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「トタン屋根を雪が滑り落ちるような・・・」   

 ことばの端々にひっかかる悪いくせがあります。「細かいことにこだわるな、大意をつかめ。」という趣旨の読書論が多くありますが、なんにせよ私は多いにこまかなことにもこだわって本を読むのを愉しみにしているのです。そんな私事はともかく、最近、あれっと思った片言隻句の例を堀田善衞『方丈記私記』の最初のほうから・・・・。

 “元来K君の家は、新橋の貨物駅であった汐留の、貨物の線路と向かいあった通りにあり、・・・”(ちくま文庫7p)

 《線路と向かいあった通り》とは?、

 “田園調布一、二、三丁目、東玉川町、玉川奥沢町などへ投下された焼夷弾は、あたかもトタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音をたてて落下して来、・・・”(ちくま文庫15p)

 《トタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音》とは?、といったたぐいのものです。

 上の例は、実際にK君――堀田のいう「K君」とは、詩人・小山弘一郎のはず――のお父さんの運送店の場所がほぼわかり当時の地図を見て、なるほど、と合点はしたのですが、下の例は、雪国・北陸に育った堀田善衛ならではの表現というべきなのでしょうが、残念なことにその同じ地域に生まれ育った私にもよくわからないのです。

 『方丈記私記』を精読?していたときから一か月以上もたった今頃このことを書くのは、つい先日、焼夷弾の投下(落花)についての別の、しかし、堀田の記述を思い起させる表現に出会ったからなのです。堀田の場合は1945年3月9日夜「東京大空襲」の折の記憶ですが、下の記憶は同年8月1日夜の富山大空襲の折のものです。

 “焼夷弾が落ちて来る時は。まるでどしゃ降りにでも遭った時のようにざぁっつという音を立てる。”

 この個所が堀田の雪の例を思い出させ、そういうことだったのかと思わせてはくれたのですが、堀田の核心にちかずくことを容易に許してくれないこの書物『方丈記私記』については、未だに得心のいっていないこの個所を含め、片言隻句にこだわって、折々、書いてみたいと思っています。

〔追記〕
 上に一部引用した富山大空襲のドキュメントについては、いずれ紹介したいと思っています。ぜひ多くの方に全体を読んでいただきたいと思っていますので、あらためて紹介します。
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by kaguragawa | 2014-06-29 17:00 | Trackback | Comments(0)

明治の「赤壁兄弟」と現代の「藻谷兄弟」   

Shakes学兄

 Shakesさんのブログ《SHAKES' Tables: 富山の英学》の記事「赤壁兄弟」(2014.6.23)を拝見して、とっさに思ったのは「藻谷三兄弟」のことでした。今をときめく?藻谷三兄弟――藻谷俊介・浩介・亮介のご兄弟――のひとり藻谷浩介さんがweb上でも読めるいくつかの講演でもおっしゃっているように、山口県生まれの藻谷さんのご先祖は富山の小杉の人なのです。では、Shakesさんが、赤壁兄弟として紹介された小杉の赤壁酒店の二男「二郎」と三男「伊太郎」のうち伊太郎は、そこに書かれているように「藻谷家」の養子になった・・・とすれば、この明治時代の「赤壁兄弟」と現代の「藻谷兄弟」はどうつながるのか?。

 富山の大空襲でいのちを失った歌人・藻谷銀河が藻谷三兄弟のお祖父さんにあたる方なのですが、小杉町の文化蓄積が生んだ「開智社」「相益社談」を支えていた漢詩人でもあった藻谷海東(=藻谷伊太郎)と、この富山市の歌人・藻谷銀河(=藻谷六郎)の関係が――おそらく伊太郎が銀河の父であろうと思いながら、調べる労を惜しんでいたあまり――私には、はっきりわからなかったのです。

 なんのことはない、『富山県文学事典』(桂書房)を開いて疑問は氷解しました。「藻谷海東」が立項されていて(大西紀夫稿)、そこには「その子の銀河は歌人であった。」と簡明に書いてあるではありませんか。

 海内果の私記にも登場する明治の赤壁兄弟(赤壁次郎・藻谷伊太郎)が、現代にエコノミスト兄弟となって蘇えってこられたことを知られれば、冥界の海内果さんもびっくりされることでしょうね。

 では。

〔追記〕
 これも、はっきりしないままのことで、どなたか明確に答えてくだされば有り難いのですが、いろんな辞典類には富山人の「藻谷」は《もだに》の読みになっているのですが、「藻谷兄弟」の「藻谷」は《もたに》と「谷」を濁らないようです。このあたりのいきさつをどう考えればよいものか・・・。
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by kaguragawa | 2014-06-25 23:55 | Trackback | Comments(3)

《岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕》 〔追記〕   

 《岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕》 に関連して、電報に関する〔追記〕を書いたら長くなったので、別項としました。私のメモです。

 まずは、電報の「発信地」についてです。
 「魚津金沢より岸田の御着輦を電報せしなり。」

 この個所を読んで、首を傾げた方もおられるのではなかろうか。ようやく電信線が引かれたばかりの明治11年なら、電報を打つことができたのは「魚津」ではなくて「富山」ではなかろうか。どうして魚津なのか?・・・
 しかしこれは間違いではないのです。富山県で電信局(電信分局)ができたのは、――それは、この明治11年のことですが――、富山でもなく、高岡でもなく、《魚津町》だったのです。ですから、発信地は魚津〔現:魚津市大町〕だったのです。
 (この項、続稿はいずれ。)

 次に、電報の「着信地」についてです。

 「午後四時頃に中央電信局より日報社に報じ来る。」
 はたして、この「中央電信局」はどこにあったのでしょうか。
 築地の東京運上所(現:明石町)にあった工部省「中央電信局」は、やはりこの年に場所が変わっています。変わった先は、京橋区木挽町十丁目十一番地(現:中央区銀座6丁目15番1号)、一方、日報社(東京日日新聞)は、京橋区尾張町一丁目一番地(現在:銀座5丁目7番10番。銀座5丁目交差点西北角)。

〔追記〕――「中央電信局」と「日報社(東京日日新聞)」
 現在位置でいえば、「中央電信局」は、昭和通り/銀座東5丁目交差点東南角の《J-POWER(電源開発)》、「日報社」は、銀座通り/銀座5丁目交差点西北角の《ニューメルサ》。この2点を結ぶのは、銀座を東西にぬける一本道〔現:みゆき通り〕。当時は、間に三十間堀川(木挽橋)をはさんでいましたが、その間:300メートルほどでしょうか。
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by kaguragawa | 2014-06-24 22:37 | Trackback | Comments(0)

南陽堂のこと:「尾張町界隈の老舗と名所の由来」から   

 「尾張町界隈の老舗と名所の由来」から《南陽堂》さんの項を、一部省略しながら、紹介したいと思います。


 南陽堂 尾張町一の八の七

 江戸時代後期より、富山市の総曲輪通りに店を開く古書店南陽堂がその前身となっている。もちろん現在も当地に、この店は老舗として現存している。
 昭和十四年、当時美人で評判だった柳川スミさんは、店で働いていた大番頭の昇爾さんと結婚、分家してこの金沢・尾張町に店を開いたのが始まりとなる。以来、一貫して古書を取り扱い、豊富な蔵書と店主の人柄を慕い、旧制四高から金沢大学に至る教授や学生の溜まり場となっていた。今でも金沢市内だけではなく、東京や大阪などからも地図片手にやってくる人もある。文化人といわれる人の中で、この店へ入ったことのないというのは皆無に等しい程である。とにかく本が好きな店主で、どんどん揃えるので、その蔵書量は膨大で、店内に入ると別世界を訪れたような気持になる。薄暗い本の山の中にいると、紙魚(しみ)という言葉が何となく実感されてくるのもうなづける。
 昭和五十三年には先代の跡を受けて誠が二代目を継ぎ、本を生涯の伴侶としている。店内の雰囲気は相変わらず異世界のようである。単に本を売るのではなく、古くより変わらない人の心の「ふれあい」を第一義としているので、売り上げよりもついついお客様との話がながくなってしまうのが欠点だとか。
 建物は一見平屋建てであり、中に入ると二階建てという江戸時代そのままの趣を残している。元三田商店の母屋だったので、参勤交代の行列を上から見下さないようにとの、下尾張町商人の奥ゆかしさを感じさせている。



 *『尾張町界隈の老舗と名所の由来――現代に生きる歴史の息吹』(尾張町商店街振興組合・尾張町若手会/1987.1)
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by kaguragawa | 2014-06-22 22:41 | Trackback | Comments(0)

南陽堂のこと:「柳川昇爾コレクション記念展」   

 金沢の古書店南陽堂書店のことについては、このブログでも何度かふれたことがありますが、その南陽堂の先代店主・柳川昇爾さんの夢二絵画のコレクションが、金沢湯涌夢二館に寄贈されたことを知ったのは、「金沢湯涌夢二館だより」(第14号/2014.3)の記事によってでした。

 「柳川昇爾コレクションは、日本画の掛軸二点「後園新果」「子守」をはじめ、雑誌の挿絵や夢二の研究資料、そして高畠華宵など同時代の叙情絵画の便箋表紙絵類も含まれており、総点数は57点である。柳川氏が営む南陽堂は、全国に知られた金沢の有名な古書店であった。なみなみならぬ熱意をもってそれを生業とすると同時に、柳川氏は夢二の熱狂的なファンで蒐集家でもあった。」


 その「柳川昇爾コレクション」がいつ公開されるのかお尋ねしようと思っていたやさきに、金沢市のHPで、《柳川昇爾コレクション新収蔵記念展―― 「南陽堂書店」主人が愛した夢二》 が開催されることを知りました。そのHPの紹介には「平成25年度、金沢市尾張町の名物古書店であった「南陽堂書店」はその70余年の歴史に幕を下ろしました。」との文言も見えます。

 期間は;2014年7月19日(土曜日)~2014年9月28日(日曜日)とのこと。

 南陽堂さんの何人かの御主人を偲んで、一か月後にはこの企画展に足を運びたいと思います。
 なお、「南陽堂」さんに関する資料を次の稿で紹介するつもりです。
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by kaguragawa | 2014-06-22 22:04 | Trackback | Comments(0)

岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕   

 いつも愛読しているブログに「市民が見つける金沢再発見の会」さんのブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」があります。綿密な下調べがなされたうえでの読みやすい記事にいつも興味を惹かれるのですが、今回は、金沢市老舗記念館(もと中屋薬舗)にちなんで、1878(明11)年の「明治天皇の北陸御巡幸」が取りあげられています。金沢での宿泊はこの老舗中屋薬舗だったのです。

 ちょうどこの「明治天皇の北陸巡幸」に関しておもしろいものを読んだばかりなので、紹介しておきます。当時、東京在住で「東京日日新聞」に勤めていた富山県人〔海内果〕が故郷の家人にあてた手紙です。

(6月29日付け)
 “北陸御巡幸の供奉に日報社より岸田吟香氏派出の事に定まり申し候。よって同氏は日夜御巡路の名所旧跡などの書類相調べおり候。併し御巡幸は八月下旬と申すことなり。然れば越中へおいでの時分は稲刈り最中にて誠に忙しき時節になり申さずやと案じおり候。” 

                    
 この時点ではまだ北陸巡幸出発の具体的日時は決まっていないようです〔実際は、8.30に〕。海内が記者として勤める日報社の東京日日新聞からは、岸田吟香が特派員?として随行することになり、巡幸先のにわか勉強を始めたようです。岸田吟香は前にもご紹介しましたが、画家・岸田劉生のおやじさんで銀座で薬屋もしているユニークな人物です。それにしても、こんな形で岸田吟香が富山に足を踏み入れていようとは、想像だにしていませんでした。
 この年、金沢士族・島田一良らによって大久保利通が殺害されており〔5.14〕、北陸路の警備は厳重な体制で臨まざるをえなかったようです。海内は、風説とことわりながらも、有事の際、途中での越後からの帰京に備えて軍艦を新潟港に待機させるといったことも、7月13日付けの手紙で書いています。
 もう一つおもしろい手紙の一部を紹介しておきます。

(10月3日付け)
 “ときにもっとも驚き喜悦つかまつり候義は、新聞紙中に記載これあり、魚津金沢より岸田の御着輦を電報せしなり。実に迅速なるものにて昨二日の金沢よりの電報の如きは、午後二時半過ぎ発午後四時頃に中央電信局より日報社に報じ来る”

 岸田吟香が金沢から2時半に送った「電報」が4時には新聞社に届いたことを驚き喜んでいるのです。この当時、10日もかけて富山から東京に出ていった内海にとって瞬時に届く、電報の威力には目をみはったようです。
 そういえば、7月13日付けの手紙の一節に、“越中越後の電線御急成に相成”という「電線」は、電報用の電信線だったでしょうか。
 (なお、この年〔1878〕までに、電信線の国内整備がほぼ完了したという。)
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by kaguragawa | 2014-06-21 17:42 | Trackback | Comments(0)

夢二と菅原教造   

 夢二が企画した「どんたく図案社」だが、関東大震災で実現しなかった。その「どんたく図案社」の未発行に終わった雑誌『図案と印刷』六月号(創刊号)については、その目次などを昨年少し報告しました。

 そこには、「カモフラージ」という稿が《菅原教造》の名で載っていて、夢二との関係も不明ながらそもそもまったく存じ上げない名で、不思議な思いで眺めていました。

 少しわかってきたこともあるのですが、最近なぜか《「どんたく図案社」の雑誌『図案と印刷』》の項がよく閲覧されているので、第一次報告?として――その筋の方々には良く知られた方かも知れず、「報告」などと言うのは不遜・・・という気もしますが――次のことだけ、メモしておきます。

 菅原教造については、菅原教造『服装概説――菅原教造先生遺稿集』(柳澤澄子編/1989.5/近藤出版社)というユニークな本があり、そこにはごく簡略な略年譜があること。
(ただし、ここに収められているのは服飾学に関する晩年の論考で、大塚保治門下の菅原教造の心理学、美学の分野での広範囲な業績をフォローしたものではありません。)

 「戦前期の高島屋百選会の活動――百選会の成立とその顧問の役割」(2013)という論考を中心に山本真紗子さんの論文が、web上で読めること。この高島屋百選会での活動がどこかで夢二と結び付いたのではないかと思います。といっても、夢二と高島屋――当時、1916(大正5)年から1923(大12)年まで〔京橋区南伝馬町1丁目8番地〕に店舗があった――を結ぶ線が私には見えてないのですが・・・。

 *菅原教造 1881~1967.08.20
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by kaguragawa | 2014-06-16 22:42 | Trackback | Comments(0)

倉田繁太郎・・・   

 あの十字屋に関わる越中人の情報を探していたのですが、思いがけないところで、貴重な情報を得ることができました。

 海内果と倉田繁太郎・・・。
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by kaguragawa | 2014-06-15 21:50 | Trackback | Comments(0)

「詩吟艦長」   

 6月6日に、――新田次郎さんの生誕102年になる誕生日で――、ちょっとメモ書きをしようと思っていたのですが、岡田与好さんのことを書いたら、忘れてしまいました。

 本好きな本屋さんが送ってくださったていねいな包装の古書の薫りのする短編集『怒涛の中に』(文春文庫/1979)を読んでいます。

 きょう、「詩吟艦長」というユニークな一篇を胸を熱くしつつ堪能。新田さんらしい角ばった文体もあるが、こんな柔らかなさりげない戦争文学?があったのだ。

 この『怒涛の中に』を買い求めたのはいつのことだったか、伏木測候所の所長・大森虎之助のことを知りたいがためだったのですが、新田さん(藤原寛人)さんの叔父さん藤原咲平さんと大森さんの共著論文《大森虎之助、藤原咲平、田口克敏「富山湾の蜃気楼」(富山県伏木測候所/1919)》があることもつい先日知ったばかりです。
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by kaguragawa | 2014-06-10 23:08 | Trackback | Comments(0)

6月10日 夢二、黒部峡谷に遊ぶ   

 きっすいの?夢二ファンのKさんからメールをいただいて、今日(6月10日)が、夢二の宇奈月訪問の日だったことを思い出しました。
 今では黒部峡谷はトロッコ電車で知られる観光地になっていますが、夢二が宇奈月をおとずれトロッコ電車に乗ったのは、観光用のそれではなく工事用のまさしくトロッコ電車でした。――そんなことをいつか書いた記憶があったので、探し出しました。以下は、3年前に書いたものの再録。

 1928(昭3)年、翁久允(おきな・きゅういん)に誘われた夢二は、1928(昭3)年6月10日、黒部峡谷に入り新緑を堪能したのでしょうか、その夜は宇奈月の延対寺旅館(別館)に泊り、11日は富山市内の富山ホテルに泊っています。そして数日富山に滞在しています。
 夢二一行は、黒部峡谷を訪れた観光客の中でも早い方でしょう。現在は温泉地として知られる〔宇奈月〕は、化学者高峰譲吉の創案によって始められた黒部川電源開発の前進基地として開かれたところです。ここが温泉地となったのは大正時代のこと、工事用の文字通りトロッコ車線として峡谷に沿って狭軌の線路が宇奈月からさらに上流の猫又まで開通したのが、夢二たちが訪れるたった2年前のこと。もちろん観光用ではありません。夢二らをここに呼んだ富山出身の翁久允の人脈による手配によるものでしょう。半ば観光用に開放され「便乗ノ安全ニ付テハ一切保証シマセン」と書かれた乗車証が発行されるさらに一時期前の夢二の新緑(深緑)の旅だったはずです。


 夢二が宇奈月で泊った「延対寺荘」は、もと高岡駅前(高岡市末広町)にあった旅館ですが、延対寺荘の高岡駅前時代、同じ末広町内には岸六郎やその娘夫妻(堀内喜一・たまき夫妻)がいました。夫・喜一の死後、上京し夢二の妻となるたまきです。何か不思議な縁です。というのは、宇奈月を訪れた頃、夢二とたまきの関係終わっていましたが、宇奈月を降りて富山に向かった夢二はたまきの姉・水上夫婦の世話になっているはずだからです。

追記:2016.03.20 
 上の記述の末尾「水上夫婦の世話になっているはず」は、訂正が必要だと思われますが、確たる事実がつかめてないので直せないままになっています。
 水上峰太郎はこの1928年の時点で、富山にいない可能性が強く、しかも数年後に亡くなっているようなのです。

 いずれにせよ、夢二のこの黒部峡谷行は、行程もふくめかなり具体的なことがわかってきたので、全面的に書き替えたいと思っています。
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by kaguragawa | 2014-06-10 20:46 | Trackback | Comments(2)