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渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について(2)   

5)亘理医院の所在地

  地図に亘理医院の名が記されたものがあることを、本郷在住の忍足和俊氏からご教示 いただき地図の写しもいただいた。ただし、その地図の出所が確認できなかったのだが、同一の地図をこれも国会図書館のデジタルライブラリーで見つけることができた。
『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』(大正1)の〔本郷区18〕のページである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079/607
e0178600_19555722.jpg
 不鮮明だが、赤丸囲いの部分に「亘理医院」とある。★印が徳田家。
 ピンクの道が白山界隈への道である。

(参考)
 本郷区森川町は、もと岡崎本多家の江戸屋敷の跡地である。中心に初代本多平八郎忠勝を祀る「映世神社」を置くそのほぼ全域(前掲図の区域)が、明治に「森川町一番地」とされ、北表通、北裏通、南表通、北裏通、中通、宮前、宮裏、新坂、南堺、牛屋横丁、油屋横丁、椎下、橋通、橋下、谷、新開の16の地区があったという。『帝国医鑑』に亘理医師の開業地として記された「宮前」や、秋聲の住所記載に使われる「南堺」もそうした地区地名である。
 本郷地区に、住居表示制度が実施されたのは、1965(昭和40)年4月。6丁目までだった本郷は、それまでの区域の拡大変更もふくめ七丁目までとなり、森川町地域は本郷六丁目となった。森川町一番地〔森川町107〕のもと亘理医院の地は、文京区本郷六丁目15番9号となっている。

6)亘理祐次郎と「死に親しむ」の渡瀬ドクトルの記載

(年齢)
 「死に親しむ」の渡瀬ドクトルの紹介“同じくらいの年配のダンス友達”の記述は、
亘理祐次郎の生年月日《明治五年十二月二日 〔1872.12.31〕》と、
徳田末雄(秋聲)のそれ《明治四年十二月二十三日〔1872.02.01〕》を並べてみると、
そのとおりである。実質的な誕生日の時差は、11月か月ほどである。
(地理)
 “物の一町と隔たっていないドクトルの家”の記述も、1町≒約110mとすれば、前掲の地図にマーキングした道程距離にほぼあてはまる(実際は150mほどか)。この二人のダンス友達は、患者と医者として、話題の合う友として「映世神社」の前を頻繁に行き来したものであろう。
 なお、亘理医院の地は、祐次郎が亡くなった後、作中にも示唆されていたように、居住者が変わっており、昭和10年の火災保険地図(火保図)には「向岳寮」の名になっている。
(長子の外科医)
 “長子は、医者は医者でも、外科医であった。”“外科の医学士である長子”などの記述は、晩年に近い時期の医師名簿に、父子の名前が出ており、祐邦氏が、慶應大学医学部卒の医学士で外科医であることに、符号する。
(亘理医師の郷里)
 渡瀬ドクトルの出身地は、「死に親しむ」をはじめ渡瀬ドクトルが登場する作品には書かれていないようだが、「彼」が、渡瀬ドクトルが郷里へ身を潜めたことを知り、“ドクトルに見舞の手紙を書こうか、それともそんなに時間がかからないなら、避暑かたがた行ってみようかとも思って、汽車の時間を調べてみたが十五六時間はかかるらしかった。” と書かれており、「帝国医鑑」に記された《宮城県遠田郡涌谷町立町/とおだぐん・わくやちょう・たつちょう》と、当時の東北本線(旧・日本鉄道)と石巻線を乗り継ぐ交通路や時刻表とは厳密な照合ができていないが、ほぼ実態に合うようである。
 なお、宮城県遠田郡涌谷町は、宮城県亘理郡亘理町を本貫の地とする「亘理氏」の一つの拠点であり、両地とも「亘理姓」が今も多い。
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by kaguragawa | 2015-11-28 19:56 | Trackback | Comments(0)

渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について(1)   

(以前、このブログに書いたものもふくめて、レポートをつくり直したので、あらためて掲載します。)

 「死に親しむ」の主要な登場人物で、他の秋聲作品にも「渡瀬ドクトル」の名で登場する医師で秋聲のダンス友達であったこの人物は、どのような人であったのか。
 今までの秋聲研究でも「亘理医師」という名が出るだけで、本人の探索はほとんど等閑視されている状況だった。本人の歿後、遺族が本郷の地を去り、消息がつかめなかったことによるのであろう。

 秋聲作品に〔渡瀬ドクトル〕エッセイに〔W氏〕などとして登場するダンス友達のご近所さんを、追ってみた。

1)
 今回、明治時代の医師名簿を国会図書館のデジタルライブラリーで繰っていて、次のような貴重な記載に出会うことができた。明治43年発行の『帝国医鑑』である。e0178600_2142142.jpg
【帝国医鑑. 第1編】(河野二郎 編/明43.5/旭興信所)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779910/81

宮城県平民 
     亘理 祐次郎
       本郷区森川町一 
       電話下谷七二八

君ハ明治五年十一月二日出生ニテ 遠田郡涌谷町立町ハ
其原籍ナリ
明治三十二年九月廿九日附 医術開業試験ニ合格シテ
免状ヲ受ケ 現所宮前一三六号ニ開業


2)
 大正時代末から発行された『日本医籍録』には、亡くなるまで記載がつづく。
 『大日本医師名簿』によれば、二人体制でやっていた時期のあることもうかがわれる。

【大日本医師名簿 大正14年4月 光明社】
 森川町一  亘理祐太郎   *「祐太郎」は誤植であろう
 同 亘理方 下平軍平 
【日本医籍録 大正14年 第一版】
 亘理祐次郎 森川町一
  明治五年十二月二日生 
  明治卅年 登 九九六七号
 

 *誕生日が、『帝国医鑑』と異なる。なお、「明治五年十二月二日」は旧暦最後の日である(翌十二月三日が、1873年1月1日となる)。秋聲は、旧暦で前年・明治四年末の生まれ(後述)

3)
【日本医籍録 昭和5年版/昭和6年版 両版】e0178600_21175227.jpg
 亘理祐次郎 森川町一
  明治五年十二月二日生 
  明治卅年 登 九九六七号
 
亘理祐邦  森川町一
  明治卅三年五月六日生 
  昭和二年 慶大医学部卒 登 五七三五四号


※この2年間の『日本医籍録』には、慶應医学部を卒業した「亘理祐邦」の名が列挙されている。他資料によれば、祐邦氏は「外科」の医師であることは間違いないので、「死に親しむ」の記述“外科の医学士である長子”が、事実に拠ったものであることがわかる。
※祐邦氏については、亘理医師について早くから情報を集めておられるkamei asamiさんが慶應大学側の資料のご確認をしてくださいました。感謝します。

4)
【日本医籍録 昭和7年版】
 亘理祐治郎 森川町一〇七
  全科 亘理医院 
  明治五年十二月二日生 
  宮城県出身 
  明治卅十年試験及第 登 九九六七号 
  明治卅六年四月現地開業 
  趣味読書


※この年度のものは、亘理氏だけでなく他の医師の記述にも、診療科名、病院名が記載されている。亘理氏の場合「全科」。住所の記載も、広範な「森川町一番地」ではなく、町内全域を街区に分け、連番をつけた「107」が使われている(徳田家は、「124」)。名前の「祐治郎」は誤植であろう。開業年月も、明治36年(1903)年4月と記されている。
 なお、この「107」の地番表記から特定される区画(別紙「火保図」参照」は、次ページの地籍図に記載された「亘理医院」の場所と一致する。

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by kaguragawa | 2015-11-28 19:26 | Trackback | Comments(0)

しばし休業?中   

パソコン不調のためしばし休業?中です。

Fluctuat nec mergitur
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by kaguragawa | 2015-11-18 20:26 | Trackback | Comments(0)

秋聲忌 墓前祭   

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  静明寺 金沢市材木町
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by kaguragawa | 2015-11-07 20:15 | Trackback | Comments(0)

築地で、霜川「夕汐」を読む   

 3日、4日は東京でした。好い天気でしたので、4日には、木挽町、築地あたりを歩き回ってきました。築地精養軒跡地に建つ時事新報社ビルのスタバで鴎外の『普請中』を思い起こし、築地では佃渡しのあった辺りで霜川の「夕汐」――出掛ける前日にあわててコピーをとって持ってきたものですが――を読んだり、と優雅な?一日を過ごしました。一番のお目当ては、明石町。築地の外国人寄留地跡は、どうしても歩いてみたかったのです。
 
 あらためてゆっくり報告する機会もなさそうなので、ここには雑駁な印象だけを書いておきます。寄留地の跡地である現在の明石町は、不謹慎な言い方でお叱りを受けるのを覚悟して言うと、なんとそのかなりの部分をSt.Luke“聖路加”に占められているのです。河岸の天を摩する聖路加ガーデンの聖路加タワー(48階)と聖路加レジデンス(38階)の兄弟棟?など、真下からのぞき上げた心地といったら(32階には連絡ブリッジがある!)、――一昨年、対岸の佃島からは遠望してはいたのですが――どぎもをぬかれました。

 私の築地への関心は、津田仙の「築地ホテル」に始まり、「築地バンド」(これは太田愛人さんの命名だったでしょうか)を経て、ちょうどその頃偶然読み返した霜川の作品「夕汐」が「築地居留地」を舞台にしていたことにあらためて気づき、ちょっと衝撃を受けて、今に至っています。
 三島霜川の「夕汐」(明治33年)は、アメリカ人商人と日本人女性との間に生れた混血児少年と佃島の少女との淡い想いが冒頭に描かれていますが、膚も髪も眼も色の異なる「異種」の子であり、父親がアメリカに帰国したままの孤児であり、さらに吃音障害を持っている少年の三重の苦衷を理解するすべを、彼が思いを寄せる少女も母親さえも、持つことは不可能であったろうと思われるそうした少年を、霜川は、居留地を背景の作品に巧みに取りこんでいます。
 その少年と少女〔麗三郎とお崎〕がはたらく《開明社活版所》は、平野富二の「築地活版製造所」をモデルにしていると思われ――コンワビルの「活字発祥の地」の碑も見てきました――、このネーミングにも若き霜川の目が、「開明」の裏表を射ぬく異様なトゲをもったものであるところも、私には新たな発見なのでした。

 霜川の「夕汐」と築地――築地と佃島、そしてその渡し、居留地と居留地を取り囲む日本人居住区の格差、鉄砲洲川と見富橋、当時すでにドブと化していた築地川(ただし霜川はそこに潮の満ち干きを書きこんでいる)など――のことは、折を見て作品の註として書きたいと、思いますが・・・いずれ。

〔追記〕この日の逍遥?のスタートは、加藤時次郎の「平民病院跡地」であったこと、締めくくりは、小林多喜二が息を引き取った築地警察署裏の「前田病院の地」(現在も前田病院は引き継がれています)であったことを、付記しておきます。 
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by kaguragawa | 2015-11-07 18:38 | Trackback | Comments(4)