<   2015年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧   

大晦日の紅さざんか   

e0178600_1463055.jpg
 雪のない大晦日
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-31 14:08 | Trackback | Comments(0)

[水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり   

 思ってもいない資料を見つけて、――といっても、要は当方の認識不足ということに尽きるのですが――驚きました。

  ある名簿の同じグループに、「野口詮太郎」と「水上峰太郎」の名前を見つけました。〔第四高等中学校/明治二十三年七月卒業生 29人〕――驚きました。竹久夢二の縁者として追いかけている「水上峰太郎」と堀田善衞の縁者として追いかけている「野口詮太郎」。この二人は、同期生として金沢の地で医学を学んでいたのです。それにしても同期生とは、思いもよらないことでした。

 そもそもは、水上峰太郎が金沢の「四高」の卒業生であることを諸資料で知って、四校の卒業生名簿を近代デジタルライブラリで探し出すところから始めたのですが、まずは水上峰太郎が、第四「高等学校」ではなく、第四「高等中学校」の卒業生だったことに、納得かつ落胆。明治3年(資料によっては2年)生れの峰太郎であってみれば、第四高等学校の前身の高等中学校の時代であることに思い至らなかったこと、我ながらまず第一のがっかりだったのです。まあそのがっかりは、峰太郎の名前が四高関係者の中に間違いなく存在していたことで安堵に変わりましたが。
 やれやれと思っているところに、「水上峰太郎」の名の近くに思ってもいなかった「野口詮太郎」の名があって、今度はびっくりです。しかしこれも落胆のタネでもありましたが。
 野口詮太郎が四高の卒業生であることも既知のことではあったのですが、峰太郎と同じ頃に在籍していたことに思い至らなかったこと、頭の中で知識がリンクされていないことが、第二の落胆だったのです。人事興信録の「君は富山県士族野口忠五郎の長男にして 明治三年十一月を以て生れ 大正十年家督を相続す 明治二十三年第四高等中学校医学部を卒業し 同二十四年陸軍三等軍医に任ぜられ 大正六年陸軍軍医監に累進す」という記述を、書き写していながらすっかり忘れていたのです。しかもこの記述は、卒業学校名も「第四高等中学校」と正確に記しているのですから、私のぼけぶりはかなりのもので、さらに落胆が深まったというわけです。

 もう一つ思いもよらぬ名前を見つけて、あわてました。これはまったく想定外である以上にどう考えたらよいのか、悩まされた記載です。「川崎五郎兵衛(川崎順二) 富山」・・・。
 蚕都であった山間の街の八尾〔当時は富山県婦負郡八尾町〕に伝わっていた「おわら」を今日見られるようなおわらに変身させた立役者(初代越中八尾おわら保存会会長)“川崎順二”も金沢の四高医学部の卒業生であることは、記憶にあったのですが〔http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-45c4.html〕、彼は生年〔1898(明31)年〕からして大正10年くらいの卒業生のはず・・・と思っていたからです。そして、今確認したところによえると「大正十一年五月」の卒業生名簿に「川崎順二」の名前があります。これが、八尾の開業医・川崎順二に間違いはないでしょう。・・・とすれば、〔明治二十三年七月卒業生〕中の「川崎順二」は別人?、同名の父親???。八尾の医家「川崎家」のことを、調べてみる必要があるようです。

 ――以上、見つけた古資料にびっくり、我が老朽化頭脳にがっかりの顛末。

 ※水上峰太郎は、竹久夢二の最初の妻・他万喜(岸他万喜)の姉・岸薫が嫁いだ医家。富山市総曲輪で開業。
 ※野口詮太郎は、堀田善衞の父・勝文(野口勝文)の兄。陸軍軍医。
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-29 14:25 | Trackback | Comments(8)

クリスマス店じまい   

e0178600_2217837.jpg
  立山スギのクリスマスツリー
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-25 22:17 | Trackback | Comments(0)

霜川「島の大尉」をめぐるあれこれ(1)   

 ふらりと入った小さな古本屋屋で、ちょっと意外な本を見つけてうきうきしながら、何気なくビニールにはいった古雑誌を2,3冊より分けたところで、何度も見たことのある表紙が目に飛び込んできた。e0178600_2062287.jpg憩う軍馬を背景に《戦争文学 四月之巻》と篆書体の大きな表題文字が書かれ、右肩には2行の角書きで、「日露戦争実記/定期増刊」とある。内容は見ることはできないが、何度も何度も、黒岩さんのサイト「古書の森日記」で目にしたものだから間違いはない。

 この《日露戦争実記/定期増刊/戦争文学 四月之巻》――明治37年4月23日発行/日露戦争実記第8号――には、三島霜川の「島の大尉」という小説が掲載されているのだ。
 私にとっては、この「島の大尉」という小説は、ある報告会で、この小説の一節を紹介したこともある思い出のある短篇小説であり、この掲載誌「日露戦争実記」は、5年前に亡くなられた黒岩さんと雑談をかわした思い出深いものでもあるのだ。大げさかも知れないが、“奇跡”の出会いである。

 霜川は、この「日露戦争実記/定期増刊/戦争文学」にいくつか作品を発表しており、私が読んだものはこの「島の大尉」「荒浪」「予言者」だけなのだが、とりわけ「島の大尉」「荒浪」は、三島霜川を考えるためにはとても大切な作品なのである。

 作品の紹介は措いておいて(*1)、今回雑誌の実物を入手したことによって、私には疑問だった書誌的事項のいくつかが判明したので、以下、そのことだけメモしておきます。「定期増刊/戦争文学」ということがよくわからなかったのですが、こういうことでした。

 育英舎から出ていた「日露戦争実記」は、月3回の刊行(旬刊)で、毎月8日、18日、28日に発行されることになっており(*2)、それに加えて毎月増刊として「戦争文学」号が刊行されたようなのである(*3)。そこで毎月刊行=定期増刊「戦争文学」という表題にしたようなのである。

 *1 作品名は明記せずに、この小説の会話部分を紹介したことがありました。
    「やがて、お上から、有り難か御沙汰があっど。」(2014.02.14)
     http://kaguragawa.exblog.jp/21685893/

 *2 「日露戦争実記」創刊号では、刊行日を〔毎月1日、11日、21日〕としている。いつから、この号〔通巻第13号の「戦争文学 四月之巻〕に書かれているような〔毎月8日、18日、28日〕になったのか、その後もその刊行日は変わらなかったのか、は未調査である。

 *3 この「戦争文学 四月之巻」は、4月23日の刊行:日露戦争実記通巻第8号であり、「戦争文学 五月之巻」は、5月25日の刊行:通巻第13号、「戦争文学 六月之巻」は、6月27日の刊行:通巻第16号のようである。「戦争文学」の刊行日は、必ずしも一定しなかったようである。(これはnet上の情報から拾いだしたもの)

〔追記〕
 書誌的事項やこの育英舎の「日露戦争実記」については、書きたいことがいくつかあるので、続編を書きたいと思っています。私の精進次第です・・・。


〔追記:2〕
 この「戦争文学 四月之巻」には、広津柳浪「天下一品」、小栗風葉「決死兵」、徳田秋聲「通訳官」、三島霜川「島の大尉」が掲載されていて、秋聲の作品は、全集で読んだものだが、これについても“秋聲の作品として”考え直してみたいことがあるが、私には荷が重い。
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-21 19:51 | Trackback | Comments(0)

霜川生誕地碑へ   

e0178600_18143882.jpg
 久しぶりに霜川(三島才二)生誕地碑へ。今日は、立山連峰がこの地からもよく見える。
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-20 18:19 | Trackback | Comments(0)

秋聲と南大曹   

1)
 12/9の《漱石と南大曹》の余談中に、徳田秋聲の『死に親しむ』にふれ、文中の“彼”〔秋聲の分身〕が診断を受けている「M―ドクトルも、南大曹なのであろうか。」と書きました。その後、大曹に関する私製メモ(前回のものはその要約)をもう一回読み直してみると、確証はもてないのですが、この「M―ドクトル」が南大曹であってもいいのかな、肯定的に考えてもよいのかな・・・という気がしてきます。秋聲研究者の方のご意見をお聞きしたいところです。
 以下、Aは「死に親しむ」の該当箇所で、Bは私の南大曹メモです(太字の部分に注目)。

【A】  「死に親しむ」(1933)より
「癌じゃないですか。」彼はM―ドクトルの診察室で、ベッドに横たわりながら訊いた。十五六年以来同じ質問を口にしたのは、幾度だか知れなかった。
「癌ですか。」M―ドクトルは指で腹を押し押ししながら、うふふと笑った。
「どこにもそんなものはありませんよ。」

「しかし・・・。」
「大丈夫ですよ。軽微な胃潰瘍のようなものですけれども心配ありません。少し続けて薬を呑んで下さい。」
 彼は薬をもらって帰って来た。


【B】  南大曹:1878.03.31~1945.02.26 
 奥州二松松藩(福島)の藩医・近藤玄貞の子。近藤達児(衆議院議員、1875-1931)は、兄。福島県安達郡二本松で生まれ、医業を営んでいた南二郎(山岡房次郎)の養子となる(山岡は、二本松少年隊の一員)。
 1905(明38)年、東京帝国大学医科大学を卒業。1910(明43)年~1912(大1)年、ドイツに留学。1913(大2)年、医学博士。長与称吉の「胃腸病院」に勤務し、二年後、南胃腸病院を開設して一般診療に従事。
 著書に、『胃腸病診断及治療学』(南江堂)などがある。日本消化器病学会会長、癌研究会理事長、日本医科大学教授などを歴任した。
 触診で、病名を言い当てたというエピソードがあり、長男・南博のエッセイ(*)のなかにも、“おれの指はレントゲンよりも正確だというような自信があって、顔色を診ただけでもわかるとか、それから縁起でもない話ですが、患者さんの亡くなる日時、ほとんどあと何日で、場合によっては時間もかなり正確に、そのころまでと言うと大体当たっているというようなことで。”――とある。
 全国的に有名で、日本各地から旅館を予約して治療に通う患者がいたといわれる。

*=「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」一橋の学問を考える会[橋問叢書 第四十七号] 
http://jfn.josuikai.net/nendokai/dec-club/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai47gou/GakusyaTosei.htm

2)
 上記の「『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として」は、1985年の講演を文字化したもののようです。冒頭の一節には「わが父、南胃腸病院院長・南大曹」というサブタイトルがついています。大曹さんがどんな方だったのか、よく語られていますので、部分的に、抜き写しておきます。

●一日三時間くらいしか睡眠をとらないんです。夏は七時から病院、冬は八時から晩の四時、五時まで。日本で一日に一番多数の患者さんを診ただろうと言われて百人ぐらい。
●病院経営というのは非常にむずかしいので、父なんかは一番合理的にやりました。そのかわり病院と運命を共にするということで、関東大震災のときは京橋の木挽町、いま中央公会堂、あそこだったんですが、焼け落ちる、もう危い瞬間まで自分だけ残って、患者さん、お医者さん、看護婦さん、全部上野の公園に避難させて、自分が最後に病院を出て、いまは自動車道になっていますがそのころは川があって、橋を渡った途端に橋が落ちたということで、やはりリーダーシップをとる人間は、それは船だと船長さんがそうでしょうが、自分の生命よりあずかっている方と部下の生命を大事にするのです。

3)
 最初建てられた「南胃腸病院」は、上に書かれているように、関東大震災で被災。先日書いたように新築されることになります。下の写真を見ていただければおわかりのように立派なものです。設計は、明治生命館や歌舞伎座(三代目)の設計で知られる岡田信一郎です。なお、震災復興で、前を流れる築地川に楓川との連絡水路も新設され、ちょうど病院の前に、めずらしいY字の橋――「三吉橋」が架けられます。
 写真は、その当時(昭和5年)のものだろうと思われ、「彼」(≒秋聲)が渡瀬ドクトル(≒亘理祐次郎)を見舞ったのは、竣工後数年のこの景観の病院だったろうと思われます。
e0178600_20275934.jpg
 手前が震災復興でできたY字橋「三吉橋」、中央が南胃腸病院、病院の奥に見えるのが松屋デパート。
 のちにこの橋が、三島由紀夫「橋づくし」(1956)、堀田善衞「橋上幻像」(1970)の舞台となります。


〔追記〕
【三吉橋】 完工時のデータ
 位置:旧京橋区木挽町1丁目←→同区新富町5丁目←→同区築地1丁目の間
 橋長:82.8m 有効橋幅:15m 
 設計:復興局橋梁課
 起工:昭和4年[1929]2月 
 竣工:昭和4年[1929]12月
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-11 20:13 | Trackback | Comments(0)

漱石と南大曹   

 きょうは、夏目漱石の命日。ふと思い浮かんだのは、主治医・真鍋嘉一郎の要請を受けて、真鍋嘉一郎、宮本叔とともに漱石の最期の治療にもあたった南大曹のこと――。
 
〔参考〕
 夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』から
 “容態がいよいよ険悪なので、真鍋さんも自分の相談相手にその道の先輩を呼んでいただきたいとおっしゃり、そこで宮本博士からお出でを願い、さらには南博士からもお越しを願うことになりました。いらした先生方も皆内出血ということに異議はありませんでしたが、その溜まっている血を出すのにどうしようかというのでたいへんでございました。”


 以下、徳田秋聲の「死に親しむ」を読んだ際につくったメモの中から、南大曹の「南胃腸病院」の部分を、写しておきます。

 医者である渡瀬ドクトルが患者として入院するほど信をおいていた病院で、「木挽町」の“川縁にある”胃腸病院といえば、夏目漱石の最期に際して消化器系の専門医として治療にあたった南大曹の「南胃腸病院」しかないであろう。
 長与称吉の「胃腸病院」にいた南大曹が、木挽町に開業(1915)し、震災後再建(1929)。再建の病院は、岡田信一郎の設計。作中にふれられている“畳敷きの間”は、長与の胃腸病院の様式を受け継いだ控えの間だろう。
 “彼”が診断を受けている“M―ドクトル”も、南大曹なのであろうか。

 南胃腸病院は、大曹歿後、大曹が理事を務めていた癌研究所の附属病院となり(1946)、現在は、跡地に銀座ブロッサムが建つ。

 ■南大曹:1878.03.31~1945.02.26 福島ニ本松生れ  南博(社会心理学)は長男。 
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-09 22:33 | Trackback | Comments(0)

帝大赤門前 島崎書院内--島木健作   

 本郷の「島崎書院」のあった場所を、ブログの記事を読まれた何人かの方から尋ねられ、今まであいまいな返事をしてきました。なにせ本郷の地に住んだこともない私としては、古い地図と現在の地図の縮尺を合わせて重ねてみるくらいしか、できないのですから・・・。
 ところで、なぜか最近「島崎書院」検索によるこのページの閲覧が多く、自分なりにも少し確たることを知りたいとの思いが出てきて、今一歩?、つっこんで調べてみました。
 なにせ、島崎書院のあった場所は、今の菓子処「扇屋」のあたりと自分で書いたこともあり、先月の3日に上京した折、「ここが島木健作ゆかりの「島崎書院」のあった場所・・・」との思いで「扇屋」さんに立ち寄り、“赤門もち”を買い、おいしくいただいたのですから。(今まで、何度も扇屋さんの前を通りながら、いつも日曜日だったのでお休みだったのです。)

 島木健作が、兄・島崎八郎のやっていた古書店を発信地として出した書簡があり、それには番地は記されておらず、「東京市本郷区帝大赤門前 島崎書院内」と書かれているとのことですが、私が、4年前に「本郷六丁目四番地」と当時の番地まで明記した根拠は、昭和18年に作られた「舊六丁目町會隣組明細圖」(ただし、私の見たのはリライトされたもの)に記載された《島崎(古書店)》の位置に拠るものであり、それを、当時の地図の番地に合わせたものだったのです。ただ、今回正確を期して追補したいのは、「本郷六丁目四番地」がまるまる「島崎書店」なのではなく、――「四番地」のほとんどを占めるは「大和館」という旅館――「四番地」の本郷通りに面した南東隅の一部分が「島崎書院」である点です。(この地図を、ここにお示しすることができないのが残念ですが、内容は信頼のおけるものだといってよいものと考えます。)

 旧「本郷六丁目四番地」の場所については、goo古地図〔http://map.goo.ne.jp/history/〕で確認が容易でしょうから、この地が、現在の住居表示のもとでどういった表記となるのか、そこに現在どういう建物があるかは興味のある皆さんは、ご自身でご確認いただくのがよいのではないかと思います。上にも書いたように、「本郷六丁目四番地」の「一郭」ですから、現在の住居表示で何番何号、という風にぴったりあてはまらないかと思います。
 この地を訪ねる目安とすれば、やはり“現在の本郷五丁目、赤門前の菓子処「扇屋」辺り”ということになる。。。というのが、私の今日の再確認後の結論です。

 もう一つ、私なりに追記しておきたかったのが、島崎書院の位置が「赤門停留所前」ともいわれている点です。この「停留所」は、昭和初年のこの時期では、東京市電(1943(昭18)年からは、都制の施行により「都電」)の「本郷線(19系統?)」の《東大赤門前》の停留所のことだろうと思われます。〔この路線は、1971(昭46)年3月18日の第6次都電撤去で廃止。〕
 この本郷線の「赤門前」は、白山方面行き(北向き)と神田方面行き(南向き)――どちらが上りでどちらが下りなのだろうか?――で、停留所が方向別に“はす向かい”にあり、北向き地図でいうと、本郷通りの左半分側の路上、「四番地」の大和館(大和旅館?)の前辺りに、白山方面行きの停留所があったようです。(神田方面行き電車の停留所は、本郷通りの大学よりの路上、赤門に向かって門のやや左側の位置辺りかと思われます。)

 こうしたことも地図から読み取ったことなので、実のところはそこにその当時お住まいになっておられた方からお聞きしたいこと切なのですが、こんなところで雑な報告メモを(をはり)とします。
[PR]

by kaguragawa | 2015-12-09 19:50 | Trackback | Comments(1)