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姪によせる「挽歌」   

 藻谷銀河(六郎)の歌集『仙人掌』には彼の姪〔綾子〕と甥〔小一郎〕が登場する。この姪と甥は六郎の兄の子等であるが、この子らの父である兄の早い死は六郎をしてこの姪甥に特別の愛情をいだかせるようになったようである。六郎みずからが一歳のときに父を失い、父の顔を知らずに成長するという経験をもっていたいたからであろう。
 その愛しい姪の若き死に、六郎は「挽歌」という歌群をあててその死を悼んでいる。

 「挽歌」のうちのいくつかを紹介する。

 わがままになやまされ来しわれながらやはか死なさじひとりの姪を

 ひたごころ凝りては堅き巌だにつらぬく征矢の癒やさではやまじ

 いにしへゆ言ひならはする手弱女の十九の厄に逝きし子ろはも

 病院ゆむくろになりてもどる子を迎ふる部屋をきよめけるかも

 ぬけがらを怖ぢし綾子よ今よ亡し涙をさそふ蝉のぬけがら



  姪・綾子の死は、大正十一年の夏、大学生であった六郎の帰省中、八月二十一日のことであった。
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by kaguragawa | 2015-08-21 22:33 | Trackback | Comments(0)

初代の富山県「県会議事堂」   

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 初代の富山県「県会議事堂」(1887〔明治20〕年)。瀧大吉の設計によるという。


〔追記〕 以下は、6年前に(2009年5月25日)に、「幻の「滝の作品」を富山の街に探す」という題で、前のブログに書いたものの再録です。ここに書いている県会議事堂の「パース」についても、いずれ紹介したいと思います。

 一枚の素朴な筆致のパースに出会って釘づけになりました。古いものですが、なぜか不思議な魅力をもっているのです。

 “最初の県会議事堂 明治20年に県庁前に堀を隔てて建てられた”という説明がついています。『富山県のあゆみ』、――富山県の置県90年を記念してつくられたビジュアル県小史というべきもの――もしかしてこれに、写真が載っているのではと、淡い期待をもって開いてみたらば、写真ではなくパースがありました。富山県最初の県会議事堂の正面図です。

 滝廉太郎が幼少期に富山で1年半ほど暮らしたということで、後年の名作「荒城の月」は富山城址をモデルに作曲したもの、「お正月」や「雪やこんこん」は富山の冬が反映した作品、――という主張が近年よく見られます。そうした議論もいいのですが、滝の作品が間違いなくこの富山に存在していた事実をもっと掘り下げてみたいと思っています。ただしここにいう「滝の作品」とは、廉太郎の楽曲ではありません。廉太郎の年長の従兄弟、建築家の滝大吉の作品です。
 初代・〔富山県〕県会議事堂と上新川郡会議事堂が、滝大吉の設計作品だという驚くべき事実をさりげなく教えてくれたのが松本正さんの『滝廉太郎』でした。廉太郎同様(廉太郎以上にか)強い関心をもっている滝大吉の設計した建築物が富山にあったなどとは想定だにしていなかったのですから、この事実にはわくわくしました。“明治時代の県会議事堂の写真なら探せば見つかるかも”と思い、最初に手に取った本のページを、――多少というか、かなりというか、期待しつつ――繰ったら、写真ではなくパースが出てきた、というわけです。
 ただし廉太郎は有名でも、無名の滝大吉は県内の歴史家にとっては興味の対象外だったのでしょう。議事堂のパースには設計者の名前は記されていません。しかし廉太郎以上に、大吉は富山県にとって直接に有縁の人物だったのです。

 この県会議事堂と上新川郡会議事堂があったであろう場所を、旧地図と見比べてほぼ特定し、きょうその地に「パースに描かれた幻の建物を」訪ねてみました。あきらめていた「郡会議事堂」の場所探しも、「郡」とは何だったのかという問いと並行してほぼ「解」をみつけることができましたが、その報告――地図散策と小さな街歩き――は、また後日に。

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by kaguragawa | 2015-08-17 22:31 | Trackback | Comments(0)

青あらし   

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 命日(8月9日)に少し遅れてしまいましたが、銀河の書を紹介します。(ちょっと上が欠けてしまいました・・・。)
 藻谷六郎(銀河)が寄贈本の自選歌集『仙人掌』の扉うらに書いた歌。

 なお、歌集『仙人掌』に収められているのは次のような漢字遣いのものです。

 青嵐ふくや越前永平寺 汗ばむ帽子ぬぎて登るも

  
〔追記:2014.08.17〕
 ずっと気になっていたことがありました。この「青あらし」の歌が、『富山県文学事典』(1992)の「藻谷銀河」項にも写真版で載っているのですが、『事典』掲載のものと上の写真のものと、字体、筆勢ともによく似ているのです。そこで、今日、あらためて見比べてみましたが、似ているのではなく、各文字の大きさも位置関係も同一のものです。・・・ということは、私が古書店で購入した『仙人掌』は、『富山県文学事典』掲載の写真の出所の『仙人掌』と同じものだ、ということのようです。
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by kaguragawa | 2015-08-13 20:30 | Trackback | Comments(0)

「蟻」「蜂」「蜘蛛」の学問〔2004.1.12稿の再録〕   

 学 問 の 仕 方

(一)あっちこっち方々から知識を集めてきて貯える
(蟻の学問)

(二)朝に道を聞いて夕べにこれを説く
(蜂の学問)

(三)たくさんのきたならしい虫を食べてこれらを自らの体内を通して消化し美しい銀の糸として吐き出す
(蜘蛛の学問)

━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 郷土史の大先達のT氏のところにお寄りしたらば、氏の師であったというH先生が遺されたという学問の心得のようなものが、表装されて額に納められていました。「知躬」と大書されたあとに、味のある手書きで列記されて、「蟻」「蜂」「蜘蛛」と並んでいます。
気に入ったので、筆写してきました。この内容、生物学の先生であったというH先生のオリジナルのものではないかと思うのですが、どうなのでしょう。

〔追記〕
 野暮な蛇足ですが…
アカデミズムの外にあって独自の蓄積を残している日本の「民間学」の豊かさが、こういった心持ちに支えられていると思うと、うれしくもちょっと厳粛な気持ちになります。
せいぜい、せっせと「蟻」の真似でもできればと思います。

〔追記;2015.08.09〕
 10年も前に書いたものを引っぱりだしてきて再録しました。文中のH先生と言うのは、林夫門氏のこと。昨日の藤田冨士夫先生の講演に、その名が出てきたので、古い記事を探し出しました。
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by kaguragawa | 2015-08-09 22:08 | Trackback | Comments(0)

「人・モノ・コト」の奇跡的な出会い   

 日本海文化悠学会の仙石さんに教えてもらって藤田冨士夫先生の講演会「呉羽山丘陵の古墳調査のころ――人・モノ・コトを振り返る――」を聞きにいきました。
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 なかでも医科薬科大学建設予定地での「杉谷4号墳」の発見から「日本海文化を考える富山シンポジウム」にいたる話は圧巻で、この古墳の発見者ご本人が語られる四隅突出型方墳めぐる多くの「人・モノ・コト」の奇跡的な出会いのエピソードは感動的でした。

 写真の黒板に書かれているのが、ヒトデ型の四隅突出型方墳の図。
出雲固有といわれていたこの古墳の遠く隔たった越の国での発見は、日本海をめぐる古代のイメージを変え、神話の見直しをふくむ豊かな古代学を育んでいくことにつながった。

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by kaguragawa | 2015-08-08 15:24 | Trackback | Comments(0)

「70年」という時間   

 戦後70年ということばが、毎日のように目に飛び込んでくる。そうなると、「70年」という時間はどういった時間なのだろうか、と考えてしまう。明治維新からこの敗戦の年までに77年が経過している。私などにはあまりにも多くのことがあって整理のつかないくらいの明治、大正時代から敗戦の年までとほぼ同じ長さの「時」を、戦後すでに閲してきているのである。

 戦後の70年は、いやおうなく西欧の市民社会に向き合うことを強いられ、日本なりの歩みをたどってきた150年の経過と併せて、問われた方が良いのではないかと思う事しきり・・・のこの頃なのです。
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by kaguragawa | 2015-08-02 22:05 | Trackback | Comments(0)