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ある日本女子大生と井上秀のこと   

 先週の土曜日、NHKの朝番組「あさが来た」を出掛けに見ていると、自分のことを「僕」という若い女性がでてきた。あさの娘千代の女学校の学友のようだ。切れ切れに見ているのでストーリーがのみこめてないが、この女性、のちに日本女子大学の第4代校長になった“井上秀”がモデルなのであろう。

 この井上秀のことを以前しらべたことがあり、あっそういえばと、当時調べたときの秀さんの古い顔写真も思い浮かんできた。ある人から次のような話を聞いたのがきっかけで、井上秀のことを少し調べたのである。

 「父親が亡くなったとき、当時在学していた日本女子大学の校長が葬儀に列席してくださった。」
 話し手は、三島霜川(本名:三島才二)の娘さん。霜川の娘さんは長女も次女も日本女子大学に通っていて、次女の実枝さんが在学中に、父・霜川が亡くなり――それは、1934(昭9)年3月のこと――当時の校長さんも葬儀に参列されていたというのだ。
 そのお話を聞いたちょうどその頃、偶然、児童文学者の岡上鈴江さんが亡くなられた直後で、岡上さんがやはり日本女子大学卒との紹介を目にし、何か胸が騒いだ。なぜ岡上鈴江さんのことを存じ上げていたかと言えば、岡上さんが隣県・新潟県の作家・小川未明の次女だったからである。岡上さんが亡くなられたのが、2011年の1月。97歳だとの新聞記事に、よもやと思い、未明の年譜をひっぱりだしてみたところ、次女の鈴江さんは1913年5月のお生まれだという。息子さん経由で実枝さんにあらためてお尋ねしたところ、実枝さんと鈴江さんとは同学年、同学科(英文学科)だったというのだ。

 よりによって霜川・未明という北国出身の作家の次女同士が同じ大学の同期で同じ学科に学んでいたとは・・・そうした当時の驚きも、同時に調べた校長・井上秀の名前とともに、思い出した次第。。。

 霜川次女の実枝さんも、昨年10月に102歳の天寿をまっとうして亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。


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by kaguragawa | 2016-02-29 22:56 | Trackback | Comments(0)

啄木はある夜、秋聲を訪ねた   

 以前にも啄木の日記は拾い読みをしたことがあるのですが、先日、ある発表?の参考に少しまとめ読みをしました。
 結局は拾い読み程度の読みになってしまいましたが、いくつかおもしろい箇所を発見しました。その中で、「えっ!」と思ったのは、啄木が徳田秋聲を訪ねていることです。1909年3月13日の項。

 「夜、近所の徳田秋声氏を訪うたが不在、ミルクを飲んで帰って、(響)をよみながら寝た。十一時頃強い地震があった。」

 当時啄木が下宿していた蓋平館から秋聲の家までは、同じ「森川町一番地」の目と鼻の先。といっても距離は近くとも、細い道を二度ほど道を曲がらなければならないのですが・・・。
 (個人的なことで恐縮ですが、私が徳田秋聲遺宅を始めて訪ねたのも、もと蓋平館跡地に建つ太栄館から細い路地を地図を見ながらのことで、啄木と同じ道程。鮮明にその道筋の情景を覚えています。)

 結局、啄木と秋声は、その後、会う機会はなかった(ということでいいんですよね・・・)。
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by kaguragawa | 2016-02-27 19:30 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。
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by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)

ある地図   

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by kaguragawa | 2016-02-07 20:25 | Trackback | Comments(0)