高岡市に合併される前の中田町時代に、中田文化会の中心として霜川の顕彰に松田富雄氏とともに尽力され、その地が高岡市となってからも「三島霜川選集刊行会」の副会長を務められたのである。

 そして寛栗師が著された『善興寺史誌』(1964)の資料編「慶應二年惣門徒書上帳」の檀家中に「般若組 下麻生村 間兵衛」の名が見える。これは累代、「間兵衛(間平)医者」と呼ばれた三島家のことであろう。

 なんと昨年百歳で『越中僧・薩摩開教の記憶』を世に出された寛栗師は百壱歳で亡くなられた。今頃、お浄土で30年前に亡くなられた二歳年下の三島正六さんと再会されていることであろう。

〔追記〕
 *この木碑(木柱碑)は、雑誌「高志人」に水守亀之助の三島霜川回想記「三島霜川を語る」が連載されたのを機に霜川復興の気運が地元で高まり、霜川の生誕地の中田町の文化会が1956(昭和31)年8月に建てたもの。
 その後、霜川の三〇年忌法要の年〔1964(昭和39)年〕に現在の石碑に建て替えられた。この年の一連の行事は、松田富雄、飛鳥寛栗氏らを中心とした中田町文化会と三島霜川顕彰会が主催しておこなわれた。
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by kaguragawa | 2016-10-01 21:58 | Trackback | Comments(0)