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『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』   

『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』(梧桐書院/2016.8.8))
 金澤敏子/向井嘉之/阿部不二子/瀬谷實 共著

 何より読みやすく写しとられた100年以上前の新聞記事の“数々”。これがまずこの本のいのちだろう。変体仮名を読みなれない方には明治前記の新聞は少し酷かも知れないが、ほとんどの記事が本文中に翻刻してあるので、時代の息吹をそのまま伝える当時の記事に接することができる。

 もちろん、この本は資料集ではない。が、――1978(明治11)年や1988・89(同22・23)年の「米騒動」も含め――“掘り出され・選ばれた”本書の多くの資料群の有り様は、たとえば「モラル・エコノミー」といった問題提起と相まって、著者らの事実に向き合う姿勢を強く伝えている。

 「米騒動」研究史上この本がどんな意味をもつのか、専門外の私などにはまったく分からないし、著者らは「新聞資料の収集に追われ、どこまで本来の目的である、米騒動から見たジャーナリズムの検証に近づけたかは心もとない」と語るが、1918年米騒動の100年を2年後に控えて、今後の議論のあらたな論点になりうる基本的かつ斬新な問題をいくつも提示している本ではないかと思える。何よりも、「米騒動」の真実に近づきたいと願う人に、この“労作”に掘り起こされ示された記録――それが権力者側が残したものであれ――は、貴重な事実を示してくれるであろう。

 最後に目次を転記して、内容の紹介にかえます。

  第一章 近代国家――それは米と新聞から始まった
  第二章 倫理と暴力――全国に伝播した明治期最大の米騒動
  第三章 自立を始めた新聞と民衆――明治の米騒動とは何だったのか
  第四章 民衆意識の峰――ドキュメント 大正の米騒動
  第五章 権力とジャーナリズム――治安維持法への導火線
  第六章 米騒動以後のジャーナリズム――今、何が問われているのか

 なお、4人の著者は、分担執筆ではなく“共著者”として本書の形成に関わっているようであるが、各著者が、どのような論点にどのようにかかわっているのか、そうした説明はない。

 (追記:地元のジャーナリスト/井上江花や横山源之助の立脚点・論説が高く評価されているが、それに関して言えば、やはり北陸のジャーナリスト/桐生悠々の「新愛知」1918年〔8月16日〕の論説「新聞紙の食糧攻め――起てよ全国の新聞紙!」への言及が第五章にないのは、個人的には寂しい思いがする。)
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by kaguragawa | 2016-08-28 23:02 | Trackback | Comments(0)

読み散らかし・・・から   

 いろんなものを読み散らかした夏休みでした。

 それでも表棹影の日記「まだ見ぬ君え」を――小林弘子『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』収録文によって――再読(というか通読かつ精読)できたことは、うれしいことでした。
 余談ですが、日記中に「東都の鯨洋兄」の名を見つけて、半信半疑の思いをしました。私が知る「鯨洋」は、後に竹久夢二に関わった医師で歌人の岡田道一のことだったからです。岡田は和歌山県生まれで京都帝大医学部卒業ですから明治40年当時の「東都の鯨洋兄」に該当するのか、かなり疑問だったのですが、諸資料から岡田が一高を卒業して京大に進んだこともわかり(つまり京大生になる前の青春時代を東京で過ごしていたことがわかり)「鯨洋兄=岡田道一」の可能性が強まってきました。

 もうひとつ、驚いたのは、水守亀之助『続・わが文壇紀行』に、“堀田善衞の「二つの衝撃」(中央公論)で洩らしているように、文学者はもっと深いところを見て考えなければならぬ。”の文言をみつけたこと。
 明治・大正文学の語り部であるといってもよい水守が、戦後、堀田に言及していることにも驚いたのだが、堀田をこのように読んでいたとは(註:堀田「二つの衝撃」には「文学者はもっと深いところを見て・・・」の文言はない。)信じられないくらいの思いである。
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by kaguragawa | 2016-08-15 22:16 | Trackback | Comments(0)

8月15日。   

8月15日。

 昨日の記事ランキング。
 
 1 佐伯安一さん
 2 三島霜川「ひとつ岩」――いわき市四倉の人々へ
 3 〔かきやま〕と〔かきもち〕
 4 [水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり
 5 上柿木畠の時空散策
 6 霜川の“水の郷”
 7 「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ
 8 渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について
 9 よりによって今日、富山の「産業革命遺産」を訪う
 10 原敬を語る服部之総

 いろいろな折に書いたなつかしい、だが未完結な、記事が並んでいる。


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by kaguragawa | 2016-08-15 19:38 | Trackback | Comments(0)

佐伯安一さん   

 先日来、佐伯安一先生米寿記念文集『常民へのまなざし』を読んでいたところでしたので、今朝の新聞で、佐伯安一さんが亡くなられた記事に接して茫然としてしまいました。

 おそらく先生の最後の講演になったのであろう高岡の佐渡家文書についての講義を、野暮用のためお聞きする機会を失ってしまった心残りがずっと、尾を引いていました。

 佐伯安一さんと懇意にされていた方が私の周囲に何人もいらっしゃったので、先生にご紹介いただく機会が何度もあったのに、そして敢えてその機会を避けたわけでもないのに、先生には親しくお話させていただくこともかなわないままになりました。

 今後も、いやこれからこそ、遺された業績を通してお導きくださることを遠くで願いつつ、ご冥福をお祈りします。
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by kaguragawa | 2016-08-04 22:47 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”(2)   

 「水の郷」と「水郷」の文体を比較できるように、併記してみては・・・とのNさんからの要望?もあり、前稿と同じ箇所をここにならべて紹介します。

・「水の郷」(『婦人界』明治三十七年六月号)より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。

・「水郷」(『文庫』明治39年7月号)より
水の郷と謂はれた位の土地であるから、実に川の多い村であツた。川と謂ツても、小川であツたが、自分の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、恰ど碁盤の目のやうになツてゐた。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかツた。川が多くツて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解る。蛍は奇麗な水の精とも謂ツて可よいのだから、自分の村には蛍が沢山ゐた。

 両作品の文体の違いはあきらかです。しかし、この両作品の違いは、文体の違いだけにとどまるものではありません。話の筋はほぼ同じなのですが、改稿作では紙幅の関係もあったのでしょうが 消しさられてしまった部分がかなりあるのです。
 きわどい言い方をすれば、「水の郷」は――日露戦争の――戦中文学であり、「水郷」は戦後文学です。そして、戦中文学であった「水の郷」に意識して書き込まれていた当時の霜川の「トゲ」の部分、これをしっかりと復元して書きとめておきたいというのが、ここ数年間、霜川作品を読んできた私のささやかな願いなのですが、なかなか余裕がありません。今回も、予告だけということで・・・。
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by kaguragawa | 2016-08-04 22:04 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”   

 三島霜川の作品には、清冽な小川が縦横に走りいつも微かな水音が聞こえているような村が登場する。霜川が“水の郷”と呼ぶ村である。まさに霜川(三島才二)の生まれ故郷である富山県西部の庄川右岸の砺波郡と射水郡にわたる一帯が、後背の丘陵地の伏流水が自噴しここかしこに流れるこうした村々だったのである。

 そうした“水の郷”が、そのタイトルも「水の郷」という小説(*1)の冒頭部分に描かれていますが、うかつにも「鶯屋敷」(*2)にもそうした描写があることに気をとめることがありませんでした。きのう、読み直して気づいた次第です。

  *1 「水の郷」 『婦人界』  明治37年6月号
  *2 「鶯屋敷」 『北國新聞』 明治40年1月20~23日

 ここで「鶯屋敷」のその部分を紹介しておくことにします。ここには、“水の郷”の語も出てきます。

・・・自体此の村は、水の便利が好い。村は、全く水の郷。戸毎の前後を遶つて、小流は、縦に横に流れてゐる。村の者は、此の流で夕、米をとぎ、朝、顔を洗ふのであつた。勿論鍬も洗へば、洗濯もする、鍋も洗へば、芥も捨てる、雖然流れは急であるから、汚れた物は直に流して了つて、何時でも清かである。此の朝も、流れは澄んで、鏡のやうであつた。

 なお、『婦人界』に発表された「水の郷」は、改変されて2年後に「水郷」の題で『文庫』に掲載されることになります。「水郷」の方は、――霜川顕彰の動きのなかで『三島霜川選集(上巻)』に収録され、現在、青空文庫でも読めますのでご覧いただければわかるように――文末が《だ・である調》であるのに対し、先行作の「水の郷」の方は、『婦人界』の読者を強く意識したのでしょう、《です・ます調》の語りかけるような文体が使われていて独特の味わいがあります。

 以下は、「水の郷」の“水の郷”紹介部分です。

・「水の郷」より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。


〔追記:1〕
 実は、霜川には「鶯屋敷」と題された作品がもう一つあるとされているのですが、残念ながら未見です。上掲の新聞掲載作「鶯屋敷」(明治40年)は、先行作であるそのもう一つの「鶯屋敷」の改稿作の可能性があるのですが、今は確かめようがありません。ただ、新聞掲載作のこの「鶯屋敷」中に、幼い女の子が福島安正の「討露軍歌」の断片を片言で口ずさんだりする箇所があり、日露戦争中に発表された先行作との関連を想像させています。

〔追記:2〕
 「水郷」という作品のタイトル“水郷”の読みは、当然に「すいごう」ではありません。当時「すいきょう」と読まれていた可能性が強いのです。この点についても、稿をあらためます。
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by kaguragawa | 2016-08-01 23:17 | Trackback | Comments(0)